憂鬱と淋しさ、安堵と愛しさ
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✽3✽
壁外拠点の一つである夜の古城内は、昼間の壮絶さとは真逆な空気に包まれていた。
控えめに談笑する者、早々に横になっている者、食事を取る者……。無事だった兵達が夜を過ごす様子は、人が変わろうといつもと大体同じ感じだった。
しかしその一方、怪我の手当てを受ける者や仲間を失ったのであろう兵が、疲弊しきった表情で悲痛な雰囲気を放っているのもまた然り。
残念であったのは、彼らが放つ空気の重さが、ここ最近の調査の中で一番重苦しかった事だ。
身体のあちこちに包帯を巻いた兵が肩を震わせ、声も無く泣いている姿を遠目で見つめていたリヴァイだったが、そっとその姿から視線を外した。
かけてやれる言葉は無い。これが現実であり、それを受け止めなければこの先へは進めない。
優しい言葉や励ましの類が、逆に今の彼に残酷に響く可能性を思えば、尚更かける言葉を探す事は出来なかった。
「……チッ」
舌打ちを落としながら、リヴァイは重い空気が流れる場所を離れた――。
「リヴァイ!」
ハンジの声が後を追って来る。
うるさい、と振り向くと、林檎が自分に向かって勢いよく飛んできた。目前に迫っていたそれを、頭を僅か横に傾けキャッチする。
「ナイスキャッチ! 振り向かなかったら、イイ感じに後頭部にヒットしてたところだね!」
「……むしろそれを狙って投げただろ、お前は」
「まぁね~。でも、リヴァイならそんなコトあり得ないだろう?」
「当たり前だ」
手にした林檎を見たリヴァイは、もう一度舌打ちを落とした。どうも林檎を見ると、フェリーチェの顔が浮かぶ。
常日頃、ほくほく顔で林檎を頬張るフェリーチェを見ているせいだ。どうしてくれよう、この刷り込み効果。
「フェリーチェがここに居たら、目ぇ輝かせてたと思うよ。補給隊が珍しく持ってきてる」
「こんな所で食わなくても、本部の方がよっぽどあるだろうが。……しかしアイツ、いつもどこから林檎を持ってくるんだ。しょっちゅう食ってるぞ」
「あれ、リヴァイは知らないの? 補給隊第三班の班長がよく差し入れてるよ」
「……第三班……班長」
そいつは知っている。四十、五十を過ぎた男だ。最前線を任せられてもおかしくないくらい戦闘能力が高く、荷馬隊の援護には欠かせない人物。エルヴィンから何回か名を聞いた事がある。
しかし、彼は今回の調査には不参加。前回の調査で班員の多数が負傷し、彼自身も腕を折る怪我を負ったからだ。
――という事は、本部に残っている間、フェリーチェにまた林檎を差し入れているかもしれない……ということか。
「なになに? ちょっと嫉妬?」
「は?」
「違うの? じゃあ、独占欲かな? 自分の知らない所でフェリーチェが誰かに懐いてる可能性を、リヴァイは危惧してる……とか」
「……馬鹿馬鹿しい。お前の頭は林檎の皮より薄っぺらなようだな」
「いや! 林檎みたいに瑞々しさに溢れてるよ!」
目を輝かせて言い返してくるハンジから顔を背けると、リヴァイは「アホか」と呟いた。
嫉妬、独占欲、というハンジの言葉に一瞬反応してしまった自分が、実に浅はかに思える。
ハンジへの悪態は、半分自分に向けたものだった。
「あーあ。今頃……フェリーチェは寂しがってるかなぁ」
ハンジの声に足を止めた。
「アイツの感情はコロコロ変わり易くて読めねぇ。それこそ本でも読んで、のほほんと過ごしてるかも知れねぇぞ」
「それ本気で言ってる? 私には、出発する時のあの子の顔を思うと……そうは簡単に断言出来ないよ」
「…………」
――そんな事は分かっている。だからこれは願望に近い。
出発の朝、フェリーチェは自分達を笑顔で見送った。しかし、その笑顔が作られたものであった事くらい自分も理解している。
笑えと言った自分の言葉を守ったからか……? 無理をさせたのか……?
結局、それに困った自分は、ハンジ達の様に“それらしい”言葉など掛けられなかった。
彼女達と同じく明るく声を?
エルヴィンがした様に心配を?
