壊れた機械人形に、永遠の死と愛を
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3
昨晩は星がいくつも流れた夜だった。
流星群が見える日。
フェリーチェもそれを天体解説本で読み知っていたし、観測出来るのを楽しみにしていた。
しかし、絶好の観測日和だったにも関わらずフェリーチェが空を見上げる事はなかった。部屋に閉じ籠もり、全てのノートやメモを引っくり返し、床やベッド、机の上に散らばる数字をひたすら追っていたからだ。
悲しみ、悔しさ、焦り――。それらが渦巻きフェリーチェの心を重くさせる。
更に昼間初めて味わった苦しみ。あれから何度襲われただろう。ペンを握り走らせていると目眩がやってくる。次に頭痛、冷えていく指と掌、息苦しさを感じた途端に陥る呼吸困難。胸元を抑えうずくまり、数を数え嵐が過ぎるまで耐える。包帯のお守りを握りしめ、ここに居ない人を呼ぶ。
その度に何かに追い詰められている気がした。
――倒れたフェリーチェを見つけたのは司書だった。
『大丈夫よ。ゆっくり数を数えて。すぐに落ち着くわ』
『温かい紅茶を淹れてあげる。はちみつとミルクは苦手じゃない?』
優しく介抱してくれたその人のゆったりとした口調は、アインシュバルの妹に似ていた。
懐かしい人。美味しい紅茶とはちみつたっぷりのパンケーキ、教えてくれた童話や歌。アインシュバルの妹は母の様にフェリーチェを可愛がり、フェリーチェもまた彼女に母の面影を重ねて懐いた
今はどうしているのだろう。
(別れる時、淋しくなるから猫を飼おうかしらって言ってたけど、あの広いお屋敷で猫と穏やかに暮らしているのかな?)
思い出したのは開発部に入る前に彼女と過ごした穏やかで慎ましい日々。頑張るのよと、送り出してくれたあの日。
リヴァイ達が戦い続けるのは、彼女達の様な人々を守り、世界――街の穏やかさと優しさが絶えない事を願うからだ。きっと。
――だから私もみんなの為にやらなくてはならないのに。
シガンシナ区や壁の事を聞いたフェリーチェに司書はポツリポツリと何個か答えたが、聞いている途中で再び過呼吸になったフェリーチェを見てそれ以上は教えてくれなかった。
フェリーチェがシガンシナ区出身の娘で、襲われた日のトラウマを抱え今も苦しんでいる――そう思ったのかもしれない。
嵐を耐え呼吸が落ち着いてくると懐かしい思い出や優しく響く声が自分を包む。
だけどすぐに、それを忘れさせる黒い影が現れる。
怒気と悪意の闇が柔らかな光を飲み込んでしまうと、フェリーチェの中には昼間の衝撃だけが残って。
(なんで……どうして……どうすればいいの……)
そればかり考えてしまう。
混乱している暇はないのに、感情が追い付かない。追い付かないまま前に走り出すのは、悔しさと焦りと苛立ちからだった。
皆がやれる事をやっているのに、自分もそうしていたはずなのに、気が付いた時には自分だけがその場から外れていた。
見てきた事実は全てではなく、知り得た事はどこまで信じて良いのか分からない。
――自分の無知と無力が許せない。
フェリーチェは部屋を埋め尽くすノートや用紙を呆然と見渡した。
こうして書き続けたレポートや試算の数字は果たしてどれだけ役に立つのだろうか?
