そのほか

   ♡ 認識違い ♡ (久しぶりに降谷とあえて嬉しい話)




 降谷さんはああ見えて、というか、本質を知ればその想像通りに、硬派な男だ。女性に対して人当たり良く、にこやかに接することはあるけれど、不必要に触れたりはしないし、誰に対しても一線をひいている。

 オレとだって、付き合うだいぶ前からオレのことが好きだったと告ってきたけれど、付き合う前にはそんな素振り微塵も見せてこなかった。
 酒の席で隣り合って座るときも適度な距離をあけていたし、偶然でだって手が触れたこともない。
はじめて手を握ったのだって、付き合ってから一か月経ってからだった。家に遊びに行くようになってからは、キスだって……セ、肉体関係をもつようなことだってした。だけど、やっぱり降谷さんはどこまでも硬派な男で、降谷さんの家以外の場所で、手を繋いだりとかキスをしたりとかは絶対にしてこない。
そりゃあ、オレだって人前でベタベタしたいわけじゃねえけど、でも、久々に会えたら、ほんのすこし、人目を忍んで、手くらい触ってもいいんじゃねえの、と思ったりもする。



窓辺に面したテーブルを前に、二人がけのソファに座る。眼下には金色に輝く夜景。ベルツリータワーが淡いブルーに光っているのも見つけた。けれどオレが気になるのは、隣に座っている夜景よりもキラキラした一か月ぶりの恋人だ。
相変わらずの人目を惹く端整な顔立ち。忙しくて家に帰れていないと言っていたわりに、へたれた様子も見せず、パリッとしたグレーのスーツに身を包み、目の前に置かれたカクテルのうんちくを語っている。耳馴染みの良い声は、右から左に抜けていった。適当な相槌で相手をする。
オレと降谷さんの間には拳三つ分空いたスペース。
恋人の距離ってもっと近いんじゃねえの? 
じっとりとした視線の先には、無防備に置かれている降谷さんの手があった。大きくてゴツゴツしてて、いつもオレに優しく──って、反れそうになった思考を、ぶるぶる頭を振って追い出した。

「うわ、どうしたの?」
「なんでもねーよ」

 コホンと咳払いをして降谷さんが、産地がどうのこうのと言っていた白ワインを少しだけ飲み下した。グラス片手に、視線を斜め下に落とす。目標はソファの上。グラスをテーブルに戻した。左手をそうっとソファの上に置き、じりじり目標までの距離を詰める。もう少しで指がかかるというところで、目標はサッとソファから移動した。
 それは、オレの手ではなく、ワイングラスに優しく丁寧な手つきで触れる。

「……わかってないなあ」

 降谷さんが肩を竦めた。
 わかってないのは、アンタの方だ。
「なにがだよ」
 けっ、と息を吐き捨て、足を伸ばす。こつんと窓につま先がぶつかった。
「嬉しいけどね」
「だから、なにが」
 降谷さんは、ふっと意味深に笑ってグラスを傾けた。
 言う気はないってか。
 いらっときて、足を蹴った。降谷さんは痛くもかゆくもないという顔でグラスを空にして、腕時計に視線を向けた。
「……きみも飽きてきたみたいだし、そろそろ出ようか」
「飽きてないですけど! オレ、もっと飲みたくなってきた」
 久々に会ったのに、わずか一時間足らずで帰ろうと言われてしまう。
まあ、オレの態度も悪かったけど……。
こうなりゃヤケ酒だ、と一気にグラスに残ったワインを飲み干そうとしたら、横からすいっと降谷さんにグラスを取り上げられた。あっという間に降谷さんがグラスを空にする。濡れた唇を舐めると、降谷さんはさっさと立ち上がった。
「ほら、帰るよ」
「……まだ帰りたくねえ」
「悪い子だな」
「子ども扱いすんな」
「駄々っ子みたいじゃないか」
 確かにその通りで、返せる言葉が見つからない。
「降谷さん」
 テーブルに頬杖をつき、オレを置いて踵を返しかけた降谷さんをちょいちょいと人差指で呼んだ。
「今日はどうしたの」
 困ったように笑って、少し屈んだ降谷さんの胸倉を引っ張り、唇を押し付ける。一瞬触れた柔らかい感触に満足して、降谷さんを突き飛ばした。
「……帰る」

「新一」

 グッと降谷さんが起ち上りかけたオレの腕を引っ張った。宙に腰が浮いたまま、降谷さんに引き寄せられた。耳に熱い吐息がかかる。

「……わかってないな、って言ったのは、僕がきみに中途半端に触れたら、止まらなくなってしまうってことだよ」

 ぐらりと視界が回る。天井が見えた。んぐ、と呼吸を飲み込む。視界いっぱいに飛び込んできたブルーグレイの瞳は、ギラギラと輝いて目が離せない。ソファを背に、身体が沈み込んでいく。二人分の唾液を、溢さないように飲み込んだ。甘くて、ほんの少しほろ苦い。鼻からむせ返るほど香る果実の匂いが抜けて行った。

