ざぁざぁ、ばちばち。
　激しく降りしきる雨の中、俺は一人、夜道の散歩を楽しむ。
「お金がかからない趣味って最高だよなー」
　雨の日の散歩は、唐傘に打ち付ける雨の音が楽しくて好きだ。
うっかり口に出した独り言も、雨にかき消されて、誰にも届かない。鼻歌交じりに、くるりと手持ちの唐傘を回す。
　——あれ、？
　ふっと湿った空気に、微かな異臭が混じっているのを感じ取った。泥でぬかるむ水たまりを避けながら歩いていた足を止める。
　――血のにおいだ。
　大粒の雨を弾く藍色の唐傘を傾けた。錆びた匂いのする方に視線を向け目を凝らすと、真っ暗な路地の壁に背を預け、四肢を投げ出し座り込んでいる男を見つけてしまった。
　助けるかどうかを判断する前に、足が動く。

　今は出稼ぎ行の旅に出ている友人たちが傍にいたら「まったく潔はお人よしなんだから！」「よく見ろよ。こいつ、放っておいたって死なねえってツラしてんぜ？」と俺の肩を組んで笑っていたに違いなかった。
　
「おーい、大丈夫か？」
　ぐっしょりと濡れた男の白い髪の上に落ちる雨を、唐傘で遮ってやる。
　男は、ところどころ破けて血が滲む銀鼠色の馬掛（マーグワ）を着ていた。その馬掛は胸下までしか丈がなく、男の鍛えられた腹筋を惜しげもなく晒している。
目を瞑ったまま微動だにしない男の傍にしゃがみ、薄赤の雨が滴る腹筋を長衫（チャンシャン）の袖で拭った。
「お腹壊しちゃうぞー……」
　――こんな肌寒い日に、腹なんて出して歩いていたら、俺ならとっくに腹を下している。
　白磁で造られたような顔を覗き込む。
　男は体格のわりにあどけない顔つきをしていた。子どものような健やかな寝顔に、つい頬を人差し指で突っついてしまった。
「あ、やわらか」
　人差し指が、男の頬に吸い付くように沈み込む。
　ぴくっと白銀の長いまつ毛が震えて、茶と灰が混じった黒よりも柔らかい不思議な色の瞳が覗いた。
「……んぇ、なにー？」
　西洋人形みたいな整った顔から、少し想像と違うのんびりした声がする。
「こんな雨の中で、寝てたら風邪引くぞ」
　男の濡れた前髪を袖で拭ってやると、男は目を細めた。その仕草が猫みたいで、思わず笑ってしまう。
「うち、すぐそこだから、歩けるなら着いてこいよ。手当もしてやるからさ」
　二重幅の広い眠たげな瞳が、ぱちっと瞬く。
「……きみ、よくこんな怪しい人間、家に招けるね」
「それ、自分でいうか？」
　ふはっと笑って、泥のついた長い腕を引っ張った。
「たしかに怪しいけど、放っておけないから」
「……変なやつ」
　観察するように俺の顔を眺めた男が、ゆっくり立ち上がった。
「うっわ、デカ……」
「俺が傘持ったほうがよさそうかな、おチビさん」
　俺の予想以上に上背のあった大男は、泥だけでなく赤黒い汚れがついた手を褲子（クーツ）の上に結ばれた藍色の腰帯で拭い、俺の手から唐傘を持っていった。
　チビ呼ばわりされたのはむかつくけど、大きな身体をまるめ、傘を俺の方に傾けるようにさしてくれる優しさに気づいたら、咎める気はなくなってしまった。
「チビじゃなくて、潔な。おまえは？　名乗りたくないならシロって呼ぶけど」
　こんな夜更けに雨の中、血まみれで倒れていたという状況から判断して、訳ありで身元を明かしたくないのかもしれないと思い、適当に呼び名をつけてみる。
「凪。よろしく、潔」
　俺の予想に反して普通に名乗った凪は、ぺこっと頭を下げ、えっくしゅっと小さなくしゃみをした。
「うわ、大丈夫か？　ってか、顔赤くなってきてんな……はやく帰ろ。そこの角にある道場、俺の家だから」
「へえ〜……、あのオンボロ道場にまだ人いたんだ」
　――現役で人の住居兼道場ですけど？
　失礼なことをいう凪の腕を引っ張って小走りになる。