ここで見ていた資料は昔のものと分かっている。その上で今に生かせないかと考えてきた事がこの場にある一枚一枚だ。全部無駄になる事はないと信じたい。
(でもこれからどうしよう)
「だって……分からないんだよ……?」
どうしてここにいるのか――。
二年前シガンシナ区に現れたのは五十メートルの壁を超える大きな巨人と門を破壊した巨人。その時には沢山の兵士達が戦っている――生き残った者達から得られた情報や破損した部品などは回収され、情報も共有されているはず。
自分だって何も見ていない訳じゃないと思う。ただそれが、“外で起きている重大な事”と結びついているものだったのかまではもう知る事が出来ない。
開発部には二つのチームがあり関わる案件がそれぞれ違うけど、案件は違えど同じものを見て同じ未来を目指していると思っていた。でもこうなってみると、自分は本当に二つのチーム、そして部内の全てを正しい情報で把握出来ていたのか自信がなくなった。
――副部長だというのに。
与えられたものしか見ていなかった自分が情けない……。
『なんで私は、何も疑わないでここまで生きてきたんだろう』
ふと、そんな問いかけがフェリーチェの中に生まれた。
すると次の瞬間、冷えた足元からどろりと漆黒の感情が湧き上がってくる。それはズルズルとフェリーチェの身体に巻き付き、細い身体を締め上げ、澄んだライムグリーンを濁らせた。
『このままじゃ私は中途半端にしか生きられない』
(あんなに……あんなに必死にやってきたんだもの――)
『ちゃんと自分の目で確かめないと。リヴァイさん達と一緒に前に進めない』
(ちゃんと役目を果たさないと……。戻った時に中央の人達に顔向け出来ない……)
それは相反する心だった。大きな矛盾。
箱庭に閉じ籠もっていた時には感じなかったもの――外に出て初めて得たもの。
自分の中に生じているそれが、調査兵団に来た当初より強く大きくなっている事にフェリーチェはまだ気付いていない。今まさに更新されていってるだなんて思いもしない。
他者の漆黒の感情は強く、フェリーチェの心を彼女の知らないところでずっと縛っているからだ。
「――リヴァイさん……」
ずっと心の中で呼び続けている名前を俯き零した。と、足元に落ちている一枚が目に入る。ある単語と数字に赤線が引いてあった。あぁ、これは……。風に飛ばされて見失い焦った時のやつだ。リヴァイが偶然見つけてくれて「流石リヴァイさんだ!」って飛びついたんだっけ。
――赤い線をそっとなぞる。朱色が指先から身体へ溶けていく感じがした。
(あ…………)
恐る恐る線の上の数字もなぞると、昼間失った、文字が脳へ溶けていく感覚を少しだけ取り戻している。でもそこ以外はまだ駄目で。フェリーチェはきゅっと目を瞑った。
こんな自分を、リヴァイは受け入れてくれるのだろうか。
補佐の仕事も研究員の仕事もまともに出来なくなったら、どちらも認めてくれたリヴァイは何て言うんだろう。
(“外の世界の常識”を知らなかった私を、リヴァイさん……どう思ってたのかな……)
「っ!」
大きな鼓動ひとつ。目眩と頭痛、そして冷え。全身が冷えていくのに目の奥は熱くなっていく。息が上手く吸えない、苦しい。
また嵐だ……今度はどのくらい耐えればいい?
震える両手の中に包帯とくしゃくしゃになったメモ用紙を隠し握りしめ、拳を額に押し付け。フェリーチェは再びうずくまる。
(1……2……3……)
この嵐が去ったらとにかく行動しようと心に決めた――。
✽✽✽
夕食後から就寝までの自由時間は、一日の内で一番兵舎の空気が軽い時間帯だ。特に各々が自分の部屋に戻り始める就寝時刻直前は、自由時間ギリギリまで楽しみたい者――若者達の声が集まってきて賑やかになる
今日も例外なく若い兵達がふざけ合ったり談笑する声があちこちで聞こえ、それらは降り出した雨の音を消していた。
廊下の窓を叩く雨音は無音。
伝い落ちていく雫をぼんやりと見つめるフェリーチェの後ろ姿を見つけた数人の男達は、それぞれ声をかけるか迷っているようだった。
この時間この場所に、フェリーチェが一人で現れる事は今までなかった。通りがかる事はあったが、その時は必ず隣にリヴァイがいて。彼らがそわそわしい視線を送れば、フェリーチェよりも先にリヴァイが気付き、鋭い視線を返してくる。
真面目な顔の奥にバレないよう下心を隠してもリヴァイにはお見通しなのか、さり気なく体をずらしフェリーチェの盾になる。“林檎係”の存在を知っている幾人かはあわよくば自分も――と考えていたが、そんな状態ではチャンスもへったくれもなかった。
だが今夜は、いつも手厳しいリヴァイは外出していて彼らの前にいない。心の中で「今日こそは!」と思う者は少なくなかった――
「フェリーチェさん。今日は一人なんですね! あっ、そうか! 兵長は外出でしたっけ?」
窓を伝う雫が二つ三つと下の雫にくっつき共に落ちていく様を見ながら、どう情報を集めようかと考えていると、背後から声をかけられた。振り向くと、以前街で会った青年がニコニコと笑い立っている。
(あの時の……)
――自分の髪をハサミで切ったリヴァイの指先を思い出した。
(この人苦手)
軽く会釈。執務室に行こうと場を後にすると、青年の声は当たり前の様についてきた。
「今度バザーがあるの知ってます? 結構色んな店が出て見応えあるんです。俺、案内しますよ!」
(なんで私があなたと……。行くならリヴァイさんと行くし。あぁもう)
邪魔だ。どこまでついてくるつもりなんだろうか。
早く歩いてもコンパスの差のせいでちっとも距離が変わらない。もともと苛ついていたフェリーチェは奥歯を噛んでそれが増えないようにする。リヴァイだったら盛大な舌打ちが出ているだろう。
「古本売る店もありますよ」
(邪魔……)
「アクセサリーとか」
(邪魔!)
