そのほか


「まだ帰らないでくれ」
 年上の恋人が、オレの手首を掴む。

 数秒前『そろそろ帰るな』と言って、ソファから浮かせた腰を、再び着地させてしまった。

「……わがまま言うなよ」

 一応苦言を呈してみるけれど、降谷さんに肩を押され、そのままソファに横たわる。覆い被さってきた降谷さんは、甘えるようにオレの首筋に鼻をこすりつけてきた。
「一ヶ月ぶりに、やっときみに逢えたんだ。もっと堪能させてくれ」
「だから、何度も言ってるだろ? 明日は朝一で用があるんだって」
 蜂蜜色の髪に手を差し込み、指先で柔らかな髪をすく。毛先をつまんで、指先でくるりとこねる。降谷さんは、嬉しそうにオレの首筋に吸い付いてきた。
「……だめ。今日は帰らないと」

 オレにだって、一ヶ月ぶりの降谷さんとゆっくり過ごしたい気持ちはある。
 でも、明日の朝一で、事務所兼自宅のマンションに依頼人が尋ねてくる予定なのだ。依頼人が来る前に依頼内容の確認もしたいし、マジで今日は降谷さんに抱き潰されている場合じゃない。
 本当は、降谷さんと会う予定も一度は理由を説明して断っていた。けれど、降谷さんが家で夕飯を食べたあとは車で送って行くからと言うから、了承してしまったのだ。

 ……オレだって、恋人と会いたくないわけじゃねーし。

「…………朝四時には起こしてあげるからさ」
 降谷さんが服の裾から手を突っ込んできた。腹の上をゆっくり這う手を、服の上から軽く抑える。太もものあたりに大蛇が息づいている気がする。
「………………寝不足で頭まわらねーとかやなんだけど」
「大丈夫。まだ九時だろ? 十一時にはお風呂に入れてあげるから、〇時前には眠れるよ」
「四時間しか寝れねーのかよ」
 じとっと降谷さんを睨む。降谷さんは、ふっと吐息で笑った。
「四時に起きたら、僕と朝ごはんを食べよう」
「せめてその時間寝てたいんですけど……」
「明日のご飯は、簡単なものでいいかい?」
「なあ、オレの声耳に届いてる?」
「副音声が聞こえてくるんだ」
「なんだよ、それ……」
「一ヶ月ぶりの恋人が愛おしいって言っている」
「あ、そーですか……」
 甘えるように蕩けた瞳で、小首を傾げられると、この男が可愛くない男だってよく知っているはずなのに、心臓と頭が誤作動を起こして、甘やかしてやりたくなっちまう。
 抑えてた手を解放する。降谷さんは獲物を前にした肉食獣みたいにぺろりと口端を舐めた。
 ……ほらな、やっぱ全然可愛くねー。

   ♡ ♡ ♡

「……おはよう、新一くん」
 掠れた静かな甘い声が、鼓膜を揺する。意識が浮上しても目を閉じたままでいたら、右肩を軽く叩かれた。ゆっくり目をあける。部屋の中はまだ暗い。カーテンの隙間から見える外の世界の方が、ほんのわずかに明るかった。
「……、?」
 いまなんじ、と問いかけようとしたけれど、喉がカサカサで声が出なかった。
「三時五十五分だ」
 声がでなくて、途中で口を動かすのもやめたのに、降谷さんは正確にオレの質問に答えた。
 ……マジで副音声聞こえてんのかもしんない。
 めちゃくちゃオレが愛おしいっていうふにゃふにゃの顔をした降谷さんは、オレの上に分厚い腕布団をかけた。重い。あちぃ。
「あと五分、一緒に寝たいんだろ?」
 そんなことは一言もいってないし、思ってねーけどな。
 まだ眠気が残っているから、五分だけ降谷さんの幻聴に会話を任せておく。
 五分後、唇の隙間から舌をねじ込んできた降谷さんをベッドから蹴り落として、オレの短い睡眠時間は終わってしまった。


 
 午前七時。事務所兼自宅前のマンションに、降谷さんの愛車が停まる。
「ありがと、それじゃまたな」
 さっさと車から降りようとしたら、降谷さんに手首を掴まれた。
「降谷さん、これ以上はさすがにまずいって」
「わかってる……次に会うときはさ、」
 降谷さんが小首を傾げてオレの顔を覗き込んできた。
 やばい……次はどんなわがままを言われるんだ? 
 警戒しすぎて少しのけぞってしまう。降谷さんが拗ねるように唇を尖らせた。
「いい返事はもらえなさそうだな」
「まあ、……でも、言われないのも気になるんで、言うだけ言ってくれません?」
「…………次に会う時は、君をこんなふうに家まで送らなくてもいい?」
「え? べつにいいですよ。電車で帰るんで」
 降谷さんは、深い深い溜息をついた。
「なんだよ?」
「僕と一緒に暮らしませんかっていう意味なんだけど」
「へ〜…、僕と一緒に暮らしませんか、っていう意味ね。ぼくと……僕と一緒に暮らしませんか?!」
「…………そういうことだから、考えてみてくれ」
 引き止めて悪かった、そう言って降谷さんの手が離れていく。それを咄嗟に掴んだ。
「次会うまでに荷造りしときます!」
 オレがそう返事をするのが予想外とでも言うかのように、降谷さんの瞳が丸くなる。燦々と輝く太陽の光が灰青の瞳に反射してキラキラ光った。たまらずに唇を掠め取るように奪って、車から降りる。
 ドアを閉める前に、車内を覗き込んで笑ってしまった。ガッツポーズをとってる。大の男が。可愛すぎんだろ。
「零さん、いってきます!」
「いってらっしゃい、新一くん」
 降谷さんは、ガッツポーズを目撃されて少しだけバツが悪そうに苦笑したあと、柔らかく微笑んだ。名残惜しいけれど、車のドアを閉める。あの人の「いってらっしゃい」効果で、気分は弾みまくっている。
 マンションに入る前に振り返ると、ステアリングに腕をのせ、まだオレを見ていた降谷さんが手を振ってくれた。





「あら、工藤先生、朝帰りですか?」
 部屋の前に着くと、たまに掃除を頼んでいるハウスキーパーさんが待っていた。依頼人が来る前に掃除をしてもらおうと頼んだのをすっかり忘れていた。
「すみません、待たせてしまいました」
「ついさっき来たばかりなので大丈夫ですよ。それより、工藤先生お付き合いされてる方がいらっしゃったんですね〜!」
 だらしなく緩みそうになる頬を、口内で噛む。
 人差し指で、頬をかいた。

「ええ、わがままで可愛い人なんです」

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