フェリーチェを手当てしてやった時の姿を思い出してしまったからこそ、何も言えず発ったのだ。
あんな事は初めてだ。
後ろ髪を引かれる様な気分で調査に出るなど……。
「リヴァイの事だから、もっと気にしてるのかと思った。君はいっつも保護者みたいな気の掛け方をするからさ」
「……俺は……保護者か?」
「んん~? 違うの?」
「監視者だと思っていたが」
「そっちかよ」
ハンジは数秒無表情になった。
「やれやれ……」
「何がだ」
「少しばかり拍子抜けでね」
「……あ?」
「あぁ、気にしないで。こっちのハナシだよ」
――相変わらず分からない奴だ。
リヴァイは冷たい視線を向ける。が、ハンジの方は全く気にしていない様で、クスリと笑った。
積まれた木箱の上に座ると林檎をかじり、
「お! いいね!」
と、手に垂れた果汁を舐め、するりと会話を流してしまう。
「…………」
色々思う所はあったが、それ以上リヴァイも追及せず、林檎を口にした。
「ほう……随分と良い物を仕入れた様だな」
「フェリーチェだったら、なんて言うかな?」
「いつも以上に喜ぶだろう。アイツは好物の林檎にはやたらうるさい。これだけ甘けりゃさぞかし--」
「へぇ~」
答えてしまってから、ハッと斜め上を見上げる。
自分のうっかり発言に、ハンジはニヤニヤしていた。
「ふっふふ~」
「気持ち悪ぃな。やめろ、その面」
「良かったよ。リヴァイがフェリーチェの事ちゃんと見てて」
「監視者として当然だ」
「まぁね。……それならそれでいいよ?」
「お前はさっきから何が言いたい?」
「特に意味は無いって!――あ、そういえばさ。フェリーチェ怪我してたろ? アレどうしたんだい?」
渋々フェリーチェが医務室へ入っていく姿を見たと、ハンジは続けた。
包帯を真っ赤に濡らしていたフェリーチェの手を思い出し、リヴァイの眉間に皺が寄る。あの傷は酷かった……。
だが、相当嫌がっていたのを医務室へ通わせたのはやはり良かったと思う。コッソリ医師に様子を聞きに行った時、
――あれほどの傷で痛がらないのは実に不思議ですよ。治りが早いのにも驚きですが……まぁそちらは若さゆえでしょうねぇ。とにかく感染症を起こさずに済みそうで良かった。
と、医師に苦笑され、自分も大いに頷いた。
「壁に八つ当たりをしたと本人は言っていた」
「八つ当たりだって? それで医務室へ通う程の? 何したんだろうね、フェリーチェは……。対壁格闘術?」
「こっちが知りてぇくらいだ」
「――ねぇ……リヴァイ」
ハンジの声はそれまでとは打って変わり、低く、トーンを抑えた小声になる。
「君は、フェリーチェが“あの目”を壁に向けたと思うかい?」
「……ああ。あまり考えたくはないが」
「私もだよ。それが衝動的にじゃない事を願うばかりだ」
「……」
考えればまた思い出してしまう。
出発の日のあの表情も一緒に。
――フェリーチェをひとり置いてきたのは、本当に良かったのだろうか……。
(だが……良いも悪いも)
選択肢は元々一つしか無いのだ。どうする事も出来ない。
手にある林檎を一度握りしめてから、リヴァイはそれをハンジに放った。……急に食べる気が失せた。
「おっと!」
「悪いが片付けてくれ」
「食べかけじゃないか」
「フェリーチェが……」
言葉が続かない。言いかけたものの、自分でも後に続く言葉が何か分からなかったからだ。
「林檎を見てたら心配になったんだろ?」
ハンジがそれを悟ったのか聞いてきた。
言われて、気付く。
「あぁ……。そうだな」
「ねぇ……それは、監視者だから? 保護者だから?」
「どっちなら正解だとお前は言うんだ」
「どっちだろうね。リヴァイが一番知ってるんじゃない?」
「…………そうだな」
リヴァイから溜息が漏れた。
こんな時に思い知るとは――。
いや。本当は前から薄々感じていたのだ。自分は、それを認めたくなかっただけだ。
自分には全てを理解出来ないものだから、抱えたくなかった。きっと持て余す。
「で? 結局のところ正解は?」
「――どっちでもねぇ……」
「ははっ! そっか。なるほどねぇ~」
「チッ……いちいち癇に障る奴だな、お前は」
「そりゃ失礼」
降ってくるのは、クスクスと笑う声。
笑い続けるハンジを見上げ、リヴァイは苦々しく思う。
少し早まったか。
余計な事を、一番言ってはいけない人物に言ってしまった――。
頭を冷やそうと、リヴァイは外に出た。
空には丸い月が浮かんでいた。雲の流れが速いのを見て、明日の天候を心配する。
雨に降られた上に巨人に遭遇したら、今日と変わらない犠牲者が出る事になりかねない。そうなったら、兵団にとっては大打撃を受ける。
それだけは……。
――リヴァイは己の手を見た。
今日残った命と消えた命。巨人と戦う中で、自分が出来た事はそれ以外で何があったのだろうか。
自分の手には意味がある、とフェリーチェは言っていたが、彼女が考える程の意味が、果たしてこの手にどれくらいあるのか――。
月光が陰ったのを感じて、リヴァイは空を仰いだ。黒い夜空に濃い灰色の雲が長く続いていた。
隠れた月に思う。
フェリーチェは自分が居ない間どう過ごしている……?