「あ、実演販売も! これが結構面白くて」
(うるさいっ!)
無意識に足が止まる。拳を握りしめたフェリーチェはそれを振り回したい衝動に襲われ、だけどそういう訳にはいかないと必死に自分に言い聞かせた。
駄目だと教えられている。
――誰に? 誰だったっけ? 何故、どうして……。
頭の中に次々と浮かぶ。
「フェリーチェさん?」
誰でもいい。そんなことどうでもいい。
邪魔されるのは本当に腹が立つ。
私の邪魔は許さない。
ぎゅっと目を瞑り、フェリーチェは叫びたい気持ちを抑えた。
――その時だった。
「昨日のアレどうなった?」
「うーん……上手くいかないんだよなぁ。あの部品もうちょっと調整した方がいいのかも」
「そうは言ってもあれ以上は厳しくね?」
「それなんだよなぁ……技巧科なんとかしてくんねーかな。俺ら技術班の頭じゃ限界だよ」
流れていく会話はサラサラとフェリーチェの脳内ノートに記されていく。その中で、
『技術班』『部品』『調整』『技巧科』『限界』
という単語は濃い太字になった。
「待って!」
「えっ?……フェリーチェさん!?」
青年二人が振り向いた。
モブリットとエルヴィンが並んでいる姿によく似た二人だった。
「それっ!」
フェリーチェの目は高身長で体格のいい青年が持つ数枚の書類に釘付けになる。
(俺ら技術班って言った。この人が持ってるのって……!)
相手の顔や表情は一切目に入らない。『限界』その太文字が書類に貼り付いているのだけがハッキリと見える。
「あっ……」
――青年達はフェリーチェの事をよく知っている様だった。滅多に見ない姿に驚いて目を丸くし、特に書類を持つ彼の方はフェリーチェが手首を掴んできたので一瞬で顔を真っ赤にし固まった。
突然現れ駆け寄ってくる小さな体と、自分達を捕らえる様にふわりと舞う甘い香り。彼らにはフェリーチェが妖精の様に見え、感じた。リヴァイが他の男に触れさせないようにしている、澄んだ柔らかな存在――厳しく鋭い瞳が大勢に向けられる理由が一瞬で理解出来た。
「これ……これ一番新しい資料ですよね? お願いです! 私にも見せてくださいっ!」
「えっ……あっ!? いや、こ、これは……! すみません、出来ません!」
「どうして? お願いします!」
「だ、駄目なんですっ……。団長直々の命れ……指示!……で!」
「団長――エルヴィンさんが……」
きゅっと込められる力に大男が体をビクつかせる。フェリーチェの震える唇が誘っていると錯覚しそうだったからだ。
パタパタと聞こえてくる雨音で本能を踏みつけ、必死に理性を保ち、自分の立場とすべき事を反芻している――隣に立つ同僚もそれをひしひしと感じ、フェリーチェに願い出た。
「すみません、フェリーチェさん。俺達も理由は分からないんです。だから余計に無理というか……それに……上官の指示に逆らう事は絶対に出来ません!」
「私だって約束を破りたくない……でも……それじゃ何も――。お願い……お願いします……」
フェリーチェの切羽詰まった懇願に二人は目を合わせたが、それでも首を振り黙る。彼らがそこまでして持っている書類を渡さないのは、兵士としてのプライドがあるからだと、フェリーチェはちゃんと分かっていた。けれども、自分にだって譲れないものがある。譲りたくない理由がある。
