忘れない 忘れられない
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1
研修医が初めての、それも急変患者相手に完璧な処置など出来っこない。何度も自分に言い聞かせる、よく晴れた日の午後。
今は普通に動く両足が恨めしくて仕方がなかった。爪先が冷え床に張り付いた記憶は、あと何回現場に立ったら消えるのだろうか――。
「横、いいか?」
庭のベンチは面会者と患者でいっぱいだった。唯一スペースのあった所は少女がポツンと座るここだけで。躊躇った後、声をかけた。
「うん。お医者さん」
白衣の人間は全員医者と思っているらしい少女。そうか。こんな俺でもマトモな医者に見えるのか……。
「あのね。ママ死んじゃったんだ。さっき」
「な……」
前置きのない告白とあどけない表情に固まった。
今日の、一番強烈な記憶が脳裏に蘇る。手が震え、拳を握る事でそれを隠した。
病室の隅に追いやられ呆然と看取った患者には娘がいた。回診時に名前を聞いた事がある。
「……フェリーチェ」
「えっ!? すご〜い! 本当にお医者さんって何でも知ってるね! ママが言ってたよ、お医者さんはたくさんお勉強した人しかなれないって。全部覚えるんでしょ?」
「覚えてたって活かせなきゃ駄目医者だ」
「せんせーは“だめいしゃ”なんだぁ。それってカッコイイ?」
分かってないようだ。つい笑ってしまう。
「一番格好悪いな」
「ええ〜……」
可愛らしくガッカリされた。これは激しく罵られるより堪えた。
お前の母親を、救うどころか見殺しにした医者はこの俺だ、と告白したくなった。
だがそんな事は、少しでも自分が楽になる為の素行であって、フェリーチェにしてみれば一生残るトラウマにしかならない。
この子供の記憶の中に残る俺は、恨めしい駄目医者、クソ人間じゃねぇと――。
「じゃあさ、私のことず〜っと覚えてればいいんだよ。そしたら、せんせーきっと“だめいしゃ”じゃなくなるよ」
「は。そいつはありがてぇ提案だな」
「うん。そうしよう? 約束ね。それで、私が大人になってもちゃんと覚えてたら、結婚してあげてもいいよ」
「オイオイオイ。なんでそんな話になる」
「ママがお医者さんと結婚したら“たまのこし”よって言ってた。それってカッコイイんでしょ?」
「玉の輿……」
ぶわっと笑いが込み上げてくる。不謹慎だと分かっていてもどうすることも出来なかった。
「そうだな。それが叶ったら俺もお前も相当カッコイイと思う」
母親(人間)の死をまだ理解していない少女の純心は、死を論理的に説明可能な俺にとってはえらく心に突き刺さる。
永遠の別れの辛さを、彼女はこの後思い知るのだろう——。
「…………」
「お医者さん?」
経験を無駄にしては絶対に駄目だ。
深淵から引っ張り上げ、更にはこれから行く先に放り投げた少女を俺は一生忘れない。
「絶対だよ? 約束なんだから」
「……あぁ」
それは澄晴れた午後、己の無力さに絶望した日の事だった――。
2
珍しく急患が少ない深夜だった。
台風が近付いていることもあり、朝からずっと降り続いている雨はどんどん激しさを増していく。病院内にいても、その騒がしい雨音が聞こえた。
先程受け入れた患者が診察室を出て三十分。
後輩の医師に仮眠を取らせ、静かな時間にしばしホッとする。背を伸ばし左肩を叩いていると、看護師――ペトラが笑った。
「リヴァイ先生も疲れるんですね」
「当たり前だろ。人をなんだと思っていやがる」
「あまり顔に出さないじゃないですか。当直続いてもずっと涼しい顔してるのリヴァイ先生くらいですよ」
「そんなことねぇよ。俺がそうならエルヴィンはどうなる。あいつこそ顔に出してねぇじゃねぇか」
「あ、確かに」
ペトラがまた笑った時だった。けたたましいアラーム音が響く。救急無線だ。
患者の情報は厳しいものだったが、幸いにも波と波の間。受け入れ体制は万全だった。
情報は続く——そして最悪の数秒。容態急変が告げられ、一刻を争う状態に。舌打ちした。
(堪えろ。諦めるな!)
