同棲設定
朝から、鼻水が止まらなかった。
事務所机の上に持ってきた箱ティッシュをつまみ、だらだらこぼれてくる鼻を拭う。昼過ぎからは、頭もガンガン痛みだし、変な寒気もする。喉もイガイガして、喉に棘が刺さったような不快感があった。
(……完全に風邪だよな)
幸い今日は、依頼人との約束もなく書類仕事だけだ。一人だけ雇っている事務員も休みで、事務所にはオレ一人しかいない。
座ってるのもしんどくて、ダルい身体を机に突っ伏した。たらり、鼻水が垂れる。丸めたティッシュで鼻を押さえ、机に伏せていたスマホを手に取った。
「……忙しいかな」
一緒に暮らしている恋人の名前を呼びだして、メッセージを送る。『今日、何時に帰れそう?』三分経っても既読がつかない。メッセージを削除して、送り直した。『悪い、誤爆』犬が頭を下げている、ごめんのスタンプも送っておく。
はあ、と息を吐き、目を瞑った。
(……一回寝たら、体力回復するだろ)
スマホを伏せ、枕代わりに自分の腕を敷く。
身体は既に限界を迎えていたようで、すぐに意識が遠のいていった。
……ルル、プルルルルッ………!
遠くの方で、電話のコールが鳴り響いている。とらなくちゃと思うのに、腕が言うことを聞かない。目蓋が重い。意識は現実に近いところまで浮上しているのに、身体はまだ眠ったままでいるみたいだった。
「……はい、お電話ありがとうございます。工藤探偵事務所、助手の安室が承ります」
コール音が消えた、と思ったら耳のすぐ近くで、優しい声がした。
(工藤探偵事務所、助手の安室、だって)
くふ、と笑う。
頭を柔らかな手つきで撫でられた。
もう成人してから五年も経つ。オレの頭をこんな風に触るのは、零さんくらいだ。
ほっとしたら、また意識が飛んで行ってしまった。
「……熱が高そうな」
小さく呟く声が聞こえて、まぶたを薄く持ち上げた。
「れ、……ん」
ガサガサの声が、喉に縺れてうまく声が出ない。喉を押さえる。零さんが痛ましそうな顔でオレを見下ろし、額に大きな手を当てた。水仕事でもしていたのか、ひんやりとして冷たい。目をとじて、「もっと」と強請ると、もう片方の手で頬にも触れてくれた。
「志保さんが解熱剤を出してくれたから、食事をしたら飲もうか」
起きれる?、という問いかけに、身体を起こそうとする。首や、足の付け根、脇が痛む。思わず顔を顰めてしまう。零さんが、オレの背中に腕をいれて、抱き起してくれた。ベッドヘッドとオレの間にクッションを挟み、座りやすいように整えてくれる。
「お粥とスープ、ゼリー。どれなら食べられそう?」
「……ゼリー」
オレが風邪をひくと、零さんは決まってハチミツとレモンのゼリーを作ってくれる。食欲は全然ないけれど、それだったら食べたくてゼリーを求めた。
待っていて、と言った零さんは、すぐに期待通りのゼリーを持って戻ってきてくれた。透明のカップに、レモンの輪切りと、蜂蜜色のゼリーが入っていて見た目も綺麗だ。
「これ好き。味わかんねぇけど」
喉が痛くて声が出ないから、音のない声で伝える。零さんは、目尻に小さな皺を寄せた。
ひんやりしたカップを手に持って、スプーンでゼリーをすくって口に含む。鼻が馬鹿になっているせいで、味はわからないし、喉を通過するにも痛みがある。これが零さんの作ったゼリーじゃなければ、絶対に手の動きを止めていた。
「……いっぱい作ったから、治ってからも食べるといいよ」
「ん」
ゆっくり時間をかけてゼリーを完食する。すぐにカップとスプーンは回収され、代わりに、水の入ったグラスと錠剤を渡された。薬を飲んで、水を飲み干す。空になったグラスも零さんに渡す。零さんは、オレの頭を撫でた。
(……子どもじゃねえっつーの)
喉が傷んで声がでないから、代わりに下唇を尖らせ、布団にもぐりこむ。零さんはクッションを回収すると、寝室の電気を消し、扉を開けたまま出て行ってしまった。
暗くなった寝室に、廊下の光が僅かに入り込む。リビングの扉も開けてあるのか、キッチンで動く零さんの音も聞こえてきた。
目を瞑る。流しの水音と食器のぶつかる音を聞いているうちに、またいつの間にか眠っていた。
次に目が覚めたのは、真夜中だった。
真っ暗な室内。すやすや規則正しい寝息が隣から聞こえる。零さんは、オレを抱きかかえるようにして眠っていた。
(……きもちわりい)
頭がぐらぐらする。油断するとすぐにでも吐いてしまいそうだった。寝ている零さんを起こさないように、手前で寝ている零さんを跨いでベッドから下りようとした。足がもつれて、うっかり蹴っ飛ばしてしまった。零さんの上に倒れこむ。零さんが呻きながら目をあけた。
(あ……、もう無理だ)
「しん……、ど、した?」
剥き出しの零さんの胸板の上に手を突く。零さんは、オレの肩を支えながら上半身を起こした。
「おえ……」
胃酸が逆流して、氾濫を起こす。零さんのパンツの上にオレの吐瀉物が広がった。つん、とすえた臭いが部屋に広がる。馬鹿になった鼻はこんな臭いばかり正確に拾う。口の中の気持ち悪さでまた喉が変な音を立てる。零さんは、オレの背中を撫で、「大丈夫、大丈夫。全部出しちゃいな」と声をかけてくれた。
疲れて爆睡してるところを蹴っ飛ばされて起こされたうえに、股間にゲロぶちまかれて苛立たない零さんに、すげえ、愛を感じてしまった。
(あー……もう)
熱に浮かされた頭で、零さんを見上げる。零さんは、枕元に用意してあったタオルでオレの口を拭った。
……オレも、いつか零さんが熱を出してゲロを吐いた時、焦らず介抱できるような男になりたいと思った。