「人前で犯されたくなければ、いい子にしていなさい」

 ──誰だ。降谷さんのことを硬派だって言ったやつ。オレだ。
 数分前の自分の頬を打って、おまえの前にいるのはただのむっつりスケベだから不用意に手を出させるな、と教えてやりたい。

 隣のソファ席に座っていた女性たちの突き刺さるような視線を感じながら、思考の奥深くで反省をした。





 ♡ 「きみの全部がほしい」 ♡(新一くんによるファーストキス計画)




 付き合ってから、初めてのデートだった。
 待ち合わせ時間に遅れるのは、お互いに友人だったころからよくあることだった。
待ち合わせは、十七時に米花駅。
『ごめん、間に合いそうもない』
お昼過ぎに、降谷さんからそう連絡が着ていた。そしていまオレは、連絡もなしに五時間半遅れている。現在進行形で。

 午後十時半。米花駅は今晩行われた花火大会後の帰宅ラッシュもほぼ落ち着き、ホームの人混みもまばらになっていた。
電車の扉が開くと同時に電車を降り、改札を駆け抜けた。見回さなくても視線はすぐに駅前の噴水傍に立つ、降谷さんに引き寄せられた。
降谷さんは普段きっちりスーツを着込んでいるのに、今はピンク色のネクタイをゆるめてボタンもひとつ外している。Yシャツの袖をまくってグレーのジャケット片手に、噴水を眺めていた降谷さんは、不意に視線をこちらに向けて、オレと目が合うと柔らかな笑みを浮かべた。
「お疲れさま」
 ふらりと降谷さんに近づくと、前髪を指先で梳かれた。
「な、なにっ」
 ──遅くなってごめん。連絡しなくてごめん。
 まずはそう謝りたかったのに、突然の接触に動揺して後退ってしまう。
 降谷さんはそんなオレを見下ろして、慈愛に満ちた視線をよこした。
「かわいいなぁ」
「は? また子ども扱いかよ……」
 降谷さんは未だに時々、コナンに向けていたような視線をオレにも向けてくる。付き合うことになったからには、オレだって降谷さんのことをドキドキさせたいのに、降谷さんは孫を見る祖父のような表情ばかりするのだ。
 ぷいっと顔を背ける。降谷さんがクッと喉を鳴らして笑った。
「今まで一課の手伝いをしてくれていたんだろう? 話は聞いているよ。ありがとう」
「……いえ、すみません。オレからも連絡すべきだったのに、気付いたらスマホの電源が切れていました」
 背けていた顔を戻して、降谷さんを見上げる。ごめんなさい、と開きかけた口を降谷さんの人差し指が押した。
「僕も遅れるって言っただろ? 実はそんなに待ってないんだ。だから謝ることはない」
 降谷さんの指が口から離れていく。押し付けられた感触が忘れられなくて、降谷さんから顔が見えないよう俯いてからこっそり唇を撫でた。
「……っ、今日はこのあたりは交通規制がかかっていたから車じゃないんだ。工藤くんが良ければ、この辺で食事をしたあと、きみの家まで一緒に散歩をしてもいいかな?」
 顔をあげると、降谷さんはとっくに踵を返してオレに背を向けていた。
 今夜は降谷さんがやたらと触ってくるから、オレはドキドキしすぎて呼吸も忘れ気味になっているのに、降谷さんはいつも通りなのにムッとする。
 眉間に皺が集まっていく。
 けれどそれは、降谷さんの背中が汗でぐっしょり濡れているのに気付いて霧散した。綺麗に浮き出た肩甲骨周りの筋肉にアンダーウェアごとシャツが張り付いている。

 あんた本当は、何時から待ってたんだよ?

 きゅっと唇を噛んだ。心臓が熱を持って、全身を沸騰させていく。

 もともとオレは今日、降谷さんとファーストキスを済ます計画を立てていた。
 打ち上げられる大きな花火を、事前に見つけていた人の少ない穴場スポットで見ながら、浴衣姿でのキス。レモンシロップのかかったかき氷を片手に、冷えた唇が熱くなるまで──。
 降谷さんがいっつも俺を子ども扱いするから、キスの仕方だって今日のためにネットで調べて勉強した。
俺との初めてが降谷さんの記憶に強烈に残るように、念入りに計画していたのだ。

 それなのに、こんな時間じゃもう花火どころか屋台だってやっていないし、浴衣どころか降谷さんは汗でびしょびしょのシャツを着ているし、俺だってジーンズにTシャツっていうラフな格好だ。

 予定していたようなロマンチックな要素はゼロだけど、熱で支配された頭は、触れたいと願ったら止まらなかった。
 幸い電車は出たばかりで、駅前の見渡せる範囲に人はいない。

