そのほか
二週間ぶりのデートは生憎の雨だった。
晴れていたら、食後のドライブでイルミネーションにでも誘おうかと思っていたのに、このクソ寒い中、仕事で疲れきった恋人を連れまわせるはずもなく、計画は白紙となった。
老舗ホテルの17階に入っている鉄板焼き屋で、詰め込んだ150gの和牛サーロインが身体を重くする。
見慣れた我が家の門扉の前に、滑らかに車が止まった。
フロントガラスを流れる雨をワイパーが掃いていく。その規則正しい音に眠気を誘われているように、ゆっくりと瞬きをした。
「新一、ついたよ」
さっさとシートベルトを外した零は、オレの肩を揺すってこの時間に終止符を打とうとする。
もう少し一緒にいたいとか、そういう気持ちになんねーのかよ。
仕方なくシートベルトを外し、半眼で零に視線を向けた。零は身体をひねり手を伸ばすと、後部座席に置いていたコートの下から小ぶりの白い紙袋を取り出す。
「帰る前にひとつお願いがあるんだ」
身体を助手席に座るオレの方に向けた零は、眉を八の字にして、人差し指で頬を掻いた。
「なんだよ」
首を傾げたオレの膝の上に、紙袋が置かれる。
「それを僕に渡してくれないか?」
紙袋を覗き込む。
袋の中には、淡い色のリボンがかけられた暗色で長方形の箱が入っていた。それを紙袋から取り出すと、中のものが揺れた衝動で箱にぶつかったのかコトンと軽い音が聞こえてきた。
「なんですか、これ」
「チョコレートだから、そんなにカタカタ振らないでくれ」
箱を揺すっていた手をとめ、もう一度箱を観察する。ブランドロゴも、品質表示のシールもない箱は、中身のチョコレートが既製品ではなく手作りであることを示している可能性が高い。
「わざわざ作ったのかよ……どうも」
さっそく箱を開けて食おうとしたのに、大きな手が遮ってきた。
「いや、それはきみのじゃないんだ。僕に渡してくれ」
一拍置いて、零の言葉を反芻する。
さっきはオレにチョコを催促しようとして言い間違えたのかと思ってスルーしたけど、どうやらそうじゃないらしい。
零が求めてるのは、オレのチョコじゃなくて、オレに渡したチョコを返されることだということだ。つまり、それは……つまり、どういうことだ?
零の発言は、完全にオレの理解の範疇を超えていた。
「は? オレに作ったやつじゃねーの?」
「こういうのは適材適所で行こうと思ってね。きみはイベントごとに疎いから用意しないだろ? だから僕が、きみが僕に渡す分も用意したんだ。きみのはまた別にあるから、それを僕に」
「ごちゃごちゃうるせーな」
「あっ」
邪魔をする零の手から逃がれるため、運転席に背を向け、手早くリボンを解いた。
箱をあけると、6つの丸いチョコレートが並んでいる。それらはナッツが塗されていたり、チョコレートで線が描かれていたりとひとつひとつ違うデザインが施されていたけれど、オレが振ったせいかパウダーシュガーやココアパウダーが飛び散って見栄えが少しだけ悪くなっていた。
ど、れ、に、し、よ、う、か、な。
指を彷徨わせて、下段の左から二番目にあったココアパウダーをまとっているチョコを人差し指と親指で摘んで、口に押しこんだ。
「ん、……うまいぜ」
「僕のだって言ったのに」
オレが背を向けた時からチョコを取り返すのを諦めたらしい零は、ステアリングの上に寝かせた腕に頬をのせ、ため息をついていた。
チョコを奪われる心配がなくなって、安心して助手席に座り直す。
「おいしいかい?」
チョコより甘そうに蕩けた瞳には、オレが映っていた。
舌の上で、僅かにコーヒーの風味が香るほろ苦いチョコレートが溶けていく。
ミルクチョコレートよりも優しい手が、オレの口元に伸びてきた。その手に触れられる前に、身体を斜めに倒して、顔を近づける。
驚いたように丸くなる青灰色の瞳が可愛い。
不機嫌さを装うために、への字に曲げられていた唇に触れた。
いつもはふにふにする唇は、車内でかけている暖房のせいで乾燥してカサつき、唇が引っかかる。だから、いつもより少し長めにくっついて、はなれた。
「……こっちの方が、チョコより嬉しいだろ?」
「ずるいなあ」
零はそう言って唇を綻ばせたくせに、一瞬で不満気な顔を作り、物言いたげな視線を送ってきた。
まだ不機嫌ごっこは続くらしい。
ココアパウダーのついた指を舐める。
零の瞳が一瞬で、獲物を見定めるように獰猛な光に変わった。
おそらく指と同じく茶色に染まっていたはずの唇を、小さく覗かせた舌で舐めてみた。
「それとも、いらねーわけ?」
「……いるに決まってる」
ハンズアップした零は、右手で前髪を掻き上げた。茶色い粉がついた唇が薄く開いて、肉厚な舌を覗かせる。
容赦なく覆いかぶさってくる黒い影に、口角があがった。
「このまま、……ん、一人で、家に帰すなんていわねーよな」
呼吸を奪うようなキスの合間に囁いた声が、ワイパーの音に隠されていく。
フロントガラスを打ち付けるのは、いつのまにか雨からみぞれに変わっていた。重く湿った雪が積もっていく。
チョコの入った箱を落とされないように膝でしっかり挟んで、零の濡れた唇を親指で抑えた。
「今夜は寒いから、オレがあっためててやるよ」
綻んだ唇から漏れた息が親指にかかる。
夜はまだ長いのに、離れた唇が名残惜しくてもう一度だけキスをした。
リュックの底に埋もれたオレからのチョコは、明日の朝、気づかれねーように鞄に入れといてやろうと思う。