パラレルいろいろ

 真っ白な世界に、ぽつりと滲んだ黒の美しさに呼吸を奪われる。
 世界から音が消えた。

 ――きみを見つけた。

 身体の奥底から湧き出すこの想いは、歓喜だ。

   *

 ごうごう唸る風が、降り積もった雪を舞い上げて顔に吹き付けてくる。腕で顔をかばいながら、脛のあたりまで降り積もった雪を踏みつける。
 ざくり。
 二つ分の足音が風にかき消されていった。

「……いた」
 後ろから微かに聞こえるヒロの声に頷く。
 視線の先、木々の間には群れから離れた一頭の牡鹿がたたずんでいるのが見えた。
 ――僕は右から回り込む。
 手でヒロに合図をすると、頷いたヒロは静かに猟銃を構えた。
 ぴくりと牡鹿の耳が震える。
 ヒロと視線を合わせ、毛皮のマントを翻して走りだした。一瞬遅れて、銃声が辺りに響く。
 白銀の上に血痕を散らしながら、牡鹿が駆け出した。
「僕が追う!」
「トール! あんまり奥に入り込むなよ!」
 わかってる、と声を張り上げる。

 この先には、精霊の住処と呼ばれる湖があり、聖域であるその場所での狩りは禁忌とされていた。

 口から白い吐息が立ち昇る。
 息を切らしながら血痕を追い、怪我のせいで動きが遅くなった牡鹿の後ろ姿をとらえた。肩にかけていた猟銃を構え、後ろ脚を打ち抜く。牡鹿は血痕をまき散らして雪の上に倒れ込んだ。
 止めを刺すため牡鹿に近づき、その場所がずいぶんと開けていることに気が付いた。
 あたりを見渡すと、薄氷に閉ざされた湖が視界に入る。
「……しまった、聖域か」
 細い息を絶え間なく吐き出している牡鹿から銃先を外し、そのまま立ち去ろうか悩んで、足を湖に向けた。

 精霊なんているのかいないのかよくわからないけれど、ヒロたちが大事にしている場所だから、穢してしまったことを謝らなければならない気がした。そして、もし罰を与えるのなら僕だけにしてくれと頼まなければ。
 ヒロとその兄であるコウ兄さんは、幼いころ親に捨てられた僕を拾って家族に迎えてくれた優しい人たちだ。
 彼らを守るためなら、僕の命なんて捨てても良いとさえ思う。

 湖の周りを囲むように群生した木の間を通りぬける。
 ぱりん。
 薄氷の割れるような音がして、湖に視線を向けた。

 白く凍てついた湖の中心には、雪の積もった大岩がある。
 そこに腰かける、黒い影に視線が吸い寄せられた。
 華奢な体を覆う薄い漆黒の布。細く長い足を折り曲げて、小さな卵みたいに座ったその人は、濡れ羽色の長い髪を揺らして、顔をあげた。
 真っ白な肌に、透き通るような青い瞳、ぞっとするくらい美しい顔立ちをしたその人は、僕を見て子供みたいに目を瞬かせた。
 頬に張り付いた黒い鱗のようなものが、きらきらと輝く。
 それは、人ではないなにかなのだろう。
 喉の奥に声が張り付いて、言葉が出てこない。
 立ち尽くす僕を見て、それは小さく笑った。
「はじめまして、?」
 想像よりも低くて甘い、青年の声が小さな唇から零れた。
 軽やかに岩から飛び降りた影が、真っ白な足を薄氷の上に下ろす。
 氷が割れてしまえば冷たい湖の底に引きずりこまれてしまうのに、そんな恐れなど微塵も感じさせないしっかりした足取りで、彼は薄氷を歩ききり、雪の上に足を踏み出した。
 目の前に迫った彼に慌てて跪き、首を垂れる。
「精霊さま、でしょうか?」
「ん? 精霊……? まあ、それに近いものではあるかもな」
 少し考えて答えた彼が、僕の前にしゃがんで、手を伸ばしてきた。
 かぶっていたマントのフードが、頭からずれる。
 しゃがんだまま首を傾げた彼が、僕の顔を覗き込んだ。
「……髪、伸ばしてんの?」
 僕の一つに結び、ゆるく編んである髪を、彼は興味深そうに眺める。
「……伸ばしていた方が暖かいので」
「へえ……」
「あの、僕に罰を与えるためにいらっしゃったんですよね?」
 やけに人懐こい「精霊さま」をうかがうように見ると、彼は最初に僕と目が合った時みたいに、ぱちぱちと瞬いた。
 怖いくらいの美しさを持つ彼の表情は、好奇心いっぱいの子どもみたいでどこか愛らしい。
「罰? なんで?」
 小首を傾げる彼に、自らの罪を告白する。
 聖域で狩りをしてしまったこと。
 彼は、僕の声に耳を傾けると、考えこむように顎に手を当てた。
「なるほど。それで俺が罰を与えるって思ったわけか。俺はこの地に留まり続ける者じゃないし、この場所からはすでに約束が失われている。アンタにできる償いがあるとしたら、いのちを繋いでいく……つまり、おいしく食べてやれってとこかな」
 うん、と頷いて立ち上がる彼の手をとっさに掴む。
 白い肌に真っ黒な爪が映えて綺麗だった。
 ひどく冷たそうな彼の体温はやけに高く、手袋越しに彼の体温がじんわり伝わってきた。
「なんだよ?」
「……約束が失われたって、この土地は精霊に捨てられたってことですか?」
「あー……そんな深刻になることじゃねーよ。あいつらは気まぐれだからな。他に気に入った土地があればそっちに移るし、人間との約束に重きを置かないってだけ。このまま大事にしておけば、百年後とかにまた戻ってくることもあるだろ……」
 湖に視線を向けた彼は、そのまま空を見上げ、白い息を吐いた。
「あなたは……いつまでここに?」
 重苦しい曇天を見ていた青が、僕を捕らえる。
「……迎えにきたやつがいるんだ。だけどそいつ、迷子になっちまったみたいだからさ、そいつが戻るまでしばらく俺はここにいるよ」
 困ったように笑った彼が、僕の頬を撫でた。
「さあ、もう戻りな。お前を心配して探してるやつがいるみたいだ」
 僕から手を離して、彼は一歩足を後ろにひいた。
 振り返ると、僕を呼ぶヒロの声が聞こえる。
「……またあなたに逢いにきてもいいですか?」
「新一」
「え?」
「……次に逢えたら、そう呼んで。敬語もいらねーから」
 シンイチ、と口の中でつぶやく。
 古い響きの名前だ。
「それじゃあまた……シンイチ」
 不意を突かれたように目を見開いたシンイチが、くすぐったそうに頬を綻ばせた。
 もう少しだけその姿を見ていたいのに、シンイチは僕の背中を押して、僕を聖域から押し出してしまう。