 降谷さんの腕を引っ張る。降谷さんが目を丸くしながら振り返った。
 ドキドキドキドキ。
 心臓が跳ねあがって口から出てくるかもしれない。
「どうした……、っ」
 降谷さんの言葉尻を飲み込んだ。事前に仕入れた知識だと唇はマシュマロみたいな感触だって書いてあった。だけど、降谷さんの唇はマシュマロより少しかさついて、かためだ。ザァーザァー。噴水が奏でる水の音が耳につく。心臓の音と重なって耳を支配した。ぎゅっと目を瞑って、舌を突き出す。
 あ、その前に何度か吸い付くようにくっついたり離れたりするのがいいんだっけ。わかんねー。どうしよう。
 突き出した舌を咄嗟に降谷さんの唇の間に突っ込んだ。歯にぶつかって侵入を阻まれる。
 え、どうすんの?
 動揺したのを気取られないよう、ぺろりと最初から唇を舐める風を装い、降谷さんの下唇を舐めてから顔を離した。

「……ドキドキしました?」

 余裕を装って、目を見開いて固まっている降谷さんを見上げる。にっと口角を持ち上げて笑ってみせた。
 降谷さんがなにかを呟いた。
 けれど心臓が喧しい俺には、降谷さんの言葉を聞き取ることができなかった。




♡ きみがあまりにも無防備に笑うから ♡(うっかり気持ちがあふれてしまった)


「好きだなあ」

 しまった、と口を閉じた時には遅かった。工藤くんは唇を半開きにして僕を凝視していた。
 ──いや、ちがう。
 焦って口がから回る。きみといる空気が好ましいだとか、整いすぎて人形のようにも見える顔で屈託なく笑うのが可愛いだとか、言葉が止めどなく溢れてしまう。

「そう、つまり一般的に! きみはかなり好ましい人物だという話だ」

 最終的に、大衆の意見として彼への賛辞をまとめあげる。
 目を丸くしていた工藤くんは、ぶはっと吹き出した。体を折り曲げてひとしきり笑ったあと、目尻に浮かぶ涙を人差し指で拭い顔をあげる。
 にんまりと不敵な笑みを刻んだ口角。
「降谷さん、酔ってるでしょ?」
 コナンくんみたいなあどけない口調で首を傾げ、僕を見上げる。
「いや、違いますよね。あなたは、」
 薄く色づく形の良い唇がゆっくりと動いた。まるで彼に追い詰められる犯人の気分だ。

「そんな風に取り繕えなくなってしまうくらい、オレのことが好きなんですね」

 日本警察の救世主と謳われる青年に、真実を突きつけられる。口が乾く。手にしたグラスにもう酒はない。喉に言葉が張り付く。
 ごめん。困らせたいわけじゃない。忘れてほしい。諦めるから、友達としてこれからもこうして会ってくれないか。
 逃れるための言葉は浮かぶのに、口にはできない。

「わかってないなあ、降谷さん」


 工藤くんが人差し指をたてて、僕の心臓を突いた

「降谷さんの心は、オレが欲しくてもう限界なんだよ」

 名探偵は、ふにゃりと蕩けた顔で笑っていた。





♡ ビターチョコレートにハニーシロップ ♡(降谷に頼まれてハニトラ仕掛けている新一 ※モブ女が積極的)




 亜麻色の髪が揺れている。
 うす暗い店内、静かに流れるクラシック音楽。重厚な雰囲気、意図した沈黙。
カウンター席の隣に座るのは、あの人ではない。
熱っぽい視線を感じて、視線を向けた。くるりと巻かれた長い髪を指先ですくう。彼女の肩が小さく跳ねた。
「髪、いつもきれいですよね」
 微笑んでみる。小首を傾げ、丸くなった瞳を覗き込む。
「かわいい」
 そっと手を離した。黒蜜がかかったような瞳を見ていることができずに、視線は反らしてしまった。
 カラン。
 グラスの中で溶けた氷が回る。
「……しんいちくん」
 甘い声が夜に溶けていった。

   *

「おかえり」
 扉をあけると、ほかほかした温かい空気に出迎えられた。やわらかく甘い炊き立てのご飯の香りがする。
 着こんでいたコートとジャケットを脱いでソファに放る。降谷さんが何も言わずに手に取って、寝室へと持っていった。
 身体の中で淀んでいた息を吐く。そのままソファに倒れこんだ。クッションに顔を押し付け目を瞑る。気分が重い。そっと頭を撫でられ顔をあげると、挨拶のような軽いキスが落ちてきた。
「なんだよ……」
「今日は、どうだった?」
 灰がかった蒼い瞳が細い弧を描く。どんっと胸を押し返して、ソファの上に胡坐をかいた。
「べつに? うまくやってますよ」
 全部どこかで聞いて見ていたくせに、わざわざ聞いてくんな。
 つっけんどんに答えると、隣に腰かけた降谷さんが俺の手を握った。
「そうだね。きみは、上手に振舞ってくれている。ありがとう」
 指先を擽る様に撫でられて少しだけ気がゆるむ。ふん、と鼻を鳴らした。
「本当はきみの髪の毛一本すら他のやつに触れさせたくないんだよ」
「へえ」
「信じてないね」
「とても恋人にハニトラを頼んだ人間のセリフとは思えないので」

