同棲設定

「……しんいちくん」

 夜の帳が下りた部屋の中、静かな声で恋人の名前を呼ぶ。
 ぴったり閉じていたまぶたが、ぴくりと震え、新一くんは薄く瞳を開いた。
 暖かい布団に閉じ込めた腕が、隣で寄り添う僕の顔に伸びてくる。まだほんの少し冷えた指先が僕の頬に触れ、それから乱雑に頭を掻き撫でた。
「ん、」
 微睡で揺れる新一くんの瞳はかろうじて僕をとらえたまま、腕をぽてりと僕の枕の上に投げ出した。その上に頭を乗せると、新一くんは腕を曲げ僕の頭を抱え込んだ。前髪を指先で撫でられ、くすぐったさで口元がふやけてしまう。
 新一くんは僕の額にこめかみを押し当て、ゆっくりと瞳を閉じた。
 やがて規則正しい寝息が聞こえだす。
 髪に触れていた指先が離れ、シーツの上に投げ出された。
 冷えた空気でぬくもりを失わないよう、頭の下から解放した腕を再び布団の中に戻し、代わりに僕の腕を新一くんの頭のしたに入れる。寝息に合わせ上下する胸の上に手のひらを当て、まぶたを下ろした。
 暖かな心臓の音が、入眠を誘う。
 
 遠ざかる意識のなかで、明日の朝食のことを考えた。

 ♡

「零、起きろよ」

 寝起きで掠れた新一くんの声で、名前を呼ばれるのが好きだ。彼にそうやって名前を呼ばれたら、どんな深い眠りについていてもすぐに目覚めてしまうくらいに。
 明るい日差しがまぶたを突き抜けて、朝だと知る。まぶたを持ち上げると、快晴の空の青さに似た瞳が僕を待っていた。

「……おはよう」

 目を閉じて、腕の中の新一くんを堪能する。濡羽色の髪に顔を押し付け、ぎゅうっと力一杯抱きしめた。新一くんは潰れたカエルみたいな声をあげ、僕の腕を叩き抗議してきた。
 目覚ましが、朝七時を知らせる。
 新一くんのいる休日は、いつもより起床時間が遅めだ。
 しっかりした睡眠をとり、軽くなった身体から新一くんを解放する。

「二度寝するかい?」
 僕の上にかかった布団だけをめくり、身体を起こす。ひんやりと冷えた空気がむき出しの肌を突き刺し、一気に目が覚めた。
「いや、今日はロードワーク付き合う。最近運動してないから、身体鈍ってんだよな」
 布団の中で伸びをした新一くんは、ゆっくり身体を起こし僕の頬に軽く唇を押し当て立ち上がった。寒い寒い言いながらクローゼットに向かう後ろ姿を追いかけて、ぴたりと背中にくっつく。

「どうしたの?」
「なにが?」
「……いや、やっぱりなんでもない」
「あっそ、」

 新一くんはさっさとジャージに着替えて、寝室から出て行った。僕も着替えを引っ張りだし、トレーニングウェアに身を包む。

 新一くんは肌寒い季節になるとなぜだか時折、やたらと僕を甘やかそうとしてくる時がある。
 普段は誘っても、僕のトレーニングはハードすぎると拒否されるのに、そういう時期は自発的に準備をするのだ。思い返してみれば、昨日の腕枕がその兆候だったようにも思える。
 これが寒さによる人肌恋しさからの無意識な行動だった場合、指摘すれば行動を改められる可能性が出てきてしまうと思い、原因を探るのを躊躇った。
 僕に後ろめたいことがありそれを隠そうとしている場合は、もっとわかりやすく白々しい行動をするので、無意識下の行動である可能性が高い。

 考え込んでいると、リードに繋いだハロを抱き抱えた新一くんが迎えにきた。
「仕事でも入った?」
「……少し考え事をしていただけだよ。いこうか」
 誤魔化すように微笑んで扉の前に立つ新一くんの前をすり抜けようとすると、新一くんに手首を掴まれた。振り向くと、新一くんの綺麗な顔が迫ってくる。ちゅっと柔らかな感触が唇に触れ、咄嗟に噛み締めようと思った瞬間、今度は濡れた感触を押し付けられた。

 ──目の前には、白いふわふわの毛並み。

「あんっ!」
 元気よく返事をするハロの後ろで、うっすら頬をピンク色に染めた新一くんが顔を背けた。
「……ハロが零のこと好きだって」
 ハロを抱いたまま新一くんが玄関まで走っていく。
「一体どうしたんだ……?」



 一時間ほどのロードワークを終え、交互にシャワーを浴びてから朝食の支度をはじめる。今日は和食にしようと、昨日の夜スーパーで値引きシールの貼られたブリを手に入れてきた。
 鰤の塩焼きと、卵焼き、作り置きしているひじきの煮物と、納豆に豆腐……という定番の朝ごはんを思い浮かべながら冷蔵庫を開くと、昨晩は入っていなかったファスナー付きの袋に入った自由な幅で切り分けられたセロリが目に入った。
「それ昼に食おうぜ」
 濡れた髪をタオルで雑に拭った新一くんが、僕の後ろから冷蔵庫を覗き込む。
「新一くんが作ったの?」
「さっきシャワー浴びる前にな」
 セロリの料理なんて思いつかないから調べた、という新一くんの肩を掴む。ぱたりと背後で冷蔵庫が閉まった。

「なにかしたのか?」
「は?」
「正直に言ってくれ。場合によっては怒るかもしれないが、こんな風にきみが慣れないことをして僕の機嫌をとろうとしているんだったら素直に喜べない」
 丸くなっていた新一くんの瞳がみるみる細くなる。呆れたような顔で僕を見上げ、新一くんは下唇を尖らせた。
「なんにもしてねーよ……ただ、オレは…………」
 新一くんの瞳がうろうろ彷徨おうとするから顎を親指で掴んで固定した。
 血色のいい唇を撫で、言葉を促す。

「…………オレだって、泣きそうな恋人を慰めたいと思うくらいの甲斐性はあるんですけど」
 
 今度は僕の瞳が丸くなる番だった。

「泣きそう……、って僕が?」
 そんなことあるはずない、と以前だったら突っぱねたかもしれない。
 たとえ寝ているときでも、人前で無意識に自分を曝け出すような真似はしない自信があった。でもいまは、思い当たる節がありすぎる。
 だってきみの腕の中では、心が緩んでしまうから。
「つーか、泣いてる。寝てるアンタが目尻濡らすたびに、だれが拭ってると思ってんだよ」
 あーあ、言っちまった。
 そう言って、新一くんは肩を落とし仕方なさそうに笑った。
「オレだけの可愛い零だったのに。やっぱ零みたいに、スマートにはできなかったな。さすが優秀な探り屋。まさかオレの行動を疑われるとは思わなかったぜ」
「……ごめん」
「いいよ。アンタがそう言う人だって知ってるし、そんなとこも」
 愛してるから、という言葉がだいぶ間をあけて追ってきた。
 じわじわと熱が上がってきた身体を持て余して、その場にしゃがみ込んだ。ポーカーフェイスを気取れないくらいに熱くなった顔を隠すように腕で固めると、僕に合わせてしゃがんだ新一くんが顔を寄せて、僕の耳元で囁いた。

「……オレになら甘えていいぜ」

 こんなことを言われて、顔を隠したままでいられるはずがない。両腕を絡みつかせ、思いっきり甘えてみる。新一くんはただ黙って、自分より大きくて可愛げのないはずの僕の身体を、優しく抱き込んだ。

 ──年下の恋人が、僕に甘すぎる。

 
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