　道場の看板は、昨日直したばっかりなのに、激しい雨のせいでまた傾いてしまっていた。扉なんて壊れているから年中開けっ放しだ。凪の「オンボロ道場」呼びを声に出しては否定できない、悲しい名ばかりの門戸をくぐった。

　歩くと軋みまくる廊下を、凪が踏み抜かないかハラハラしながら、俺が私室として使っている部屋に凪を通す。
　この部屋が一番、雨漏りしていないからな。
　道場の敷地内に入ってから「うへえ……」「うわ、まじか」「お化け屋敷みたいだね」と失礼な言葉を連発していた凪は、部屋に入ると「潔ってもしかして幽霊？」と俺の存在を疑い始めた。
「じゃないと、こんなトコ住めないよね」
「生きてるのに住んでますけど？」
　……この部屋が一番マシなのに。
　むかつくけど、とりあえず怪我人には優しく引きつった顔で笑いかける。乾いた手拭いと、着替えを凪に渡して、部屋を出た。

　凪の身体を拭くためにお湯を沸かして部屋に戻ると、上半身裸の凪がぶっ倒れていた。
　慌てて抱き起すと、凪の身体は発火しそうなほど熱を持っている。
「う～……頭ぐるぐるするー……」
「すごい熱だもん、お前。しょうがない、俺が着替えさせてやるかー……。着替える前に身体拭いて傷口見るから、痛くても我慢しろよ」
「んぇ……痛いのヤダ。優しくしてー」
「はいはい、ねんねしてな小朋友（坊や）」
　傷口に布が触れる度、拗ねたように唇を尖らせる凪の身体をさっさと清め、血のにじむ小さな擦り傷や切り傷を消毒し、なんとか服を着替えさせ、布団に寝かせる。
　袖が足りずに丸出しになった凪の手首を布団の中に入れてやり、仕上げに解熱薬を飲ませようと席を立った。

「なぁぎ、薬、飲めるか？」
　欠けた茶碗片手に、とんとんと凪の肩を叩く。
　薄っすら目を開けた凪は、茶碗の中の濃い緑色の液体を見て「ぐう……」と寝たふりを始めた。
「ほら、いい子だから、お薬飲みましょうね！」
　にっこり笑って、凪の身体を引き起こし、茶碗を唇に押し付ける。問答無用で茶碗を傾けると、眉間に皺をぎゅっと寄せた凪は渋々口を開けた。
　凪が薬を全部飲んだのを確認して、薬と一緒にもってきていた俺のとっておきのきんつばを一口大に割って凪の口に放り込む。
「……うまい？」
「んー。ちょっと生き返ったかも……」
　目を瞑り、きんつばの甘さを堪能する凪をじいっと見つめる。
　じゅるりと口の中によだれが溢れた。
「んぁ、潔、よだれでてるぞ」
「ああ、気にしないで……それ、俺の好物なんだ……」
「ふーん……まだ舌にがいから残りも食べちゃお」
　凪は俺の手に残っていたきんつばを残さず奪って、口の中に放り込んだ。
　——こいつ……。俺は、月に一度のご褒美でしか、きんつばが食えないっていうのに！
　でも凪は病人だから、そんな暴挙にも泣く泣く目をつぶる。

　その後、高熱を出した凪は三日寝込んだ。
　昼夜問わず起きる度に「喉がひりひりする～」「頭ズキズキして割れそう」「きっちぃ……俺、死ぬかも」と散々俺に心配かけさせたくせに、体力が回復すると真夜中にそっと家から出て行った。

　雨漏りのせいでまた腐って抜け落ち、広がった天井の穴から夜空を見上げ、去っていく凪の気配に苦笑する。
「やっぱ猫みたいなやつだったな……」
　ごろりと寝返りを打つと、バキッと音がして床が抜けた。
　間一髪、飛び跳ねて穴から落ちるのを避ける。
「戻るか……」
　修繕してもすぐに穴だらけになる道場から出て、凪が出て行ったばかりの唯一人が住める部屋に戻ることにした。