 ぱりんっ。
 薄氷の砕ける音が響く。

 ごうごう唸る風の音に紛れてヒロの声が聞こえた。
「トール! 大丈夫か?!」
「あ、ああ……」
 雪まみれになりながら走り寄ってきたヒロが僕の肩を掴んだ。
 振り返ると、さっきまでの静けさが嘘のように雪と風で荒れる湖が見えた。
「あ、鹿……」
「それなら、少し離れたところで絶命しているのを見つけたよ。もう少し奥に逃げられたら聖域内だったから、助かったね」
「そうか……」
「さあ、帰ろ」
 そう言って手を引いてくれるヒロの後を歩く。
 さっきの出来事が夢じゃないかどうか、今すぐ戻って確かめたいのに、ヒロを心配させてしまうような真似もできなくて、僕は足を前に動かした。


 *



 調子はずれの鼻歌を口ずさみながら、シンイチは水辺に咲いた小さな花を指で突っついた。

 シンイチと僕が出逢った冬から半年。季節はもうすぐ夏を迎える。
 ヒロやコウ兄さんの目を盗んで、シンイチの元へやってきた回数はもう両手で数えきれないくらいになった。

 冬よりも袖が短くなったシンイチの服から覗く二の腕には黒曜石のような鱗が浮き出ている。
 水際にしゃがんで湖の底にいる魚を覗き込んでいるシンイチの腕を軽く引っ張ると、シンイチは簡単に僕の方へ倒れ込んできた。
 細い身体を抱きしめて、指通りの良い艶やかな髪を撫でる。

 ……このままシンイチがずっとここにいてくれたらいいのに。

 僕がそんなひどいことを思っているなんて知らないシンイチは、じいっと僕の顔を見上げてきた。
 シンイチにそのつもりはないとわかってはいても、甘えるようなその表情に顔が引き寄せられてしまう。
 キスの意味も知らないシンイチにこんなことをしてはいけない。
そう思うのに、シンイチの顎を指ですくって、唇を合わせた。
シンイチがきゅっと目をつぶる。
暖かな唇を食んで、下唇を舐める。それでも欲は尽きない。
舌を絡めて、戸惑うシンイチのその身体を暴きたかった。
 手のひらに吸い付く素肌を撫でていると、シンイチが甘ったるい吐息を漏らした。

「……ストップ。これ以上は、零が怒る」
 
 水膜を張った蒼い瞳が揺れている。シンイチは俺の胸を手のひらで押しかえした。
 ――レイ?
 それがシンイチの待ち人の名前だろうか。そいつは、シンイチにこういうことをしても許されるのか?
 ――ちがう!
 ズキリとこめかみが痛んだ。激痛に顔が歪む。
 頭を押さえる俺の下で、新一が心配そうな顔をしていた。
 ――きみにそんな顔をさせるなんて。
 ズキズキ頭が切り裂けそうなくらいに熱くなっていく。白く点滅する目蓋の裏に、見たことのないはずの光景がいくつも走っていく。
 その記憶のすべてに、新一の姿があった。
 僕の傍にいて、僕の隣で、僕と一緒に、僕と同じ時間を、僕はずっときみと、生きていた。

 ――零。

 胸の奥に、僕を呼ぶ声が染みこんでいく。
 
 僕は、自我を失い狂ってしまった同族を始末するため、きみを残して竜族の里を出た。仲間たちと協力して目的を果たしたのはいいけれど、深手を負った僕は、仲間と合流できずに行き倒れてしまった。
 人の気配を感じ、とっさに人間の子どもに擬態したのはいいけれど、そのまま竜としての記憶を失い、人間として呑気に暮らしていた。

「随分、きみを待たせてしまったみたいだ……火竜のきみは、寒いところが苦手だったのに」
 小さく首を横に振る新一の濡れた頬を、親指で撫でる。
 新一の首を覆う黒い布を下ろすと、真っ白な喉の下に金色に輝く僕の逆鱗が見えた。
 カッと喉の奥が熱くなる。
 その熱が全身をめぐり、肌が脈打った。
 新一とはちがう褐色の肌に金色の鱗が浮き出た。見えないけれど、僕の喉元には、新一の黒い逆鱗があるはずだ。
 竜は唯一無二の番を定めると、自らの逆鱗を相手に捧げ合う風習があった。
「おかえり、零」
 新一が僕に向かって腕を伸ばす。
 その腕に捕まったトールは、きみに攫われることに決めた。

 家族に旅立ちの挨拶をするその前に、まずは心から君を甘やかす時間が必要だよな?
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