パラレルいろいろ
「あ、うまい」
カラン。
コーヒーの入ったグラスの中で氷が崩れた。
思わず漏れた新一の呟きを拾い、カウンター越しに長身の男が目元を緩めた。
「ありがとうございます」
男が微笑むと、後方のソファ席に座っていた女子高生の集団がきゃあっと黄色い声をあげる。
(なるほど、この人が看板店員の安室さん、か)
新一は僅かに口端を引きつらせて、またストローに口をつけた。
アイスコーヒーの香り高くスッキリとした味わいに舌が潤う。
酸味と苦味、それに甘味が絶妙なバランスで口の中に広がっていった。
(ポアロのアイスコーヒーも美味しいけど、この人がいれるのもなかなか……)
新一は顔を隠すように乱した前髪の隙間から、父親の机から拝借した古い黒縁の眼鏡を押し上げ、さりげなくカウンターの中に立つ青年を観察する。
(蜂蜜色の髪に、チョコレート色の肌。灰青の瞳も、サイダーの飴みたいだ……)
どこもかしこも甘い色をした男は、実はモデルなんですと言われても納得してしまえるほど、体格も顔立ちも整っている。
男の名前は安室透。
このカフェの看板店員だ。女性客の全ては彼が目的で来店しているといっても過言ではない。
安室はにこにこと人好きのする笑みを浮かべながら、常連客らしい年配の女性と世間話に花を咲かせていた。
新一はそっと目を伏せて、カウンターに伏せていた読みかけの推理小説を手に取った。
彼女が浮気しているかもしれない、と同級生から相談されたのは一昨日のことだった。
曰く、週末デートに誘っても毎週断られるようになった、メールも素っ気ない、放課後のデートも全部断られてしまう。
――これは絶対浮気しているはずだ、と。
普段の新一ならば浮気調査のような依頼を受けることはほとんどない。
今回に限り調べることにしたのは、その相談を受けている時、隣の席にいた園子が「あんたの彼女なら、米花駅近くのカフェにいるのをよく見るわよ」と言ったからだ。
正確にはそのあとの「ねっ、蘭」「うーん……安室さん、この辺の女子高生たちに大人気だもんね」という会話を聞いたからだが。
安室――、安室透。
園子はともかく、幼馴染の蘭まで「かっこいい」「優しくて料理上手」「頭も良くて、ギターもうまい」と大絶賛する男を一目見てやろうと、新一はわざわざ変装してやってきたのだ。
友人の彼女は、カフェで早速見つけた。
尾行をするまでもなかった。
カフェにある窓際の四人掛けのソファ席に女子三人で座って、かれこれ一時間以上目をハートにしている。一生懸命安室に話しかけようしているが、にこやかに交わされて挨拶と注文以上の会話はできていないようだった。
さて、浮気の定義とはなんだろうか。
手元の小説から意識がそれる。
奇しくも小説の中で殺人犯が恋人を殺したのは浮気をされたからだと自供を始めていた。
友人の彼女は安室透にご執心のようだが、全く相手にされていない。
(肉体関係はなくとも、心が浮ついたら浮気、か?)