 そう、この男は、こともあろうに恋人の俺にハニートラップを仕掛けて欲しいと頼んできたのだ。俺にしかできないことだから、と言って。
 ターゲットは公安が目を付けている反社会組織に接触しているとみられる女性。大手製薬会社に勤めている彼女は、昔から俺のファンだったらしい。
 街角で偶然を装ってぶつかり、彼女の服にアイスコーヒーをかけた。お詫びをしたいと連絡先を交換し、今は順調に親交を深めている。
 降谷さんは彼女が組織と関わっているという決定的な証拠を求めていた。

 降谷さんはなにも言い返さず、ただ自嘲するように笑った。
 ──くそ。
 降谷さんの手を引いて、抱き寄せる。
「そんな顔すんなよ」
 あまいね、と降谷さんはオレを咎めるような声色で呟いた。
 たまには恋人に、甘くしたっていいだろーが。


   *


「今日は、うちにくる?」
 ターゲットの女性からそう誘われ、情報を掴むチャンスだと快諾した。だって、日中からそういう雰囲気になるとは思わないだろ。
 
 ワンルームの彼女の家に着き、どこに座ろうかと考えていたら、あっという間にベッドに押し倒された。予想外すぎる。ぽかんとしているうちに、女性が上にのっかってきてしまう。やわらかな太腿が腰にあたった。タイトスカートの裾が持ち上がり、白い肌が見えてしまっていた。
 やべえ。
 女性が目をつぶって顔を近づけてくる。
 キスぐらいするべきか?
 一瞬血迷った思考を、瞼の裏に浮かんだ嫉妬深い恋人が打ち消す。そこでタイミングよくスマホが鳴った。
「ごめん、電話だ!」
 ディスプレイに浮かんだ『たかぎ刑事』の名前に女性が身を引いた。慌てて電話に出る。聞き慣れた穏やかな声がした。朝、家を出る前に聞いた声だった。

『やあ、工藤くん』

「こ、こんにちは……どうしたんですか?」
 たかぎ刑事――ではなく、降谷さんがやけに機嫌のいい声で話しかけてくる。嫌な予感しかしない。
『大変な事件が起きた』
「大変な事件……?」
『僕にとってはね。早く戻っておいで』
 返事をする前に通話が切れる。さっと立ち上がると、ベッドに座り込んだ女性がシャツの裾を掴んできた。
「行っちゃうの?」
「ごめん、事件だから。行かないと」
「そっか……いってらっしゃい」
 床に置いたリュックを拾うついでに、阿笠博士が改良に改良を重ねた超小型盗聴器をベッドの下に貼り付けておいた。


   *


「おかえり、新一」
 にっこり微笑む降谷さんの後ろに般若が見える。気のせいだ。降谷さんが般若だった。口は笑っているのに目が据わっている。
 ただいまという前に両頬を掴まれた。
「んぅ、」
 喉をそらして降谷さんの唇を受け入れる。唇を割って押し込まれた舌を迎え、舌を絡める。
きもちいい……。
腰から下が痺れて足の力が抜けそうになった。降谷さんの首に腕を回す。いつもなら腰を支えてくれるのに、それがない。足の力がかくっと抜ける。玄関に座り込んだ俺を見下ろした降谷さんが口端を舐めた。
「……衣擦れの音が、していたよ」
「なに、」
「何をしようとしてた?」
 は、と口を開いた。眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情を浮かべる男に何とも言えない気持ちになる。
「バーロー……」
「うん、」
「アンタ以外と、なにもシねーよ」




 彼女と会った日、降谷さんは殊更に優しくしてくれる。
 夕飯はやけに豪華な肉料理ばかりだし、マッサージはしてくれるし、こんな風になる前はあんまり口にしなかった「すきだよ」もたくさんくれる。

「もしかして俺が心変わりするかもって思ってるから、そんな風に振舞うんですか?」

 ベッドの上でうつ伏せになって、背中を揉んでる降谷さんに声をかける。降谷さんは俺の上で少し笑った。マッサージの手を止め、オレの隣に横たわる。
「ちがうよ」
 前髪を梳く手が暖かい。
「僕が君を傷つけているから、こうして慰めてる」
「傷つけてる?」
「そう。きみは僕に言われて、好きでもない女と親密に過ごさなきゃいけないことに傷ついている」
 ごめんね。
 静かに響く謝罪の声に、額に触れる指先を手で払った。
「謝んなよ」
 こつんと、降谷さんと額を合わせてぐりぐり押し付ける。
「アンタが悪くねえとは言わないけど、俺が自分でやるって決めたんだ」
「新一くん」
「……好きなやつに頼りにされるの、嫌じゃねーよ」
「きみは……、最高の恋人だな」
 思いっきり抱きしめられて、背骨が軋む。

