凪潔SS
*゜ 1
灰色の重たい雲がかかった、どんよりした空を見上げる。
天気予報では、一日中くもり。日本列島は強烈な寒波に見舞われて、東京は日中も十度以下。北陸では今日も大雪らしい。
冷えて真っ赤になった指先に息を吹きかけると、白い吐息が立ち昇って消えた。肌の表面にだけじんわり熱が染みこんで、またすぐに冷たくなる。
一人分の食料が入った紺色のエコバックを手首に引っ掛けて、ウィンドブレーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
ツンと冷えた鼻をすすってネックウォーマーに口元をうずめる。
「さっむ……」
びゅうびゅうと肌を突き刺す冷たい風を避ける壁はなく、小走りで自宅マンションの敷地へ飛び込んだ。
オートロックの正面エントランスを通らずに、駐輪場がある裏口にまわって、鍵のかかった外階段の扉を開ける。
トレーニングもかねてエレベータを使わず、五階分約七十段の階段を、なるべく足音を消して駆け上がることが日課になっていた。
冷たい外気が頬を刺し、ピリピリした痛みを覚える。
白い息を切らして、五階フロアの廊下に繋がる非常ドアを開けた。
「あ」
馴染みのある声が聞こえて、つま先に落としていた視線をあげる。
外階段正面にある部屋のドアが開いていて、その部屋の前に紫色の特徴的な髪を持つ玲王が立っていた。
「よお、久しぶりだな」
俺と目が合って声を上げた玲王は、少しぎこちない笑みを浮かべ片手をあげる。
半開きだったドアが完全に開いて、大きな白い影が玲王の後ろから顔を覗かせた。
一八〇センチ越えの玲王よりさらに背が高い凪は、玲王の後ろに立っていてもすぐわかる。
階段を駆け上がったせいで乱れた呼吸を整えて、笑みを浮かべた。
「久しぶりって、天皇杯以来だから、まだ一か月も経ってないだろ? でも二人とも、元気そうでよかった」
ポケットから飾り気のない鍵を取り出して、二人の前を通りすぎ、開いたドアの隣、エレベーターから一番遠い廊下の端っこにあるドアにカギを突っ込んだ。
「インフルとかも流行ってるっぽいし、体調には気をつけろよー」
そこで自然にバイバイするはずだった。
だけど凪が、俺の名前を呼んだ。
一瞬止まってしまった手首を無理やり動かす。
鍵の外れる音が廊下に響いて消える。
「あー……俺たちこれから食事に行くんだけど、おまえも一緒にどう?」
俺と凪のぎこちない沈黙を埋めたのは玲王だった。
笑みをかたどったままの顔を玲王と凪に向ける。顔の前で、ぱんっと両手を合わせて、眉根を下げて申し訳なさそうな顔をする。
「せっかく誘ってくれたのにすまん! 今日はこのあと約束があるんだ」
嘘だけど。
このあとは普通に部屋で一人、野菜をくたくたに煮込んだ鍋をつつく予定だ。
「約束って、誰と?」
凪の静かな声が頭上から降ってくる。
顔をあげると、いつのまにか目の前にいた凪が、俺を見下ろしていた。
「だれって……」
「おい、……あー、あのさ、もし俺らの知ってるやつだったら、そいつも一緒にって、」
玲王が凪の腕を引っ張って、俺たちの間に立った。ちらりと玲王の視線が凪に向く。凪は肩を竦めて一歩下がった。
「……知らない人だよ。また今度な」
――潔って、嘘つくの下手だね。
記憶の中の凪がそう言って、俺の頬を両手で挟む。
嘘だってバレる前に、部屋のドアを開け、玄関に身体を滑り込ませた。鍵をかけて、その場に座り込む。自動点灯の玄関の電気に顔を照らされないよう膝に顔を押し付けた。
扉一枚隔てた廊下から、足音が二つ分遠ざかっていく。
「……かっこわる」
目の奥が熱を持つ。
つま先の汚れたスニーカーを睨みつけた。
