純粋さは狂気にも成り得る
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3
朝食の時間帯になり兵舎内の空気が動き出した。リヴァイ達が出発して少し経ってからのことだ。
廊下に数人の気配を感じながら、フェリーチェはリヴァイの机で溜息を吐く。机上の筆を借りスケッチブックにぐるぐる円を書いていたが、濃く太くなった線を見ているうちに虚しくなって、丸を大きなバツで否定した。
時間は本当に進んでいるのだろうか?
何度時計を見ても、リヴァイが出ていった時点から針は確実に回っている。それなのに時の流れを自分は全く感じられない。――あの時計、壊れてるんじゃない?
(いや……私がおかしいのか……)
集合時間に遅れたのは七分。リヴァイのジャケットの裾から指が離れなかったのは三十分弱。――それは後でモブリットが教えてくれた。
三十七分は、いざ出掛けようとする人達を待たせるに結構長い時間だと思う。エルヴィンは余裕を持たせているから大丈夫だと言ってくれたけど、それは道中トラブルがあった時などの為の余裕であって、自分がリヴァイとの別れを惜しむ為に用意された時間じゃない。
三十七分。長い、と思う。
…………多分。
「解せん」
リヴァイの口調を真似てフェリーチェは呟いた。さすがに舌打ちまでは真似なかったが。
……自分の体感時間と実際の時間がかけ離れてるのは認めよう。これは、リヴァイと一緒に居たい、その気持ちが強いせいで起きていることなんだと思う。
二人きりの時間はあっという間に過ぎてしまう。夜のデートも、指を絡めて相手と寄り添う甘いひとときも。嬉しいと思う分だけ物足りなさが増えていく現象は、とても理不尽で不満だ――。
渋々諦め離れた直後のリヴァイの顔を見て、フェリーチェは(絶対そうだ)と思っていた。
隠しているがリヴァイも同じ気持ちを持っている。根拠はないが自信があった――。
『もういいだろ、そろそろ離せフェリーチェ』
『まぁ待てリヴァイ……』
『エルヴィン。時間はまだあるとかそういう話じゃねぇぞ。これはお前らを待たせて迷惑をかけてるっつう話だ。……分かるなフェリーチェ』
『は、はい』
厳しく言い放たれた勢いで頷いたら、髪がぐしゃぐしゃになるほど撫でられて。
『よし』
雑さ加減に視界は大きく揺れた。その割に動きはなんだかゆっくりだったものだから、仕方ねぇ奴だなというリヴァイの呟きも二人共通のものに感じたのだ。
だからこそ。
(リヴァイさんも私と同じで、内心は、こんちくしょう貴族どもめ! とか考えてるんだと思ってたのに――!)
「サッサと馬車に乗り込んでそれきりって!」
こちらなんか気にもせず、向かいに座るエルヴィンと喋り始めた時は、馬車を蹴飛ばしてやろうかと思った。ひどい。
おかげで名残惜しく見つめ合いながらの出発どころか、怨む目で馬車を押して……の出発になってしまったじゃないか!
「はぁ……もしかしてリヴァイさん」
(本当は怒ってるのかな。私が勝手に幸せな妄想してるだけで。リヴァイさんは三十七分も予定を遅らせたこと、怒ってるのかな……)
聞きたくてもリヴァイが帰ってくるのは少し先だ。それまではこのモヤモヤした気持ちと仲良く過ごさなくてはならない――。
それに気付いたら、最後の最後で目も合わせられなかった事が切なくて、淋しさも倍増した。リヴァイの気持ちを読み取れない悔しさとやり場のない怒りは三倍くらい増えた。
(なにこれ。頭の中がぐっちゃぐちゃだよ……)
“好きです。大好き”
この想いが溢れると、自分の世界はみるみる明るい色で満ちていくんだと思ったのに、実際はそんなにお気楽じゃないらしい。
それどころかこんな風に――。
ああ、もう分からない!
