同棲設定


 ハードカバーで綴じられたラブロマンスなんて、柄じゃないだろ。お互いに。
 僕たちの話を綴じるとしたら、それはただの白い紙が良い。
 見つけて読んだ後は、きみのお気に入りの本の間にでも挟んでおいてよ。そして、忘れたころにまた目にして「こんなところにあったんだ」と懐かしく思ってくれると嬉しい。
 触れる度に、皺が増えて、時には雑に扱って、折れ線をつけてくれてもいいな。もしかしたらきみが、コーヒーを零すこともあるかもしれない。油のついた手で、触ったりしてね。
 そうやって年月とともに汚れた紙束は、僕たち以外には無価値で、きみの最期と共に失われるんだ。
 きみとぼくの話は、後世に残すような特別なものじゃないし、重ねて連ねた日々を読んだだけで、それをあとから「運命だった」なんて呼ばれでもしたらたまらないからね。
 僕がきみを、きみが僕を――、選んだ理由を、そんな言葉ひとつで括られたくはないだろ。
 僕の当たり前の日々の中に、いつまでもきみがいますように。
 そんな願いを込めて、いつか僕がいない日に、この紙束を読むだろうきみへ、心からの「 」を込めて。



 ― ― ― ー ー ー ー ✂




 亜麻色のまつ毛を伏せて、控えめに微笑む。
 まるでスポットライトにでも当たっているかのように、遠目からでもはっきり見えるあの人の仕草に、視線が吸い寄せられる。
 目元に落ちた影に見惚れて、持っていたフォークで皿のふちを叩いてしまった。

「工藤さん?」
 テーブルをはさんで俺の正面にいた女性が、首を傾げる。
 その斜め後ろに向けていた視線を無理やり戻して、口元に笑みを張り付けた。
「失礼しました。知り合いに似た人がいたもので……人違いでしたけど」
「そうですか。それで、あの、以前依頼した夫のことでまた改めて相談したいことがあって……このあと、」
 言いよどむ女性は、頬を染めてじっと俺を見つめてきた。

 三か月前、この女性から、夫の浮気調査の依頼を受けた。
 結果は黒。
 弁護士と相談して今後のことを決めるというから、知り合いの弁護士を紹介して、依頼は完了したはずだった。
 それなのに、先日女性から再び連絡があり、改めて相談があると呼び出された。知り合いが突然来られなくなってしまったという東都湾のクルーズディナーに招待され、そこで話をしたいと言われたのに、個室でもない場所で、延々と相談事とは遠い中身のない話を続けられると、さすがの俺でも、これが仕事を口実にした誘いだってことがわかる。
 ……そういうのが、わかるくらいには、俺も大人になった。

「おっと、すみません。……急ぎの電話みたいなので、少し席を外しますね。僕のことは気にせず、お食事を楽しんでいてください」
 テーブルクロスの下で、スラックスのポケットに入れていたプライベート用のスマホを操り、テーブルの上に置いていた仕事用のスマホを鳴らす。
「あ……はい」
 もの言いたげな女性を置いて、スマホを掴んで席を立つ。
 