――潔の持ってるやつ、かっこいいね。俺もそれの白買おうかな。
凪と出かけた先で、たまたま目についたスニーカー。
靴紐がなくて、靴についた小さな丸いポンプでサイズを調整して履くタイプのもので、俺は黒に青いラインの入ったやつ、凪は黒と白のパンダみたいな柄のやつを一緒に買った。
滲む青いラインを脱ぎ捨てて、目尻を手の甲で拭う。
別れてから半年近く経つのに、俺の中の全部はまだ、凪との思い出ばかりが溢れている。
〇 * . 2
「潔」
凪の真っ白な肌が、赤く染まる。
筋の通った鼻のてっぺんが寒さで赤くなっているのがなんだかクリスマスの歌に出てくるトナカイみたいで可愛かった。
なんでもない日の、なんでもない朝のトレーニング。
白い息を切らして、ブルーロックのメインスタジアムを二人で並んで走る。
そんないつもの日常のなか、凪の様子だけが、なんとなくいつもと違っていた。
名前を呼ばれて足を止める。
俺の半歩後ろで止まっていた凪は、顔に滲んだ汗をジャージの袖で拭って、イヤホンを耳から抜いた。
俺もテキトーな曲を流していたイヤホンを耳から抜いて、凪に向き直る。
「どーした?」
こめかみから垂れる汗を拭い、首を傾げると、凪の目元がほんのり赤くにじんだ。
「……好きなんだけど」
「え?」
「潔のこと、好きだから、俺と付き合ってくんない?」
「……え?」
凪が丁寧に言い直す。それでようやく俺にも、凪が伝えようとしている言葉の意味がわかった。
口をあけたまま固まる俺に、凪は半歩の距離を埋めて、肩に手を置いた。
「嫌だったら逃げろ」
凪の顔がゆっくり近づいてくる。とっさに下を向くと、凪が俺の名前を呼んだ。反射で顔をあげてしまうと、凪のひんやりした鼻先が頬に触れて、動けなくなる。
唇の端に、かさついた凪の唇が触れた。
凪は俺の肩に置いていた手を背中に滑らせて、そのままもたれかかってくる。
「……逃げないの?」
地面に棒のようにくっついた足は、凪から距離をとらなかった。
もたれかかってくる凪に押しつぶされないよう、柔らかさのかけらもない背中に手をまわし、汗でしめったジャージを握りしめる。
「好きだとかは、正直わかんないけど……」
――嫌じゃない……と、思う。
そう伝えると、凪は深くて長い息を吐いた。
「……振られるかと思った」
「それなのに、なんで告ったんだよ」
「んー……、ここから出たら潔は俺のことなんてすぐに忘れると思ったから。男に告られたらさすがにしばらくは覚えてるでしょ」
「……凪のこと、忘れられる人間はあんまいないだろ。でも、凪、俺オッケーしたわけじゃないよ」
俺の肩に顔を埋めていた凪が顔を上げ、眉間に皺を寄せた。
「は? いまのオッケーする流れだったじゃんか」
「いやだって、付き合うとかよくわかんないし……そもそも嫌じゃないってだけで、好きかって言われると……?」
凪はじっとりした視線を俺に向けて、俺の頬を片手でつまんで押しつぶした。
「にゃんやよ」
「鈍感な潔に教えてあげるんだけど、普通男にキスされたり告られたりされたら、青ざめて嫌がるもんなんだよ」
「それは……、そうかもしれない……」
もし今腕の中にいるのが別の誰かだったら――って想像する。例えばイガグリとか。絶対にない。微塵もない。
逆に、凪が今みたいに誰かに告白するところを想像してみる。
黒髪の綺麗な女の子とかが、凪の隣に並んだらしっくりくるのかも……って考えて、なんだかむっとした。
「でしょ。だから潔、今日から俺の恋人ね」
俺は何にも言ってないのに、凪は俺の表情を読み取って勝手に俺たちの関係性を決めた。
でも別に他に付き合いたい人がいるわけでもないし、まあ、いいのか……?
