凪潔SS


 ——凪、卒業おめでとう!

 三月一日、七時十一分。
 俺より一日早く高校を卒業する凪に、朝一でメッセージを送った。
 すぐに既読マークがついて、頭に桜の花をつけた白い宇宙人が寝そべってピースをしてるスタンプが送られてくる。

「……このスタンプ、凪以外に使ってるやついんのかな」

 ふっと笑って、朝のランニングのために着ていたジャージを脱ぎ、ささっとシャワーを浴びる。

 凪は卒業式だけど、俺は今日、明日の卒業式の予行練習だ。
 俺は生徒会長だったわけでもないし、最後の一年半はサッカー中心の生活で、出席日数ギリギリしか学校にも行ってないのに、卒業生代表としての全生徒の前で答辞を読むことになってる。
 答辞の内容は先生が考えてくれたもので、本当に俺はただ読むだけだ。それでも、明日はマスコミも取材に来るらしいし、今からちょっとだけ緊張してる。
 ちなみに白宝高校の卒業生挨拶は玲王だって。想像通りだよな。

『潔、明日何時から卒業式?』
 シャワーを浴びて部屋に戻ると、凪から文字の返信が着ていた。
 ——十時。なんで?
 あと残り二回の命の制服に袖を通しながら、凪に返事をする。
 ぴこん、と音がして画面に目をやる。三本指のうち二本をくっつけて丸を作った宇宙人がOKしていた。
 ……どゆ意味?
 首を傾げてると、またスマホが通知で震える。
『潔の第二ボタンちょーだい』
 ぷはっと思わず噴き出した。
 凪が言ってるのは、昔から伝わる卒業式の伝統で、好きな人からボタンをもらうってやつだろ。うちの学校にもそーゆー伝統はちゃんとあるし、有名すぎて俺でも知ってる。
 凪には「やだよ」と打って返した。
『なんで?』
「だって、凪にボタンなんかあげたってどーせその辺に放ってなくすだろ、っと」
 そんで、その凪が床に落としたボタンを、凪の家に遊びに行った俺が踏んで怒るとこまで想像できる。
 文字を打ちながらつい笑ってしまう。
『なくさないし』
 速攻で返事が返ってきた。
 ——必死か?
 文字を打つ手を止めて、通話ボタンを押してみる。
 すぐに凪のゆったりした声が俺を呼んだ。
「あ、凪? あのさ、うちの学校、学ランじゃないから好きな子にあげるのってネクタイなんだよなー。しかもただあげるんじゃなくて、交換すんの。俺は、凪のネクタイと交換したいんだけどな」
『んあ……俺のネクタイ……どこ? つけたことあったっけ?』
 いや、それは俺に聞かれても……。
「ってか、今日卒業式だろ。ちゃんと制服着て行かなくていいのかよ」
『わからーん。でも学校いくとき、毎日パーカーだったし、最後もいつもと一緒でいいでしょ。ネクタイなきゃダメなら卒業式でなくてもいいや』
「マジ、おまえ…………凪らしいな……」
 あっけらかんという凪に肩の力が抜ける。
ってか、もし正装じゃないから凪は卒業式出席禁止、ってなったら、玲王が権力を使ってどうにかするか。
『卒業式はどーでもいいけど、潔のネクタイはほしー。交換じゃないとだめ?』
「うーん……じゃあ、凪のパーカーと交換は? こーゆーのは、学校でずっと使ってたものを、交換して持っとくらしい」
『OK、ダーリン。そーしよ』
「うん。じゃあ、俺そろそろ学校行くから、凪も最後だし遅刻しないで行くんだぞ」
『んー』
「いってらっしゃい、凪。そんで卒業おめでと!」
『ありがと、潔。またね』

 通話を切って、卒業後、凪のものになることが決定したネクタイを手に取り、首に引っ掛ける。
「……臭くないよな?」
 念のため外して首に当たる部分の匂いを嗅いでみた。
 大丈夫、洗剤の匂いがする……けど、凪に渡す前にもう一回洗っておこう。

   ❀ ❀ ❀

「卒業生答辞。卒業生代表、潔世一」
 体育館のステージ横に立った司会役の先生の呼び出しに返事をして、ゆっくりステージに上がり、全校生徒と保護者の前に立つ。
 すると、一瞬で視界は体育館後方の入り口傍に立つ黒いキャップをかぶった背の高い男に吸い寄せられた。

 ——もしかして、もしかしなくても、凪?