 二階のレストランホールから出て、階段をあがり、4階のオープンデッキにあがった。
 つんと冷えた空気が頬を刺す。
 等間隔で並んだベンチの真ん中に座り、一人の空間にほっと息をついた。
 真っ暗な海の上、遠くでちかちかと輝くふ頭の光を見つめてぼんやりしていると、背後からこつこつと足音が聞こえてきた。
 緩慢に振り返ると、甲板のぼんやりとした光をまとって、はちみつ色の髪を甘やかに輝かせる男が立っていた。
 すらりと伸びた手足に、ネイビーのスーツが似合っているのに、いつもグレーのスーツを着ているのを見ているからか、違和感を覚えてしまう。
「仕事じゃないんですか?」
 長い脚を窮屈そうに折り曲げて、隣に座った降谷さんに視線を向ける。
「仕事といえば、仕事なのかな」
「俺に声をかけてくるのにそう答えるってことは、お見合いですか? 一緒にいたの女の人だったし、バーボンの顔してたぜ」
「それは無意識だったな」
 顎をさすった降谷さんは、膝の上に腕をついて、俺の顔を見た。
「きみは仕事? それとも、デート?」
「仕事……のつもりだったけど、違ったみたいですね」
 ベンチにもたれかかって、二人で夜景を見つめる。
 さっきまで憂鬱だった気分が上向きになってきた。
「お見合い相手を放っておいていいんですか?」
「いいんだ、結婚する気はないし。きみと同じで、電話だって噓をついてきたよ。このあとは、急用が入る予定なんだけど、きみも乗せてあげようか」
 人の好さそうな笑顔で嘘の提案をしてくる降谷さんの唇に、そっと人差し指を押し付けた。
 降谷さんが目を丸くする。
「……どうしたの?」
「薄っぺらな嘘を囁くその口を、俺の口で塞ぎたいなって」
 ぷっと降谷さんが噴き出した。
 さっきまでのミステリアスな笑い方じゃなくて、年の割に少年じみた笑い方だ。
「恋愛小説でも読んだ?」
 降谷さんが、笑いすぎて涙の滲んだ目じりを擦る。
 俺は、唇を尖らせて、組んだ足の上に頬杖をついた。
「……勉強中なんです。年上の男を落とすのってどうしたらいいんですかね」
「本人に聞いちゃう?」
「お見合いしてるとこ目の当たりにして、これでもショックなんですよ。降谷さんは一生独身だと思って油断してたのに」
 降谷さんがまた笑う。
「結婚しないって言ってるだろ」
「なにがあるかわかんないじゃないですか。既成事実を作られたら、降谷さんは責任とるタイプの人だから」
 きみは僕を買い被ってるなあ、と降谷さんが嘯く。
「……わからないんですよ」
「それは、僕のこと?」
「そう……たぶん、自惚れじゃなきゃ、降谷さんは俺に好意を抱いている。なのに、なんで付き合ってくんねーのか、わからない」
 降谷さんは静かに笑って、真っ暗な夜空を見上げた。
 ぽつぽつと見える小さな星屑よりも、降谷さんの横顔を眺める。
「俺はもう、子どもじゃない」
「……知ってるさ」
「手を出しても罪には問われません」
 降谷さんが何万光年も先に向けていた視線に俺を映した。
「年をとると恋に臆病になるんですよね? 昨日読んだ本に書いてありました」
「……その理論は破綻しているな。現にきみは、年を重ねても恋に積極的じゃないか」
「たしかに……恋愛小説なんて参考になりませんね」
 ここ数カ月、蘭や園子にすすめられて読み焦っていた恋愛小説の知識が無駄になった。
「……あーあ、またフラれた」
「フッてはいないだろ。曖昧にしてるだけで」
 自覚があって、やってるんだからこの人も大概だ。この言葉ひとつでまた俺は期待しちまう。
 ふう、と息をついて、白い息を空に向かって立ち昇らせる。
「まー、いいです。今じゃなくていいんで」
 意固地になった子どもを見るような目で降谷さんを見つめて、ふふんと鼻で笑った。
「……いつか降谷さんがもっと年を取って、おじいさんになって、肩の力を抜きたいと思った時に、俺を思い出して、逢いたいって望んでくれればそれでいい」
 降谷さんが突然肩を落として、思いっきり長いため息をついた。
「きみの、僕に向けるその感情は、いったいなんだろうね。少なくとも恋ではないだろ」
「ならなんだってんだよ」
 気持ちを否定されて、むっと唇を結ぶ。
 困ったように微笑んだ降谷さんは、膝の上でぎゅっと両手を組んだ。
「さあ……? 僕にもわからないから、どうしようかと、ずっと困ってるんだ」

 ――きみの優しさに触れると、いい年をして泣いてしまいそうになる。

 降谷さんのぽつりと零した言葉に耳を傾けた。
「それを人は、愛って言うんじゃねーの」
「愛ねぇ……」
 降谷さんも頬杖をついて、海の先にあるチカチカ光り輝く都会のビルの群れへ視線を投げだした。
「恋より優しくて激しい、愛より穏やかで甘くて苦しい」
「なに?」
「きみが僕に向ける感情を、言葉にしようとするとそうなる」
 ちなみに僕は、と降谷さんが声を一層ひそめた。
「恋より淫らで、愛より重くて禍々しい」
「……へー、詩人でも目指してんの?」
 センスねーなと鼻で笑って、降谷さんの強く握られた手に、自分の手のひらを重ねた。