そんな理由で頷く。
恋なんてよくわからなかった。でも、凪とだったら付き合ってもいいって思った。
たぶん俺は、きっともうその時に、凪のことが好きだったからなのに。
゜〇 3
ブルーロックから出て高校を卒業した俺と凪は、同じマンションで隣同士の部屋を借りることにした。
そして、引っ越しする金がもったいなくて、別れた今もずるずる同じとこに住んでいる。
高卒後すぐに東京のプロサッカーチームに所属した俺と違って、凪は玲王と同じ大学に進学して、大学でサッカーを続けることを選んだ。
元旦にあった天皇杯決勝では凪の大学と当たって、ブルーロックぶりになる凪との死闘を繰り広げた。
その時は、凪と顔を合わせても平気だった。
凪も俺も日本代表選手に登録されているから、招集があれば呼び出されるけど、次に顔を合わせるのは、一か月後の三月に行われる海外遠征になる予定で、きっとその時も、会えば普通に接することができたはずなのに。
今日みたいに不意打ちで凪の顔をみると、まだ胸がひりついてしまう。
俺がマンションのエレベーターに乗れなくなったのは、凪と偶然乗り合わせたら気まずいからだ。
朝家を出る時は、隣の部屋の物音を確認してから、素早く飛び出すことにしている。
その甲斐あって、今のところ別れてから一回も凪とマンション内で鉢合わせしたことはなかったのに、今日は油断してしまった。
隣に住んでいても少し意識すれば全く顔を合わせなくなるくらいに、今の俺と凪の生活リズムは全然違っていた。
洗面台で手洗いうがいをすませた後、狭い廊下をすすんで1LDKの城に電気とエアコンをつける。
幅広のソファに脱いだウィンドブレ―カーを放り投げ、シャツの袖をめくり小さなキッチンに立った。
一人用にしては大きい鍋を取り出し、中にストックしていた鶏白湯鍋の素を入れ、火にかける。
野菜は実家から送られてきた白菜とネギ、ニンジンを使う。一昨日まとめて切って冷凍していたから、今日は楽ができる。さっき買ってきた鶏もも肉をエコバックから出して、沸騰した鍋の中に突っ込んだ。
ぐつぐつ煮立つ鍋を見つめて、「この量食べきれんのかな」と首を捻った。
一人分のごはんを作るのは苦手だ。
俺が一人暮らしを始めた時には、凪がいたから。
凪は料理も天才的にうまいし、器用だったから、俺がいなくても量の調節なんて間違えないだろうけど。
コンロの火を止め、鍋を持ってリビングに移動する。ソファ前のローテーブルに鍋を置き、取り皿と箸、取り分けに使うお玉を持ってラグの上に座った。
「あまったら明日食えばいいか……いただきます」
両手を合わせて、取り皿に白菜を盛り付ける。ふうっと息を吹きかけて、一口。
去年あんなにおいしいと感じた鍋の素なのに、今年は去年ほどの感動を覚えなかった。
一人で座るのには広いソファ、一人で寝るには大きすぎるベッド。部屋の中のあちこちに残る誰かの気配を、忘れていたつもりでいたのに、まだ全然忘れていないことを今日はやけに思い知らされる。
凪の顔を見てしまったせいだ。
「……引っ越そうかな」
4月になればマンションの契約更新がある。それをきっかけに引っ越すのもいいかもしれない。大きい家具も処分してしまえば、こんな風に凪を思い出して感傷に浸ることもなくなるはずだから。
全然減らない鍋の中身をお玉で掬って、冷めたスープをすする。
残った半分を食べてくれる人は、もう隣にいなかった。
・○゜ 4
フル稼働の冷房の風に当てられて、身体の火照りを冷ます。
枕元に残されたスマホがピコンと音を立てた。
窓の外ではセミの大合唱。レースのカーテン越しに、強い光を浴びて、目を閉じ、まぶたに腕を被せた。
廊下の先から聞こえていたシャワーの音が止む。浴室の扉が開く音がして、三十秒足らずで部屋の空気が動いた。
「……潔、寝ちゃった?」
ぺたぺたとフローリングを素足で歩く音が、ベッドのそばで止まる。前髪を撫でていく指先に、目の奥が熱を持った。
眠気なんて全然ないのに、眠たいフリをして寝返りを打ち、うつぶせになる。
「ん……なぎ、髪乾かしてないだろ」
掠れた声が喉に引っ掛かる。
凪は「すぐ乾くよ」と言って、ベッドに腰かけた。
後頭部を向けたスマホに、凪はきっと手を伸ばした。
マナーモードにされていないスマホをいじる音がしている。
『土曜グループワークの発表準備!』
たまたま見えてしまった通知画面が目蓋の裏に蘇る。