 凪は俺が見てるのに気づいて、よっ、と片手をあげた。
 すいっと視線を反らして、集中するためにゆっくり息を吐く。
 ——凪のせいで変に緊張してきた。

「答辞。肌を刺す冷たい風が和らぎ、春の芽吹きを感じる季節になりました——……」

 喋り出すと、ただ原稿を読んでいるだけなのに、言葉が詰まる。
 学校に特別な思い入れなんてないと思っていたけど、脳裏には一気に三年間の思い出が溢れて…………いや、これほぼ監獄での思い出だな。
 一難の卒業生じゃない赤色とか黄色、水色の髪に、なぜか正面で保護者面している白い髪の記憶ばかりがチラつく。
 途端に冷静になって、噛むこともなく淡々と最後まで原稿を読み上げることができた。
 拍手を浴びながら舞台を降りて元の席に戻る。
 振り返れないけれど、後ろの保護者席が気になってしょうがなかった。

  ❀ ❀ ❀

 卒業式が終わった後、取材に来てくれていた記者の人に簡単なインタビューを受けて、教室に戻る。最後に先生の話を聞いて解散だ。

 ——凪、まだ学校いる?

 机の下でこっそりスマホを出してメッセージを送る。凪からは「もち」と二文字で帰ってきた。

 ——もうすぐ終わりそう。どこにいる?
『グラウンドの端っこ』

 そう返事が来ると同時に先生の話が終わって、教室がザワつきはじめた。

「潔、打ちあげ来れそ?」
 多田ちゃんに後ろから声をかけられて、肩を竦めてみせる。
「今日はこのあと予定あって行けなくてさ、……また今度、サッカー部であそぼーぜ!」
「まじかよ、絶対だからな。ってか、潔いつ出国すんだよ。その前にサッカー部で送迎会したいんだけど!」
「ガチ? ありがと! 向こうのシーズンに合わせて渡独する予定で、まだ当分日本にいるからいつでも誘ってよ! ほんっとごめん、もう行かなきゃ!」
 最後に男子数人で記念撮影だけして、教室を飛び出した。

「潔くん!」
 下駄箱で上履きを入れた袋をカバンに突っ込んでいると、息を切らした女の子に名前を呼ばれて振り返る。
 たぶん、おんなじクラスの子だ。話したコト、あんまないけど。
「えっと、どーかした?」
 凪のとこに急ぐ気持ちを押さえて、女の子に向き合う。
「あの、あのね、」
 女の子は視線をさ迷わせて俯くと、きゅっと唇を噛んで、勢いよく顔を上げて、俺を見上げた。
「もしよかったら、ネクタイが欲しくて……っ、」
「ぇ……っ、」
 まさかの予想もしてなかった事態に動揺する。顔を真っ赤にした女の子につられて、こっちの顔も熱を持っていく。
「あー……えっと、ごめん。これは先約があって、」
「ぁ、そっか…………うん、そっか」
 俯いた女の子の瞳からじわりと涙がにじむ。
「うぅー……ごめ、ごめんね、っ、泣くつもりじゃ……っ」
 しゃがみこんで両手で顔を覆った女の子が嗚咽を漏らす。
 困り果てて、とっさに凪の「第二ボタン」発言を思い出した。
「あー……と、ネクタイじゃなくてもいいかな? Yシャツのボタンとかなら……」
「……いいの?」
「あ、全然。こんなんでよかったら」
 ぐすぐす鼻を鳴らしてる女の子に、俺もたぶん頭が回らなくなってて、Yシャツの一番上のボタンを引きちぎって、それを差し出した。
「ありがとー……一生大事にするね」
 白い透明の小さなボタン。
 凪なら渡した瞬間無くしそうなそれを、女の子は両手で大事そうに包みこんで、涙で濡れた顔で精一杯笑ってみせてくれた。
「うん。俺も、ありがとう。ごめんね、急いでるから、もういかないと……」
「呼び止めてごめん! 潔くんありがとう! 私、これからもずーっと潔くんのサッカー応援してるから!」
 もう一回最後にお礼を言って、凪のいるグラウンドに向かって走りだす。