　凪が抜けだしたままで丸くなっていた布団に身体を滑りこませて、目を閉じる。

　――はあー……。これで、今日からはゆっくり寝られる……。


　　　🐼　🐼　🐼


　手負いの野良猫が去った翌日、朝早くから紫色の髪をしたデカい男が道場を訪ねてきた。

　男は、丸い紫の眼鏡を人差し指でずらして、じいっと俺の顔を眺めはじめる。
　——絶対うちの門下生になりたいって話じゃないよな。また道場破りとか……？
　敵意を向けられていないうちに、笑いかけてみた。
「えーっと、何かご用ですか？」
　頬を掻いて、男を見返す。
　男はニカッと笑って、俺の肩を親し気に叩いてきた。
「あー、悪いな。俺の宝物が世話になったみたいだから、礼に来たんだ。ンな警戒すんなって」
「宝物？」
　首を傾げると、開きっぱなしの門から、白銀の光が差し込んだ。
太陽の光を反射して、きらりと光る髪に目を瞬かせる。
　灰色の丸眼鏡をかけた大男が、首に手を当て、こちらに向かってのんびり歩いてきた。
「ちーっす、潔」
「え、凪？　……もしかして宝物って、凪？」
　正解だと快活に笑った紫の男が、俺の目の前に立った凪の首に腕を引っ掛けた。
「そう！　俺の宝物、助けてくれてありがとな！」
「あー、どういたしまして？」
　首を傾げたまま、ちらりと凪に視線を向ける。
「元気になってよかったな」
「うん、潔のおかげ。どもでした」
　真面目な顔でぺこんっと頭を下げる凪の仕草を微笑ましく思っていると、紫の男が懐から丸まった紙を出して、俺の前にひろげた。
「まあ、その……お礼っていうわけじゃないんだけどさ、お前の……ってか、この道場の借金な、全部肩代わりしといたから、凪が」
「……は？」
　言われたことの意味が理解できず、ぽかんと口を開け、男の顔を見つめる。
「凪が変なやつに騙されてんじゃねえかって色々調べたんだけど、お前の借金ってほぼこのオンボロ道場の修繕費なんだな。道場破りによって道場が半壊すること十一回目。ついに年配だったお前の師匠が、老後は穏やかに暮らしたいって書置きを残し、とんずら。そんで、三人いた弟子のうち、お前が後継者として名指しされ、道場と借金を押し付けられた」
「ぇあ……」
　ぺらぺら流暢に話す男の勢いから視線を反らせずにいると、凪が俺の顔を掴み力ずくで、俺の視界の中に入ってきた。
「ねえ、レオばっか見ないでよ」
　凪の手を振り払って、顎を持ち上げる。
「……なあ、凪。俺、凪にそんなことさせるために、看病してたわけじゃないよ。借金は自分で返さなきゃダメなんだ」
　はっきり拒絶の意志を示すために、凪を睨む。
　凪は、柔らかで眠そうな瞳で、俺のことをじっと見ていた。
「ん、そーだよね。だけど、あんな悪徳高利貸しに金借りたままじゃ、一生抜け出せないよ、潔。毎月利子すらまともに返せてなかったみたいじゃん。だから、一旦俺がそれ全部チャラにしたってわけ」
「つまり、今度からおまえは凪に、借金返済するってことな。オーケー？」
「ん、もち利子なし」
　凪と紫の男が、俺に言葉を挟ませずぐいぐい話を進めていく。
「それは、凪に悪いだろ！」
「悪くない。潔、俺ね」
　こてんと首を傾けた凪が、俺の顔を覗き込んで、ぎゅっと抱きついてきた。
　伸びてくる腕に、敵意や悪意が感じられず、跳ねのけるのが遅れてしまった。ぎくりと身体が強張る。
「……潔のこと好きになったみたい」
「はえ……？」
　予想外の言葉に、間抜けな声が漏れた。
　ちゅっとこめかみを吸われ、目を見開いて凪を見る。
　穏やかな凪の目は、正気を失っているようには見えず、反応に困った。
「だから、百回俺に抱かせてくれたら、借金チャラってことでよろしく」
「そ、そんなんダメだ……！」
　血迷った凪の言葉に、対応が決まる。
　即座に凪の顎を狙って掌底打ちをかまし、長い腕から抜け出した。すると今度は横から棍が俺の足元を狙って突き出される。ぴょんっとそれを飛び避け、棍の上に片足で着地する。
　紫の男がちっと舌打ちした。