でも、あの騒ぎ方は、恋と言うよりもアイドルを追っかけるファンのようにも見える。恋愛感情で、安室透のことを好きじゃなかった場合は浮気にはならないのではないだろうか。
(……だから、こういうのは向いてないんだっつーの)
無意識に顎に当てていた手を離して、溜息を吐く。
くすりと軽い笑い声が上から降って来た。
「そんなに難しい本を読んでいるんですか?」
顔をあげると、身を屈めた安室が新一の手元を覗き込んでいた。
思わず新一が仰け反ると、安室は「すみません、気になって」と苦笑し、姿勢を元に戻した。
「それ、金曜に発売された小説ですよね。僕も今朝読んできましたよ」
「……そうなんですか?」
「えぇ、本が好きなんです。君も?」
「……僕は、推理小説が好きで」
新一が俯いてボソボソと答える。
安室は「いいですね」と笑って、カウンターの上にチョコレートケーキの乗った真っ白な皿を置いた。
「驚かせちゃったお詫びです」
顔の前に人差し指を立ててパチンとウインクをされる。
新一は顔を引きつらせてこっそりと舌を出した。
(うえー、キザなやつ。蘭もこんな奴のどこがいいんだよ……)
♡ ♡ ♡
「江戸川くん、いらっしゃい」
「こんにちは、安室さん」
新一は機嫌の良さそうな笑みを浮かべて、もはや指定席になってしまったカウンター端の席に腰かけた。
安室は新一の前にコースターを置いて、すぐにアイスコーヒーを出す。
「……やっぱ、安室さんの淹れるコーヒーが一番うまい」
こくりと喉を鳴らしてコーヒーを飲んだ新一がふにゃりと微笑む。
新一はもうすっかり安室の淹れる珈琲の虜になっていた。
先月のあの調査一回でもう安室のいるカフェに用はなくなったはずなのに、その三日後にはもう飲んだ珈琲の味が忘れられなくて、週に二回変装をして通ってしまっている。
同じ高校の女子も頻繁に出入りしているので、変装はかかせなかったし、安室に名前を聞かれて咄嗟に偽名を名乗ってしまった。
安室は新一のことをなぜか東都大の生徒だと勘違いしているので、それにも訂正することなく適当に話を合わせている。
パタンと、持ち込んでいた小説を閉じて顔をあげると、店内にはもう他の客がいなくなっていた。
カウンターを拭いていた安室が、「おかえり」と新一の顔を覗きこんで微笑む。
「すみません……また閉店時間すぎていますね」
新一は、ここのところ四連続で本に没頭しすぎてカフェの閉店時間を越えても居座ってしまっている。頭を下げると、安室は「大丈夫だよ」と笑って、新一の隣に座った。
「安室さん?」
「……僕、今週でここを辞めるんです」
安室は寂し気に視線を落として、カウンターに置かれていた新一の手をとった。
「へ?」
「もしよかったら、連絡先を交換しませんか? 君の好きなアイスコーヒー、飲めなくなったら困りますよね」
♡ ♡ ♡
(なんでこうなったんだろうなぁ……)
新一は目の前に迫ってくる顔を、慣れた様子で目を閉じて受け入れた。
ふにっと唇に重なる感触が気持ちよくて、自分からも応えるように薄い唇に吸い付く。
安室と新一は、年の離れた友人のようなもの、だった。
連絡先を交換して、たまに会って、安室の自宅でコーヒーを飲ませてもらう。読んだばかりの推理小説の話をして、安室がホームズの話を聞きたいというから、新一は家にある書物をどっさり持ち込んで読み聞かせたり、サスペンス映画を一緒に観に行ったり。最初は確かに、友人だと思っていたのだ。けれど、気付いた時には、パーソナルスペースが狭まっていた。
キスをするようになってからはまだ一週間も経っていない。
それなのに、こうやってぴたりと重なることが当然のことのように思えた。
安室から好きだ、とちゃんと伝えられたわけではないけれど、これはいわゆる付き合っている、という状態であることは新一にも察することができた。
時間ができれば、安室から「少しでもいいから会いたい」と連絡がくる。
新一に触れる手つきはいつだって優しくて、新一を見つめる視線は常に甘やかだった。
「ん……、コナンくん、今は僕のことだけ、考えてね」
唇を離した安室が、新一の頬を撫でる。
新一は一気に冷静になって、そっと視線を反らした。
――江戸川コナンは、新一が安室に出逢った当初勢いで名乗った偽名だった。
本当のことを言うタイミングがつかめないままズルズル嘘をつき続けている。
「コナンくん、どうしたの?」
心配そうに眉を下げて覗きこんでる安室に、新一は覚悟を決めてぎゅっと拳を握った。
「安室さん、僕、貴方に言わなきゃいけないことがあるんです」
一度深く息を吐いて俯いてから、新一は勢いよく顔をあげて安室のことを見つめた。
「ぼく……、俺、安室さんのことがす、すきで……すごく、好きで……」
――だから、ちゃんと本当のことを話します。
そう続くはずだった言葉は安室の口に吸い込まれた。
「んぅ」
「……っ、は、かわいすぎるだろ……。俺も、君のことが大好きだ」
「っ、あ」
するりとシャツの隙間から潜り込んできた安室の手が、新一の胸を這う。新一の口にぬるりと生暖かいものが入ってきて呼吸を奪った。
(え? なんだこれ?)
くちゅりと口内を舐め回されて頭が融解する。
(え? ……え?)