 この人の愛情は優しくて甘いけど、ときどき痛い。オレ以外には受け止められないそれを、愛おしいと思うのだ。

 オレは、この人の甘い罠にかかっている。




♡ スキスキスキス ♡(キスが好きなふたり)




 新一くんは、キスが好きだ。
 そう口に出せば、きっと「そんなことねーよ」と否定するのだろうけれど。

ふあ、と大きなあくびが背後から聞こえた。座ったまま振り返ると、ソファを一人占領し、クッションを抱き込んで横になっていた新一くんの手からするりとスマホが抜け落ちた。床に落ちる前にキャッチして、テーブルの上に置く。
「新一くん、寝るの?」
「……まだ寝ねえ」
 長い睫毛が震えて、ゆっくりと持ち上がる。欠伸をしたせいで濡れた目尻が可愛くて、つい口をつけていた。ちゅうっと音を立てる。ぺろりと塩気を味わおうとしたところで、手のひらが飛んできた。
「っ、」
 額を押し返そうとする右手を掴んで、ソファに押し付ける。もう一度目尻に吸い付いて、まぶたの上。きゅっとシワの寄った眉間にも。そのままつんっと尖った鼻先に一回、二回、三回。既に抵抗する意思を失った手に指を絡ませ、桜色の頬にキスをした。
「……、」
 新一くんから触れていた唇を離すと、もの言いたげな視線が向けられた。にっこりと笑って、鼻先をこすり合わせる。絡まった手にきゅっと力が込められた。
「…………、」
新一くんは、なにも言わない。けれど、普段理知的な蒼色は熱を灯し、潤んだ瞳は、金色の欲を煽る様にゆらゆらと揺れていた。
 ごくりと生唾を飲み込み、ソファに乗り上げる。左手で新一くんの手を握り返し、左手をしなやかな腰の下に入れ、下半身を押し付ける。
「っ、新一」
 がぶりと薄く整った唇に噛みつきたくなるのをぐっと堪え、緊張して固まった唇をほぐすために、柔らかく唇を合わせた。
 ふにふにと音も立てずに唇を押し付け、腰を撫でる。身体の力が抜けてきたら、ちゅっと音を立て吸い付く。そうしていると、新一くんが僕の首に左手を引っかけてきた。薄く瞳を開くと、艶やかな黒い睫毛が健気に揺れているのが見えた。

 ――たまらなく、可愛い。

 ぺろりと唇を舐めると、応えるように緩んだそこから舌を押しこむ。恐る恐る僕の舌先に触れようとしてくれた新一くんの舌は、僕にぶつかると、すぐにぴゃっと逃げ出して口の奥で丸くなってしまった。
 眉間にしわが戻っている。
 つんつんと舌の裏を突っつくと、新一くんはぎゅっと目頭に力を入れ、僕の手を握りつぶそうとした。あやすように、腰を撫で下半身を擦り合わせる。新一くんが舌を丸めてる間に無防備な上顎をくすぐることにした。新一くんの腰がふるりと揺れる。ひくっと僅かに仰け反った首筋も舐めてやりたいが、舌が足りない。れろれろ上顎ばかりをくすぐっていると、やめろとばかりに新一くんの舌が割って入ってきた。それを絡めとって、くちゅりと音を出す。
 新一くんは耳が良いから、音でもひどく感じてしまう。耳を塞いで口内を犯すと、それだけでイってしまうのだ。けれど、今日はゆっくりと長いセックスがしたいから先にイかせたりはしない。
 新一くんの眉間からしわが消えたのを確認して、絡めていた舌を抜く。つうっと繋がった唾液を親指で拭い、新一くんの口端に触れた。
「べーってして……もっと繋がりたい」
 ゆっくりとまぶたを持ち上げた新一くんは、ぼんやりと瞳を濡らしながら、小さく舌を出す。

 がぶり。
 我慢できずに、噛みついてしまった。






♡ 不完全飼育 ♡(大体自業自得な話)





 目が覚めたら、四肢が動かせなかった。


「もう目が覚めてしまったのかな?」
 電灯の光を遮り、暗い影が差す。横たわるオレを覗き込んだ男の顔は逆光で見えにくい。何度か瞬きを繰り返すと、ぼんやりしていた視界がはっきりとしてきた。
「ふ、るやさん……」
 柔和な笑みを浮かべている男は、良く知った人物だった。
 降谷零──……警察庁警備局警備課に所属する警察官。
「なんで……っ」
 やけに身体が怠い。頭も重い。乾いた喉からは満足に声も出ない。降谷さんはわらう。その表情だけは穏やかで、けれど目の奥は微塵も笑っていない。その顔はまるで、彼が以前アングラな世界で名乗っていた別の名前──バーボン、を彷彿とさせた。

「新一くんがいけないんだよ」

 降谷さんは、肩を竦めた。そして、オレが横たわっているベッドの横にあるナイトテーブルから、ペットボトルを手に取る。パキッ。キャップのあく音がした。中に入っていた水を口に含むと、オレに顔を近づけてくる。避けようとすると右手で顎を掴まれた。
「んぅ」
 唇がふさがれる。鼻を摘ままれて、息苦しさで思わず口を開いてしまった。生温い液体と、小さな固形物が舌の上を伝っていく。しまった、と思ったけれど、手が動かないのだから、吐き出すこともできない。

