絶対零度が溶けていく

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✽5✽


 静かな廊下にひとり立つフェリーチェは、中々戻ってこないリヴァイを待っていた。
 そんなに時間がかからないと言っていた割には、リヴァイがドアの向こうに消えてからもう大分経つ。
 最初は深く考えずただ待っていたフェリーチェだったが、時間が経つにつれ心配というより不安が強くなってきた。
(まさか、私があんな失敗をして休ませて貰っていた事が原因なんじゃ……)
 リヴァイはあの時、後の予定については自分に何も言わなかった。これまでに数件回ってここに着いた時に、これで最後だとやっと教えてもらったのだ。
 もしかして、こことの仕事は約束の時間でもあったのだろうか。自分がその予定をずらした事によって、こうして仕事に影響が出ているのでは……?
 考え始めるとキリがなく、静かな廊下で一人待っている事はフェリーチェの心をどんどん沈ませる。
 すると、眼鏡をかけた女性がドアから慌てた様子で出てきた。そのまま目の前を走っていく。それがなんだか自分の考えを肯定されたみたいに感じて、フェリーチェは更に沈んだ。
(私は補佐としてリヴァイさんをフォローしなくちゃいけないのに、自分がフォローされてどうするんだ……)
 そうしばらく項垂れていると、今度はさっきの女性と中年の小太りの男性が一緒に慌ただしく戻って来た。

「秘書の方ですか?」
「えっ? いえ、私は……」
「いやぁ、こちらの段取りが悪くて申し訳無いです」
「あの……」
「本当に申し訳無い」

 小太りの男性はこちらの言葉もろくに聞かずただ頭を下げて部屋へと入って行き、眼鏡の女性もドアの前でフェリーチェに軽く会釈をして消えていった。

「大丈夫だったみたい……でいいんだよね?」

 あの口振りでは、待たされていたのはリヴァイの様だ。はぁ、と安堵の溜息を漏らしてから、フェリーチェは部屋の中の様子を想像した。
 待たされたリヴァイはきっと不機嫌顔でいるだろう。もしかしたら、ふんぞり返って座り、嫌味の一つでも言ってるかもしれない。仕事には厳しいところがあるのだ。
――そういえば、休んでたカフェを出る時も大きな溜息を付きながら「懲りない奴が多くて疲れた」と言っていたっけ。意味はよく分からなかったけど、あれも私への嫌味だったのかな……。
 フェリーチェは、仕事が終わったら改めてまた謝らなきゃ……とリヴァイの顔を思った。
 きっと不機嫌顔が直るまで時間がかかるはずだ……。
 今度は新たな不安に項垂れるフェリーチェだった。

 気を取り直し窓の外へ目を向けたフェリーチェは、見える景色にホッと緊張を解いた。
 この街は活気がある。
 表通りは沢山の店が軒を揃えていて、商人達の声や道を行く人々の声が様々交じり合っていた。きっとあの通りがこの街のメインストリートなのだろう。
 窓から見える裏通りでも、住民達がテーブルを出してきて、晴天の下、酒など酌み交わしていたり、子供達が楽しそうに駆けて行く姿が見える。
 平和な日常、という言葉がそこにあった。
 フェリーチェが幼い頃暮らしていた村も、平和という言葉がある場所だった。ここよりずっと住民も少なく、ここよりずっと静かだったけど。時折やって来る賊さえいなければ、この街より平和という言葉が似合う場所だった。
 研究部はその村より更に静かな所だった。平和というには疑問はあったが、外敵も活気も無いあの真っ白な壁に囲まれた世界は、ある意味では平和なのかもしれない。
 研究員達は寡黙な者が多く会話は最低限。聞こえてくる音はペンが走る音や紙の囁き声。技巧科の人間と研究員が交わす、会議室から聞こえる穏やかな声々、静かで激しい討論。
 フェリーチェは十年以上そこにいた。その暮らしに慣れてしまえば、世界の音は、もうその限られたものだけになっていた。
 そんな世界から、ある日急に調査兵団に放り込まれたのだ。
 だから初めは、音の多さに慣れる事が必須だった。
 次に情報の多さ。視界に入って来る動くもの等を個々の人間と景色(静止画と動詞画)とに分ける事は、目眩を起こしそうなくらい負担で。
 最後にやっと、音と視覚情報を組み合わせる。物とそれが発する音、人間とその者が発する声。
 その作業を、他人が当たり前にこなす程度にするまでは大分かかった。
 つまり、まず普通の人間に戻る事が、外に出たフェリーチェがしなければならない最優先事項だったのだ。
 しばらくして調査兵団内の環境に適応出来たフェリーチェは、これならもっと違う場でも平気だろうと考えた。
 ならば街に出てみよう。
 色々なものを見て感じる経験は、絶対自分の糧になるはず。一つでもヒントを見付けられる可能性があるなら、それを無駄にする事は逃げる事と同じだ。
 行動は間違ってなかったと思う。だけど、自分の認識は間違っていた。詰めが甘く過信もあった。
 まさか街がこんなに凄い場所だったとは……!
 人酔いの前に音酔いしてしまうなんて想定外。
 なんとか頭の中を整理して落ち着かないと動けないという状態に陥ってしまった。
 おそらくは今日最大の失敗だ……。