その日は、久しぶりにオフが凪の休みと被って、花火大会に行く約束をしていた。
うつぶせになったまま顔の向きを変えて、薄っすら目を開けた。
いくつかの赤い線が浮いた広い背中には、水滴が伝っている。
首にかけたフェイスタオルで、右側の髪を拭った凪が振り返って、俺を見下ろした。
「潔、週末の約束だけど――」
「……ダメになったんだろ? 了解」
凪が俺との約束を反故にする前に、聞き分けのいい返事をした。眠気に負けたふりをして、あくびをする。また目をつぶると、凪のデカい手が俺の頭の上に置かれた。
「埋め合わせする」
「……いいよ、べつに。俺も忙しいし」
拗ねているように聞こえないように、声色に気を付けてそういうと、凪は何も言わずに俺から手を離した。
ベランダから聞こえる室外機のファンが回る低い音に耳を澄ませて、スマホを打つ音に意識を向けないようにする。
ブルーロックから出て、二年半。高校を卒業して、凪と同じマンションに引っ越して一年とちょっと。
最近、俺たちはうまくいっていない。
数十分前にベッドで交わした熱は、一時間も立たずに冷めていく。
心の中に落ちたひんやりしたものを、膝を抱えた自分が見つめている。
……どうしたいんだろうな、俺は。
゜
予定がなくなった土曜日、気分転換で出かけた先で凪を見かけた。
スクランブル交差点の向かい側、人混みから頭一つ分飛び出た男は、斜め上にある大型LEDビジョンを見上げていた。
雑踏に響く、荒い息遣い。ごくっと喉が鳴る音が頭上から降ってきて、思わず顔をあげ、液晶に視線を向けてしまう。
――全力でおいしい、身体が求めるこの味
大型ビジョンに映った汗だくの俺が、スポドリを飲み干して走り出していった。
それは数か月前に、某有名飲料メーカーからオファーが来て撮影したCMだった。そういえばそろそろ放送が始まるって広報の人に言われていたことを思い出す。
……はっず。俺がここにいるってバレたら、わざわざ自分のCM観に来た人みたいじゃん。
被っていた黒いキャップのツバを下げ、俯く瞬間、ちらりと見えてしまった凪は、いつか俺が想像した黒髪の清楚美人に腕を引っ張られていた。
視力2.0。サッカーで鍛えてきた広い周辺視野で、その後ろに玲王も、凪たちと同じグループなんだろうなって親し気に話す男女も数人見えたから、浮気を疑ったりはしないんだけど。
でも、俺が隣にいるよりも、そっちの方が自然じゃん?
そう思っている自分に気づいたら、もう駄目だった。
信号が点滅する。
くるりと踵を返して、歩道前に溜まっていた人の隙間を縫って駅に戻った。
゜・
「ただいま~……潔、出かけてんの?」
真っ暗な部屋の中、玄関の人感センサー付きのライトがぽっと灯って、廊下を隔てるドアのガラス部分から、室内に仄かな光が差す。
自分の部屋より先に、俺の部屋に当たり前のように帰ってきた凪が、部屋のドアを開けた。
「なんだいるじゃん」
「ん、おかえり」
ベッドに片足を立て座っていた俺の傍に凪がやってくる。
全開にした窓から吹き込んだ生ぬるい風が、タッセルでまとめたカーテンを揺らした。
腹の奥に響く低い音が遠くから聞こえる。
空に散らばる色とりどりの小さな花に目を向けると、凪が俺の顔を覗き込んできた。
「変な顔してんね」
凪の白い頬に、花のかけらが映り込む。
「……そりゃあお前に比べたらな」
パラパラ散って消えていく花びらを親指でなぞると、凪は俺の手に頬を摺り寄せて、目尻を緩めた。
「うそだよ」
凪の唇が、俺の唇を食んだ。肩を押されて、ベッドに仰向けになる。
凪は俺の上に跨って、口内に舌をねじ込んできた。
Tシャツの隙間から入り込んだ手に、体を撫でられて、腰を浮かせる。
……気分じゃないけど、最後くらい、いいか。
そんなずるいことを考えて、凪の首に手をまわす。
凪の舌が俺の上あごをくすぐって、溜まった唾液が喉奥に流れ落ちていった。
凪の舌が引き抜かれる。
口から溢れそうになった唾液を人差し指で拭うと、凪はぴたりと手の動きを止めて、俺から手を離した。
「……乗り気じゃないのに、付き合わなくていーよ」
凪は、俺の肩に顔を埋めてのしかかってくる。頬にふわふわあたる白銀の髪が、万華鏡みたいにくるくる色を変える。
フィナーレを迎えた花火は、夜空に煙だけを残して消えていった。
「……なぎ、」
凪の髪に手を差し込んで、名前を呼ぶ。
震えた声にはどうか気づかないでほしい。
