同棲設定

「鴨ロースステーキだって、うまそうだな」

 隣から聞こえてきた声に、生返事をする。遠くの方で、騒がしい人の声が聞こえた。

 ──さて、この鴨肉のステーキお値段はいくらでしょうか?!
 ──正解は3,300円!

 ざわめきはどんどん小さくなって、やがてなにも聞こえなくなった。ぼんやりしながら、閉じそうになるまぶたを二回瞬かせる。ぽんぽんと軽く肩を叩かれ、ゆっくり視線を隣に向けると、透明なビー玉のような瞳が、きらきらして見えた。

「眠いんだろ。もう寝ようか」

 穏やかな声に誘われ、頷く。ふらふらしながら、布団に入り、目をつぶった。
 降谷さんもすぐに隣に寝転がるだろうと思ったのに、オレの前髪をくすぐるように撫でるとベッドから立ち上がった。
「ごめんね、いってくるよ。おやすみ」

(──いってくるってどこに?)

 薄れそうな意識は、言葉を紡げない。やがて、扉の閉まる静かな音が聞こえてきた。
 

『新一くん!』
 スーツ姿の降谷さんが満面の笑みで振り向いた。降谷さんと、オレ以外にはなにもない真っ白な空間。あ、夢だと理解した瞬間、オレは家のリビングに立っていた。
『きみも食べたいって言っていただろ? みてくれ、この立派な──』
 キッチンに立っていた降谷さんが、カウンターで隠れていた手を持ち上げた。笑顔の降谷さんに足を捕まれ、ぶらんっと羽を広げたそれが逆さ吊りになる。
 降谷さんの右手にはギラギラと光る肉切包丁があった。降谷さんが、大きく手を振り上げ──


「っ、べたいなんて言ってねえ!!!!」

 はっ、と息を詰めて、肩で呼吸をした。見開いていた目で、あたりを見回し、ほっと息を吐く。
「なんだ夢かよ……」
 そこはモノトーンで統一されたいつもの寝室だった。
 夢のせいで寝ぼけて飛び起きてしまった身体をベッドに戻し、肩まで布団をかけもう一度寝直そうとして、──閉じかけた瞳を、ぴたりと止める。

 ──鴨ロースステーキだって、うまそうだな。

 寝る前に微かに聞こえてきた降谷さんの言葉を思い出した。あれに、オレは寝ぼけ眼で賛同していなかっただろうか……? 
 ──うん……うまそう…………
 そんな風に返してしまったような気がする。

「まさか、鴨猟に…………?」
 今日は休日だと言っていたはずの恋人が、なぜか早朝にも関わらず不在の部屋に、オレの疑問だけが小さく取り残されていた。

 ♡ ♡ ♡

 降谷さんは、美味しいものが好きだ。自分が食べることはもちろん、ひとに食べさせることも好きで、新鮮な食料が調達できるのなら、時が許す範囲で自分の手で仕入れてくる。
 たとえば、オレが「たけのこごはんが食いてえ」と前日の晩になんの気無しに言ったとする。そうすると次の日の夕方には、降谷さんは泥だらけのたけのこを持って帰ってくるのである。「ちょっと伝手があってね」と得意げに笑って。
 また、ある日は一緒に神社に行ったら露店で鮎の塩焼きが出ていた。一つ買って降谷さんにも一口あげたら、降谷さんは難しい顔をして、その週末、鮎を釣って帰ってきた。露店で食ったよりも遥にうまいあゆの塩焼きにかぶりつきながら、オレは降谷さんの献身的な(オレと)食へのこだわりに少し恐れを抱いていた。
 だって、オレが「美味しい松茸が食いたいな〜」なんて言っても、二週間ぶりたった一日の休日を犠牲にして松茸を狩ってくるのだ。ちょっとわくわくしながら言ったことを反省したのは記憶に新しい。
 だから、オレは降谷さんに食いたいものを伝えるとき、降谷さんが一日頑張れば仕留められそうな野生の動物を金輪際口にしないと心に決めた。
 熊はさすがに無理だと思いたいけど、うさぎや猪なんかは絶対仕留めにいってしまう。