(アイツの事だ。戦々恐々と部屋から出られずにいるか?……まぁ、普段も半引きこもりみてぇなもんだが)
人に会わない今の時間になってから、待ってましたと言わんばかりに行動している可能性がある。そう思うと、自然とリヴァイの口角は上がった。それは十分有り得るな――。
フェリーチェが兵団内を一人で歩き回っている事は、無いに等しい。
来たばかりの時は、他の者からも仕事を頼まれ執務室に居ない事の方が多かったが、それもハンジやモブリットが付いていたからこそ出来ていた……というのは後から知った。
自分に懐く様になってからは、フェリーチェはほぼ自分と共に行動している。
休日も、最近こそハンジやぺトラと出掛ける事が増えたとはいえ、その予定が無いと自室に引きこもっているか、自分の部屋のドアをノックしに来ていた。頭をよく抱えたものだ。休みくらい静かに過ごさせてくれ、と。
頭を抱えなくなったのは……いつだったか……?
忘れてしまった。いつの間にか自分に定着してしまったものだし。
――だからだろう。あまりにもフェリーチェがそばにいる事が多かったので、自分は彼女の行動は全部把握していると思っていたらしい。
とんだ思い込みだ。林檎の“仕入れ先”の件は知らなかった。
とはいえ、たったそれだけだ。大した話でもなく、気にする様な事でもない。
それなのに、知ってしまった今……何故こんなに心が陰る?
(独占欲だっていうのかよ、これが)
(俺が嫉妬だと……?)
言えるものなら、ハンジにそう返したかったが――。
「……チッ。結局アイツには振り回されるのか……」
今思えば、ハンジに巧みに誘導され、隠していたものを引きずり出された様な気がする。
自分はフェリーチェの全部を見守る保護者ではなく、全てを把握する監視者でもない。――なくなっていた事を。
己の呟きとともに、リヴァイは再び空を仰いだ。
「雲が多いな。明日は荒れるだろうか」
そんなリヴァイの背後から声をかけたのは、エルヴィンだった。
リヴァイが振り向くと酒瓶を差し出し「付き合わないか?」と隣に座る。
受け取ったリヴァイは、
「今度はお前か、エルヴィン」
と溜息を零した。
「何だ? またハンジに絡まれたのか?」
「まぁな。そんな所だ」
「俺にも絡んできたぞ。何故か食べかけの林檎を渡されたが、あれは何だったんだろうな……?」
「それは俺の食いかけだ」
「ハハッ、そうか。しかし困ったもんだな、ハンジは。調査期間中、夜は特にご機嫌でテンションが高い」
「重っ苦しいだけじゃ敵わねぇからな、アレでも役に立つ時はある」
「確かにそうだ」
リヴァイの言葉に、エルヴィンは真剣な顔で頷いた。
「彼女の明るさに救われる者も大勢いる……」
「……。それで? 何の用だ。こんな所で俺と二人っきりで飲みたくなった訳じゃないだろう」
「それもたまには良いと思ったんだが。まぁ壁外でする事じゃないな」
エルヴィンは一瞬だけ微笑んだが、すぐにその表情を厳しさに変える。
彼の視線は、暗闇に向けられていた。
「予定は変更だ。これ以上の犠牲を出す訳にはいかない。夜明け前に出発、帰還する事にする」
「賢明な判断だな。今回はツイてねぇ。奇行種どもが多過ぎた」
壁外で巨人に遭遇する事は当然だ。だが、その種までは予知出来ない。
ある程度の厳しさを想像していても、命を捧げる覚悟が出来ていても、壮絶な現実を前にすれば誰でも一瞬は狼狽える。
経験豊富な兵が比較的多かった今回の調査だったが、奇行種に囲まれた昼間の戦いは、あまりにも厳し過ぎるものだった。これ以上、経験者も若者も失いたくない。
「こればかりは分からないが、明日は今日より穏やかであれ……と願うしかない……」
「お前が、運を頼り願うとはな。らしくない事はするもんじゃねぇぞ」
「俺だって願い事の一つや二つあるさ。お前にもあるだろう? リヴァイ」
エルヴィンは酒を飲むと、フッと笑みを漏らした。