凪は顔をあげない。
――なぎ。
もう一度呼ぶと、凪はようやく顔をあげた。
「俺、友達がいい」
「……なにそれ。どーゆー意味かなんて聞きたくないんだけど」
拗ねた子どもみたいな顔をした凪の瞳が、月明りで滲んだ。
「なぎとは、ともだちにもどる」
引き裂かれそうになる胸の痛みを無視して、頭を撫でそこなった手で、凪の肩を押した。
いつもは俺が押したってびくともしない凪の身体が傾いて、すんなり俺の上から離れていった。ベッドの上に膝立ちになった凪は拳を握ってうつむいた。長い前髪で顔が隠れて、凪の表情はわからない。
「……それは無理だよ、潔」
長い沈黙のあと、凪はそう言ってベッドから降りた。
遠ざかっていく背中が、ぼやけて見えなくなる。
俺は凪と、恋人じゃなくなったら、友だちにも戻れないらしい。
〇 * 。 5
「いさぎ~~、おまえはほんっといいやつだあ……」
「ハイハイ、いいからちゃんと自分で立って……すみません、支払いカードで、領収書もお願いします……あっ、そこで座んなっ!」
タクシーから転げ落ちるように降りて、マンション前の階段に座り込んだチームメイトで先輩の瀬井さんはいったん放置して、支払いを済まして領収書を受け取る。
一万六百六十円。
絶対あとで瀬井さんに請求してやる。
タクシーの運転手さんにお礼を言って車から降り、ぐでんぐでんに酔っぱらってる瀬井さんの腕を肩に回し、歩くのを支える。
こんな酔っぱらっててタクシー乗せてもらえたのが奇跡だ。運転手さんが俺たちのチームのファンでよかった。瀬井さんのことは幻滅しちゃったかもしれないけど、それは自業自得ってやつだ。
今日は瀬井さんの推しだったアイドルの子に熱愛報道が出たとかで、成人済みのチームメンバーで飲みに行ったらしい。
未成年の俺はパスしたのに、結局酔いつぶれた瀬井さんからのヘルプコールがかかってきて駅まで迎えにいくことになってしまった。
どうやら一緒に飲みに行ったやつらは、瀬井さんをからかうつもりが思ったよりも重症で、酒に酔って号泣する瀬井さんの扱いに困り、俺を呼び出すように仕向けたっぽい。
そいつらは俺が駅に着くと、瀬井さん抜きの二次会に行った。
くっそ……。明日絶対監督に言いつけてやる。
家まで送ろうにも瀬井さんは泣いてばっかで自宅の場所も言わないし、仕方ないからタクシーで俺の家につれてきたわけだけど、絶賛後悔中。
駅に捨てて置けばよかった。
よろよろ瀬井さんを支えながらなんとかここ半年1度も載ってないエレベーターに乗りこみ、5階のボタンを押す。
「んぅ~、いさぎちゅわん、しゅき……」
「きもいきもい、黙れってマジで」
迎えに来たことへの感謝のつもりなのか、でかい図体で媚びを売ってくる瀬井さんにうぇーっと舌を出して拒絶する。やばい。鳥肌まで立ってきた。
音を立ててエレベーターが止まり、扉があく。
俺の部屋は一番端だ。
酔っ払いを静かに引きずって歩くには長すぎる廊下に白目をむきそうになる。
エレベーターの壁と俺の身体に挟んで無理やり立たせていた瀬井さんは、壁という支えを失って、ずるずる俺にもたれかかってきた。
「ちょっと、瀬井さん、しっかり歩いてくださいよ。もーっ! あんたでかいんだから、よりかかられると、し、しぬ……」
近所迷惑にならないよう小声で叱ると、瀬井さんは「はにゃにゃ」とか意味不明な寝言を呟いて目をつぶった。
「うそだろ、あとちょっと……おい、起きろって」
もう先輩だとか、年上だとかは関係ない。胸倉をつかんで瀬井さんを揺さぶっていると、目の前の部屋の扉が開いた。
やば、近所迷惑。
慌てて口を塞いで、謝るために顔をあげると、首に手を当てた凪が、眉間に皺を寄せ俺たちを見下ろしていた。
「潔、うるさい。こんな時間までなにしてんの?」
「あ、凪……ごめん、夜中に」
凪の視界から去りたい一心で火事場の馬鹿力を発揮して、床に座り込みすやすや寝ている瀬井さんの後ろ襟を首がしまらないよう注意しながら掴んで、ずるずる俺の部屋の前まで引きずっていく。
凪は早く部屋に戻ってくれればいいのに、俺と瀬井さんの後をついてきた。
ほんのちょっと甘えたことを言っていいなら、ついてくるなら手伝ってほしい。
「ねえ……それ誰?」
ゼエゼエと息を切らして自分ちの前にたどり着いた俺に、凪が問いかけてくる。
「誰っておまえ……」
天皇杯の決勝で、おまえをマンツーマンでディフェンスしてた瀬井さんだけど?