「うぅ……みんなこうなの?」
難しい。分からない。難しい……落ち着け自分。
ゴン、と机に頭を落とし、フェリーチェは深呼吸する。
インクの匂いに少しだけ頭がスッキリした。――そのおかげで、
(あ……そういえばハンジさん……)
思い出した。馬車が走り出した時、窓に顔を貼り付けハンジは何か言っていたんだっけ。
『待ってて』
そう言ったように……見えた?
「いつも待つばっかりか」
リヴァイと取っ組み合いになったとしても、無理矢理くっついて行けばよかった――。
**
早朝の空を広く覆っていた雲がいつの間にか移動していた。視界半分くらいの青空に、お昼頃には快晴かな? とフェリーチェは思う。あちらはどうだろうか、晴れ?曇り?
こんな些細な疑問ですら横にリヴァイがいなければ聞くことも出来ない。無理だと分かっていても、なにかいい方法はないものか……なんて考えてしまい可笑しくなった。
研究に明け暮れて外もろくに見ず生きてきた自分が、今は常に、目の前や離れた空の天気を気にするなんて。本当に……なんの因果だろう。――昔々を思い出す。
空から兵舎に気持ちを戻したところでフェリーチェは立ち止まった。――正面の相手も同じだった。
「あっ」
「……あ」
無意識に出た言葉も一緒。
「えっと……」
気まずさに逃げ出したくなったフェリーチェだったが、なんとか踏み止まった。リヴァイと約束しているのだ。『今度はちゃんとする』と……。
「おはよう。クライダー」
「……うん……おはよう……」
「えっと……」
とはいえ、はじめの一言に戸惑う。それでもなんとか絞り出した。
「これからあさごはん?」
「……ああ」
「……そっか」
「あの、フェリーチェ……昨日の」
「一緒に食べない?」
「!?」
クライダーが言葉を失った姿を見て、被せて言ってしまったのは失敗だったとフェリーチェは思った。
(何も聞きたくない、って意味じゃなかったけど、今の感じじゃそう思われちゃうか!)
「あ、廊下だと目立っちゃうから……だから」
慌てて付け足した。
「そうだよね、気が付かなくてごめん……ありがとう」
青ざめ固まっていたクライダーの表情が少し緩み自分もホッとする。「じゃあ行こう」と声をかけながら、ちょっと前は同席が嫌で断っていたのに、まさか誘う側になるなんてな……と苦笑した。
――窓際奥のテーブル。一番端にフェリーチェが座ると、クライダーは斜め前に座った。
隣や目の前じゃないのが彼らしいと思う。きっと、今日のこの気不味いタイミングじゃなくてもクライダーはそこへ座るのだろう。
フェリーチェを理解し適度な距離を保つ、それがクライダーだった。
だからこそ、深く胸に突き刺さる。
昨晩の彼が抑えられなかった気持ちが、どんなに衝動的で、どんなに純粋で、そして真っ直ぐなものだったのか。
その気持ちを、フェリーチェはもう理解出来るのだ--。
朝食のメニューは、ミルクとパン、蒸かした芋と数種の豆のスープ、そしてサラダ。
ミルクとパンは苦手なので配膳係の人へ断ったら、「ではこれで!」と他の人より一回り大きい芋を笑顔で渡されて……。食べ切れるのかコレ? クライダーを見れば、こちらの言いたい事が伝わったのか苦笑している。
ミルクもパンもいらないと言う人間はここには居ないから、気を遣ったのかも……とクライダーは言った。
「残さないように頑張らなきゃ……。駄目だった時はクライダー貰ってくれる?」
「……みんなから睨まれそうだな」
フェリーチェが軽い口調で言うと、クライダーもつられたのか、肩を竦め同じ調子で返してくる。
「え? なんで睨まれるの?」
「あっ……!」
しかし、すぐに頬を引きつらせた。
「ごめん……」
「クライダー」
スプーンを置こうとするクライダーをフェリーチェは止める。
さっきから彼は謝ってばかりだ。それに、明らかに寝不足だと分かる顔色と目の下のクマ。リヴァイが「死人の様に廊下を歩いていた」と言っていたのを思い出し、フェリーチェは逆に自分が謝りたい気持ちになっていた。
