そのほか
アイスグレーの瞳とぶつかった。
カラン。
テーブルの上、アイスコーヒーに沈んだ氷が音を立てて崩れる。
生まれた時から住んでいる自宅のリビングなのに、どうしてだかそわそわして落ち着かない気分になる。
目が合ってすぐに伏せられた瞳は、髪よりも少し濃い亜麻色のまつ毛で半分陰っていた。
「工藤くん、近いよ」
降谷さんが身じろいだ。長イスに並んで座っていたオレから少し距離をとり、肘掛けの方に身を寄せる。
(あれ? オレたちって付き合ってるんだよな?)
とてもそうは思えない1.5人分の距離があいた長イスを眺めた。広がった距離を詰めようか悩んで、答えが出ない。
結局そのままの距離で、三十分ほどとりとめない話をして降谷さんは帰って行った。
俺と降谷さんは、付き合っている。
キスもしたことがないし、降谷さんから好きだと言われたこともないけれど。
オレが降谷さんに告ったのは今年の春、帝丹高校の卒業式の日だ。
時間ができたからお祝いの言葉だけ伝えたくて――という理由で帝丹高校にやってきた降谷さん(あの一瞬は安室さんだった)が、あっという間にポアロで話したことがあるんだという女子たちに取り囲まれているのを見て、冷静でいられなくなってしまったのが原因だ。
衝動的に、愛想笑いで身動きできなくなった降谷さんの腕を掴み、連れ出した。
人気を避け、たどり着いたのは校舎裏の桜の下。
淡い色の花が咲き誇るその場所は、さっきまで自分が何度も呼び出された場所でもあり、自分が連れ出す立場になって、女の子たちの気持ちが痛いほどよくわかった。
上昇する心拍数。身体中に滲むような汗をかいていた。
降谷さんは、満開と呼ぶには早い七分咲きの桜を見上げ、瞳を細めた。
ひらり。
その時舞った花弁が、降谷さんの髪にくっついた。日の光が当たってきらきら輝く金色をピンクが彩る。
心臓が、絞られた。ぎゅんっと胸の奥でねじ切れられそうな心臓を制服の上から掴む。
「……、です」
もういっそ吐きそうだった。
砂利が鳴る。降谷さんが身体の向きを変え、オレに向き合った。
黒い革靴にスラックス、ハーフタートルネックの白いニット、黒いジャケット。
順番に見上げて、最後に降谷さんの顔にたどりつく。
片手で口元を隠していた降谷さんは、首を横に三十度傾げた。
「聞こえなかったから、もう一度言ってくれないか」
やけくそで降谷さんの胸倉を掴んだ。
「……っ、好きだ、つってんですよ。オレと付き合って下さい」
降谷さんの顎に鼻がぶつかりそうになり、慌てて手を離す。
降谷さんはなにかを言いかけ、口を閉ざした。そして、十五秒ほど考え込んで、「いいよ」と言った。
どう考えても両想いだったとは思えない返答だ。けれど、付き合っていくうちに好きになってもらえばいいかと考えたオレは、このチャンスをものにすることにしたのだった。
もうすぐ付き合ってから一年が経つ。
大衆居酒屋の喧騒にも負けない大きなため息が口から零れた。
(零れる、って言葉だけで、降谷さんの名前を思い出しちまうのも末期だよな……名前で呼んだことねえけど)
ジョッキに入った烏龍茶が物寂し気に、オレを見上げる。
それを一気に呷って空にすると、隣に座っていた服部がオレの肩に手を回した。
「なんや工藤、悩み事か? ほんなら大親友の俺に話してみい」
誰が企画したのかもわからないまま強制参加させられたクラスのクリスマス会兼忘年会。つっても現役で大学合格したやつらは未成年だから、居酒屋だけど酒類注文はNGだ。
オレの隣には服部と白馬、正面には黒羽が座っている。
大学に入ってから、この三人とは共通科目以外の講義も被りまくっているせいでよく一緒にいる。
そんないつもと変わらない顔ぶれを見渡して、もう一度溜息を吐いた。