まあ、凪は瀬井さんのマークをすんなり躱して一点決めてたけど。
「そいつ、潔の部屋に泊まるの?」
俺が呼吸を整えている間に、凪の質問内容が変わる。
興味ないのに、今話しかけんな。
はあ、と息を吐く。
「……この状態で電車乗せられないし、そのつもり」
「じゃあ、潔は俺の部屋にきなよ」
「……なんで?」
凪の言ってる意味がわからなくて、首を傾げる。
もう恋人でも友達でもない俺を、部屋に呼ぶ理由ってなに?
「なんでって、本気で言ってんの? おまえの気持ちが落ちつくまで、」
「いさぎ~~~っ、おえ、ごめん、迷惑かけてごめんなあっ」
突然ばちっと両目をかっぴらいた瀬井さんが身体を捻って俺の腰にしがみついてきた。
「うあっ、ちょっとっ、変なとこさわっ、んあっ」
冷たい指先がジャケットとシャツの裾をめくって直に腰に触れた。冷たさで驚いて変な声が出る。
「……」
凪が無言で瀬井さんの両脇をつかんで、俺の腰から引きはがしてくれた。
「助かった! あのさ、悪いんだけど、今鍵あけるから、その人、中に放りこんでくんない?」
「捨ててくる」
「この寒さでそんなことしたら凍死するだろ」
安眠を騒音で妨害された凪は、相当怒っているらしい。
苛立つ凪を見るのは珍しい。凪は基本的に人を怒らせて、自分の感情は乱さないタイプだから。
凪と瀬井さんはあんまり一緒に居させない方がよさそうだ。
そう判断して、手早く鍵をあけ、ドアをひらいた。
廊下の壁に立てかけていた組み立て前の段ボールが、雪崩を起こして廊下を塞いでいるのが目に入る。
……ちょうどいいから瀬井さんはダンボールの上で寝かせて、段ボール上にかけておけばいいかな。トイレ行くとき邪魔だけど。
「ねえ、もしかして、引っ越すつもり?」
瀬井さんを廊下に捨てた凪が、ドア枠に腕をついて俺を見下ろした。
「ん……あー……そのつもりで探してて、とりあえず段ボールもらってきたから、使わないものは実家に送っておこうって。あ、掃除してたら、おまえの服も出てきたからついでに今日持って帰って」
凪の白いスウェットをソファに積んだのを思い出して、そう言うと、凪は首を傾けて俺と目を合わせようとした。とっさに視線を下げて、サンダルから飛び出た凪のつま先を見る。
「やだ」
「やだって……捨てちゃうぞ?」
凪がため息を吐いた。
「ちょい待ってて。鍵閉めたら、あの男が凍死するだけだから」
「え、……おい、凪?」
くるりと体の向きを変えた凪は、俺の部屋から離れて廊下で呑気にぐうすか寝ていた瀬井さんの腕を引っ張って自分の家に連れこんでしまった。
え、もしかして人質のつもり?
