同棲設定



 遠くで、人の足音が聞こえた。

 ――早く、起きなくては。

 そう思った瞬間、身体全体を覆っていた薄い膜がパチンと弾けたような気がした。

 音が鮮明になる。
 チチチ、と軽やかな小鳥の囀り。ぺらりと本をめくる音。
 重たい腕を動かすと、衣擦れの音がした。

「……おはよう、零さん」

 ――ああ、この声が、ずっと、聞きたかった。
 不意に、そんな風に思った。
 昨日も眠る直前まで、その声を聞いていたはずなのに、どうしてだか、ひどく懐かしく感じる。
「……、…………」
 しんいち、と、彼の名前を呼びたかったのに、錆びついた喉は音を鳴らさなかった。
 うっすらと目を開ける。
 真っ白なカーテンがばさりと風で煽られ、大きく羽ばたいた。
 真っ青な瞳が、柔らかく弧を描く。
 いつもは、僕よりも読みかけの本を優先する新一が珍しく、足の上に本を閉じて置いていた。新一は、僕が横になっているベッドの脇に置かれた丸椅子に座っている。
 見覚えのない白いカーテン。狭いベッド。こじんまりとした部屋。身体に繋がれた様々な器具。
 ここは病院か、と当たりをつける。
 思い返してみても、ここに横たわっている理由はわからなかった。いつものように、家のベッドで、新一くんに「おやすみ」と言って眠ったのが、最後の記憶だ。

「おはよう、零さん」
 新一は考え込む僕に、もう一度そう言った。そして、僕の手をぎゅっと握る。その手が、小さく震えていた。
 もう大丈夫だ。
 そう答えるように、手を握り返す。力を込めたつもりで、うまく動かない。ぴくりと僅かに反応した人差し指。

 お、は、よ、う。

 唇を動かして、目覚めを告げる。
 新一が唇を噛んだ。眉間に皺を寄せ、ぐちゃぐちゃの顔を、僕の胸に押し付けて、顔を隠してしまう。

「起きるのが、おせぇんだよ。ばーろぉ……」

 ぐすっと鼻を啜る音がした。抱きしめてやりたいのに、まだ身体が思うように動かない。
「……ぅ…………ぁあ」
 思いっきり喉を絞るとうめき声が漏れた。
 新一が、僕の胸に頬をつけたまま顔をちらりとあげる。赤く濡れた目元が綻んだ。
「零さんの声だ」
 とても嬉しそうにしているところ悪いけれど、こんな濁声を僕の声だと認識しないでほしい。
 新一くんの笑みにつられて、顔が緩む。うまく動いているのかわからないけれど。
 一体、僕はどれだけきみを待たせてしまったのだろう。
 あどけなく笑う新一の顔を見て、ひゅっと息を飲んだ。
 新一は、動揺した僕に気付いてゆっくりと身体を起こした。
「……もう気付いた?」
 薄っすらとした笑みを唇に張り付けて、新一は首を傾げた。
 艶やかな黒髪が、さらりと揺れる。
 最近、白髪が出てきたとぼやいていた新一の髪は、黒々と艶やかに輝いていた。日の光に当たって天使の輪ができるくらいに。
 みずみずしく張りのある、きめ細やかな肌。
 目尻に薄っすらできているしわを見つけて、この子も年をとるんだと感動した記憶が、頭の中で揺れている。
 新一の肉体からは、僕と積み重ねてきた年月が消えているようだった。
「……アンタを置いて死ぬ前に、賭けに出ようと思ったんだ」
 ぽつりと新一が呟く。僕と視線を合わせ、悪戯が見つかった子どものようなバツの悪そうな顔をした。
「アンタは絶対不本意だっただろうけど、オレは賭けに勝っちまった」
 新一の指先が、僕の頬をなぞった。
「オレの身体は、もう零さんが起きるのを待てる状態じゃなかった。零さんが起きるまで待ってるって言ったのは、オレなのに、約束を守れなくなりそうだった」