横目でそれを見るリヴァイの眉間に皺が寄る。
「お前もハンジも、何なんだ今日は」
「何の話だ?」
「絡み酒なら断る。一人で飲ませろ」
「……そういう今日のお前もおかしいと思うが?」
「…………」
エルヴィンの言葉を聞こえなかった事にして、リヴァイもまた酒を飲んだ――。
薄くなった雲間には、輪郭のぼやけた頼りない月が現れていた。
その月を見上げるリヴァイとは違い、エルヴィンは前に広がる真っ暗な草原を、ただジッと見つめていた。
しばし沈黙が続く。
「フェリーチェの、」
それを先に破ったのは、エルヴィンだった。
「フェリーチェの最近の様子はどうだ?」
「あ? フェリーチェ?」
またフェリーチェか。
リヴァイは質問に溜息を吐き、酒で喉を潤してからエルヴィンに顔を向けた。彼はまだ前を向いたままだ。
「相変わらず突拍子もない事をやらかす。アイツの思考回路は凡人には理解出来ねぇ」
「ほう。リヴァイは分かるのか?」
「……分かってたら苦労しねぇだろうが。出来たらとっくに大人しくさせてる」
「成程。フェリーチェらしいな。リヴァイをここまで翻弄するとは」
「笑えねぇ。元はといえばお前のせいだ」
ククク、と肩で笑うエルヴィンを睨む。
「お前にフェリーチェを預けたのは、やはり間違っていなかった様だ」
「何だと?」
「あの子が突拍子もない事をするのは、俺も知っているが……。これまで大きな問題になっていないのが何よりの証拠だろうな。フェリーチェはお前に心を許しているという事だ」
「……言ってる意味が分からねぇ」
「そうか? 分かり易く言ったつもりだが?――開発部では、突っ走るフェリーチェを止められる者はいなかったと聞いている」
――アイツはどれだけ厄介者だったんだよ……!
リヴァイの口からは溜息しか出なかった。
確かに、フェリーチェをコントロールするのは至難の業だが、彼女を真に理解すればある程度は可能なはず……。まぁ、現時点で自分が出来ているかといえば……――出来ていない。
だから、エルヴィンの言っている事を素直に受け止めるのも無理というものだ。
「俺達に慣れたと見せかけて、アイツはまだ人見知り続行中なのかもしれねぇ。開発部での勢いってヤツが鳴りを潜めてるだけなら、お前の考えは甘いぞ」
本性を隠しているだけ、という言葉はあえて使わなかった。エルヴィンは“あの目”の存在をきっと知らないからだ。
「……そうかもしれないな」
エルヴィンから返って来た言葉は、リヴァイにとって少し意外なものだった。
酒を飲みかけていた手を思わず止め、横を見る。
「だが、少なからずお前にだけは、他の人間より心を許していると俺は思っている」
「……エルヴィン?」
「フェリーチェを止められるとしたら、それは……リヴァイ、お前だけかもしれない」
「どういう意味だ、それは」
「…………」
「おい、」
「……今回の調査結果を見たフェリーチェは、どう思うのだろうな。一人残された上に、想像以上の現実を見せつけられて……。今回に限って犠牲者がいつもより多い事が、俺には残酷に思えて仕方ない……」
エルヴィンの言葉に、リヴァイは何も言えなくなった。
体内に氷水を一気に流し込まれた様な感覚に陥る。そうだ。その時の事を考えていなかった。
予定より早い帰還。多くの犠牲者。絶望に打ちひしがれている兵士達。無力な人間の現実。
(それを見て、あのフェリーチェが平気な訳……ねぇだろ)
「耐えなければ――」
ボソリと呟かれたエルヴィンの言葉を深く考える事は無理だった。頭に入ってこなかったと言った方が正しい。
--フェリーチェを止められるとしたら、それは……リヴァイ、お前だけかもしれない。
その言葉の真意を聞くのも忘れ、リヴァイは奥歯を噛みしめる。
早く帰ってやりたいが、戻った時、自分は一体どうすればいいのか――。
(クソッ……!! 肝心な事が、俺にはいつも分からねぇ……!)