「本当に話してもいいんだな?」
「……その反応は、いつものだね」
オレの右側にいた白馬がちらりと横目でオレを見て、黒羽へ視線を戻した。
「はい解散」
パンッと黒羽が両手を叩く。服部がオレから腕を下ろし、若干オレと距離をとった。
こいつらはオレと降谷さんが付き合っているのを知っているけれど、他人が口出しすると余計拗れると言ってあまり話を聞きたがらない。
(いや、拗れてねーけどな)
空っぽのジョッキの水滴を指で突っつく。
「あれ? 工藤ジョッキ空じゃん。なんか頼めよ」
服部の前に座ってた飯野が奥の席のやつにタッチパネル式のメニューをとるように頼む。
「じゃあ、烏龍茶」
「うい、了解」
飯野はぱぱっと注文を済ませると、テーブルの上に肘をつき、オレたちの方へ身体を向けた。
「つか、工藤たちがこういうとこくんの珍しいよな。楽しんでる、って聞こうと思ったんだけど、ちらっと聞こえちゃった。工藤悩みあんの?」
「あー、友だちの話な」
適当に誤魔化す。
飯野はへらりと笑って身を乗り出してきた。
「おっけー、友だちの話な。じゃあその悩みって恋愛関係だろ」
「……なんでわかるんだよ」
「そりゃオレが恋愛マスターだから? なんつって」
白馬が白けた視線を飯野に向ける。服部は「そら、つまらん冗談やな」と投げやりに突っ込み、黒羽は飯野に「関わらないほうがいいぜ」とアドバイスをしていた。
(恋愛マスター……)
飯野は周りにはいないタイプの人間だ。
派手な蒼い髪は、どこにいても注目を集めているし、自称恋愛マスターというだけあっていつもは女の子たちに囲まれている。
そういえば夏くらいには、ミスキャンパスと付き合っているという噂もあった。
(これはチャンスじゃねーか?)
飯野のアドバイスがあれば、もしかしたら停滞しているオレと降谷さんの関係に一石を投じることができるかもしれない。
ただあんまり喋ったことのないやつに全てを打ち明ける気にもならなくて、「友だちが好きな人に告ってオッケーしてもらったけど、向こうはそいつのことがたぶん恋愛感情では好きじゃなくて、でも一年は付き合ってるし、向こうから遊びにさそってくることもある。けど、キスもしたことないし、自分から近寄ると距離をとられる」と説明した。
客観的に自分の状況を述べると、ほとんど脈がないことがわかってつらい。
だんだん声が小さくなっていく。
「……っていう、関係を変えるにはどうしたらいいのかっていう友だちの悩み」
「それさ、押しすぎなんよ。いったん引いた方がよさげ」
オーダーした烏龍茶を店員さんが持ってくる。それを飯野が受けとって、オレの前に置いた。
「押しすぎ?」
「そ。余裕ないのが向こうにも伝わってんの。その子が好きじゃないのに告白オッケーしたのは、くど……うの友人のことが、好きまではいかないけど、いいかなって思ってたからだろ。自分から誘ってくるってことはいいとこまでいってんだよ。けど、そこでグイグイいったら、身体目的なのかな、とかいろいろ疑うわけ。それでく、相手の気持ちを確かめてんのな。だから、一旦距離をとる」
「距離をとる」
「そうそ。向こうは工藤から」
「友だちな」
「工藤の友だちから好かれてるって絶対的な自信があるから、思わせぶりな態度とるんだよ。で、つかず離れず自分にとって都合の良い扱いをするんだけど、そこで押しても悪手な。ここは一旦引いて、気持ちが冷めたフリをする」
「なんで?」
「好き好き言われてたのに、言われなくなると気になるだろ? それがくど、じゃなくて、相手のことを考えるきっかけになる。押して駄目なら引いてみろってよく言うじゃん。それよ。で、向こうが不安になって、行動してきたら成功ってわけ」
「……なるほど。友だちに早速伝えとくな」
飯野のアドバイスを頭に刷り込んで頷いた。
