パラレルいろいろ

 女優だった母に幼いころから演技のスパルタ教育を施され、そこそこの演技力を(強制的に)身に着けさせられた。
 幼いころはいやで仕方なかったその演技指導も、探偵としての調査活動にも活かせることに気付いてからは、ほんの少しだけ感謝をしている。
 演技力と、持ち前の度胸と、それとハッタリ。
 自分が今まで調査に使っていたのは、精々それくらいだ。特別な訓練を受けたわけでもない。



 春の麗日な日差しが、ブラインドの隙間から、事務所を暖かく照らす。
 ピリリと張り詰めた雰囲気の方が、場違いだった。ホームであるはずの自身の探偵事務所にいても、背筋が突っ張る。

 デスク越しに対面した四十代から五十代くらいの男性は、穏やかな笑みを浮かべていた。しかし、その目の奥には、油断できない鋭利な光がある。
 男は出されたお茶を一瞥すると、膝の上で手を組み、一層深い笑みを浮かべた。

「ハニートラップの名手であるきみに、協力をお願いしたいんだ、工藤探偵」

 背中に冷たい汗が流れた。
 しかし、こんな時でも、完璧な笑みを浮かべている自信はある。
 ――ハニートラップってなんだ?
 いや、名称だけならば知っている。スパイが諜報活動で行う色仕掛けのことだ。
 ハニートラップの名手……オレが?

 寝耳に水の話だった。
 動揺して、その動揺を表に表さないように、悠然と微笑んでしまうのはもはや癖だった。
「一体何の話でしょうか?」
「白石まりの、高橋みな、蒼井春日」
 男が口にした名前に、身体が反応しかける。
 どれもこれもが、ここ数年仕事で使った名前だった。
 必要な情報を集める時、その対象によっては、男のままで近づくより女装をし、性別を偽った方が口を滑らせてくれやすいこともあって、女にも変装をすることがあった。
「どなたですか?」
 それらの名前をさも初めて聞いたかのように、小首を傾げた。
 男は視線を背後に移す。ソファに座る男の背後には、グレーのスーツを着た背の高い男が立っていた。
 温かな陽の光に似た淡い金髪に、小麦色の肌。
 目が合うと、甘ったるい垂れ目を緩ませた。
 百人居たら百人が思わず惚れ惚れとするような笑み。
 けれど、なぜだかそんな笑顔を見て、背筋がぞっとした。

「実に見事でしたよ。きみの手練手管は。毎度こちらの諜報員を骨抜きにしてくれて、どうもありがとう。おかげで再教育が必要な者を、危険な現場に送り込まずに済んだ」
 金髪の男はスーツの胸ポケットからなにかを取り出した。
 それを、テーブルの上に放る。写真だった。黒髪ストレートヘアの女性と、茶髪にウェーブの女性、金髪ショートの女性がそれぞれ映っていた。
 全て見覚えがある。

 ――オレの女装姿じゃねぇか……。

 思わず頭を抱えたくなった。
 もちろんそんなことはできない。
 男は『諜報員』と言った。
 どうして真面目に仕事をしているだけなのに、こういう厄介ごとを引寄せてしまうのだろうか。
 黒髪の女性が写った写真を手に取り、困惑したように眉を下げる。
「ずいぶんと美しい方たちですが、見覚えはありませんね」
「……そうですか? 僕は生憎好みじゃないので、あまり美人とは感じませんが」
 ひくっと口端が吊り上がりそうになった。人
「……世間一般的に言えば、美しいですよ、ね?」
 金髪の男が喋りはじめてからは黙ったままの年配の男に視線を向ける。男は、ふふっと軽やかに笑った。
「降谷くん。私も、彼は美しいと思いますよ」
「彼じゃなくて、彼女では?」
 すかさず訂正をする。降谷、と呼ばれた男が、一層笑みを深めた。
「彼、で間違いありません。なぜなら、彼女たちの指紋は全て、ある男性のものと一致するんです」
「……へぇ」
 降谷は、胸ポケットから封筒を出す。
 さっさと写真と一緒に出せば良かったじゃねーか。
 文句を言う代わりに、顔から表情を抜いた。
 降谷は封筒から出した四つ折りの紙を四枚、丁寧にオレの前に並べた。四枚の紙にはそれぞれ指紋が印刷されている。