「つまり、愛や恋という言葉でいい表せないほど、俺のことを強く想ってるってことだろ」

 ぐだぐだ考え込んで迷子になってる大人の手を引いて、思いっきり抱きしめた。
「難しく考えて怯えてんなよ。俺とあんたの気持ちは、絶対同じベクトルを向いてるから」
 降谷さんが観念したようにため息をついた。
 ようやく背中に回った手に、唇が緩む。そこで思いっきり歓喜を叫びたかったけど、大人っぽく、ぐっとこらえると、代わりにくしゃみがでた。
 降谷さんが来ていたスーツのジャケットを脱いで、俺の肩にかけてくれる。
 こんな寒空の下、ワイシャツにベストだけになったら、絶対あんたの方が寒いのに。
 その優しさに甘えて、もう少しだけ二人並んで光り輝く橋を見ることにした。

 そういえば、このあいだあそこに仕掛けられた爆弾を二人で解除したよな、と微笑みかけると降谷さんは「それを良い思い出だったみたいに語らないでくれる?」と顔を顰めた。


   ♡ ♡ ♡


 穏やかな日差しが差し込むリビングのソファに座って、黒いクリップで止められた十数枚の紙束をめくる。
 読みやすい整った字で書かれた手紙のような冊子をめくると、そこにはただ日々の俺への愚痴が書かれていた。

『三月二十日 たまに食うカップラーメンがうまいと言って、僕の作り置きしていたおかずを食べずに、お昼はカップラーメンを食べたようだ。はやくきみの舌が僕の味を求めてやまなくなりますように』
『六月七日 梅雨入りした。きみは洗濯物をため込んで、また着るものがないと困っている。僕のシャツを着ていくのはいいけど、サイズがあってないよ』
『八月二十日 熱帯夜が続くと、きみはそっけない。冬の間は猫みたいに僕にべったりくっついて眠ってくれるのに、昨日は「暑い」と寝苦しさに暴れたきみの拳が、僕の頬に一発入った』
『レモン、セロリ、パスタ、トイレットペーパー』
『十一月十八日 年末年始は忙しいからとクリスマスプレゼントにマフラーをもらった。まさか一か月以上会わない気なのだろうか?』

 途中で完全に買い物メモにしてただろ、これ。
 半笑いで紙をめくっていると、夜勤明け帰宅するなりベッドに直行して爆睡していた降谷さんが、パンツ一枚で腹をかきながら寝室から出てきた。
「おはよ。テーブルの上に遺書みたいなの置いてあったんだけど」
 ソファの背に肘を置いて、降谷さんを見上げる。
 ああ、と悪戯っぽく笑った降谷さんが、隣に座った。
 まだらに生えた髪と同じ色の髭が、近くにくるとよく見えて、物珍しさでつい撫でてしまった。
「読んでくれた?」
「読んだ。遺書じゃなくて俺への愚痴日記だった」
 降谷さんが、心外だとばかりに肩を竦める。
「心をこめて書いたのに、ひどい言われ様だな」
「俺への恨みを?」
「愛より重くて禍々しいものだよ」
 降谷さんがぺらぺらとページをめくって、8ページ目にある部分を指さした。
 そこには官能小説めいた文体で、いつかの営みについてやたら詳しく書いてあった。
「暇なのか、公安」
「興がのってきたら止まらなくてね……僕って多才なんだ」 
 無駄に誇らしげな降谷さんを一瞥して、紙の束で降谷さんの膝を叩く。
「……これ以上分厚くなると、本に挟めないだろ」
「それはたしかに」
 ふっと唇を緩めた降谷さんは、俺に顔を近づけて、ちゅっと触れる優しいキスをした。キスの感触より、髭があたってじょりっとする方が後に残る。
「……俺も書こうかな」
 そう言うと、降谷さんが笑った。
「きみは、絶対三日もしないで飽きるよ」


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 この感情は、恋ではなくて、愛でもない。
 それよりもっと優しくて、尊くて、大事で、甘くて、泣けてしまうくらいに柔らかな心の部分を、あなたは禍々しいなんて言葉で誤魔化したけれど。
 一言では表せないと、あなたが名前をつけなかった感情を、俺はきっとあなたの名前と一緒に、永遠に心へ残しておくんだと思います。
 工藤新一から、降谷零へ。

 ――やっぱりこういうのは俺の柄じゃないので、明日からもまたあなたに任せます。



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「ほらな。一日ももたないじゃないか」
「うるせー。照れくさくてこれ以上、書いてられっかよ」

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