「もうしばらくおやすみ」

 大きな手のひらが目蓋の上を覆う。そうしてまたオレの意識は、ぷつりと途切れてしまった。


   ♡ ♡ ♡


 縦二〇〇センチ、横一二〇センチの白いベッドの上。
 それがオレに許された行動範囲だった。行動範囲──といっても、四肢が動かせないのだから、自由なんてもんはない。狭苦しい部屋の四隅では、趣味の悪い監視カメラがオレを見張っている。きっとベッドの周辺には盗聴器も仕込まれているに違いない。
 降谷さんは、今ここにはいない。オレにこんなことをしておいて、何食わぬ顔で出勤していった。この隙に助けを呼ぼうにも、スマホは取り上げられているし、余計なものを身に着けているとなにをするか分からないと言って、気が付いたときには、身に着けているものは降谷さんのYシャツ一枚だけという状態になっていた。
「ふるやさんのヘンタイ……」
 ふん、と鼻をならす。ベッドの上には防水シーツがひかれているのにも、枕元付近にお皿にのったおにぎりと、水が入ったシチュー皿が置かれているのも全部が気に入らない。オレは犬じゃねーっつーの。
「アレックス! テレビつけて!」
 むしゃくしゃした気分で怒鳴ると、オレの声に反応してテレビがついた。この部屋はスマート家電リモコンに対応している。降谷さんのアホ。テレビがつくとワイドショーが流れ始めた。芸能人が浮気したという退屈な話が終わり、一昨日起きたという銀行強盗の話題になった。そこでようやくテレビに視線を向けようとすると、チャンネルが勝手に切り替わった。二十四時間ミステリー作品が流れているチャンネルだ。
「ニャロォ……」
 この部屋のリモコンは全て降谷さんのスマホで遠隔操作ができる。つまり、チャンネルを変えたのは降谷さんだ。
 不貞腐れてぷいっと顔を壁側に向ける。けれど、テレビから聞こえるつんざくような悲鳴に誘われてつい視線をテレビに戻してしまった。
 ……。



「ただいま、新一くん」
 帰宅すると降谷さんは真っ先にオレの額にキスをした。絆そうとしたってそうはいかねえ。無言でいると、鼻を摘ままれた。
「……おはえひ」
 鼻から手が離れる。降谷さんはオレの身体を触りまくって、満足すると枕元に置かれたままのおにぎりと水に視線を向けた。
「今日はごめんね、明日はずっと傍にいれるから」
「べつにいなくていーですけど」
「お腹がすいただろ? 今すぐ作るね」
「……それでいいよ」
「これは僕が食べる。もう少し待っていて」
 オレの頭を一撫でして、降谷さんはキッチンに向かった。引き戸を開けっ放しにして行ったから、ベッドからでもキッチンに立つ降谷さんの後ろ姿が見えた。きっとまた今日も薬入りの手料理を手ずから食べさせられるに違いなかった。
 そうして意識を失ったオレを、降谷さんは好き勝手にするんだ……。


   ♡ ♡ ♡


 すうすうと規則正しい寝息を立てる新一くんを抱き上げて、風呂へ向かう。身に着けさせていたシャツなどを外し準備を整えてから、シャワーで温めた浴室へ入れた。床には新一くんの身体が冷えないようにこのためだけに購入したマットを敷いている。そこに座らせ、後ろから体を支えて丁寧に全身を洗ってやる。
「はあ……」
 溜息が零れる。無防備な恋人の裸体にムラムラしないわけではない。けれど、真っ白い肌に残るいくつもの青黒い内出血の痕に、無理をさせるわけにはいかないと気を引き締めた。

 新一くんを家に閉じ込めて二日目のことだ。意識があるときに新一くんの全身を拭こうとしたらひどく恥ずかしがり、暴れて嫌がった。このままだと、新一くんが諦観の念を抱くより先に、また怪我をしてしまう──そう思い、次の日からは少量の睡眠薬を食事に混ぜ、眠っている間に身体を清めてやることにした。

 新一くんの全身をピカピカに磨き上げ、髪も完璧に乾かしてから、ベッドへと戻す。僕も濡れた服を着替え、眠っている新一くんの傍に救急箱を持って近づいた。
 ぴくっ、とまぶたが動いた。もうすぐ起きるのかもしれない。
 その前に、パンパンに腫れあがった右足首と左の膝に薬を塗ってやり、手早く包帯で固定する。左腕には湿布、右手首と左手首も薬を塗ってしっかり包帯を巻いた。それから右脇のあたりにも湿布を貼り、新一くんが目を開ける前にシャツを着せた。