「……協力しろって、一体アンタたちはオレになにをお望みで?」

 ソファに深く座り、足を組む。ぴくりと降谷の眉根が跳ねた。
「その前に、私たちの紹介がまだでしたね。私は、藤堂。彼は、降谷。二人とも警察庁警備企画課に所属する警察官です」
 ぽかんと口が開いた。この時ばかりは、表情を隠すことができなかった。
「公安……?」
「ええ。その中でもさらに、特殊な方法で情報を集めることに特化した部隊を統括しています。まあ、つまりは、色仕掛け任務ですが」
「いや、ちょっと待て。さすがに嘘ですよね? 公安警察官なんて機密中の機密じゃねーか。なに普通に名乗ってんですか?!」
「非常に不本意で、残念ですが、本当のことです」
 二人の男は揃って肩を落とし、溜息を吐いた。
「このところ、とある女性……いや男性による、新人潰しが続いており、まともに現場に立てる捜査官が減っていて、やむを得ずきみに声をかけたというわけです」
「お、え……?」
 藤堂がちらりと降谷に視線を向けた。降谷は藤堂の視線から、さっと目を反らしそっぽを向く。
「きみのせいだけではなく、元から人手不足なんですがね。この降谷、上司の私が言うのもなんですが、なかなかの良い男でしょう? 我が公安警察のエースでもあるんですが、困ったことにバディ潰しの降谷と呼ばれるくらい、相方をダメにしてしまう才能に秀でていましてね」
「はあ?」
 突然始まる身内自慢に、首を傾げる。降谷が苦虫をかみつぶしたような顔をして呻った。
「課長その話はいいでしょう」
「いえ、これは工藤探偵にもしっかり聞いて、心構えをしてもらわなくては。なんせこれから降谷くんのバディになってもらうわけですから」
「バディ?」
 バディ。つまり、仲間、相棒。
 ……探偵のオレと、公安の警察官が?
 目の前にハテナが散らばる。藤堂は悪戯っぽく笑った。
「ええ。公安警察のセクシャル・ヒューメントは、基本バディ制で行います。トップキャストとボトムキャスト、つまり、男側役と女側役に分類され、独自の訓練を受けます」
「訓練」
 公安警察の諜報訓練。少しだけ腰が浮いた。
「降谷はトップ……男役です。指導官としても非常に優秀なのですが、彼の歴代のバディは公私混同した末、必ず辞職という結果になってしまう」
 ちらりと降谷に視線を向ける。降谷は、眉間に皺を寄せ難しそうな表情を浮かべていた。
「なので、工藤探偵にはなるべく降谷に惚れないようにしていただきたい」
「いや、それは大丈夫ですが……」
 なにを間違ったら自分よりガタいが良い男を好きになるのか、逆に聞きたい。「みんな最初はそう言うんですがね」藤堂が深く長い溜息を吐いた。
「お互いの力量がわからなければ、バディとしてどう動くべきかもわからないでしょう。降谷くん、あとは頼みましたよ」
「はい」
 藤堂が立ち上がる。降谷が返事をする。
 肝心のオレを置き去りにして、話をまとめようとするな。
「まってください、オレ、やるなんて一言も」
「公務執行妨害」
「……はい?」
 藤堂が目を細めた。
「……私たちの自己紹介を聞いていませんでしたか?」
 穏やかな微笑みを浮かべていた口端が、クッと吊り上がった。
「脅しですか」
「いいえ。私たちはただ、きみの出した不利益の清算をしてほしいだけ。後進が育てばすぐに解放してあげますよ。それに、公安警察のコネを持つのもいいでしょう?」
「それ、オレに使えるコネなんですか」
 藤堂は目を弧にして、探偵事務所から出て行った。
「食えねぇおっさん」
 ソファの背もたれに沈み込んで、足を投げ出す。
「……できるだけ、きみの本業に支障がでないようにはする」
 事務所に残った降谷が、藤堂の代わりにソファに座った。