黙り込んでしまったエルヴィンの横で、リヴァイもただ黙るしかなかった。
夜の闇に沈黙は続く。
――月は、また雲の向こうに姿を消してしまった……。
壁外拠点の一つである夜の古城内は、昼間の壮絶さとは真逆な空気に包まれていた。
控えめに談笑する者、早々に横になっている者、食事を取る者……。無事だった兵達が夜を過ごす様子は、人が変わろうといつもと大体同じ感じだった。
しかしその一方、怪我の手当てを受ける者や仲間を失ったのであろう兵が、疲弊しきった表情で悲痛な雰囲気を放っているのもまた然り。
残念であったのは、彼らが放つ空気の重さが、ここ最近の調査の中で一番重苦しかった事だ。
身体のあちこちに包帯を巻いた兵が肩を震わせ、声も無く泣いている姿を遠目で見つめていたリヴァイだったが、そっとその姿から視線を外した。
かけてやれる言葉は無い。これが現実であり、それを受け止めなければこの先へは進めない。
優しい言葉や励ましの類が、逆に今の彼に残酷に響く可能性を思えば、尚更かける言葉を探す事は出来なかった。
「……チッ」
舌打ちを落としながら、リヴァイは重い空気が流れる場所を離れた――。
「リヴァイ!」
ハンジの声が後を追って来る。
うるさい、と振り向くと、林檎が自分に向かって勢いよく飛んできた。目前に迫っていたそれを、頭を僅か横に傾けキャッチする。
「ナイスキャッチ! 振り向かなかったら、イイ感じに後頭部にヒットしてたところだね!」
「……むしろそれを狙って投げただろ、お前は」
「まぁね~。でも、リヴァイならそんなコトあり得ないだろう?」
「当たり前だ」
手にした林檎を見たリヴァイは、もう一度舌打ちを落とした。どうも林檎を見ると、フェリーチェの顔が浮かぶ。
常日頃、ほくほく顔で林檎を頬張るフェリーチェを見ているせいだ。どうしてくれよう、この刷り込み効果。
「フェリーチェがここに居たら、目ぇ輝かせてたと思うよ。補給隊が珍しく持ってきてる」
「こんな所で食わなくても、本部の方がよっぽどあるだろうが。……しかしアイツ、いつもどこから林檎を持ってくるんだ。しょっちゅう食ってるぞ」
「あれ、リヴァイは知らないの? 補給隊第三班の班長がよく差し入れてるよ」
「……第三班……班長」
そいつは知っている。四十、五十を過ぎた男だ。最前線を任せられてもおかしくないくらい戦闘能力が高く、荷馬隊の援護には欠かせない人物。エルヴィンから何回か名を聞いた事がある。
しかし、彼は今回の調査には不参加。前回の調査で班員の多数が負傷し、彼自身も腕を折る怪我を負ったからだ。
――という事は、本部に残っている間、フェリーチェにまた林檎を差し入れているかもしれない……ということか。
「なになに? ちょっと嫉妬?」
「は?」
「違うの? じゃあ、独占欲かな? 自分の知らない所でフェリーチェが誰かに懐いてる可能性を、リヴァイは危惧してる……とか」
「……馬鹿馬鹿しい。お前の頭は林檎の皮より薄っぺらなようだな」
「いや! 林檎みたいに瑞々しさに溢れてるよ!」
目を輝かせて言い返してくるハンジから顔を背けると、リヴァイは「アホか」と呟いた。
嫉妬、独占欲、というハンジの言葉に一瞬反応してしまった自分が、実に浅はかに思える。
ハンジへの悪態は、半分自分に向けたものだった。
「あーあ。今頃……フェリーチェは寂しがってるかなぁ」
ハンジの声に足を止めた。
「アイツの感情はコロコロ変わり易くて読めねぇ。それこそ本でも読んで、のほほんと過ごしてるかも知れねぇぞ」
「それ本気で言ってる? 私には、出発する時のあの子の顔を思うと……そうは簡単に断言出来ないよ」
「…………」
――そんな事は分かっている。だからこれは願望に近い。
出発の朝、フェリーチェは自分達を笑顔で見送った。しかし、その笑顔が作られたものであった事くらい自分も理解している。
笑えと言った自分の言葉を守ったからか……? 無理をさせたのか……?
結局、それに困った自分は、ハンジ達の様に“それらしい”言葉など掛けられなかった。
彼女達と同じく明るく声を?
エルヴィンがした様に心配を?