「おー、また結果教えてよ」
首をこてんっと倒して笑った飯野が席を立って、後ろの女子ばっかりの卓に移動する。
「……全然参考にならなそうやな」
黙って話を聞いていた服部が肩を竦めた。
「そうか? 試してみねーとわからないだろ」
スマホをひっくり返した。時間表示は二十一時三十分。そろそろ飲み会もお開きの時間だった。
スマホが震え、メッセージの受信を知らせる。送り主は「0」。降谷さんだ。
いつもなら気付いたらすぐにメッセージをひらくけれど、スマホを裏返しにした。急を要する事件があった時は電話が来るから、差し迫った用事ではないはずだ。
「ダメだよ、未成年がこんなに遅くまで出歩いていたら」
米花駅の前で突然咎めるような声が聞こえ、腕をとられた。顔を向けると、白い息を切らした降谷さんが隣に立っている。
「降谷さん……?」
二十四時前の駅前広場には、すっかり人気がない。電車の到着時間を過ぎるとみんな足早に自宅へ帰っていくからだ。この時間だと終バスも出ているから、駅にいるのはタクシー待ちの列に並ぶ人たちくらいだった。
「連絡がないから心配した。お酒は飲んでいないみたいだね」
降谷さんが、オレの手に頬を当てる。コートも着ていないスーツ姿なのに降谷さんの手は暖かかった。きっと、近くに愛車を停めているに違いない。
いつものようにぽーっと降谷さんを見上げそうになって、飯野のアドバイスを思い出した。ぐっと顔を見たい気持ちを堪え、足を後退させ、降谷さんの手から逃れる。
「途中でスマホの電源切れちゃったんです。すみません、急ぎの用でしたか?」
「……いや、今日は飲み会だって聞いていたからね。ハメを外しすぎて、終電を逃したりしたんじゃないかと心配して連絡したんだ」
「終電逃したとかだったら、近くの友だちの家に泊まるか、カラオケか満喫で帰りそびれたやつらと時間潰すんで気にしなくていいのに」
あんまりグイグイいかないようにしようと思うと、普通の態度がわからなくなり、態度に困る。とりあえず地面を見つめていると、顎を掴まれた。力づくで顔を上に向けさせられる。
「話すときは、人の顔を見ようか」
駅から漏れる煌々とした光が薄暗い広場にまで届いて、降谷さんの瞳がぎらりと光っていた。
「ふぇい……」
勢いに飲まれ、反射的にこくりと頷く。
降谷さんは、にこっと笑ってオレから手を離した。
「近くのパーキングに車を停めているから、家まで送るよ」
「や、大丈夫です」
二つ返事で後を着いていきたいところを断って、『引く』ことを心がける。
「じゃあ、おやすみなさい」
会釈をして踵を返す。すると降谷さんがオレの腕を掴んだ。
(えっ、もう効果がでたのか? 飯野すげえ)
にやけそうな唇を一度噛み、顔を引き締めてから振り返る。
「まだなにか?」
「……今日の飲み会、いい出会いでもあった?」
そう問われ、脳裏に浮かんだのは飯野の顔だった。
今日初めて出会ったわけではないけれど、挨拶以外の会話をしたのは初めてだ。それであんなに有意義なアドバイスをもらい、今ちゃんと活用できているのだ。それは、いい出会いだったと言えるだろう。
「そうですね……うん。そうかも」
またにやけそうになってしまう。そこでもう一度『引く』を思い出し、降谷さんの手を振り払った。
「それだけですか? じゃあ、オレもう」
振り払ったばかりの手が追いかけてきて、オレの手首を掴んだ。そのまま強い力で引き寄せられ、バランスを崩し前のめりになる。転ばないよう突き出した手は降谷さんの胸で止まり、腰に腕が回された。オレと降谷さんの身体の間で腕が押しつぶされる。
「いつまでも、僕がきみを甘やかしていると思ったら大間違いだ」
「は?」
(アンタに甘やかされたことなんてないけど?!)