「ごはん食べよう? 冷めちゃうよ。豆のスープ好きって、前に言ってたよね」
クライダーは昨晩から罪の意識に押し潰されそうになっているのだろう。充血した瞳は、寝不足だけが原因ではないかもしれない。
フェリーチェはリヴァイの言葉を思い出した。
――区切りをつけてやれ。何度も謝ったって起こしちまった問題は消えねぇ。お前も言いたい事が死ぬ程あるだろうが、それはもうお互い心の中で消化していくしか無い。キリがねぇからな。
言いたい事……もちろんあったが、死ぬ程は無い。それに、クライダーに対する怒りは、リヴァイの砂糖菓子を詰め込まれた様なキスでほとんど消えていた。
「覚えていてくれたんだ」
「うん。だって友達だもんね」
「友、達――。僕……が?」
(あっ……)
クライダーの瞳に命が戻ってきた瞬間を見たフェリーチェは、自分が間違った選択をしなかったのだと確信する。
そうだ、友達。友達だ。クライダーは自分の数少ない理解者。お互い手を伸ばせば握手や指切りが出来る、“その他大勢”よりちょっとだけ近い距離。
「……。ありがとう、フェリーチェ」
「うん!」
やっと笑ってくれた。
少しぎこちない感じがするけれど、それはお互い様だった。相手の反応を探り合いながら、崩れた砂の城をもう一度構築していく。一度組み上げた部分は勝手が分かっているので、仕上がりに時間はかからないだろう。
クライダーと朝食を取りながら、良い報告が出来そう……とリヴァイの不機嫌顔を思い出した。残ってしまった芋を笑って食べてくれた彼を見たら、リヴァイも安心するに違いない――。
✽
食堂を出るとクライダーは「じゃあ」と手を上げ、すぐに歩き出した。
「あ……」
今日は兵団に出入りする商人と大事な打ち合わせがあると言っていたけど……引き止め話をするくらいの時間はあるはず。フェリーチェは、ふぅと軽く息を吐いてからクライダーを呼び止めた。
「クライダー待って!」
振り返った彼へ歩み寄る。今までより一歩分前へ出たフェリーチェに、クライダーは戸惑った表情で、しかし後退りはせずフェリーチェを見た。
「どうしたの?」
「はい」
「え!?」
「えっと……握手しよう? これからもよろしくね、って感じで。ん? 仲直りって言った方がいいのかな?」
右手を出し首を傾げたフェリーチェに目を大きく見開くクライダー。フェリーチェと、右手と、そして自分の手を順番に見、困った様に眉を下げ笑う。
「仲直りか…………ありがとう」
そうだね、と頷いたクライダーが手を伸ばした――その時だった。
「おい、クライダー! ちょっといいか? 今日の会議なんだが」
「っ! はい!」
背後から声をかけられたクライダーは大きく肩を揺らし、フェリーチェへ伸ばした手を引っ込めた。フェリーチェも突然の声に身を縮ませ、二人の距離が一瞬で変わる。
「ごめんね、フェリーチェ。僕行かなきゃ」
「うん」
「また改めて」
ふっと微笑みを残して。クライダーは走って去って行く。上官らしき男とファイルを覗き込み話をしている姿は、エルヴィンとリヴァイのそれに似ていた。
皆、自分のやるべき事を、ただひたすらに。
数十分前まで食事をする兵士達で賑わっていた食堂も、今は静かになり片付けをする者が行き来するだけ。窓の外から聞こえてくる訓練開始の合図の音。
フェリーチェはスカートのポケットから小さな懐中時計を取り出した。時計と縁の無い生活を送って来た自分だけれど、今は良くも悪くも手放せなくなっている。
(まだこんな時間か……)
文字盤の数字に溜息を吐いた。
しかし、吐いた後にハッとする。
“まだこんなに時間がある”んだ。
リヴァイの事ばかり考えていたから、早く時間が過ぎて欲しい……と思っていたけれど、前の自分だったらそんな風に考えなかった。
調査兵団に来て以来、研究から遠ざかっていたせいだろうか。それとも、新たな世界を知りその楽しさを満喫していたせい?