「それで、きみはどの程度できる? 今まで独自の方法でハニートラップを仕掛けていたんだろう。バディを組むにあたって、きみに出来ること、できないことを把握したい。必要があれば、こちらで行っている訓練を実地することも可能だ」
「……どの程度って?」
「男性相手の色仕掛けにどの程度のことができるかという話だ。なるべくセックスまではしないで欲しいが、それが君の手だというなら、相手によっては目を瞑る」
「あのさあ……」
 うんざりと重たい溜息を吐いた。今日、この一時間足らずで、オレの小さな城には、陰鬱な空気が満ちている。
「あんたたち、最初から勘違いしてんだよ」
「勘違い?」
「そう。オレはハニートラップなんかしてない。そりゃあ、情報とるのに、相手の胸におっぱい押し付けたりとか、場合によっては上半身脱いだりはしたけどさ、あんなの偽物の胸だし、オレの身体を使ったわけじゃない。男相手にセックス? ねーよ。そんなこと一回もしたことない。オレはハニトラの名手なんかじゃない。残念だったな」
「……それを、ハニートラップと言うんだが」
 降谷が半眼になり、額に手を当てた。
「わかった。それじゃあ、口を使ったことは? フェラやキスはするか? ……頬にキスは、僕の部下にしていたと思うが」
「フェ……、なんてするかよ! 冗談じゃねえ! キスも、口にはしたことないからな……っ」
 降谷が黙り込んだ。
 こいつ使えねーなって思っているのかもしれない。
 それはそれでなんだかムカつくような気がした。
 降谷は、テーブルの上で微笑んでいる女装したオレを眺めて、顎に手を当てた。
「ちなみに、女性でも男性でもいいけれど、ハニトラ関係なく、セックスした経験はあるか?」
「なっ、んで! そんなことを! アンタに! 言わなきゃなんねーんだよ!」
 テーブルに手をついて立ち上がる。肩を怒らせて睨みつける。降谷は、目を丸くした。
「その反応は、未経験だな」
「うっせ!」
 もう今日は散々だ。どうして見ず知らずの男に、童貞であることを暴かれなくちゃいけねーんだ。
 できるなら思いっきり地団太を踏みたい。そこまで子どもじゃないから、勢いよくソファに腰を下ろして腕を組み、窓の方に顔を向ける。
「きみは、その天然さで、よく今まで無事でいられたな……」
 立ち上がった降谷が、オレの顔と窓の間に移動すると、床に膝をついた。そして、オレの組んだ腕の上にある左手をとり、指先を握る。
「工藤くんが危ない目に遭わないよう、僕がこれからいろんなことを教えるよ」
 真剣な表情で降谷が呟く。ブルーグレイの瞳が、力強い光を浮かべていた。
「だから、工藤くんの力を、僕たちに貸してくれ」
 きゅんっ、と胸の奥が一瞬絞られたような気がした。ドクドクと心臓から勢いよく血流が流れ出している。
 ……きゅん?
 心臓が誤作動を起こした音に戸惑いつつ、顔には笑みを浮かべた。
「……気安く触らないでくれますか?」
 降谷が、なにを言われたか分からない、という顔をした。オレもなにを言ったのかわからない。心臓がバグを起こした影響が、口にも及んでしまったのかもしれない。
「これは失礼」
 降谷は苦笑して、手を離した。
「でも、工藤くんは僕のバディになるんだから、慣れてもらわなきゃ困るな」
「えっ、」
 褐色の手が離した手をまた掴み、ぐいっと思いっきり引っ張った。油断していたせいで身体のバランスを崩す。倒れ込んだオレを、抱きとめ、降谷はオレの耳元で笑った。

「きみみたいな強情な子は、ひどくしてあげた方が喜ぶんだよね」

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