そのほか
オレには、面倒な恋人がいる。
♡
ぶるりと身体が震え、覚えた寒さで、意識が浮上した。
「ごめん、起こしちゃったね」
寝起き特有の甘い掠れた声が耳元で囁く。
ゆっくり瞬きを繰り返すと、ぼやけた視界がはっきりしてきた。
朝日を通す自由に跳ねた蜂蜜色の髪、ブルーグレーの柔らかく垂れた瞳。
冬の朝には少し羨ましくなる温かなキャラメル色の手が、オレの頬をくすぐる。
寝落ちする前、オレにがっしりしがみついていた降谷さんはベッドに座り、仰向けで横たわるオレの顔を覗き込んでいた。
昨夜の気怠さを引きずる身体で寝返りを打ち、降谷さんの手首を引っ張る。
「さみいよ」
「温かいスープでも作るから、新一はもう少し寝てて」
「スープは冷凍庫にある……」
欠伸を噛んで、もう一度降谷さんを引っ張った。
「アンタももう少し寝ようぜ。朝ごはんなら、作り置きがあるから……」
誰が作ったの、と布団に身体を戻した降谷さんが聞いてきた。
寝室のエアコンは昨日から一度もつけていない。おかげで、布団の外の空気を纏った降谷さんの上半身はひんやりとしていた。
布団でぬくぬくの身体に、その冷たさは心地良い。
降谷さんの少し冷たい身体に頬をくっつけた。戻ってきた眠気に逆らわずに目をつむる。
「ねえ、新一。きみが作り置きの料理なんてするはずがないよね? いや、決めつけるのはいけないな。もしかしたら、僕がいない間に料理に目覚めたのかもしれないし……」
降谷さんはひとりでぶつぶつ喋っている。その声の調子がちょうどいい子守唄になって、オレは至福の二度寝タイムを堪能するのだった。
♡
「降谷さん、何が食いたい?」
冷蔵庫と冷凍庫からメモのついたタッパーを取り出して、カウンターキッチンの上に並べる。タッパーの中には、レンジで温めればすぐに食べられる作り置きのおかずがいろいろ入っている。
作ったのはオレじゃないから、開けないとなにがあるかはわかんねーけど。
いつも降谷さんから「ご飯はきちんと食べなさい」と口酸っぱくして言われているから、今回は降谷さんと一か月半会わなくても、こうしてきちんと食事を用意して食べていることを褒められるだろうと思ったのに、降谷さんはオレを褒めずに、眉間にしわを寄せ、タッパーを見ていた。
「嫌いなものでもあったのかよ」
「いや……」
「あ、心配しなくても、オレじゃなくてプロが作った料理だから、どれも全部めちゃくちゃうめーよ」
「プロ? 料理人の知り合いができて家にあげたってことかな」
「ちげーって。今話題のレンタルシェフってやつ。頼むとプロの料理人が家に来て、予算内でメシを作ってくれるんだ。作り置きもできるっつーから、頼んでみたんだけど、降谷さんが作ってくれんのと一緒で、時間たってもうめーから、もうこれで頼むの三回目」
「僕のと一緒ね……」
降谷さんはにっこり笑って、手直にあったタッパーの青色の蓋を外し、出てきた煮物を細めた瞳でじろじろ眺めてから電子レンジに突っ込んだ。
「お腹が空いているから、ここに残っているもの全部食べてもいいかな?」
「いいけど……結構量あるぜ?」
「大丈夫。これくらい全部食べられるよ。それよりレンタルシェフって女の人?」
「変な心配しなくても、男だよ。レンタルシェフは男だけの家に女性シェフは派遣しないって規約にもちゃんと書いてあるから」
冷蔵庫からヨーグルトを取り出して、スツールに座る。
降谷さんは、八個のタッパーをそれぞれ電子レンジで温めてからオレの隣に座り、ぶつぶつ味付けを考察しながら、全てを完食した。
昨晩すげえ運動してたもんな……。オレは逆に食べれなくなるけど、降谷さんは動いた分食べるタイプだ。
そっと降谷さんから顔をそらし、火照った耳たぶを冷えた指先でつまんだ。
「ひとつ聞きたいんだけど」
降谷さんの食後、グラスに注いでもらったアイスコーヒーに口をつけようとすると、降谷さんが真剣な表情でオレを見てきた。