 ――おやすみ、零さん。ずっと、待ってる。

 眉間に皺を寄せ、無理やり笑った新一が僕の手を握った光景を思い出す。
 あれは、眠りにつく前。
 そうだ、僕は、あの日、生きる選択をするために、長い眠りについた。
 当時の僕は、四十歳を越え、体調が思わしくない日が続いていた。風見や新一か病院を受診するよう勧められ、精密検査を受けた。
 そこで発覚したのは、当時の医学では治療のできない病に罹っているということ。
 余命一年の宣告。
 死を受け入れ、身辺整理を始める僕を説得したのは、新一だった。
 治療方法が見つかる未来に希望をたくすために、コールドスリープをしてほしい、と。何度も断って、最終的に鳴き落としに折れて、眠りに就くことになった。
 
「残念だけど、まだ零さんの病気の治療方法は、見つかっていない」
 新一が顔を伏せる。
「灰原が、零さんと、オレ、二人分……」
 言葉を濁す。
 けれど、その名前で、自分に何が起こっているのか理解はできた。

 視線を自分の手に向ける。
 節くれ立ってボロボロだったはずの手が、張りのあるほっそりした手に変わっていた。手のひらは、記憶よりずいぶん小さく感じる。
「その体になってから改めて検査したけど、まだあの病気は発症していない。年を取ったらまた同じように病気になっちまうのかもしれない。その時もまだ治療法は確立してないのかも」
 ぽつりぽつりと言葉を零す新一に、視線を戻す。
「今度こそ、その時が来ても悔いがないように、」
 新一はベッドに腰かけた。寝たままの僕に顔を近づけ、淡く触れるだけのキスをする。

「最高の余生を、できるだけ永く、オレと思いっきり楽しもうぜ」




「……零さん?」
 パタパタと新一の騒がしい足音が聞こえる。
「珍しいな、寝てんのか……」
 暖かい空気が揺れた。目蓋の裏が陰る。どうやら新一が僕の顔を覗き込んでいるらしい。
 すうすう、と規則正しい寝息を口から漏らす。
 座っているソファが右に沈み込む。新一が僕の右側に座ったようだ。チリチリとした熱視線を右頬に感じる。
「……れーさん」
 つんつんと腕を突っつかれている。「ほんとに寝てんの?」抱き寄せたいのを堪え、無反応で寝息を溢す。
「……零さん、腹減った」
 肩を掴んでグラグラ揺すられる。僕はきみの母親か? 否、恋人である。もし僕になにかあった時、他の女性に愛想を尽かされるようにと亭主関白気味に育ててしまった責任をとって、速やかに夕飯を食べさせてあげなければ。

 ……日々、こんな風にどうしようもないことばかり考えているから、あんな突拍子のない夢を見るのかもしれない。誰もかれもがいなくなった世界で、新一と二人で生きていく、そんな夢を。

 いかにも今起きた風を装って「……ンん、?」と目を開ける。
「……おはよう、零さん」
 夢と、新一が重なる。
 真っ青な瞳に吸い込まれるように、唇を重ねた。
「なんだよ」
「夢のなかで、新一がプロポーズしてくれたんだけど、返事をする前に起こされたから、現実で返そうと思ってね」
「……は?」
 むすっと新一が唇を尖らせる。お腹がすいた、と言っていたのに、立ち上がろうとする僕の膝の上を跨いで膝立ちになる。
「新一?」
「勝手に夢のなかのオレに口説かれてんじゃねーよ」
 ……僕の恋人が、やきもちやきであることをすっかり失念していた。
 しなやかな腰に手を回し、斜めになったご機嫌を直すために、頬やまぶたにキスをする。すると、「ん」と唇を向けてくれたので、下唇を軽く食んでから、ちゅっと軽い音を立てて触れる。
「……今度、ちゃんとするから、楽しみにしてろよ」
 調子はずれの鼻歌混じりに、僕の頬を両手で掴んだ新一が、キスを返して、上機嫌に僕の上から降りて行く。
 
 夢でも、現実でも、新一くんは僕だけの最高に良い男だ。

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