「それなのに……なんっで、昨日あんなこといっちまったかな……あの人のことだから、オレのためなら鴨くらい軽く三羽は獲ってきちまう気がする…………」
 大学近くにある喫茶店のテーブル席で深い溜め息をつく。
 空きコマだっていう服部に付き合って時間を潰してるが、家に帰ったら新鮮な鴨肉を降谷さんがさばいていると思うとなんとなく気が重かった。
 服部は「なんや悩みでもあるんか?」と自分から聞いてきたくせに、オレが話し始めたら「ほぉーん」とどうでも良さそうな相槌しかうたなくなった。
「ええやんけ、べつに。恋人が鴨さばいて待っとるくらい。恋人の趣味ごと受け入れてやったらどうや」
「オレだってなあ、あの人が楽しそうに料理作ってんのも、食材仕入れにいくのもべつにいいんだよ……老後は、田舎の一軒家でも買って、庭先で鶏でも飼って育てたら、降谷さん喜ぶだろうなあくらい思ってるし……問題なのは、」
 どんっとテーブルに額をぶつけた。
「なんでかいつも一人で行っちまうんだよな……そりゃあ、オレは足手纏いになるかもしんねーけど、せっかく久しぶりの休日におひとりさま満喫しなくてもよくねーか?」
 また大きなため息を吐こうとして、背後から、ふはっ、と噴き出す声が聞こえて顔を上げた。
「ふっ…………、く、は……っ、ははっ」
 どこかで聞き覚えのある声である。ソファ席に膝を置き、背後のテーブル席を覗き込むと、机に突っ伏して身体を震わせている金髪の男がいた。
「降谷さん、なにしてんだよ……」
 グレーの背広を着た降谷さんは、顔をあげて振り向くと目尻に溜まった涙を拭いて、オレの隣に移動してきた。
「いや、ごめ……っ、は、外から君たちが見えて、声をかけようと思ったんだけど、僕の話をしていたから、つい後ろの席で聞き耳を立ててしまった」
「服部、オメー気づいてたなら言えよな」
 じろりと睨みつけると、服部はリュックを掴んで立ち上がった。
「すまんな、工藤。もうすぐ授業始まるから、行くわ」
 適当に片手で謝った服部は、伝票を抑えた降谷さんに礼を言ってから店を出ていった。
 服部と入れ違いに、降谷さんの元にホットコーヒーが運ばれてくる。
 降谷さんは、コーヒーを一口飲むと、また吹き出して笑い始めた。
「なんだよ……」
「ふっ、あは……っ、きみの期待に添えなくて悪いんだけど、今日は急に仕事が入ったんだ」
「そんなの見りゃわかります」
 氷が溶けて水っぽくなったアイスコーヒーで身体の熱を冷ます。降谷さんは、目尻にまた溜まった雫をそのままきらめかせて、目を細めた。窓の外から差し込む夕日の黄色い光が、降谷さんの輪郭を甘く蕩けさせる。
「さすがに狩猟にまで手を出すつもりはなかったんだけど、これは期待に応えないとな」
 降谷さんの脛を蹴る。降谷さんはまた笑って「冗談だよ」と肩をすくめた。
「今度、服部くんも誘って、美味しい鴨肉でも食べにいこうか。鍋とかもいいかもね」
「………………、」
「……楽しみだなあ。老後、きみと一緒に暮らす家で、産みたての卵を食べるの」
 降谷さんの濡れた目尻を、シャツの袖口で拭ってやる。降谷さんは赤くなった目尻をくしゃくしゃにして、ソファの上に置いてあったオレの手をぎゅっと握った。

「……次の休みは、いちご狩りにでも行こうぜ」
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