どちらにしても、開発部を離れた事により、自分が今まで命を注いできた全て――数字や理論が軽くなっている事実に変わりはない。
静かな廊下でクライダーの背中を見つめていたフェリーチェは、駄目だ……と一人呟いた。
「みんな頑張ってるのに、私がこんなんじゃ駄目だ」
自由の翼を支えるために私の命はある。
私の命は私のものじゃない。
動かせ、脳を。考えろ、捧げるために。
「行かなきゃ」
フェリーチェは走り出した。執務室には戻らず門番の監視をすり抜け、街へ飛び出す。
見る事を許された資料は昔のものばかりで、ここ数年の新たな情報は何も得られなかった。研究に必要なものは兵団の資料だ。でも前に進むために必要なものは、なにも数字だけじゃないのだと調査兵団に身を置くようになり知った。
フェリーチェの頭の中に今までの経験が蘇る。
高台から眺めた街の景色、酒を飲み楽しそうに笑い歌う店の客達、紅茶店の店主と並ぶ沢山の紅茶缶、静かな図書館。青い空、羽ばたいていく白い鳥。
リヴァイ達が守る全てのものに意味がある。あるに違いない。
だから、街に出る。
フェリーチェの瞳は輝いていた。それは水を得た魚そのもので。
ライムグリーンの中で煌めくのは、まだ辿り着けていない可能性への好奇心と執着心。
ただそれだけ。
リヴァイの姿は、消えていた――。
朝食の時間帯になり兵舎内の空気が動き出した。リヴァイ達が出発して少し経ってからのことだ。
廊下に数人の気配を感じながら、フェリーチェはリヴァイの机で溜息を吐く。机上の筆を借りスケッチブックにぐるぐる円を書いていたが、濃く太くなった線を見ているうちに虚しくなって、丸を大きなバツで否定した。
時間は本当に進んでいるのだろうか?
何度時計を見ても、リヴァイが出ていった時点から針は確実に回っている。それなのに時の流れを自分は全く感じられない。――あの時計、壊れてるんじゃない?
(いや……私がおかしいのか……)
集合時間に遅れたのは七分。リヴァイのジャケットの裾から指が離れなかったのは三十分弱。――それは後でモブリットが教えてくれた。
三十七分は、いざ出掛けようとする人達を待たせるに結構長い時間だと思う。エルヴィンは余裕を持たせているから大丈夫だと言ってくれたけど、それは道中トラブルがあった時などの為の余裕であって、自分がリヴァイとの別れを惜しむ為に用意された時間じゃない。
三十七分。長い、と思う。
…………多分。
「解せん」
リヴァイの口調を真似てフェリーチェは呟いた。さすがに舌打ちまでは真似なかったが。
……自分の体感時間と実際の時間がかけ離れてるのは認めよう。これは、リヴァイと一緒に居たい、その気持ちが強いせいで起きていることなんだと思う。
二人きりの時間はあっという間に過ぎてしまう。夜のデートも、指を絡めて相手と寄り添う甘いひとときも。嬉しいと思う分だけ物足りなさが増えていく現象は、とても理不尽で不満だ――。
渋々諦め離れた直後のリヴァイの顔を見て、フェリーチェは(絶対そうだ)と思っていた。
隠しているがリヴァイも同じ気持ちを持っている。根拠はないが自信があった――。
『もういいだろ、そろそろ離せフェリーチェ』
『まぁ待てリヴァイ……』
『エルヴィン。時間はまだあるとかそういう話じゃねぇぞ。これはお前らを待たせて迷惑をかけてるっつう話だ。……分かるなフェリーチェ』
『は、はい』
厳しく言い放たれた勢いで頷いたら、髪がぐしゃぐしゃになるほど撫でられて。
『よし』
雑さ加減に視界は大きく揺れた。その割に動きはなんだかゆっくりだったものだから、仕方ねぇ奴だなというリヴァイの呟きも二人共通のものに感じたのだ。
だからこそ。
(リヴァイさんも私と同じで、内心は、こんちくしょう貴族どもめ! とか考えてるんだと思ってたのに――!)
