そのほか

『あの人は、もういない』

 突き付けられた現実は残酷で。

 手元に戻ってきたのは、傷のついたシルバーリングだけだった。俺の指にあるものとお揃いだったそれを、照れくさそうに笑って、俺につけてほしいってねだったことを、昨日のことのように思い出せるのに。

 ――でも、それがどんな声だったか、もう耳は覚えてない。

 そうやって、いつか俺の五感全部がアンタを忘れる日がくるのだろうか。
 冷たい輪を握って、ただ頷くことしかできなかった。
 泣くこともできないカラリと乾いた瞳が、別れを告げに来た人の眼鏡に映っていて、可哀想だな、と他人事のように思った。

 最愛の恋人に、泣いてもらえないなんて可哀想だ。

 でも、泣いたってアンタは帰ってこない。そんなアンタに、これから先、俺の感情一粒だってもうあげられるものはないよ。
 失った愛に貞操を捧げて、いつまでも悲しみにくれている俺じゃない。
 アンタがいなくたって、世界は回るし時間は進む。
 アンタの好きになった俺は、いつまでも膝を抱えてぐずぐずしている男じゃなかっただろ?
 だから、大丈夫なんだ、アンタがいなくても。いつかまた恋をしたい、と思ってるし。
 アンタが与えてくれた時間は、最後の時まで、優しくて穏やかで、愛しいものだったから。
 いっそ、もう恋なんてしないなんて思わせてくれるほど酷い恋だったら、こんなに苦しくはなかったのかもしれないのにな。
 
 
 
「新一?」
 くいっと腕を引かれて、ぼんやり月を見上げていた視線を隣に向ける。
 心配そうに見上げてくる蘭に、「なんでもない」と謝って、足を進めた。

 たまたま米花駅で会って、夜も遅いから家まで送ってく、と言い出したのは自分なのに、俺の方が心配されてどうする。
 自嘲して肩を竦めると、蘭は俺の腕を引っ張って、近くの公園に入った。真っ暗な公園はぽつぽつと外灯の淡い光があるだけで、静かだ。
「座って」
 怒ったような顔をしている蘭に、肩を押さえられてベンチに座らされる。ぽかんと蘭を見上げると、蘭は仕方なさそうに笑って、俺の前に膝をついて、両手を握った。
「あのね、私が気付かないと思ってるの? 新一、もうずっと泣くの我慢してる。泣けないなら、せめて、話してよ。私に話せないなら、服部くんでも、志保ちゃんでもいい。大事な――幼馴染、が、苦しんでるのに、いつまでも知らないフリなんてできない。大丈夫だっていうなら、私のことも欺いてみせて」
 かなわないな、と、力を抜いてベンチの背もたれに体重を預ける。
 唇を噛んで見上げた三日月は、優しく淡い光を放っていて、目の奥をチカチカ刺激した。
「……恋人が、いたんだ」
 ぽつりと溢した言葉は掠れてまるで泣き声みたいだ。
 蘭は何も言わずに隣に座り直して、ずっと手を握っていてくれた。コナンだった時を思い出して、成人してまで甘やかされている情けなさに、笑えてしまう。
「でも、いなくなっちまった。指輪だけが返ってきて、あの人はもう、きっと、この世界のどこにもいない」
「……きっと?」
「……確かめたくない、んだとおもう。頭ではわかってんのに、決定的な証拠をみつけるまでは、どこかで……」
 そんな自分を馬鹿だ、と笑い飛ばせたらいいのに。
「……らしくないね、名探偵」
 パッと手を離した蘭が立ちあがって、くるりと振り返った。
 目元を光らせていたずらっぽく弧を描く瞳が、綺麗だった。
「そうだな……」
 掌で両頬を引っ叩く。
 乾いた音が静かな夜に響いた。
 立ちあがって、笑いかけようとして、表情が強張って、うまく笑えてないことに気が付いた。
 引きつっているだろう頬に指を寄せる。
「やっと気が付いた? もうずっとそんな顔してたよ」
「……全然、大丈夫じゃねーな」
「そうだね。でも、そんなこと、新一の周りにいる人はとっくにみんな気付いてたかな」
「……そっか」
 ありがとな、と鼻をかく。
 柔らかく微笑んだ蘭につられて、頬を緩める。
 真っ暗な空を見上げた。黒い夜空に浮かぶ鋭利な三日月に拳を握る。

 ――生きてたら、ぜってぇ殴ってやるからな。
 


 一年前にした公園での誓いを胸に、握った拳は空中分解した。

 短く切りそろえられた金の髪に、胸が詰まる。
 会わない間に忘れていたけれど、俺はこの人の顔に弱いところがある。
 右頬に貼られた大きな白いガーゼや、切れて赤くなっている口端、左目の下にも、切り傷があった。青い入院着の襟元から覗く赤い蚯蚓腫れをなぞって、襟元から手を差し込んだ。上体を起こしてベッドに身を預けた男はされるがままでいる。
 心臓の上に手をあてて、少し早い鼓動を読み取った。
「……生きてた」
「うん」
 くしゃっと目元に皺がよる。浅い切り傷が引きつって痛そうだ。いてて、と軽い口調で言って、ゆっくり持ち上げられた褐色の手は少し戸惑って、ようやく俺の頬を撫でた。
「……君のいる場所に、ずっと、帰りたかった。帰っても、いいかな」
 バーロ、と呟いて薄い唇に噛みつく。殴れない代わりに、傷口に舌を押し付けてグリグリしてやった。
 じわりと滲んだ鉄の味を飲み込んで、感情に任せて表情を崩した。
「おかえり、零さん」
「……ただいま、新一くん」
 
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