お互い決して譲れなかった。
お願い。どうか見せて欲しい――とフェリーチェの指が書類を目指し青年の手の上を滑る。紙の上の数字と文字にしか興味の無いフェリーチェの指先の動きは、“知るため”の手段でしかない。
だが、青年にとっては違った。
恋を知りリヴァイから『砂糖菓子の本当の甘さ』を教えて貰ったフェリーチェのそれは、無意識に男を誘う様な凶器になっていたのだ。
任務を放棄し理性が崩れそうになった自分に恐怖したのだろう。青年は咄嗟にフェリーチェの手を思い切り振り払った。
「やめてくださいッ!」
「っ!? きゃっ!」
ただでさえ、男と女……体格の違い、兵士とそうでない者の差がある。はじめから細く小さなフェリーチェが青年に敵うはずがない。
そこに焦りと恐怖から放たれた行動。当然、加減は一切無く。
床に突き飛ばされたフェリーチェの短い悲鳴と響く音。賑やかだった場が皆の驚きに一瞬静まり返る。
「おいっ! オマエ何してんだよッ!」
「……あ……」
「フェリーチェさんっ!!」
同僚を窘める青年。フェリーチェにずっと付いてきていた男は慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」と言う声を聞きながらフェリーチェはゆっくりと体を起こす。
右頬と膝にチリチリとした痛みがあった。受け身を取ったつもりだったが、眠らず食事を取らずで過ごしていた体は存外言う事を聞いてくれないらしい。
口内に、僅か鉄の味。こくんと唾を飲み喉へ流す。
青年を見上げると、困惑と怒りとよく分からない色をまぜこぜにした瞳が自分を見ていた。
昨晩は星がいくつも流れた夜だった。
流星群が見える日。
フェリーチェもそれを天体解説本で読み知っていたし、観測出来るのを楽しみにしていた。
しかし、絶好の観測日和だったにも関わらずフェリーチェが空を見上げる事はなかった。部屋に閉じ籠もり、全てのノートやメモを引っくり返し、床やベッド、机の上に散らばる数字をひたすら追っていたからだ。
悲しみ、悔しさ、焦り――。それらが渦巻きフェリーチェの心を重くさせる。
更に昼間初めて味わった苦しみ。あれから何度襲われただろう。ペンを握り走らせていると目眩がやってくる。次に頭痛、冷えていく指と掌、息苦しさを感じた途端に陥る呼吸困難。胸元を抑えうずくまり、数を数え嵐が過ぎるまで耐える。包帯のお守りを握りしめ、ここに居ない人を呼ぶ。
その度に何かに追い詰められている気がした。
――倒れたフェリーチェを見つけたのは司書だった。
『大丈夫よ。ゆっくり数を数えて。すぐに落ち着くわ』
『温かい紅茶を淹れてあげる。はちみつとミルクは苦手じゃない?』
優しく介抱してくれたその人のゆったりとした口調は、アインシュバルの妹に似ていた。
懐かしい人。美味しい紅茶とはちみつたっぷりのパンケーキ、教えてくれた童話や歌。アインシュバルの妹は母の様にフェリーチェを可愛がり、フェリーチェもまた彼女に母の面影を重ねて懐いた
今はどうしているのだろう。
(別れる時、淋しくなるから猫を飼おうかしらって言ってたけど、あの広いお屋敷で猫と穏やかに暮らしているのかな?)