「サッサと馬車に乗り込んでそれきりって!」
こちらなんか気にもせず、向かいに座るエルヴィンと喋り始めた時は、馬車を蹴飛ばしてやろうかと思った。ひどい。
おかげで名残惜しく見つめ合いながらの出発どころか、怨む目で馬車を押して……の出発になってしまったじゃないか!
「はぁ……もしかしてリヴァイさん」
(本当は怒ってるのかな。私が勝手に幸せな妄想してるだけで。リヴァイさんは三十七分も予定を遅らせたこと、怒ってるのかな……)
聞きたくてもリヴァイが帰ってくるのは少し先だ。それまではこのモヤモヤした気持ちと仲良く過ごさなくてはならない――。
それに気付いたら、最後の最後で目も合わせられなかった事が切なくて、淋しさも倍増した。リヴァイの気持ちを読み取れない悔しさとやり場のない怒りは三倍くらい増えた。
(なにこれ。頭の中がぐっちゃぐちゃだよ……)
“好きです。大好き”
この想いが溢れると、自分の世界はみるみる明るい色で満ちていくんだと思ったのに、実際はそんなにお気楽じゃないらしい。
それどころかこんな風に――。
ああ、もう分からない!
「うぅ……みんなこうなの?」
難しい。分からない。難しい……落ち着け自分。
ゴン、と机に頭を落とし、フェリーチェは深呼吸する。
インクの匂いに少しだけ頭がスッキリした。――そのおかげで、
(あ……そういえばハンジさん……)
思い出した。馬車が走り出した時、窓に顔を貼り付けハンジは何か言っていたんだっけ。
『待ってて』
そう言ったように……見えた?
「いつも待つばっかりか」
リヴァイと取っ組み合いになったとしても、無理矢理くっついて行けばよかった――。
**
早朝の空を広く覆っていた雲がいつの間にか移動していた。視界半分くらいの青空に、お昼頃には快晴かな? とフェリーチェは思う。あちらはどうだろうか、晴れ?曇り?
こんな些細な疑問ですら横にリヴァイがいなければ聞くことも出来ない。無理だと分かっていても、なにかいい方法はないものか……なんて考えてしまい可笑しくなった。
研究に明け暮れて外もろくに見ず生きてきた自分が、今は常に、目の前や離れた空の天気を気にするなんて。本当に……なんの因果だろう。――昔々を思い出す。
空から兵舎に気持ちを戻したところでフェリーチェは立ち止まった。――正面の相手も同じだった。
「あっ」
「……あ」
無意識に出た言葉も一緒。
「えっと……」
気まずさに逃げ出したくなったフェリーチェだったが、なんとか踏み止まった。リヴァイと約束しているのだ。『今度はちゃんとする』と……。
「おはよう。クライダー」
「……うん……おはよう……」
「えっと……」
とはいえ、はじめの一言に戸惑う。それでもなんとか絞り出した。
「これからあさごはん?」
「……ああ」
「……そっか」
「あの、フェリーチェ……昨日の」
「一緒に食べない?」
「!?」
クライダーが言葉を失った姿を見て、被せて言ってしまったのは失敗だったとフェリーチェは思った。
(何も聞きたくない、って意味じゃなかったけど、今の感じじゃそう思われちゃうか!)