顔をあげて、鼻のてっぺんにまで迫ってくる顔に驚いて、足の力が抜けた。がくんっと身体が下がるオレの身体を腕で支え、降谷さんが身体を倒してくる。
「ちょっ、と! 転んじゃうだろ!」
悪ふざけする降谷さんの胸にしがみつき、文句を言った。降谷さんは鈍い光を浮かべた瞳を細める。
がぶり。
大きな口が、オレの口に噛みついた。
(は?)
頭の中が疑問符で埋まっていく。じゅるじゅるちゅぱちゅぱ、脳髄を啜られているような音があたりに響いている。
目尻は緩やかに下がっているのに、目の奥が座っているそんな降谷さんの瞳とかち合ったまま、目を閉じることもそらすこともできず固まっていることしかできなかった。
だんだん頭がくらくらしてくる。うっすら意識が白く染まっているような気がした。
「ちゃんと息をしろ」
「ふっ、んぅ……っ」
一瞬口を離した降谷さんが舌を出し、呼吸を指示する。方法を教えてもらえず、また息ができなくなる。
もう無理だ。
完全に足の力が抜け、その場に座り込んだオレを見下ろして、降谷さんは自分の濡れた唇を舐めた。
「へたくそ」
必死に呼吸を整えているオレの前に降谷さんがしゃがんだ。
「もういいか。数え年では二十歳だもんね」
突然年齢の話をする降谷さんについていけず、それよりも形の良い柔らかかった唇の方が気になってしまう。
(気のせいじゃなかったら今オレたち、キスしてたよな?)
じいっと唇をガン見したせいか無意識に近づけてしまった顔に気付き、慌てて身体を後ろに倒した。
降谷さんの眉間にしわが寄る。
「今夜は家に帰れると思うなよ」
カラン。
テーブルの上、アイスコーヒーに沈んだ氷が音を立てて崩れる。
生まれた時から住んでいる自宅のリビングなのに、どうしてだかそわそわして落ち着かない気分になる。
目が合ってすぐに伏せられた瞳は、髪よりも少し濃い亜麻色のまつ毛で半分陰っていた。
「工藤くん、近いよ」
降谷さんが身じろいだ。長イスに並んで座っていたオレから少し距離をとり、肘掛けの方に身を寄せる。
(あれ? オレたちって付き合ってるんだよな?)
とてもそうは思えない1.5人分の距離があいた長イスを眺めた。広がった距離を詰めようか悩んで、答えが出ない。
結局そのままの距離で、三十分ほどとりとめない話をして降谷さんは帰って行った。
俺と降谷さんは、付き合っている。
キスもしたことがないし、降谷さんから好きだと言われたこともないけれど。
オレが降谷さんに告ったのは今年の春、帝丹高校の卒業式の日だ。
時間ができたからお祝いの言葉だけ伝えたくて――という理由で帝丹高校にやってきた降谷さん(あの一瞬は安室さんだった)が、あっという間にポアロで話したことがあるんだという女子たちに取り囲まれているのを見て、冷静でいられなくなってしまったのが原因だ。
衝動的に、愛想笑いで身動きできなくなった降谷さんの腕を掴み、連れ出した。
人気を避け、たどり着いたのは校舎裏の桜の下。
淡い色の花が咲き誇るその場所は、さっきまで自分が何度も呼び出された場所でもあり、自分が連れ出す立場になって、女の子たちの気持ちが痛いほどよくわかった。
上昇する心拍数。身体中に滲むような汗をかいていた。
降谷さんは、満開と呼ぶには早い七分咲きの桜を見上げ、瞳を細めた。
ひらり。
その時舞った花弁が、降谷さんの髪にくっついた。日の光が当たってきらきら輝く金色をピンクが彩る。
心臓が、絞られた。ぎゅんっと胸の奥でねじ切れられそうな心臓を制服の上から掴む。
「……、です」