思い出したのは開発部に入る前に彼女と過ごした穏やかで慎ましい日々。頑張るのよと、送り出してくれたあの日。
リヴァイ達が戦い続けるのは、彼女達の様な人々を守り、世界――街の穏やかさと優しさが絶えない事を願うからだ。きっと。
――だから私もみんなの為にやらなくてはならないのに。
シガンシナ区や壁の事を聞いたフェリーチェに司書はポツリポツリと何個か答えたが、聞いている途中で再び過呼吸になったフェリーチェを見てそれ以上は教えてくれなかった。
フェリーチェがシガンシナ区出身の娘で、襲われた日のトラウマを抱え今も苦しんでいる――そう思ったのかもしれない。
嵐を耐え呼吸が落ち着いてくると懐かしい思い出や優しく響く声が自分を包む。
だけどすぐに、それを忘れさせる黒い影が現れる。
怒気と悪意の闇が柔らかな光を飲み込んでしまうと、フェリーチェの中には昼間の衝撃だけが残って。
(なんで……どうして……どうすればいいの……)
そればかり考えてしまう。
混乱している暇はないのに、感情が追い付かない。追い付かないまま前に走り出すのは、悔しさと焦りと苛立ちからだった。
皆がやれる事をやっているのに、自分もそうしていたはずなのに、気が付いた時には自分だけがその場から外れていた。
見てきた事実は全てではなく、知り得た事はどこまで信じて良いのか分からない。
――自分の無知と無力が許せない。
フェリーチェは部屋を埋め尽くすノートや用紙を呆然と見渡した。
こうして書き続けたレポートや試算の数字は果たしてどれだけ役に立つのだろうか?
ここで見ていた資料は昔のものと分かっている。その上で今に生かせないかと考えてきた事がこの場にある一枚一枚だ。全部無駄になる事はないと信じたい。
(でもこれからどうしよう)
「だって……分からないんだよ……?」
どうしてここにいるのか――。
二年前シガンシナ区に現れたのは五十メートルの壁を超える大きな巨人と門を破壊した巨人。その時には沢山の兵士達が戦っている――生き残った者達から得られた情報や破損した部品などは回収され、情報も共有されているはず。
自分だって何も見ていない訳じゃないと思う。ただそれが、“外で起きている重大な事”と結びついているものだったのかまではもう知る事が出来ない。
開発部には二つのチームがあり関わる案件がそれぞれ違うけど、案件は違えど同じものを見て同じ未来を目指していると思っていた。でもこうなってみると、自分は本当に二つのチーム、そして部内の全てを正しい情報で把握出来ていたのか自信がなくなった。
――副部長だというのに。
与えられたものしか見ていなかった自分が情けない……。
『なんで私は、何も疑わないでここまで生きてきたんだろう』
ふと、そんな問いかけがフェリーチェの中に生まれた。
すると次の瞬間、冷えた足元からどろりと漆黒の感情が湧き上がってくる。それはズルズルとフェリーチェの身体に巻き付き、細い身体を締め上げ、澄んだライムグリーンを濁らせた。
『このままじゃ私は中途半端にしか生きられない』
(あんなに……あんなに必死にやってきたんだもの――)
『ちゃんと自分の目で確かめないと。リヴァイさん達と一緒に前に進めない』
(ちゃんと役目を果たさないと……。戻った時に中央の人達に顔向け出来ない……)
それは相反する心だった。大きな矛盾。
箱庭に閉じ籠もっていた時には感じなかったもの――外に出て初めて得たもの。
自分の中に生じているそれが、調査兵団に来た当初より強く大きくなっている事にフェリーチェはまだ気付いていない。今まさに更新されていってるだなんて思いもしない。
他者の漆黒の感情は強く、フェリーチェの心を彼女の知らないところでずっと縛っているからだ。
「――リヴァイさん……」
ずっと心の中で呼び続けている名前を俯き零した。と、足元に落ちている一枚が目に入る。ある単語と数字に赤線が引いてあった。あぁ、これは……。風に飛ばされて見失い焦った時のやつだ。リヴァイが偶然見つけてくれて「流石リヴァイさんだ!」って飛びついたんだっけ。
――赤い線をそっとなぞる。朱色が指先から身体へ溶けていく感じがした。
(あ…………)
恐る恐る線の上の数字もなぞると、昼間失った、文字が脳へ溶けていく感覚を少しだけ取り戻している。でもそこ以外はまだ駄目で。フェリーチェはきゅっと目を瞑った。
こんな自分を、リヴァイは受け入れてくれるのだろうか。
補佐の仕事も研究員の仕事もまともに出来なくなったら、どちらも認めてくれたリヴァイは何て言うんだろう。
(“外の世界の常識”を知らなかった私を、リヴァイさん……どう思ってたのかな……)
「っ!」
大きな鼓動ひとつ。目眩と頭痛、そして冷え。全身が冷えていくのに目の奥は熱くなっていく。息が上手く吸えない、苦しい。
また嵐だ……今度はどのくらい耐えればいい?