 新一くんは、猪突猛進が過ぎる、と思う。今から五日前に、事件に巻き込まれ怪我をしたというから慌てて病院に迎えにいけば、右手と左足を捻挫し全治三週間だという。「危ないことはしないでくれよ」「わぁったって」なんて、気のない返事をされて僅か一日。正確には十九時間。
新一くんは、「妹が誘拐されたかもしれない!」という友人からのヘルプコールを受け、僕が仕事に行っている間に片足を引きずって事件に首を突っ込みに行ってしまった。無事に友人の妹を見つけた新一くんは逆上した犯人に階段から突き落とされて、今度は無事だった方の足と手まで強く打ち付け、捻挫。捻挫で済んだのは奇跡だ。そして、アバラを一本骨折した。「危ないことはしないでくれって言っただろ!」と叱った僕に新一くんは「わるかったって」と、へらりと笑って返した。
 その時に、思ったのだ。
――この子の辞書に絶対安静という言葉はない、と。
 何が悲しくて恋人に監禁まがいなことをしなければならないのだ、と泣きたくなる自分を叱咤し、心を鬼にして、新一くんからスマホをとりあげ、家に閉じ込めた。病院に入院なんてさせたらまた脱走し、看護士の方たちにいらぬ心配と迷惑をかけてしまうと懸念しての判断だった。
 新一くんは(事件でもなければ)痛みでうまく動くことができなかった。付きっ切りで面倒を見るつもりだったのに、どうしても仕事に顔を出さなければならなくなって家を空ける時は、途中で空腹や喉の渇きを覚えたら可哀想だと枕元に皿を用意し、もしものことがあってもいいように防水シーツも敷いたが、新一くんには恨みがまし気に睨まれてしまった。
 少しでも動いた時に痛みで呻くのが可哀想で、代わりにトイレで下着を脱がせたら恥ずかしがって暴れるからパンツを履かなくても太ももまで隠れるシャツに着替えさせ、どんな事件だろうと彼の目に入れば興味をひいてしまうから、テレビチャンネルの自由すら奪う。
 まるで僕が新一くんを誘拐・監禁している犯人になってしまったようで、落ち込んだ。

「はやく元気になってね」

 薄っすら瞳を開いて僕の様子を覗っている新一くんの頭を撫でる。さらさらの髪が指の間を通りすぎていく。

「……えっちなことしないのかよ」

 バカなことを言う口を塞いで、「治ったら覚えておいて」と薄い腹を優しく撫でた。





♡ 当分ひとりで酒は飲みません! ♡(お酒の失敗)


「このっ、わからずや!」
「わからずやはどっちだ!」
 バンッ! 
降谷さんがテーブルを叩く。オレは降谷さんのケツを思いっきり蹴っ飛ばした。俯いた降谷さんがケツを抑え呻く。その隙に、リビングに置いたばかりだった鞄をひっつかんだ。そのまま駆け出して、玄関の扉に触れる。

「暫く帰らねえからな! 降谷さんなんて……っ!」
 
 きらいだ、と勢いで言いかけた言葉を飲み込む。代わりに「バーロー!」と吐き出し、勢いよく玄関の扉を閉めた。オートロックの鍵がかかる。バタバタ足音荒く駆けだし、エレベーターを呼んだ。エレベーターが来るまで一分近くあったのに、降谷さんは追いかけてこない。
もう一度、降谷さんを罵倒する。
エレベーターに乗り込んで、開かない家の扉を睨みつけた。



「うっ……」
ぐわん、と割れるような頭痛で、目を覚ました。
目をゆっくり開ける。家よりも狭い真っ白な天井と、圧迫感のある壁。ベッドの横には、木目調の鏡台が見えた。その下には1ドアの小型冷蔵庫。
──どうやらホテルにいるらしい。
そう当たりをつけて、昨日の記憶を呼び起こす。

昨日は、久しぶりに家に帰ってきた降谷さんと大ゲンカをした。事件に手こずっているなら協力する、と言って、降谷さんに大人しくしていろと叱られたのだ。素直に、早く事件を解決して家に帰ってきて欲しいなんてことは言えずに、「オレが手伝ったほうが早く済むだろ」と言って、さらに怒らせた。それから、降谷さんを蹴っ飛ばして家を飛び出した。
勝手に協力するため、情報収集をしようとバーに乗り込んで、そこでオレのファンだという男に声をかけられたのは覚えている。やたら酒を勧めてくるから断って、せめて一杯だけでも、と言い募られて根負けした。一杯だけですよ、そう言って酒を飲んだ。
……それ以降の、記憶がない。