もういっそ吐きそうだった。
砂利が鳴る。降谷さんが身体の向きを変え、オレに向き合った。
黒い革靴にスラックス、ハーフタートルネックの白いニット、黒いジャケット。
順番に見上げて、最後に降谷さんの顔にたどりつく。
片手で口元を隠していた降谷さんは、首を横に三十度傾げた。
「聞こえなかったから、もう一度言ってくれないか」
やけくそで降谷さんの胸倉を掴んだ。
「……っ、好きだ、つってんですよ。オレと付き合って下さい」
降谷さんの顎に鼻がぶつかりそうになり、慌てて手を離す。
降谷さんはなにかを言いかけ、口を閉ざした。そして、十五秒ほど考え込んで、「いいよ」と言った。
どう考えても両想いだったとは思えない返答だ。けれど、付き合っていくうちに好きになってもらえばいいかと考えたオレは、このチャンスをものにすることにしたのだった。
もうすぐ付き合ってから一年が経つ。
大衆居酒屋の喧騒にも負けない大きなため息が口から零れた。
(零れる、って言葉だけで、降谷さんの名前を思い出しちまうのも末期だよな……名前で呼んだことねえけど)
ジョッキに入った烏龍茶が物寂し気に、オレを見上げる。
それを一気に呷って空にすると、隣に座っていた服部がオレの肩に手を回した。
「なんや工藤、悩み事か? ほんなら大親友の俺に話してみい」
誰が企画したのかもわからないまま強制参加させられたクラスのクリスマス会兼忘年会。つっても現役で大学合格したやつらは未成年だから、居酒屋だけど酒類注文はNGだ。
オレの隣には服部と白馬、正面には黒羽が座っている。
大学に入ってから、この三人とは共通科目以外の講義も被りまくっているせいでよく一緒にいる。
そんないつもと変わらない顔ぶれを見渡して、もう一度溜息を吐いた。
「本当に話してもいいんだな?」
「……その反応は、いつものだね」
オレの右側にいた白馬がちらりと横目でオレを見て、黒羽へ視線を戻した。
「はい解散」
パンッと黒羽が両手を叩く。服部がオレから腕を下ろし、若干オレと距離をとった。
こいつらはオレと降谷さんが付き合っているのを知っているけれど、他人が口出しすると余計拗れると言ってあまり話を聞きたがらない。
(いや、拗れてねーけどな)
空っぽのジョッキの水滴を指で突っつく。
「あれ? 工藤ジョッキ空じゃん。なんか頼めよ」
服部の前に座ってた飯野が奥の席のやつにタッチパネル式のメニューをとるように頼む。
「じゃあ、烏龍茶」
「うい、了解」
飯野はぱぱっと注文を済ませると、テーブルの上に肘をつき、オレたちの方へ身体を向けた。
「つか、工藤たちがこういうとこくんの珍しいよな。楽しんでる、って聞こうと思ったんだけど、ちらっと聞こえちゃった。工藤悩みあんの?」
「あー、友だちの話な」
適当に誤魔化す。
飯野はへらりと笑って身を乗り出してきた。
「おっけー、友だちの話な。じゃあその悩みって恋愛関係だろ」
「……なんでわかるんだよ」
「そりゃオレが恋愛マスターだから? なんつって」
白馬が白けた視線を飯野に向ける。服部は「そら、つまらん冗談やな」と投げやりに突っ込み、黒羽は飯野に「関わらないほうがいいぜ」とアドバイスをしていた。
(恋愛マスター……)
飯野は周りにはいないタイプの人間だ。
派手な蒼い髪は、どこにいても注目を集めているし、自称恋愛マスターというだけあっていつもは女の子たちに囲まれている。
そういえば夏くらいには、ミスキャンパスと付き合っているという噂もあった。
(これはチャンスじゃねーか?)