震える両手の中に包帯とくしゃくしゃになったメモ用紙を隠し握りしめ、拳を額に押し付け。フェリーチェは再びうずくまる。
(1……2……3……)
この嵐が去ったらとにかく行動しようと心に決めた――。
✽✽✽
夕食後から就寝までの自由時間は、一日の内で一番兵舎の空気が軽い時間帯だ。特に各々が自分の部屋に戻り始める就寝時刻直前は、自由時間ギリギリまで楽しみたい者――若者達の声が集まってきて賑やかになる
今日も例外なく若い兵達がふざけ合ったり談笑する声があちこちで聞こえ、それらは降り出した雨の音を消していた。
廊下の窓を叩く雨音は無音。
伝い落ちていく雫をぼんやりと見つめるフェリーチェの後ろ姿を見つけた数人の男達は、それぞれ声をかけるか迷っているようだった。
この時間この場所に、フェリーチェが一人で現れる事は今までなかった。通りがかる事はあったが、その時は必ず隣にリヴァイがいて。彼らがそわそわしい視線を送れば、フェリーチェよりも先にリヴァイが気付き、鋭い視線を返してくる。
真面目な顔の奥にバレないよう下心を隠してもリヴァイにはお見通しなのか、さり気なく体をずらしフェリーチェの盾になる。“林檎係”の存在を知っている幾人かはあわよくば自分も――と考えていたが、そんな状態ではチャンスもへったくれもなかった。
だが今夜は、いつも手厳しいリヴァイは外出していて彼らの前にいない。心の中で「今日こそは!」と思う者は少なくなかった――
「フェリーチェさん。今日は一人なんですね! あっ、そうか! 兵長は外出でしたっけ?」
窓を伝う雫が二つ三つと下の雫にくっつき共に落ちていく様を見ながら、どう情報を集めようかと考えていると、背後から声をかけられた。振り向くと、以前街で会った青年がニコニコと笑い立っている。
(あの時の……)
――自分の髪をハサミで切ったリヴァイの指先を思い出した。
(この人苦手)
軽く会釈。執務室に行こうと場を後にすると、青年の声は当たり前の様についてきた。
「今度バザーがあるの知ってます? 結構色んな店が出て見応えあるんです。俺、案内しますよ!」
(なんで私があなたと……。行くならリヴァイさんと行くし。あぁもう)
邪魔だ。どこまでついてくるつもりなんだろうか。
早く歩いてもコンパスの差のせいでちっとも距離が変わらない。もともと苛ついていたフェリーチェは奥歯を噛んでそれが増えないようにする。リヴァイだったら盛大な舌打ちが出ているだろう。
「古本売る店もありますよ」
(邪魔……)
「アクセサリーとか」
(邪魔!)
「あ、実演販売も! これが結構面白くて」
(うるさいっ!)
無意識に足が止まる。拳を握りしめたフェリーチェはそれを振り回したい衝動に襲われ、だけどそういう訳にはいかないと必死に自分に言い聞かせた。
駄目だと教えられている。
――誰に? 誰だったっけ? 何故、どうして……。
頭の中に次々と浮かぶ。
「フェリーチェさん?」
誰でもいい。そんなことどうでもいい。
邪魔されるのは本当に腹が立つ。
私の邪魔は許さない。
ぎゅっと目を瞑り、フェリーチェは叫びたい気持ちを抑えた。
――その時だった。
「昨日のアレどうなった?」
「うーん……上手くいかないんだよなぁ。あの部品もうちょっと調整した方がいいのかも」
「そうは言ってもあれ以上は厳しくね?」
「それなんだよなぁ……技巧科なんとかしてくんねーかな。俺ら技術班の頭じゃ限界だよ」
流れていく会話はサラサラとフェリーチェの脳内ノートに記されていく。その中で、
『技術班』『部品』『調整』『技巧科』『限界』
という単語は濃い太字になった。
「待って!」
「えっ?……フェリーチェさん!?」
青年二人が振り向いた。
モブリットとエルヴィンが並んでいる姿によく似た二人だった。
「それっ!」
フェリーチェの目は高身長で体格のいい青年が持つ数枚の書類に釘付けになる。
(俺ら技術班って言った。この人が持ってるのって……!)