「な、なぎ……なにしてんの?」
連れ込まれた瀬井さんの安全を確認するため、おそるおそる凪の部屋のドアを開ける。
凪は玄関でさっきと同じ白いサンダルに片足を突っ込んでいて、瀬井さんは廊下で仰向けに寝転び、腹をかいていた。
「エアコンついてるから、ここなら凍死しないでしょ」
凪は俺の背中を押して、瀬井さんを残した部屋から出るとドアに鍵をかけた。
そして、そのまま俺の家に入ってくる。
人質をとられている俺は、黙って凪の行動を見守るしかない。
凪がドアの鍵をかけて、家主の俺が玄関をあがるより先に廊下を通り抜け、室内の電気をつけた。
ソファの上に畳んでまとめたデカい服が入った紙袋を一瞥した凪は、その紙袋の隣に座った。
「こっち来て」
凪の前を通り過ぎベッドに座ろうとすると、凪は俺の腕を引っ張り、ソファに座るように促してくる。
仕方なく膝が付きそうなほど近い距離に腰を下ろすと、凪は手首をつかんでいた手を滑らせて、俺の手を握った。
凪の手は冷たいのに、手のひらに汗をかいている。小刻みに震える手をつい、ぎゅっと握り返してしまう。
「……時間を置けば、解決するんだと思ってたけど、違うみたいだから……はなししよ、いさぎ」
凪のことを忘れようとしている寂しい部屋に、凪の声がぽつりと沁み込んだ。
「潔に、友だちが良いって言われてから、ずっと考えてたんだけど……」
凪の視線が頬に突き刺さる。
いつからか、この視線に気づいても、凪の目を見れなくなっていた。
凪が握った手に力をこめる。痛いくらいに締め付けられて、ようやく久しぶりに凪の榛色の瞳を見ることができた。
「……どうしたら、また俺を見てくれる? 俺は、お前のことが好きなのに、友だちになんて今さら戻れないし、戻りたくない」
凪の瞳に張った水の膜が揺れる。
普段表情があんまり変わらない凪だけど、その瞳は雄弁だ。
いつも気づくと、俺に視線を向けて、俺だけを見ている。
そんな凪と瞳が合うと、心の枷が外れて溢れて、どうしようもなくなる。
伝えるつもりのなかった言葉が、口から零れ落ちた。
「おれ、は……おまえのことを、大事にできないんだ」
うん、と凪が頷いた。
眉間に力をこめて、つながった手を握りしめる。
「……ずっと、凪の傍だけにいられない。俺には、世界一のストライカーになるって目標があって、それが一番で、凪のことを一番にはできない、から」
凪の隣には、傍で支えてくれる人が似合うなんて、俺の口からは絶対に言いたくなくて、言葉を濁す。
「だから? 俺が潔に、俺のことを一番に考えろって言った? そんなこと頼んだ?」
凪のまっすぐな視線が、心臓に突き刺さる。
ぐっと唇を噛んで、凪のことを突き飛ばした。つながった手が離れる。すぐに追ってきた凪の手に掴まれて、首を横に振る。
「……俺が嫌なんだよ。凪が、凪の事が、好きだから。大事にしたいのに、できない自分のことが一番いやなんだ。だから凪とはもう――」
付き合わない、と言いかけた唇に凪の親指が押しこまれる。
凪は俺に恨めし気な視線を向けながら、俺の舌をふにふにと親指で押した。
「ふざけんな、潔世一エゴイスト。そんな理由で別れられるわけないだろ」
凪は、「泣かないでよ」と俺の目じりに唇を寄せた。
俺は、泣いてない。泣いてるのは、お前の方なのに。
「俺は潔のことが好きで、潔も俺のことが好きで、それで感じる寂しさだとか不幸なら、べつにいーよ。大事にされたいなんて思ってないし。勝手におまえが、俺を決めつけんな」
鼻を赤くした凪が、はじめて俺に好きだって言ってくれた凪と重なって、目の表面張力が決壊した。
「……じゃあ、なぎ、俺と不幸になってよ。 会いたいときに会えなくて、声が聞きたいときに聞けなくて、一人の時に俺のこと思い出してさみしくなって泣いて、俺のことすきですきで死にそうなくらいずっと好きでいて、」
ずっと心に溜まっていたぐちゃぐちゃでどろどろの感情を吐き出すと、凪は俺にしがみついて耳元で声を震わせた。
「そんなの今更だ、ばかいさぎ」