ゆっくり身体を起こす。ずるり。体の上から布団が落ちた。
「……っ」
 息を飲む。布団の下からはむき出しの肌が見えた。あろうことか、いたるところに鬱血痕のついた肌が。
 ザアッと、全身から血の気がひく。
 オレにこんな痕をつけるのは降谷さんしかいない。けれど、降谷さんは、ここのところずっと庁舎に詰めっきりで、昨日だって着替えをとりに一瞬家に帰ってきただけだ。……その一瞬でケンカをしたわけだから、オレにこんな痕をつける時間はなかった。それに、降谷さんがオレに鬱血痕をつけるとしても1つ2つで、こんな見えるだけでも十ヶ所以上につけることなんてなかった。
 頭痛どころか、吐き気までこみ上げてくる。ベッドから降りようとすると、下腹部を襲う覚えのある痛みに、息が苦しくなった。
 ぼんやりとした視界で状況把握のために辺りを見渡すと、鏡台の上に万札が置かれているのに気付いてしまう。
「……ぅ、」
 口の中が酸っぱい。口を押さえて、ベッドの近くにあった段差のある扉をあけた。予想通り、そこはユニットバスだった。洗面台に、胃の中身をひっくり返す。
 
 胃を空っぽにし、気怠さの残る体を、冷水を浴びて清めた。それでもまだ気持ちが悪い。鏡台の椅子の上に畳まれていた服を見つけて、着替える。
 服の上には、スマホも置いてあった。画面をつけると、直近に受信したメッセージが表示されていた。
 ──昨日は、ごめん。
 降谷さんの名前を見て、その場に座り込む。泣くのは、違う。悪いのはオレだから。浮気したオレのことを、降谷さんは許さない。軽蔑するだろう。でも、黙っていることはできないと思った。じくじく痛む胸を抑えて、降谷さんに「事件が落ち着いたら話があります」とメッセージを返した。



 ホームセンターで買って来た段ボールを組み立て、まず一番量のある本を詰め込む。本を片付け終わると、封の閉じられた段ボールは五箱になった。……残りの段ボールはもう一箱しかない。量を読み間違えたみたいだ。なるべく早く引っ越す準備を整えたかったけど、しょうがない。最後の一箱に、適当に服を詰め込む。

「……なに、を、している?」

 突然、後ろから肩を掴まれた。力任せに振り返らされると、いつの間にか帰ってきたのか降谷さんが立っていた。蒼褪めた顔で、口端を引きつらせている。まさか、今日中に帰ってくるとは思わなかった。まだ十分な覚悟ができていない。視線を合わせることができずに、そうっと目を伏せた。
「引っ越しの準備です」
 どうして、と掠れた声が問う。唾を飲みこんだ。「……から」前半が言葉にならない。なに、と聞き返された。降谷さんの手を払って、距離をとる。
「浮気、したからです」
「は……?」
 伏せた視界の中で、降谷さんがぎゅっと拳を握るのが見えた。殴られたって仕方ない。歯を食いしばって顎を持ち上げる。降谷さんが大きく息を吐いた。
「……誰と、どうして?」
「……知らない人と、です。酔っぱらって……、記憶はないけど、ヤッたのは間違いないから……」
「それで、きみは、僕と別れるつもりなのか」
 降谷さんは頭を押さえ、溜息を吐いた。オレは頷いて、段ボールの中でぐちゃぐちゃになっている洋服の山を見た。
「ばかだな、きみは」
 ドンッと降谷さんが段ボールを蹴っ飛ばした。蹴られた段ボールは横倒しになり、服の山が散乱する。
「うあっ」
 降谷さんに手をひかれ、ごきっと背骨が鳴った。もう二度と触れてもらえないと思ったのに、分厚い胸板が目の前にある。力いっぱいに抱きしめられ、そんな資格はないから離れなければと思うのに、胸についた手はうまく突っ撥ねられなかった。

「怒っているのかと思った」

 なだめるように背中をさすられる。
「……いつもよりひどいセックスをしてしまったのに、起きるまで傍にいてやれなかったから、」
「……、?」
 降谷さんとエッチした記憶なんてない。
「昨日、きみとセックスしたのは、僕だよ。きみはずっと僕のことを呼んでいたし、まさか昨晩の記憶がないとは思わなかった」
「は?」
「変な男についていこうとしてたからお仕置きしたんだよ」
 グラッと視界が揺れる。咄嗟に降谷さんに抱き付いた。足が浮いて、身体が揺れる。すぐに浮遊感はなくなって、どさりと落ちた背中を、柔らかな感触が受け止める。

「きみの身体が、僕以外を受け入れるはずがないだろう?」

 教えてあげる、と降谷さんが笑う。その瞳は据わっている。解かれたネクタイがオレの手首を縛り上げるのを、大人しく見守ることにした。


   ♡ ♡ ♡


 まぶたが重い。半分も開かない。ぼってりしている目蓋に降谷さんは何度も口づけてくる。いいかげん鬱陶しい。呻きながら布団をかぶると、降谷さんもあとを追って布団の中に入ってきた。
 しつこい!
 蹴り上げようとした足を掴んで、降谷さんはずいっとオレに顔を近づけた。
「きみが一昨日蹴り上げたところ、痣になってるんだからね」
「……ざまあみろ」
 ふんっと鼻で嗤ってやる。降谷さんは、「かわいくない」と言いながら、オレにくっついて、スマホが鳴りだすまで離れようとしなかった。


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