びくびくと身体が勝手に跳ねる。
新一の身体を撫でまわしながら、安室はぺろりと口端を舐めた。
真っ赤に熟れた舌に新一は舌を伸ばして、足をそうっと開いて安室の首に手を回した。
(……あとで、ちゃんと言えばいっか)
ちゅんちゅんっ。
窓の外で騒がしい鳥の声が聞こえる。うっすら瞳を開けると、グレーのスーツを着た安室がとろりと甘い色の瞳を緩めて新一を見下ろしていた。
「おはよう、コナンくん。身体は大丈夫?」
「……っ、……?」
声が掠れてうまくでなかった。
(風邪でもひいたのか?)
喉を押さえて首を傾げる新一に、安室は眉尻を下げてふにゃりと笑った。
「昨日いっぱい大きな声出したからね。ホット蜂蜜レモン作ってくるから少し待っていて」
寝室を出て行った安室は、すぐに湯気のあがるマグカップを持ってくるとベッドの横に膝をついて、新一にマグカップを手渡した。
「まだ熱いから気を付けてね」
頷いて新一はマグカップに息を吹きかける。
安室は新一の目尻に口づけを落として立ち上がった。
「ごめん、もう仕事に行かなきゃならないんだ。鍵はコナンくんが持って帰っていいからね。また連絡する」
安室は新一のつむじにもキスをして慌ただしく部屋を出て行った。
(結局言えなかったな……まっ、次でいっか)
マグカップをベッドヘッドに置いて、ごろりとうつ伏せになった新一は、安室の香りが残る枕に顔を埋めて、愛された余韻に浸りながら微睡に身を任せることにした。
(あ、つーか、安室さんスーツだったけど、なんの仕事してんだろ……)
♡ ♡ ♡
そんな新一の疑問は思いがけないところで解消することとなった。
学校帰りにたまたま不審な男を見つけた新一は、男を尾行をしたら怪しげな取引現場を目撃してしまった。
新一は人混みでのすれ違い様に、その男に盗聴器と発信機をつけることに成功し、既に武器の密輸が行われていたことを知った。
新一はすぐに知り合いの刑事に連絡をとり、男たちの会話からテロを起こそうとしている日時と場所を推理し、警察に伝えた。
決行は、八月七日に行われる鈴木財閥主催の船上パーティ。
新一も念のため園子に頼んでそのパーティーに参加することにした。
蘭と園子の会話に耳を傾けながら、新一は女性に囲まれているウエイターのことを半眼で見ていた。
いつもと違って金色の髪は横に流しているし、細いフレームの眼鏡をかけているが、恋人のことを見間違えるはずがない。
安室はやんわりとした笑みを浮かべて、女性たちと会話をしながらも、注意深くさりげなく会場を見渡している。
耳にもインカムがついているのを確認して、新一は嫉妬心を一度飲み込んで、溜息を吐いた。
(もしかして、安室さんって……、)
「新一、どうしたの?」
「……なんでもねー」
新一は未成年らしくリンゴジュースの入ったグラスを焼け飲みして、唇を指先で拭った。
無事にテロが起こる前に犯人を捕まえ、船に仕掛けられた爆弾も解体することができた。
床に身体を投げ出してネクタイを緩める新一の横では、蒼褪めた顔の安室が立ち、解体済みの爆弾を見下ろして唇を震わせている。
「……君は、」
「工藤新一、探偵ですよ」
新一は口元だけで笑って、ゆっくり身体を起こした。
「日本警察の救世主、か……高校生……、探偵の、」
高校生、という言葉がやけに重々しく響く。
新一は、ぺしょりと眉尻を下げて小さく微笑んだ。
「ずっと嘘を吐いていてごめんなさい。でも、俺、ちゃんとわかってますから」
「……なに?」
「オレたち別れた方がいいんですよね」
新一は言い切って目を伏せた。
青い瞳が長いまつ毛で見えにくくなる。
「……は、」
「だって、貴方は警察官でしょう? 未成年と付き合うなんてできないはずだ。大丈夫です、わかってます。嘘ついて、本当にごめんなさい。今までありがとうございました!」
最後はにっこりと笑顔で安室の手を握って、新一は颯爽と去っていった。
取り残された安室は新一に握られた手で拳を作って、壁に打ち付けた。
「……あんの、ポンコツ……っ!」
(僕が本当に君の正体に気付いていないと思ったのか!)
――そして始まる恋愛ポンコツ迷探偵と、恋に血迷った警察官の鬼ごっこ。