取り急ぎ要件のみで


　ジャンは思う。
　幽霊が視えると言ったら、一体何人が信じてくれるだろうか……と。
　子供の頃は全く視えなかった。おかしい。何がどうなってこんな体質になっちまったんだよ、俺――。
　両脇にファイルを抱えたジャンは、机に突っ伏して居眠りしているハンジの背中を……否、ハンジの背後で体を右に左に傾けている人物の後ろ姿を見つめた。

「えっと……何してるんですか？　モブリットさん」
「うわっ！　え？　ジャン？」

　幽霊を驚かせてしまった――。

「俺が視えるのか？」
「自分でもなんで視えるかサッパリ……ですけどね」
「そうか……。あぁ、でも助かったよ。俺にはもう出来ないから」

　知っている微笑みが今は切なく苦しそうに見えた。
　ハンジの左肩から落ちかかっているジャケット。ジャンが資料を取りに行く前にそっとかけたものだ。もうこの世に存在しないモブリットは、手を伸ばしてもこれに触れることが出来ない――。

「後を引き継いでくれてるみたいだね。……察するよ。ところでジャン」

　ジャケットを直すジャンにモブリットが問う。

「今日で？」
「三徹目です」
「それはマズイな。もう部屋に押し込んで無理矢理寝かし付けて」
「もし出来なかったら……」
「ハンジさんが奇行種と化す」
「マジですか。ヤバイっすね」
「甘く見ない方がいい」

　そこからベテラン副官から新人副官への簡単な引き継ぎが始まった。
　ハンジ説得の心得から自室への誘導の仕方、寝かし付けの極意。
　まるで子供の世話だな……とジャンは思った。

「ハンジさんはいつも仕事と他人の事ばかりで、自分は二の次三の次なんだ。だから誰かが……あっ」

　身動ぎするハンジに気付き、モブリットは再び切なそうに微笑んだ。
　床に落ちるジャケット。

「…………」

　これは今すぐ拾っていいものなのか――？

「よし。じゃあ後は頼んだよ。続きはまた今度」
「え？　あっハイ……」

　迷ってる間にモブリットは去ってしまった。
　足元に感じていた冷気が逃げる様に消えていく。あとには虚しさのみ。
（だから視えるのは嫌なんだよ。こんな特技身についても、無駄なだけじゃねぇか……）
　自分にはこれ以上何も出来ないのだから――。

「ハンジ団長。寝るなら部屋で寝てください」
「ん〜でもこれがまださぁ」
「居眠りこいといて何言ってんすか。鉱石粉々に砕きますよ」
「それはマズイな」

　ガシガシと頭を掻くハンジの口振りは、モブリットに似ていた。
　長い付き合いだと自然とそうなっていくものなのだろうか。
　ぼんやり思いながらジャンはジャケットを拾い……。そこでハッと気付いた。

「えっ？」

（モブリットさん、さっき）
　続きはまた今度と言っていたような――。
（あの人まだ成仏する気ねぇのかよ!?）

「マジか」
「ジャン？　なんか言った？」
「いや。独り言です」

　副官の引き継ぎを終えるまで、彼はここにいるかもしれない。
　仕事熱心にも程があるだろ。
　ついつい独り言が増えてしまうジャンだった。