飯野のアドバイスがあれば、もしかしたら停滞しているオレと降谷さんの関係に一石を投じることができるかもしれない。
ただあんまり喋ったことのないやつに全てを打ち明ける気にもならなくて、「友だちが好きな人に告ってオッケーしてもらったけど、向こうはそいつのことがたぶん恋愛感情では好きじゃなくて、でも一年は付き合ってるし、向こうから遊びにさそってくることもある。けど、キスもしたことないし、自分から近寄ると距離をとられる」と説明した。
客観的に自分の状況を述べると、ほとんど脈がないことがわかってつらい。
だんだん声が小さくなっていく。
「……っていう、関係を変えるにはどうしたらいいのかっていう友だちの悩み」
「それさ、押しすぎなんよ。いったん引いた方がよさげ」
オーダーした烏龍茶を店員さんが持ってくる。それを飯野が受けとって、オレの前に置いた。
「押しすぎ?」
「そ。余裕ないのが向こうにも伝わってんの。その子が好きじゃないのに告白オッケーしたのは、くど……うの友人のことが、好きまではいかないけど、いいかなって思ってたからだろ。自分から誘ってくるってことはいいとこまでいってんだよ。けど、そこでグイグイいったら、身体目的なのかな、とかいろいろ疑うわけ。それでく、相手の気持ちを確かめてんのな。だから、一旦距離をとる」
「距離をとる」
「そうそ。向こうは工藤から」
「友だちな」
「工藤の友だちから好かれてるって絶対的な自信があるから、思わせぶりな態度とるんだよ。で、つかず離れず自分にとって都合の良い扱いをするんだけど、そこで押しても悪手な。ここは一旦引いて、気持ちが冷めたフリをする」
「なんで?」
「好き好き言われてたのに、言われなくなると気になるだろ? それがくど、じゃなくて、相手のことを考えるきっかけになる。押して駄目なら引いてみろってよく言うじゃん。それよ。で、向こうが不安になって、行動してきたら成功ってわけ」
「……なるほど。友だちに早速伝えとくな」
飯野のアドバイスを頭に刷り込んで頷いた。
「おー、また結果教えてよ」
首をこてんっと倒して笑った飯野が席を立って、後ろの女子ばっかりの卓に移動する。
「……全然参考にならなそうやな」
黙って話を聞いていた服部が肩を竦めた。
「そうか? 試してみねーとわからないだろ」
スマホをひっくり返した。時間表示は二十一時三十分。そろそろ飲み会もお開きの時間だった。
スマホが震え、メッセージの受信を知らせる。送り主は「0」。降谷さんだ。
いつもなら気付いたらすぐにメッセージをひらくけれど、スマホを裏返しにした。急を要する事件があった時は電話が来るから、差し迫った用事ではないはずだ。
「ダメだよ、未成年がこんなに遅くまで出歩いていたら」
米花駅の前で突然咎めるような声が聞こえ、腕をとられた。顔を向けると、白い息を切らした降谷さんが隣に立っている。
「降谷さん……?」
二十四時前の駅前広場には、すっかり人気がない。電車の到着時間を過ぎるとみんな足早に自宅へ帰っていくからだ。この時間だと終バスも出ているから、駅にいるのはタクシー待ちの列に並ぶ人たちくらいだった。
「連絡がないから心配した。お酒は飲んでいないみたいだね」
降谷さんが、オレの手に頬を当てる。コートも着ていないスーツ姿なのに降谷さんの手は暖かかった。きっと、近くに愛車を停めているに違いない。
いつものようにぽーっと降谷さんを見上げそうになって、飯野のアドバイスを思い出した。ぐっと顔を見たい気持ちを堪え、足を後退させ、降谷さんの手から逃れる。
「途中でスマホの電源切れちゃったんです。すみません、急ぎの用でしたか?」