「あ、廊下だと目立っちゃうから……だから」
慌てて付け足した。
「そうだよね、気が付かなくてごめん……ありがとう」
青ざめ固まっていたクライダーの表情が少し緩み自分もホッとする。「じゃあ行こう」と声をかけながら、ちょっと前は同席が嫌で断っていたのに、まさか誘う側になるなんてな……と苦笑した。
――窓際奥のテーブル。一番端にフェリーチェが座ると、クライダーは斜め前に座った。
隣や目の前じゃないのが彼らしいと思う。きっと、今日のこの気不味いタイミングじゃなくてもクライダーはそこへ座るのだろう。
フェリーチェを理解し適度な距離を保つ、それがクライダーだった。
だからこそ、深く胸に突き刺さる。
昨晩の彼が抑えられなかった気持ちが、どんなに衝動的で、どんなに純粋で、そして真っ直ぐなものだったのか。
その気持ちを、フェリーチェはもう理解出来るのだ--。
朝食のメニューは、ミルクとパン、蒸かした芋と数種の豆のスープ、そしてサラダ。
ミルクとパンは苦手なので配膳係の人へ断ったら、「ではこれで!」と他の人より一回り大きい芋を笑顔で渡されて……。食べ切れるのかコレ? クライダーを見れば、こちらの言いたい事が伝わったのか苦笑している。
ミルクもパンもいらないと言う人間はここには居ないから、気を遣ったのかも……とクライダーは言った。
「残さないように頑張らなきゃ……。駄目だった時はクライダー貰ってくれる?」
「……みんなから睨まれそうだな」
フェリーチェが軽い口調で言うと、クライダーもつられたのか、肩を竦め同じ調子で返してくる。
「え? なんで睨まれるの?」
「あっ……!」
しかし、すぐに頬を引きつらせた。
「ごめん……」
「クライダー」
スプーンを置こうとするクライダーをフェリーチェは止める。
さっきから彼は謝ってばかりだ。それに、明らかに寝不足だと分かる顔色と目の下のクマ。リヴァイが「死人の様に廊下を歩いていた」と言っていたのを思い出し、フェリーチェは逆に自分が謝りたい気持ちになっていた。
「ごはん食べよう? 冷めちゃうよ。豆のスープ好きって、前に言ってたよね」
クライダーは昨晩から罪の意識に押し潰されそうになっているのだろう。充血した瞳は、寝不足だけが原因ではないかもしれない。
フェリーチェはリヴァイの言葉を思い出した。
――区切りをつけてやれ。何度も謝ったって起こしちまった問題は消えねぇ。お前も言いたい事が死ぬ程あるだろうが、それはもうお互い心の中で消化していくしか無い。キリがねぇからな。
言いたい事……もちろんあったが、死ぬ程は無い。それに、クライダーに対する怒りは、リヴァイの砂糖菓子を詰め込まれた様なキスでほとんど消えていた。
「覚えていてくれたんだ」
「うん。だって友達だもんね」
「友、達――。僕……が?」
(あっ……)
クライダーの瞳に命が戻ってきた瞬間を見たフェリーチェは、自分が間違った選択をしなかったのだと確信する。
そうだ、友達。友達だ。クライダーは自分の数少ない理解者。お互い手を伸ばせば握手や指切りが出来る、“その他大勢”よりちょっとだけ近い距離。
「……。ありがとう、フェリーチェ」
「うん!」
やっと笑ってくれた。
少しぎこちない感じがするけれど、それはお互い様だった。相手の反応を探り合いながら、崩れた砂の城をもう一度構築していく。一度組み上げた部分は勝手が分かっているので、仕上がりに時間はかからないだろう。
クライダーと朝食を取りながら、良い報告が出来そう……とリヴァイの不機嫌顔を思い出した。残ってしまった芋を笑って食べてくれた彼を見たら、リヴァイも安心するに違いない――。
✽
食堂を出るとクライダーは「じゃあ」と手を上げ、すぐに歩き出した。