 心臓がドキドキ、スピードをあげる。
 卒業式って魔法にかかって、俺も凪に大好きを伝えたくなってしまった。


   ✿ ✿ ✿


「なぁぎ、なんでこんなとこにいるんだよ?」

 息を切らして、グラウンドの端の端、桜の木の下にしゃがみこみ、ぼんやりグラウンドのサッカーコートを見ていた凪の顔を覗き込む。
 ……正門側は卒業生と写真撮る保護者や生徒でいっぱいだったから、人気のない端に来たんだろうけど。

「……潔、なんか顔赤くない? 告白でもされた?」
「はいっ?! 走ってきたからだろ!」
「うわ、嘘下手すぎ。声裏返ってんよ」
「マジで違う……ネクタイ欲しいって言われただけ……」
「ふーん……それで、ちゃんと断って俺のとこ走ってきたんだ」
 偉いじゃんって言って、凪が立ち上がった。

「潔、俺にネクタイください。いつもこのグラウンドでサッカーしてる……とこは見たことないけど、サッカーしてる潔が好きです。俺のパーカーと交換こしてください」

 ぺこんと頭を下げた凪が、背負ってたリュックから黒色のパーカーを差し出してくる。
 口角が自然に緩んで、ふっと笑みが漏れた。
「俺も。サッカーしてる凪が好きです。まぁ、戦略眼はまだまだだけどなー……そのフィジカルと天才クオリティでどんどん進化してく凪が見たいっておもってます……って、なんだこれ」
 途中でおかしくなって、あははって笑いながら青と黒のストライプのネクタイを外して、凪のパーカーと交換する。
 ついでにブレザーも脱いで、凪のパーカーを着てみた。
 あ、凪の匂いがする。制汗スプレーのレモンっぽい香り。
「わ、やっぱデカぁ……」
「やっぱチビだな、潔」
 チビじゃないって怒ろうと思ったけど、凪が表情を緩めてデレた顔をしてたから、ムカッとした気持ちはどっかにいった。
「ねー、潔。今日このままうちに泊まろ?」
「……それはさすがにダメ。うち今日お寿司だし。ケーキもあるんだよ」
「えー……伊世ママに俺の分あるって聞こー」
「凪、俺んちの子になるつもり?」
「潔家の婿でしょ」
 自称婿は、マジで俺の母親にメッセージを送ったし、母さんもすでに凪のご飯を用意していた。婿なの?

「あ。凪、髪に桜……」
 ひらひら舞い落ちてきた淡いピンクの花びらが、凪の白いふわふわの髪を彩る。
 とってやろうと、ちょいちょいって人差し指で凪の頭を呼んだ。
 素直に頭を傾けた凪の顔が近くにきて、衝動的に、ちゅっと唇を啄んでしまった。

 だって、好きな子の顔がこんなに近くにあったら、俺だって、男だし、ちゅーくらいしたくなる。

 凪は目を丸くして、それから唇をむにむに動かして、俺にぎゅうっとしがみついてきた。
「潔は学校でいちゃいちゃダメなタイプかと思って、俺、我慢してたんだけど」
「誰も見てないからちょっとだけ、」
 言い訳して、凪の背中に手を回す。パーカーに染み付いた凪の匂いと実物の凪の匂いでくらくらした。
 寿司とケーキの誘惑さえなければ、このまま凪の家に連れ込まれてたかもしれない。