「……いや、今日は飲み会だって聞いていたからね。ハメを外しすぎて、終電を逃したりしたんじゃないかと心配して連絡したんだ」
「終電逃したとかだったら、近くの友だちの家に泊まるか、カラオケか満喫で帰りそびれたやつらと時間潰すんで気にしなくていいのに」
あんまりグイグイいかないようにしようと思うと、普通の態度がわからなくなり、態度に困る。とりあえず地面を見つめていると、顎を掴まれた。力づくで顔を上に向けさせられる。
「話すときは、人の顔を見ようか」
駅から漏れる煌々とした光が薄暗い広場にまで届いて、降谷さんの瞳がぎらりと光っていた。
「ふぇい……」
勢いに飲まれ、反射的にこくりと頷く。
降谷さんは、にこっと笑ってオレから手を離した。
「近くのパーキングに車を停めているから、家まで送るよ」
「や、大丈夫です」
二つ返事で後を着いていきたいところを断って、『引く』ことを心がける。
「じゃあ、おやすみなさい」
会釈をして踵を返す。すると降谷さんがオレの腕を掴んだ。
(えっ、もう効果がでたのか? 飯野すげえ)
にやけそうな唇を一度噛み、顔を引き締めてから振り返る。
「まだなにか?」
「……今日の飲み会、いい出会いでもあった?」
そう問われ、脳裏に浮かんだのは飯野の顔だった。
今日初めて出会ったわけではないけれど、挨拶以外の会話をしたのは初めてだ。それであんなに有意義なアドバイスをもらい、今ちゃんと活用できているのだ。それは、いい出会いだったと言えるだろう。
「そうですね……うん。そうかも」
またにやけそうになってしまう。そこでもう一度『引く』を思い出し、降谷さんの手を振り払った。
「それだけですか? じゃあ、オレもう」
振り払ったばかりの手が追いかけてきて、オレの手首を掴んだ。そのまま強い力で引き寄せられ、バランスを崩し前のめりになる。転ばないよう突き出した手は降谷さんの胸で止まり、腰に腕が回された。オレと降谷さんの身体の間で腕が押しつぶされる。
「いつまでも、僕がきみを甘やかしていると思ったら大間違いだ」
「は?」
(アンタに甘やかされたことなんてないけど?!)
顔をあげて、鼻のてっぺんにまで迫ってくる顔に驚いて、足の力が抜けた。がくんっと身体が下がるオレの身体を腕で支え、降谷さんが身体を倒してくる。
「ちょっ、と! 転んじゃうだろ!」
悪ふざけする降谷さんの胸にしがみつき、文句を言った。降谷さんは鈍い光を浮かべた瞳を細める。
がぶり。
大きな口が、オレの口に噛みついた。
(は?)
頭の中が疑問符で埋まっていく。じゅるじゅるちゅぱちゅぱ、脳髄を啜られているような音があたりに響いている。
目尻は緩やかに下がっているのに、目の奥が座っているそんな降谷さんの瞳とかち合ったまま、目を閉じることもそらすこともできず固まっていることしかできなかった。
だんだん頭がくらくらしてくる。うっすら意識が白く染まっているような気がした。
「ちゃんと息をしろ」
「ふっ、んぅ……っ」
一瞬口を離した降谷さんが舌を出し、呼吸を指示する。方法を教えてもらえず、また息ができなくなる。
もう無理だ。
完全に足の力が抜け、その場に座り込んだオレを見下ろして、降谷さんは自分の濡れた唇を舐めた。
「へたくそ」
必死に呼吸を整えているオレの前に降谷さんがしゃがんだ。
「もういいか。数え年では二十歳だもんね」
突然年齢の話をする降谷さんについていけず、それよりも形の良い柔らかかった唇の方が気になってしまう。
(気のせいじゃなかったら今オレたち、キスしてたよな?)
じいっと唇をガン見したせいか無意識に近づけてしまった顔に気付き、慌てて身体を後ろに倒した。
降谷さんの眉間にしわが寄る。
「今夜は家に帰れると思うなよ」