(みんな楽しそうだな……)
 聞こえた笑い声にフェリーチェの顔にも笑みが零れた。
 巨人のいる世界に生きている、でも目の前のこの世界に巨人の脅威はまだ及んでいない。
 だけど。
 いつまでこの時間は続くんだろう。いつまでも続くと誰が保証してくれるのだろう。
……平和な日常に慣れている人間達は、壁の外の脅威を知りながらどこか別の次元の話の様な顔をしている。
(本当はそれでいいんだ。誰だって悲しみや苦しみは無い方が良いに決まってるもんね……)
 巨人が存在している限り、人類が壁の外の世界を全て知る事は出来ないだろう。
 ではもし、壁が無くなってしまった時は?
――きっと喜びより絶望を味わう。
 最悪、人類は希望を失い未来までをも見失うかも……。
 そう考えるとフェリーチェは怖かった。未来を見失いかけても、希望は失いたくない。それが持つ力強さをフェリーチェはよく知っている。

『自分が出来る事はあまりにも少ない』

 そんな事は以前から理解していたつもりだった。
 だけど、調査兵団に来てから自分はまだ自分の力量を分かっていないと気付かされた。
“少ない”なんてとんでもない。ほとんど無かった。
 調査兵団は人類の希望だ。
 誰が何と言おうと、フェリーチェはそう思っている。
 彼らが、壁の外や巨人の事を知ろうと道を切り拓いていく事は、人類が新たな選択肢を突き付けられた時に必ず必要になるはずだ。
 壁の外の世界で自由を手にするために……。
 だから彼らは翼を背負う。自由の翼。自由への翼。
(私はそれを支えたい。翼をより強く、より遠くまで飛べるように)
 窓の外を鳥の群れが飛んでいた。
 立ち並ぶ建物の間を優雅に旋回して、そして高く高く舞い上がる。
 目で追えば、太陽のひかりに鳥たちは消えていった。眩しさに一度目を閉じたフェリーチェは、ゆっくりとその目を開く。
 綺麗な街と明るい笑い声、高く青い空が自分の前に再び現れた。
 今の私では駄目だ。
 もっと知識を。もっと。たくさん。
 努力を続けなければ、私は彼らの翼を支えられない。
(絶対にやり遂げる――)
 フェリーチェは遠く空を見つめた。視界の彼方向こうに厳しい現実があったとしても、希望さえあればきっと。切り拓くべき未来があるはずだ。

「おい」

 その時、待ち続けていた声がフェリーチェの耳に届いた。
 リヴァイを見たフェリーチェは、彼がやっぱり厳しい顔をしている事に、あ……まずい、と思う。
 部屋に入った時よりは幾分はマシかも。ああ、でもそれは仕事が上手く片付いたからかな。私が面倒なのは何も解決してなかった……。
 謝らなきゃ。仕事の邪魔してごめんなさい。
(とりあえずは、リヴァイさんの機嫌が少しでも上昇するように今出来る補佐の仕事をしよう……)

「お疲れ様です、リヴァイさん!」

 笑顔で声掛けくらいしか、思い浮かばなかった……。

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