「ネクタイ大事にしろよ、凪」
 むらむらを霧散させるために、凪から離れて、凪がずっと手に握っていたネクタイを奪い、凪の首にリボン結びにする。
 ……ちょっと斜めになったけど、プレゼントみたいですごく良い。
「あ、言うの忘れてた」
 凪が首を傾ける。

「卒業おめでとう、潔」

 俺の額に柔らかく唇を落とした凪が、俺の襟ぐりを人差し指で引っ張った。
「あと、さっきから気になってたんだけど、ここ、ボタン一個とれてんよ」
「ぇ、ぁ……」
 とっさに襟を掴んで凪の視界からボタンを遮ってしまった。
 ……やばい。これじゃあやましい理由があるって思われてもおかしくない、って気づいたときにはすでに遅く、凪が目を細めていた。
「あー……俺とイチャイチャする前に浮気したんだ潔。ひどー」
「してないから! ……ネクタイ断ったら泣いちゃったから、このボタンあげたの! ほら、凪にはブレザーの第二ボタンもあげるから、な?」
「いらないし。潔知らないの? 学ランの第二ボタンは心臓に一番近い場所にあるから意味あるんだよ。だから、俺には潔の心臓ちょーだい」
「怖いこと言いだした……」
「潔の心臓一生俺のだよ」
「はいはい、わかったよ。その代わり、凪の心臓も俺のだからな」
「もちー」
 引っ付き虫になった桜の花びら付きの凪を肩に引っ掛けて、人が少なくなった校庭をずるずる引きずって歩く。

 高校生活の最後の日。
 その日が、高校生活一番の特別な思い出になった。



   ❀ ❀ ❀ 初恋クラッシャー(モブ♀視点)


 春になると、苦くて甘酸っぱい、初恋の想い出が蘇ってくる。
 ……って言っても、まだあれから一年くらいしか経ってないんだけど。
 大学生になって、都内で一人暮らしを始め、バイトと学校とサークルと、目まぐるしい一年を過ごしてきた。あっという間の一年。でも、思い返すと高校生だった過去は遠い。
 プラスチックのアクセサリーケースを開けて、一番上に入っているお気に入りのピアスや指輪と並んでいる可愛げのない白い半透明の小さなボタンを突っつく。

 ——これは、初恋の人がくれた宝物。

 遠回しな告白を断られて泣いてしまった私を、慰めるためにくれた特別なボタン。
 でも、本当の特別はこのボタンじゃなくて、私がもらえなかったネクタイの方なんだってことも、ちゃんとわかってる。

「あ、通知」
 夜19時過ぎ、画像投稿がメインのSNSに通知があった。
 フォローしてるユーザーが新しい画像を投稿したらしい。私が通知を設定してるのは、初恋の——今は世界的なストライカーっていう超有名人になってしまった潔世一くんと、サッカーU20の公式アカウントだけだ。
 潔くんはめったにアカウントを動かさないから多分通知は後者。
 予想通りの通知画面をタップすると、スーツ姿の潔くん——と、ほぼいつも通りのメンツの日本代表メンバーが映っていた。

 そういえば今、ドイツのクラブハウスで代表合宿なんだっけ。

「……あれ、?」

 画像は代表選手の集合写真で、ピンチアウトで潔くんをアップにすると、その隣の凪選手のネクタイに目が留まった。
「なんかこれ、……んー?」
 ピンチインして全体を見ると、やっぱり凪選手ひとりだけ違うネクタイをしている。
 代表選手が公式の場に現れる時は同じスーツとネクタイをしているのに、凪選手だけみんなの青いネクタイとは違う青と黒のストライプのネクタイを付けていた。

「これ、一難男子のネクタイに似てる……」

 潔選手と一緒でほぼアカウントを動かさない凪選手のアカウントにたどり着くと、珍しく最新マークのついた投稿が表示されていた。

『#ネクタイ無くした #ごめんなさいでした #あって良かった潔からもらったやつ』

 ——その日、私は、あの特別な最後の日、私がもらえなかったネクタイの持ち主を知った。
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