フェリーチェを手当てしてやった時の姿を思い出してしまったからこそ、何も言えず発ったのだ。
あんな事は初めてだ。
後ろ髪を引かれる様な気分で調査に出るなど……。
「リヴァイの事だから、もっと気にしてるのかと思った。君はいっつも保護者みたいな気の掛け方をするからさ」
「……俺は……保護者か?」
「んん~? 違うの?」
「監視者だと思っていたが」
「そっちかよ」
ハンジは数秒無表情になった。
「やれやれ……」
「何がだ」
「少しばかり拍子抜けでね」
「……あ?」
「あぁ、気にしないで。こっちのハナシだよ」
――相変わらず分からない奴だ。
リヴァイは冷たい視線を向ける。が、ハンジの方は全く気にしていない様で、クスリと笑った。
積まれた木箱の上に座ると林檎をかじり、
「お! いいね!」
と、手に垂れた果汁を舐め、するりと会話を流してしまう。
「…………」
色々思う所はあったが、それ以上リヴァイも追及せず、林檎を口にした。
「ほう……随分と良い物を仕入れた様だな」
「フェリーチェだったら、なんて言うかな?」
「いつも以上に喜ぶだろう。アイツは好物の林檎にはやたらうるさい。これだけ甘けりゃさぞかし--」
「へぇ~」
答えてしまってから、ハッと斜め上を見上げる。
自分のうっかり発言に、ハンジはニヤニヤしていた。
「ふっふふ~」
「気持ち悪ぃな。やめろ、その面」
「良かったよ。リヴァイがフェリーチェの事ちゃんと見てて」
「監視者として当然だ」
「まぁね。……それならそれでいいよ?」
「お前はさっきから何が言いたい?」
「特に意味は無いって!――あ、そういえばさ。フェリーチェ怪我してたろ? アレどうしたんだい?」
渋々フェリーチェが医務室へ入っていく姿を見たと、ハンジは続けた。
包帯を真っ赤に濡らしていたフェリーチェの手を思い出し、リヴァイの眉間に皺が寄る。あの傷は酷かった……。
だが、相当嫌がっていたのを医務室へ通わせたのはやはり良かったと思う。コッソリ医師に様子を聞きに行った時、
――あれほどの傷で痛がらないのは実に不思議ですよ。治りが早いのにも驚きですが……まぁそちらは若さゆえでしょうねぇ。とにかく感染症を起こさずに済みそうで良かった。
と、医師に苦笑され、自分も大いに頷いた。
「壁に八つ当たりをしたと本人は言っていた」
「八つ当たりだって? それで医務室へ通う程の? 何したんだろうね、フェリーチェは……。対壁格闘術?」
「こっちが知りてぇくらいだ」
「――ねぇ……リヴァイ」
ハンジの声はそれまでとは打って変わり、低く、トーンを抑えた小声になる。
「君は、フェリーチェが“あの目”を壁に向けたと思うかい?」
「……ああ。あまり考えたくはないが」
「私もだよ。それが衝動的にじゃない事を願うばかりだ」
「……」
考えればまた思い出してしまう。
出発の日のあの表情も一緒に。
――フェリーチェをひとり置いてきたのは、本当に良かったのだろうか……。
(だが……良いも悪いも)
選択肢は元々一つしか無いのだ。どうする事も出来ない。
手にある林檎を一度握りしめてから、リヴァイはそれをハンジに放った。……急に食べる気が失せた。
「おっと!」
「悪いが片付けてくれ」
「食べかけじゃないか」
「フェリーチェが……」
言葉が続かない。言いかけたものの、自分でも後に続く言葉が何か分からなかったからだ。
「林檎を見てたら心配になったんだろ?」
ハンジがそれを悟ったのか聞いてきた。
言われて、気付く。
「あぁ……。そうだな」
「ねぇ……それは、監視者だから? 保護者だから?」
「どっちなら正解だとお前は言うんだ」
「どっちだろうね。リヴァイが一番知ってるんじゃない?」
「…………そうだな」
リヴァイから溜息が漏れた。
こんな時に思い知るとは――。
いや。本当は前から薄々感じていたのだ。自分は、それを認めたくなかっただけだ。
自分には全てを理解出来ないものだから、抱えたくなかった。きっと持て余す。
「で? 結局のところ正解は?」
「――どっちでもねぇ……」
「ははっ! そっか。なるほどねぇ~」
「チッ……いちいち癇に障る奴だな、お前は」
「そりゃ失礼」
降ってくるのは、クスクスと笑う声。
笑い続けるハンジを見上げ、リヴァイは苦々しく思う。
少し早まったか。
余計な事を、一番言ってはいけない人物に言ってしまった――。
頭を冷やそうと、リヴァイは外に出た。
空には丸い月が浮かんでいた。雲の流れが速いのを見て、明日の天候を心配する。
雨に降られた上に巨人に遭遇したら、今日と変わらない犠牲者が出る事になりかねない。そうなったら、兵団にとっては大打撃を受ける。
それだけは……。
――リヴァイは己の手を見た。
今日残った命と消えた命。巨人と戦う中で、自分が出来た事はそれ以外で何があったのだろうか。
自分の手には意味がある、とフェリーチェは言っていたが、彼女が考える程の意味が、果たしてこの手にどれくらいあるのか――。
月光が陰ったのを感じて、リヴァイは空を仰いだ。黒い夜空に濃い灰色の雲が長く続いていた。
隠れた月に思う。
フェリーチェは自分が居ない間どう過ごしている……?