「思ったよか、じゃじゃ馬だな。こんなんがいいのかよ、凪」
　ぶんっと振り回された棍から降りると、横から凪の振りあげた足が降ってきて俺の側頭部を狙う。
「俄然、欲しくなった」
　――普通、好きなやつの側頭部狙わないだろ！
　身体を弓形に後ろへ倒して、凪の足を避け、地面に手をつき、両足を跳ね上げ、凪を蹴り飛ばそうとしたけど、凪はいつのまにか手にしていたヌンチャクの鎖部分で俺の足を絡めとろうとした。身体を捻ってそれを避け、凪たちから間合いをとる。
「……俺、好きな人としか、そういう……だ、だくとか……そういうのさせたくないから、」
「借金踏み倒すつもりなら、こっちだって手加減しないけど」
「じゃなくて！　金は返す！ だから、そういうのしたいなら、凪が俺のこと好きにさせてみろってこと！　それともそんな自信もないのかよ、童貞」
　――いや、何言ってんだ俺。これじゃあ好きになったらシてもいいって言ってるみたいじゃね？　違う、完全に言葉選びを失敗した。
「童貞臭いこと言ってんのそっちじゃんか」
　はあ、と息を吐いた凪がヌンチャクの構えを解いて、だらりと肩に引っ掛けた。
　紫の男も、凪の動きを横目で確認して、棍片手にしゃがみこむ。
「めんどくさいなあ……」
「お、諦めるか？」
「諦めないよ、レオ。俺、やってみる」
　凪は後ろにヌンチャクをしまって、なにもしないの意思表示のつもりなのか、ポケットに両手を突っ込んだまま俺の方に歩いてくる。
　さっきみたいな敵意というかピリッとした肌に刺さるような危険な空気は感じないから、真っ直ぐに凪を見上げる。
　凪はじいっと俺の顔を見つめて、こてんと首を傾げた。
「潔、すき。はやく俺に落ちてね」
　太陽の下、榛色の瞳に吸い込まれると、柔らかな感触が首に触れた。
　身体が火照って、目の奥がツンとする。
　——やっぱ、こいつも、俺のせいで……。
「あれ？　なんかめっちゃ甘い良い匂いすんね、潔」
「……え、？」
「鼻詰まってたから、潔が飲ませてくる苦い薬の臭いしかわかんなかったけど、部屋の中、香でも焚いてた？」
「……凪、そういやずっと鼻ズビズビしてた……？」
「うん、鼻詰まって息できなくなるかと思ったー」
「……俺のこと、好きって……言った？　匂いがわかんなかったのに？」
　じりっと後ずさる。
　凪はその場に立ったまま、手のひらを自分の首に当て、二回摩った。
「んー……潔の言ってる意味よくわかんない。潔は、人を好きになるとき匂いが重要ってコト？」
「……そうじゃないけど、」
「俺が潔を欲しいのは、三日間ずっと傍にいて、お前みたいなお人よし、他のどこにもいないし、……こんなボロボロのところに放っておきたくないって思ったから。でも、今、潔と手合わせして、もっと潔に興味沸いた。ねえ、俺に教えてよ、潔のこと。もっと知りたいんだ」
　じいっと俺から目を離さない凪に、身体の熱があがる。
「お、俺……、挙体芳香なんだ」
　気づいたら、そう口にしていた。
「きょたいほーこー？」
　凪には聞き覚えのない言葉らしく、凪はレオって呼んでる男に意味を問うような視線を向けた。
　凪の視線を受けて、レオが説明をしてくれる。
「……端的に言えば、身体からめっちゃ良い匂いがするらしいぜ。美人の条件のひとつで、その体質さえあれば後宮の妃にだってなれるとか……でも男で、っていうのは初耳だ」
　レオはそう言って、鼻を擦り、疑うように俺を見てくる。
「そいつの近くにいても、俺にはそんな匂い感じられなかったけどな」
　俺は、頷いて自分のうなじをさすった。
「普段はあんまり匂わないと思う。体温が上がると、匂いも強くなるから……なんかコレ、興奮作用みたいなのもあるみたいでさ」
　肩を竦めて、背後にある崩れ……穴だらけの道場を見上げる。
「あれ、俺と手合わせしてる最中におかしくなって暴れ出したやつがやったんだよな。だから、借金は俺のせいだ。同じ門下生だったやつらも、武者修行とか言って出稼ぎに行ってくれてるんだけど……凪もそいつらも、本当はそんなことする必要なくて、」