心の中で患者へ叫ぶ。それは今日まで闘ってきた自分への言葉でもある。
救急車はすぐに到着し、現場は一気に音で溢れかえった。ストレッチャーの上で心臓マッサージを受けている女性へ駆け寄る。
「オイ」
見覚えのある顔に絶句した。
「嘘だろ……お前」
女性はあの時の少女——フェリーチェだった。名前を確認する。間違いない、彼女だ。
救急隊から引き継ぎ処置を続行する中で、脳から消えかけていた研修医時代に味わった感覚が蘇ってくる。
長く医師を続け、救命救急での修羅場も数え切れないほど経験してきた。震えも躊躇もしなくなった身体がまさかこんな時に――。
「フェリーチェ。忘れたとは言わせねぇぞ」
(俺は一度だって……)
成長していようが、血で濡れていようが、関係ない。一目見て、すぐに分かった。
過去の日の会話も一言一句覚えているのだ。あまりにも幼かった、あの儚い約束も。
「俺の嫁になるんだろ!」
心電図が悲鳴を上げている――。
3
広い、どこまでも続く草原の中で、私はシロツメクサの花冠を作っていた。
(あ……花なくなっちゃった)
仕上げたい大きさには花が足りない。これじゃあ、私がかぶれない。
また摘みに行くか――と立ち上がった所で、やっと周りの景色を見た。
緑の草原。高い空。
(あ……れ……?)
強い違和感の理由はすぐに分かった。空が白いのだ。青色の薄さも濃さもそこにない。
白い。白い。白い。
空が、白い――。
よく見ると、足元に沢山咲いていたと思っていたシロツメクサが無くなっていた。草原も単調の緑の床に。私の目の前には絵の具で塗りつぶしたみたいな二色だけ。
(いつの間に摘み尽くしちゃったのかな?)
けれども、私の疑問はそれひとつだった。
違和感ある景色を気にするよりも、早くこの花冠を仕上げる方が私には重要な気がしたからだ。
「それじゃ駄目なのか?」
「ヘ?」
ここには私しかいないはずだったのに、いつの間にか横に人が立っていた。
「それでもういいじゃねぇか」
男性だ。落ち着いた低いトーン声の人。
変なのは、本当は人間だろうに形はぼんやりとした煙の塊にしか見えないこと。
――私も変だ。
そんなお化けっぽい男性を全く怖いと思っていない。ちゃんと人間として受け入れてる。
不思議の国のアリス気分だった。
「だけどこの大きさじゃ、私かぶれないよ」
「お前のサイズにする理由はねぇだろ」
「コレは私の」
「いいや。お前のじゃなくてもいい。見ろ。花も無い」
「もっと向こうに行けばあるかもしれな――」
「無ぇよ!」
いきなり怒鳴られる。
薄いグレーの煙が怒鳴り声に合わせ一瞬真っ黒になった。
「なんでそんなこと言われなきゃならないの?……わたし諦めない。作らなきゃ」
「諦めない……だと? お前は……どうしてもそいつを自分のもんにしてぇのか」
「だってコレ私のだもん」
「クソッ。いつまでガキみたいな口調で喋ってやがる……。いいか? フェリーチェ。そいつはもう誰かにくれてやれ」
『わたしの名前、知ってるの?』
今度は子供の声がした。
突然真後ろに現れた小さな女の子。
その子が自分の驚きと疑問を代わりに言ってくれる。
『すごいね。ママの言った通り!』
(えっ!?……わたし……?)