(アイツの事だ。戦々恐々と部屋から出られずにいるか?……まぁ、普段も半引きこもりみてぇなもんだが)
人に会わない今の時間になってから、待ってましたと言わんばかりに行動している可能性がある。そう思うと、自然とリヴァイの口角は上がった。それは十分有り得るな――。
フェリーチェが兵団内を一人で歩き回っている事は、無いに等しい。
来たばかりの時は、他の者からも仕事を頼まれ執務室に居ない事の方が多かったが、それもハンジやモブリットが付いていたからこそ出来ていた……というのは後から知った。
自分に懐く様になってからは、フェリーチェはほぼ自分と共に行動している。
休日も、最近こそハンジやぺトラと出掛ける事が増えたとはいえ、その予定が無いと自室に引きこもっているか、自分の部屋のドアをノックしに来ていた。頭をよく抱えたものだ。休みくらい静かに過ごさせてくれ、と。
頭を抱えなくなったのは……いつだったか……?
忘れてしまった。いつの間にか自分に定着してしまったものだし。
――だからだろう。あまりにもフェリーチェがそばにいる事が多かったので、自分は彼女の行動は全部把握していると思っていたらしい。
とんだ思い込みだ。林檎の“仕入れ先”の件は知らなかった。
とはいえ、たったそれだけだ。大した話でもなく、気にする様な事でもない。
それなのに、知ってしまった今……何故こんなに心が陰る?
(独占欲だっていうのかよ、これが)
(俺が嫉妬だと……?)
言えるものなら、ハンジにそう返したかったが――。
「……チッ。結局アイツには振り回されるのか……」
今思えば、ハンジに巧みに誘導され、隠していたものを引きずり出された様な気がする。
自分はフェリーチェの全部を見守る保護者ではなく、全てを把握する監視者でもない。――なくなっていた事を。
己の呟きとともに、リヴァイは再び空を仰いだ。
「雲が多いな。明日は荒れるだろうか」
そんなリヴァイの背後から声をかけたのは、エルヴィンだった。
リヴァイが振り向くと酒瓶を差し出し「付き合わないか?」と隣に座る。
受け取ったリヴァイは、
「今度はお前か、エルヴィン」
と溜息を零した。
「何だ? またハンジに絡まれたのか?」
「まぁな。そんな所だ」
「俺にも絡んできたぞ。何故か食べかけの林檎を渡されたが、あれは何だったんだろうな……?」
「それは俺の食いかけだ」
「ハハッ、そうか。しかし困ったもんだな、ハンジは。調査期間中、夜は特にご機嫌でテンションが高い」
「重っ苦しいだけじゃ敵わねぇからな、アレでも役に立つ時はある」
「確かにそうだ」
リヴァイの言葉に、エルヴィンは真剣な顔で頷いた。
「彼女の明るさに救われる者も大勢いる……」
「……。それで? 何の用だ。こんな所で俺と二人っきりで飲みたくなった訳じゃないだろう」
「それもたまには良いと思ったんだが。まぁ壁外でする事じゃないな」
エルヴィンは一瞬だけ微笑んだが、すぐにその表情を厳しさに変える。
彼の視線は、暗闇に向けられていた。
「予定は変更だ。これ以上の犠牲を出す訳にはいかない。夜明け前に出発、帰還する事にする」
「賢明な判断だな。今回はツイてねぇ。奇行種どもが多過ぎた」
壁外で巨人に遭遇する事は当然だ。だが、その種までは予知出来ない。
ある程度の厳しさを想像していても、命を捧げる覚悟が出来ていても、壮絶な現実を前にすれば誰でも一瞬は狼狽える。
経験豊富な兵が比較的多かった今回の調査だったが、奇行種に囲まれた昼間の戦いは、あまりにも厳し過ぎるものだった。これ以上、経験者も若者も失いたくない。
「こればかりは分からないが、明日は今日より穏やかであれ……と願うしかない……」
「お前が、運を頼り願うとはな。らしくない事はするもんじゃねぇぞ」
「俺だって願い事の一つや二つあるさ。お前にもあるだろう? リヴァイ」
エルヴィンは酒を飲むと、フッと笑みを漏らした。
横目でそれを見るリヴァイの眉間に皺が寄る。
「お前もハンジも、何なんだ今日は」