「あんだよ……」
重大な話でもされるんだろうか。
グラスを持った手を下ろし、降谷さんと視線を合わせる。
「どういう基準で選んだ?」
「……なにが?」
「レンタルシェフだよ。サイトを確認したけれど、東都に出張可能なシェフは五十人近くいるよね。どうやって選んだんだ?」
「どうって……適当だけど? 今回は和食が食いてえなって思って、和食のランキングで一位にいた人で、その前のイタリアンとフレンチは、サンプル写真でうまそうだなって思ったやつ」
「ホォー……」
「なんだよ。気に入った?」
降谷さんはにっこり笑って、オレの前にスマホを置いた。その画面には、オレが会員登録して頼んでいるレンタルシェフのページが表示されている。
「イタリアンとフレンチはどの人? どんな料理がおいしいと感じた?」
どうやらレンタルシェフは、降谷さんの食事に対する好奇心を刺激してしまったらしい。
めんどくせえことになった。
そう思いつつ、恋人の好奇心を満たすため、朧気な記憶を頼りに質問に答える。
「イタリアンはこの、伊勢崎ってひと……フレンチは、多賀谷だったかな……? うまかったのは、うーん、トマトとチーズのやつ、あと洋風肉じゃがみてーな? よくわかんねーけどそんなやつ。肉料理ははずれがなかったはず」
「……覚えてないの?」
「うめーとは思うんだけど、降谷さんが作ってくれたのと違って、また食いてえから作って欲しいってのはなかったかな」
降谷さんが大きく息を吐く。
「なあ、僕にもおすすめのシェフがいるんだけど、新一に紹介してもいい?」
「降谷さんのおすすめ?」
「うん。素人だけれどなかなかの腕で、きみの舌ならとくに気に入ってくれると思う」
「へえ、降谷さんがそこまで言う人ってどんなだろ。紹介してよ、今度呼んでみる」
「うん、今から連絡するね」
そう言って降谷さんは、オレの前からスマホを回収し、真剣な表情で文字を打ち始めた。
画面を覗き込まないように気を付けながら、降谷さんの顔を横目で睨む。
……ンな連絡あとでいいだろ。せっかく、久しぶりに二人でいるのに。
むすっと唇を結ぶと同時に、ジーンズのケツポケットの中でスマホが震えた。
取り出すと、メッセージアプリに見覚えのないアカウントが追加されている。
「出張カフェAmuro……」
見覚えはないけれど、誰がアカウントの持ち主かは察することができる。
アカウント名を読み上げ、隣に半眼を向けた。
降谷さんは目尻を緩めてオレを見た後、またスマホに向き直った。
出張カフェAmuroより新着メッセージです
降谷さんは突如『出張カフェAmuro』なるサービスを開始しだした。
茶番だ。明け方の睡眠だけじゃ疲れがとり切れなかったのかもしれない。今夜はゆっくり寝かせようと思いつつ、無視するのは可哀想で渋々茶番に付き合う。
『出張カフェAmuro』は本日十八時から営業をスタートするらしい。今の時間は十三時。十八時まで昼寝でもするんだろうか。
しょうもないやり取りを続け、なぜだか生涯契約を結ばれることになってしまった。
スマホをカウンターに放ると、隣で降谷さんがカウンターに頬杖をついてオレをじっと見ている。
目を合わせたら絶対に恥ずかしい目に遭わされる。経験談だ。だけど、わかっていても見てしまう。だって、こういう時の降谷さんはめちゃくちゃオレが好きだっていう顔をしている。
降谷さんは頬杖をついたまま小首を傾げ、蕩けた甘い目尻でオレを射抜いた。
筋張った器用に動く長い指が、そっとオレの頬に触れる。
「僕の前で、他のやつの料理を褒めないでよ」
ぎゅっと息の根が止まった。
もしかして、もしかしなくても、レンタルシェフにやきもちやいてたってことか?
とんでもなく厄介で面倒なオレの恋人は、時々すげえ可愛い。
思わず抱きしめると、そのまま寝室まで引きずられて、十八時まで大人のお昼寝をすることになってしまった。