　俺は、自分の体質の価値をわかってる。
　売れるところにいけば、その珍しさから道場の借金を完遂できるほどの金額がつくことも。金貸しも、俺が自分を売るって言いだすのを待っていることも知っていた。
　でも、それをしないのは、したくないからっていうただの意地だ。だから、蜂楽も千切も、——凪も、そんな自分勝手な俺のことなんて、放って置けばいいのに。

「……よし、」
　一度俯いて、顔をあげて前を向く。
「とりあえず、凪が多く払ったお金取り返してくるよ」
「は？　身売りでもするつもり？　だったら俺が買う」
「それは、さっきしないって言ったでしょーが。俺はただあの、お願いをしてこようと思って……」
　ぐっと拳を握り、へらりと笑う。
　凪が目を見開いて、パチパチと瞬いた。
　その斜め後ろで、呆れたようにため息をついたレオが立ち上がる。
「ンなことができんのに、今までしなかったのか？」
「金借りてんのは事実だし、元金と正規の利子分は返そうとしてたんだって」
　毎日つけている家計簿で、残りはあと三万元くらいだってちゃんと把握もしてる。
　残りの三万元を自分で返してから、「お願い」できないのが情けないけど、とりあえずは凪に建て替えといてもらおう。

　見学についてきちゃった凪とレオを後ろに、毎月直々に借金取り立てにくる金貸しのボスを訪ね、目の前で手下たちを昏倒させ、お願いをする。
　無事お願いを通してくれた太鼓腹のボスは、凪の払った百万元から俺の残りの借金を引いてお金を返してくれた。

「まあ、三万元くらい凪の治療費ってことで俺が払ってもいいんだけどな」
「レオ、しーっ」
　凪が唇の前に人差し指を立てたのが見えた。
　——だから、治療費請求しようなんて思わないって。

　俺の匂いを間近で嗅いでも、理性を飛ばして襲い掛かってくるわけでもなく、匂い部分の以外で真っすぐに俺を見て好きだって言ってくれた凪を思うと、なんだか心がむずむずするような気がする。
　――こんな気持ち初めてで、どうしよう。
　走り出したいけれど、俺のために借金をどうにかしようとしてくれた人たちのことを置いていくわけには行かなくて、前を歩く二人の一歩後をついて道場に戻る。

　そして、絶句した。

「お疲れさまです、玲王坊ちゃま。ご命令頂いた通り、門戸と指定されたお部屋の修繕を優先して完了しております」
　オンボロ道場があった場所に、幻覚かと目を疑うような立派な門戸が立ち塞がり、そこから黒い長衫に身を包んだ鷲鼻のおばあさんが表れた。
　その後ろには同じ黒服に身を包んだ体格の良い男たちもいる。
「おぅ、ばぁや！　ありがとう」
　レオが片手をあげると、ばぁやさんの後ろにいた黒服の男たちが扉を開け放つ。
　扉が開けばそこは――元のオンボロ道場が見えた。
　ほっと息をつき、ぶんぶん顔を横に振って、レオの腕を掴む。
「なあ、これ、なに？　お前が直してくれたの？　い、いくら払えばいい？」
　壊れる前よりも、はるかに立派で重厚な木材でできた扉に目の前がくらくらしてくる。
「……あぁ、そーいえば名乗ってなかったか。俺は、御影玲王。レオって呼んでくれていいぜ」
「レオ、俺は潔世一……じゃなくて！」
「え。潔、俺には名前教えてくんなかったじゃん。ヒイキだ」
　レオに聞きたい事があるのに、凪が背中にのしかかって邪魔をしてくる。
「だって、凪が凪しか言わなかったじゃん。俺だって凪の名前知らない」
「あー、そうだっけ？　俺、誠士郎。好きに呼んで」
「もう呼び慣れちゃったし、凪って呼ぶよ」
　凪がむうっと唇を尖らせる。
　キリがないから構うのを止めて、レオを問い詰めようとすると、その前にレオが口を開いた。
「これは、お前のためじゃないから礼はいらない。お金もな。なあ、凪？」
　さりげなく俺の首筋に鼻を埋めていた凪が、頭を上げ、こくりと頷いた。
「も、もしかして、ツンデレってやつ……だったり？」
「そんなわけあるかバカ。凪が今日からここに住むって言うから、凪のためにとりあえず人が住めるようにはしてやろうと……どうだった？」
　——住む？　誰が？　どこに？　聞き間違いかな？
　口を開けたまま固まる俺の前で、ばぁやさんから大きな紙を受け取ったレオは「ダメだな」となにかを一蹴した。
　ちらりと見えた紙には、おそらく道場と住居スペースの見取り図が書いてあった。
「一旦全部解体して、建て直しだ！　そっちのが早い」
「え？　レオさん？　ちょっと、なにを解体する気なんですかね……」
　嫌な予感がする。
「えー……今日はもうよくない？　寝るとこできてんなら、明日からでいーよ。俺もうつかれたー」
「それもそうだな。んじゃ、また明日ってことで。みんなもそれでよろしく」
　俺を置いてきぼりにして、事態が進展していく。
　レオがぱんっと両手を叩くと、敷地内にいた黒服や大工の恰好をした男たちが、速やかに撤収していった。
「凪、あとはうまくやれよ」
「ん。また明日ね、レオ」
　凪が俺の頭の上に顎を置いて、ひらひら手を振った。
「待って。置いてかないで、連れて帰ってくれ……っていうか、明日もくんの？！」
　レオは凪にだけ答えるように手をひらひら振って、凪を置いて帰ってしまった。