「何の話だ?」
「絡み酒なら断る。一人で飲ませろ」
「……そういう今日のお前もおかしいと思うが?」
「…………」
エルヴィンの言葉を聞こえなかった事にして、リヴァイもまた酒を飲んだ――。
薄くなった雲間には、輪郭のぼやけた頼りない月が現れていた。
その月を見上げるリヴァイとは違い、エルヴィンは前に広がる真っ暗な草原を、ただジッと見つめていた。
しばし沈黙が続く。
「フェリーチェの、」
それを先に破ったのは、エルヴィンだった。
「フェリーチェの最近の様子はどうだ?」
「あ? フェリーチェ?」
またフェリーチェか。
リヴァイは質問に溜息を吐き、酒で喉を潤してからエルヴィンに顔を向けた。彼はまだ前を向いたままだ。
「相変わらず突拍子もない事をやらかす。アイツの思考回路は凡人には理解出来ねぇ」
「ほう。リヴァイは分かるのか?」
「……分かってたら苦労しねぇだろうが。出来たらとっくに大人しくさせてる」
「成程。フェリーチェらしいな。リヴァイをここまで翻弄するとは」
「笑えねぇ。元はといえばお前のせいだ」
ククク、と肩で笑うエルヴィンを睨む。
「お前にフェリーチェを預けたのは、やはり間違っていなかった様だ」
「何だと?」
「あの子が突拍子もない事をするのは、俺も知っているが……。これまで大きな問題になっていないのが何よりの証拠だろうな。フェリーチェはお前に心を許しているという事だ」
「……言ってる意味が分からねぇ」
「そうか? 分かり易く言ったつもりだが?――開発部では、突っ走るフェリーチェを止められる者はいなかったと聞いている」
――アイツはどれだけ厄介者だったんだよ……!
リヴァイの口からは溜息しか出なかった。
確かに、フェリーチェをコントロールするのは至難の業だが、彼女を真に理解すればある程度は可能なはず……。まぁ、現時点で自分が出来ているかといえば……――出来ていない。
だから、エルヴィンの言っている事を素直に受け止めるのも無理というものだ。
「俺達に慣れたと見せかけて、アイツはまだ人見知り続行中なのかもしれねぇ。開発部での勢いってヤツが鳴りを潜めてるだけなら、お前の考えは甘いぞ」
本性を隠しているだけ、という言葉はあえて使わなかった。エルヴィンは“あの目”の存在をきっと知らないからだ。
「……そうかもしれないな」
エルヴィンから返って来た言葉は、リヴァイにとって少し意外なものだった。
酒を飲みかけていた手を思わず止め、横を見る。
「だが、少なからずお前にだけは、他の人間より心を許していると俺は思っている」
「……エルヴィン?」
「フェリーチェを止められるとしたら、それは……リヴァイ、お前だけかもしれない」
「どういう意味だ、それは」
「…………」
「おい、」
「……今回の調査結果を見たフェリーチェは、どう思うのだろうな。一人残された上に、想像以上の現実を見せつけられて……。今回に限って犠牲者がいつもより多い事が、俺には残酷に思えて仕方ない……」
エルヴィンの言葉に、リヴァイは何も言えなくなった。
体内に氷水を一気に流し込まれた様な感覚に陥る。そうだ。その時の事を考えていなかった。
予定より早い帰還。多くの犠牲者。絶望に打ちひしがれている兵士達。無力な人間の現実。
(それを見て、あのフェリーチェが平気な訳……ねぇだろ)
「耐えなければ――」
ボソリと呟かれたエルヴィンの言葉を深く考える事は無理だった。頭に入ってこなかったと言った方が正しい。
--フェリーチェを止められるとしたら、それは……リヴァイ、お前だけかもしれない。
その言葉の真意を聞くのも忘れ、リヴァイは奥歯を噛みしめる。
早く帰ってやりたいが、戻った時、自分は一体どうすればいいのか――。
(クソッ……!! 肝心な事が、俺にはいつも分からねぇ……!)
黙り込んでしまったエルヴィンの横で、リヴァイもただ黙るしかなかった。
夜の闇に沈黙は続く。
――月は、また雲の向こうに姿を消してしまった……。