私がいた。子供の時の、わたし。
お母さんが死んじゃった頃の自分。
「あ……。ああ……そうだな。知ってる」
男性が初めて動揺した声を出した。
「なんでオマエがここに……」
『ねぇねぇ。お花、わたしにちょうだい?』
「これ!?」
まだ完成していない花冠を、わたしが私にねだってくる。これには流石にアリス気分のままでいていいのか迷った。
「オイ……。そうしたらお前らはどうなっちまうんだ」
「んん?」
男性が何を言っているのか意味が分からなかった。隣で“わたし”も首を傾げて。
でもすぐに、
『ママに見せてあげるの』
『お花がだいすきなんだよ』
『お庭にもいっぱい咲いててね』
『家の中にもたっくさん!』
『だから絶対、欲しい!』
矢継ぎ早に喋る。
小さい私は、ゆらゆら揺れる煙の男性にこの冠を取られると思って焦っているのだ。
今は表情も分からない煙の塊だけど、もしかしたら急にコンクリートや岩の怪物に変身するかもしれない。火を吹くドラゴンになるかもしれない。そうなったらお終いだ。
幼い頃のわたしを一番知ってるのは、この私。現実から逃げてふわふわと空想の世界を旅するのが大好きだった――。
「そういえばお母さん、公園でこれ作るの上手だったよね」
『何回教わっても全然うまく出来ないの』
「花と花の間を詰めると綺麗に仕上がるんだよ」
過去と現在の二人で話す。
『そっか。上手に作れるようになったんだね』
小さいわたしがニッコリと笑った。お母さんにそっくりの笑顔で。
「じゃあ、これあげるよ」
『本当? ありがとう!』
「うん……」
予定より一回り小さくなった花冠を仕上げて、渡す。
誰かにくれてやれ、と言っていた男性は、人型の煙のまま私達のやり取りを見ていた。
「なんでオマエが持っていくんだよ」
低い声。
『…………』
それはとても低い声だった。
「せっかく引き留めたってぇのに……」
『ごめんね。でもほら、コレ大人には小さいから……。だからきっと大丈夫だよ』
「信じろっていうのか。そんな不確かなもんを」
『最初からそうだったでしょ?』
「えっと……何の……話を」
私には、二人のやり取りにどんな意味があるのか分からなかった。
そもそも、子供の頃の自分と現在の私、異形の男性、極端に色の少ない空間――これらが揃っている状況自体が謎なわけで。意味があるかどうかを考えることすらおかしいのかもしれない。
「これは夢なの?」
《もしここが“不思議の国”ならば、》
「夢じゃねぇ」
『夢だよ』
ロボットみたいな声音が重なる。
《私は“アリスの夢”であり、》
『じゃあね。お医者さん』
小さなわたしは花冠を頭に乗せるとふわりと空気に溶けた。
あっけなく、消えてしまった。
《想像上の存在》
「え? お医者さんなんですか?」
「見ての通り、駄目医者だがな」
煙が細く伸び昇っていく。見上げた空は真夏の青色。
(駄目って……そんなの見ただけじゃ分からないよ)
白い空とグレーの煙はもうどこにも無かった――。
《夢から醒めれば私は消える》
4
「おはようございます。点滴変えますね」
優しい声に私のまぶたが勝手に震えた。
何度も聞いた同じ声と変わらないフレーズなのに、今回はとても近く、懐かしい気持ちになるのはなぜだろう?
「…………」
カタカタ、カシャンと音が行ったり来たりを繰り返す。往復する足音を数えているわけでもないのに、ああ……そろそろ終わる……と思った。
「今日も良い天気ですよ。そろそろ梅雨明けでしょうかね〜」
(身体、重いな)
「病院内は空調効いてるから窓でも開けない限り分からないけど、今年は特にジメジメで――」
(それにすごく眩しい)
「あっ!」
目を見開いて驚く女性と視線が合った。
「えっっ!?」
「……え」
いや。驚いたのは私の方だ。
“知ってるのに知らない人”に会うなんて、人生はじめての経験だ。
「先……! リヴァイ先っ……!」
ジャッ! とものすごい勢いでカーテンが動く音。視界の外から「オイ。うるせぇぞペトラ」と物憂げな男性の声がした。
「何年看護師やってるんだ」
「すみませんっ……でも!」
ペトラさんが早口で色々喋っている。
そう。彼女の名はペトラ。顔を見たことない女性なのに名前やある程度の人柄を私は前から知っている――?
「今か!?」
「はい!」
バタバタと私の所に二人がやって来た。
「フェリーチェ! 俺が分かるか!」
「……い」
(いきなりなんなの?……分からないですよ。でもなんで私の名前を?)
声が掠れてうまく出せない。代わりに首を振って伝える。
「…………」
クマを濃くし疲労を溜めているだろうその人は明らかに落胆を見せ、そうかと呟いた。後ろにいるペトラさんも表情を曇らせた。
「エルヴィンに連絡しろ」
「はい」
「クソ……心電図の数値も全く変化無しかよ……また俺だけか」
二人きりになってから言われた一言。そうぼやかれても……。何がいけないのだろう。
「……あ、の」
「よく帰ってきてくれた」
点滴に心電図、白衣のナースとドクター。
(えっと。私、病院に……いたんだっけ? んん?)
「ありがとう」
(は? お礼言われた?)
「久しぶりだな。フェリーチェ」
「……」
(は? 久しぶり?)
やっぱり声が掠れて出せない。喉がカラカラで、軽い頭痛もする。ちょっぴり混乱もしてる。
でもそれを訴える前に、私にはまず言うべきことがあると思い出した。
『ただいま。お医者さん?』
迷子の幼子のような顔をしている、この人に――。
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