「潔、ちょーいいにおい。風邪治ってよかった」
「そりゃよかったな……」
　鼻をひくひくさせて俺の首筋の匂いを嗅いでた凪が、「肌も甘いの？」と調子に乗って、舌先で首筋を舐めた。
うひゃっと変な声が漏れる。反射で凪の頭を小突いて、肩から落とした。
「うべっ」
　頭を押さえてしゃがんだ凪が、目に涙を浮かべて俺を睨んでくる。
　心臓が破裂しそうに痛い。
　ぎゅっと右手で左胸の上を握る。
「無理やりなんて潔に嫌われるから、するつもりないんだけどさ」
　凪が両手で自分の首を覆ってため息をついた。
「そんな顔してると、食べちゃうよ」
　凪が赤くなった顔で、困ったように俺を見上げた。

　夕日で、自分の手の甲が凪と同じくらい真っ赤に染まってるのが見える。ぱく、と空気を食んだ口を閉じた。真っすぐな凪の視線に耐えられなくなり、慌てて俯き、泥で汚れた布靴の先っぽで視線を汚した。
　地面に散らばった砂利が鳴る。
　自分でも酔いそうなくらいの息苦しい匂いに包まれて、凪はそうっと甘やかに、俺の額に触れた。
　心臓の音が止まる。周囲の音も気配も全部わからなくなってしまう。なんだか頼りないような、不安なような複雑な気持ちになって、凪のしなやかに見えるのに意外と節くれだってゴツゴツした手を握った。
「……俺も、もう少し、凪のこと知りたくなった、のかも」
「あ、まだそーゆー段階？　オーケー、宝贝（赤ちゃん）」
　凪が俺の手を握り返す。
　自分から握ったのに、そわそわして振り払いたくなってきた。
　なのに、凪に触れている手の感覚がなくて、動けない。
　自分の身体がコントロールできない。感覚を取り戻すために集中しようと目を瞑ると、ちゅっと唇に柔らかなものが触れた。
　目が勝手に開く。
　視線のすぐ先、くっつきそうなほどの距離に凪の顔があった。っていうか、たぶんくっついていた。
「き、キスしていいなんて、言ってないっ！」
　手に力を入れて離れようとするけど、たぶん凪がそれ以上の力で俺の手を握っているから、突き飛ばせなかった。
　凪がきょとんと首を傾げる。
「そんな顔したら食べちゃうよって、さっき伝えたじゃんか」
　——そんな顔ってどんな顔なんだよ。
　動かない手の代わりに右肩をあげて、首を捻り、唇を肩で拭う。
「ぇ、キス、そんなやだったの？」
　凪がめちゃくちゃびっくりした顔をした。
俺のがびっくりする。
　——いま、俺、嫌じゃないって答えようとした。
　勝手に同居を決めたり、抱き着いてきたり、舐めてきたり、あげくキスまでしてきた凪が、急におろおろしているのがおかしくて笑ってしまった。



　貞操の危機があるから、まだ不確かな段階で、好きになっちゃったかもなんて口が裂けても言えないけどさ、凪。
　俺、今、たぶんな、凪に、ドキドキしてるよ。