「あ……」
今日は兵団に出入りする商人と大事な打ち合わせがあると言っていたけど……引き止め話をするくらいの時間はあるはず。フェリーチェは、ふぅと軽く息を吐いてからクライダーを呼び止めた。
「クライダー待って!」
振り返った彼へ歩み寄る。今までより一歩分前へ出たフェリーチェに、クライダーは戸惑った表情で、しかし後退りはせずフェリーチェを見た。
「どうしたの?」
「はい」
「え!?」
「えっと……握手しよう? これからもよろしくね、って感じで。ん? 仲直りって言った方がいいのかな?」
右手を出し首を傾げたフェリーチェに目を大きく見開くクライダー。フェリーチェと、右手と、そして自分の手を順番に見、困った様に眉を下げ笑う。
「仲直りか…………ありがとう」
そうだね、と頷いたクライダーが手を伸ばした――その時だった。
「おい、クライダー! ちょっといいか? 今日の会議なんだが」
「っ! はい!」
背後から声をかけられたクライダーは大きく肩を揺らし、フェリーチェへ伸ばした手を引っ込めた。フェリーチェも突然の声に身を縮ませ、二人の距離が一瞬で変わる。
「ごめんね、フェリーチェ。僕行かなきゃ」
「うん」
「また改めて」
ふっと微笑みを残して。クライダーは走って去って行く。上官らしき男とファイルを覗き込み話をしている姿は、エルヴィンとリヴァイのそれに似ていた。
皆、自分のやるべき事を、ただひたすらに。
数十分前まで食事をする兵士達で賑わっていた食堂も、今は静かになり片付けをする者が行き来するだけ。窓の外から聞こえてくる訓練開始の合図の音。
フェリーチェはスカートのポケットから小さな懐中時計を取り出した。時計と縁の無い生活を送って来た自分だけれど、今は良くも悪くも手放せなくなっている。
(まだこんな時間か……)
文字盤の数字に溜息を吐いた。
しかし、吐いた後にハッとする。
“まだこんなに時間がある”んだ。
リヴァイの事ばかり考えていたから、早く時間が過ぎて欲しい……と思っていたけれど、前の自分だったらそんな風に考えなかった。
調査兵団に来て以来、研究から遠ざかっていたせいだろうか。それとも、新たな世界を知りその楽しさを満喫していたせい?
どちらにしても、開発部を離れた事により、自分が今まで命を注いできた全て――数字や理論が軽くなっている事実に変わりはない。
静かな廊下でクライダーの背中を見つめていたフェリーチェは、駄目だ……と一人呟いた。
「みんな頑張ってるのに、私がこんなんじゃ駄目だ」
自由の翼を支えるために私の命はある。
私の命は私のものじゃない。
動かせ、脳を。考えろ、捧げるために。
「行かなきゃ」
フェリーチェは走り出した。執務室には戻らず門番の監視をすり抜け、街へ飛び出す。
見る事を許された資料は昔のものばかりで、ここ数年の新たな情報は何も得られなかった。研究に必要なものは兵団の資料だ。でも前に進むために必要なものは、なにも数字だけじゃないのだと調査兵団に身を置くようになり知った。
フェリーチェの頭の中に今までの経験が蘇る。
高台から眺めた街の景色、酒を飲み楽しそうに笑い歌う店の客達、紅茶店の店主と並ぶ沢山の紅茶缶、静かな図書館。青い空、羽ばたいていく白い鳥。
リヴァイ達が守る全てのものに意味がある。あるに違いない。
だから、街に出る。
フェリーチェの瞳は輝いていた。それは水を得た魚そのもので。
ライムグリーンの中で煌めくのは、まだ辿り着けていない可能性への好奇心と執着心。
ただそれだけ。
リヴァイの姿は、消えていた――。
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