猿美SS
「そろそろ帰るか」
タンマツに目を落とした猿比古が、マスターに会計を頼む。
今日は、猿比古が給料日だから奢ってやるよってバーに誘ってくれた。全部奢られることなんて普段あんまりねえから遠慮してたら、猿比古が最後に「もう一杯くらいいけんだろ」って、カンパリオレンジを注文してくれた。
大事にちびちび飲んでいたカンパリオレンジを一気に飲み干す。
オレも来月の給料日には猿比古に奢ってやろっと。
レジカウンターでさっさと会計する猿比古の後ろに立って、「ごちそうさま」と礼を言う。猿比古は無言で頷いた。
カラコロと鳴るベルの音。黒くて重たい扉を開けると、冷たい風が頬を突き刺した。
せっかく酒であったまった身体が顔から冷えていく。
「うぅ~、さむさむ」
上着のチャックをしめて、手に持っていたマフラーをしっかり首に巻き付けた。振り返ると、猿比古もダークグレーのマフラーに口元を埋めている。眼鏡がくもっていた。
ふは、と笑う。猿比古は舌打ちをした。だけど、コートのポケットに両手をつっこんだまま眼鏡を拭こうとはしない。
「しょうがねえなあ」
手を伸ばすと、猿比古はアゴを反らして、オレの手から眼鏡を遠ざけた。
「なんだよ、拭ってやろうとおもったのに」
「指紋でベタベタにする気だろ」
「……バレたか」
「バレバレなんだよ、ばあか」
猿比古がわらう。くふふとオレまでわらってしまう。顔にかかる白い息が温かかった。猿比古の隣に並んで、二の腕に肩をぶつけた。猿比古もやり返してくる。おしくらまんじゅうみたいで楽しいし、ポカポカしてきた。
いつのまにか、猿比古の眼鏡のくもりはなくなっていた。
ぼんやり白く光る駅まで、あとちょっと。横を通りすぎる車のライトも白くぼやけていた。冬は、どこもかしこもさみしくて、いつもよりほんのすこし静かで、胸に沁みる。
足を止めて、夜空を見上げる。ツンと澄んだ空気の中、白い光を放つビルに囲まれた空は真っ暗で、星も見えない。
息を吐く。
白い息が立ち昇って消えていった。
「美咲」
名前を呼ばれて、隣に顔を向ける。立ち止まっている間に前を歩いていたはずの猿比古が、オレのすぐ横のガードレールに腰を下ろしていた。
「……座れば」
寒さで垂れそうな鼻をズッとすすって、猿比古の隣に座り、両足を伸ばした。
同じ位置に座っているのに、オレより二……いや、一歩半先にある伸ばされた足から目を反らす。猿比古は、やけに落ち着いた顔でオレのことを見ていた。心臓がぎゅうっとしぼられる。眉間にこもっていた力が解けていく。太ももの間に冷たくなった手を突っ込んで、へらりと笑った。笑ったのに、目尻が濡れて冷たくなっているのがわかった。
「……情けねえ」
「べつに」
「ごめん、終電……」
「タクシー拾うし」
猿比古の肩に目頭を押し付ける。
みんなの前では、平気な顔をしてるし、実際もうだいぶ大丈夫になったけど、こんな雪の降りそうな寒い夜は、どうしても、まだ、さみしい。
ぐしゃりと乱暴に髪を撫でた大きな手も、低く喉を鳴らして笑う声も、カメラ片手に楽しそうに笑って、いろんな趣味に人を巻き込んで、たくさんの思い出をくれたあの人たちの不在が、すごく、すごく、さみしくて、かなしい。
『おれがそのときいなくてもさ』
ふっと一瞬だけ、柔らかな声を思い出した。
記憶から声は遠ざかってもう随分と前に思い出せなくなっていたのに。でも、言葉だけはずっと覚えていた。オレと、猿比古がお互いの立場で話せるようになればいい、と言ってくれたことも、ちゃんと残っている。
――十束さん、オレ、猿比古とまた、話せるようになったよ。
猿比古の肩に押し付けていた顔をあげて、今度こそ笑う。
猿比古も目尻を緩めた。
「鼻真っ赤だぞ」
「うっせ」
あのさあ、と呟いて視線を斜めに落とす。
「まだ、電車あるけど……」
「そうだな」
「タクシーも拾えるけど……」
「うん」
「……もうちょっと、一緒にいたい、ので」
うろうろさせていた視線を、猿比古の顔に戻した。口をうっすら開いた猿比古の唇から白い息がこぼれている。
「オ、レの家に来る……?」
「行く」
即答した猿比古が立ち上った。「うん」と頷いて、オレも立つ。そんで、脚の間で温めていた手で、猿比古のコートの袖口を引っ張った。
「あとな、オレ、全部じゃねえけど……カクテル言葉、知ってんのもある……」
力任せに外へ出した手に、汗ばんだ手を重ねる。猿比古は、一瞬固まって、それからゆっくりオレに向き直った。
白い息が重なって、ひとつになる。
「来月は、オレが同じの奢るから」
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