相手の顔や表情は一切目に入らない。『限界』その太文字が書類に貼り付いているのだけがハッキリと見える。
「あっ……」
――青年達はフェリーチェの事をよく知っている様だった。滅多に見ない姿に驚いて目を丸くし、特に書類を持つ彼の方はフェリーチェが手首を掴んできたので一瞬で顔を真っ赤にし固まった。
突然現れ駆け寄ってくる小さな体と、自分達を捕らえる様にふわりと舞う甘い香り。彼らにはフェリーチェが妖精の様に見え、感じた。リヴァイが他の男に触れさせないようにしている、澄んだ柔らかな存在――厳しく鋭い瞳が大勢に向けられる理由が一瞬で理解出来た。
「これ……これ一番新しい資料ですよね? お願いです! 私にも見せてくださいっ!」
「えっ……あっ!? いや、こ、これは……! すみません、出来ません!」
「どうして? お願いします!」
「だ、駄目なんですっ……。団長直々の命れ……指示!……で!」
「団長――エルヴィンさんが……」
きゅっと込められる力に大男が体をビクつかせる。フェリーチェの震える唇が誘っていると錯覚しそうだったからだ。
パタパタと聞こえてくる雨音で本能を踏みつけ、必死に理性を保ち、自分の立場とすべき事を反芻している――隣に立つ同僚もそれをひしひしと感じ、フェリーチェに願い出た。
「すみません、フェリーチェさん。俺達も理由は分からないんです。だから余計に無理というか……それに……上官の指示に逆らう事は絶対に出来ません!」
「私だって約束を破りたくない……でも……それじゃ何も――。お願い……お願いします……」
フェリーチェの切羽詰まった懇願に二人は目を合わせたが、それでも首を振り黙る。彼らがそこまでして持っている書類を渡さないのは、兵士としてのプライドがあるからだと、フェリーチェはちゃんと分かっていた。けれども、自分にだって譲れないものがある。譲りたくない理由がある。
お互い決して譲れなかった。
お願い。どうか見せて欲しい――とフェリーチェの指が書類を目指し青年の手の上を滑る。紙の上の数字と文字にしか興味の無いフェリーチェの指先の動きは、“知るため”の手段でしかない。
だが、青年にとっては違った。
恋を知りリヴァイから『砂糖菓子の本当の甘さ』を教えて貰ったフェリーチェのそれは、無意識に男を誘う様な凶器になっていたのだ。
任務を放棄し理性が崩れそうになった自分に恐怖したのだろう。青年は咄嗟にフェリーチェの手を思い切り振り払った。
「やめてくださいッ!」
「っ!? きゃっ!」
ただでさえ、男と女……体格の違い、兵士とそうでない者の差がある。はじめから細く小さなフェリーチェが青年に敵うはずがない。
そこに焦りと恐怖から放たれた行動。当然、加減は一切無く。
床に突き飛ばされたフェリーチェの短い悲鳴と響く音。賑やかだった場が皆の驚きに一瞬静まり返る。
「おいっ! オマエ何してんだよッ!」
「……あ……」
「フェリーチェさんっ!!」
同僚を窘める青年。フェリーチェにずっと付いてきていた男は慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」と言う声を聞きながらフェリーチェはゆっくりと体を起こす。
右頬と膝にチリチリとした痛みがあった。受け身を取ったつもりだったが、眠らず食事を取らずで過ごしていた体は存外言う事を聞いてくれないらしい。
口内に、僅か鉄の味。こくんと唾を飲み喉へ流す。
青年を見上げると、困惑と怒りとよく分からない色をまぜこぜにした瞳が自分を見ていた。