憂鬱と淋しさ、安堵と愛しさ
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✽2✽
医務室を出たフェリーチェは、足早に廊下を歩いていた。
リヴァイの執務室に戻るには、どうしても食堂の前を通らなければならない。昼食の最初のピークは越したが、それでも誰かに会う可能性がある以上、そこを通るには勇気がいった。本当なら思いきりダッシュで通り過ぎたい位だ。
走るな! とリヴァイに怒られた事さえなければ、確実にそうしてる……。
(ナイスタイミング!)
今日は誰にも会わない。無事通過! と歩く速度を落とした時、背後から、
「フェリーチェ!」
と声が飛んできた。
「き、ひやぁっ!」
「え……。何その声。ひどい反応だなぁ」
声の主の残念そうな言葉に、フェリーチェは振り返った。この声は知ってる。大丈夫な人だ。
「クライダー……ごめんね。驚いて」
「相変わらずダメなのか……。だったら、もう少し時間ずらさないとキツイよ? そろそろ第二波が来る時間だ」
フェリーチェに声をかけたのは、補給隊のクライダーという青年だった。主に食事の配膳や仕入れを担当していると前に聞いている。
壁外調査に行く事もあると言っていたが、今ここに居るということは、今回の参加はなかった様だ。
「医務室行ってたの……? あぁ、じゃあこれフェリーチェ? そこに落ちてたんだけど」
「あ……!? 私のっ!」
「なんでそんなの持ってんの。医務室で処分してくれなかったのか?」
包帯をクライダーからひったくる様に取り戻したフェリーチェは、自分の行動にハッとなった。拾ってくれた人に対して、今のはちょっと失礼だったかもしれない。
「……これ…大事なものだから……」
「使用済み包帯が?」
クライダーは不思議そうに言ってから笑った。優しい青年は特に自分の行動に怒ってはいないみたいで、ホッとする。
「……お守り」
「?」
「あると、もう怪我しないような気がする」
リヴァイが手当してくれた時の包帯だ。
文句を言いつつ丁寧に処置をしてくれたのが嬉しくて、お礼代わりに言われた事は守ろうと、フェリーチェはあれからリヴァイの言いつけ通りちゃんと医務室へ通っていた。無論、嫌々ではあるが。
日に一度消毒してもらうこと数日。それも、もう必要無いだろうとさっき言われたばかりだ。
これでリヴァイが帰ってきた時には「治しましたからね!」と見せびらかせる。
もっとも、調査に行く前から医務室に行ってる事を知ってるリヴァイには、当たり前だと一蹴されるだろうけど……。
「へぇ……そうなんだ。それじゃあ確かに大事なものだね」
「うん」
「これから仕事戻るの? リヴァイ兵長いないと、フェリーチェの仕事も暇だろ?」
「でも、リヴァイさんが仕事をやり易いように、私で出来る事はやっておく。調査は大変だろうから、帰ってきた時、リヴァイさんになるべく負担がかからない様にしておきたい」
廊下を一緒に歩きながら、そんな会話をする。
クライダーは、横で空のカゴを抱えながら黙って聞いていた。彼は大人しい性格らしく、他の兵士とは違い、たたみ掛けるような話し方はしない。口調も雰囲気も穏やかそのものだった。
だから、フェリーチェも少しだけ彼とは話しやすかった。偶然に同い歳だと知った事で、親近感が他の人よりあったのも理由のひとつだ。
「補佐ってすごいな。あ……フェリーチェだからそこまで出来るのか。だからリヴァイ兵長にはフェリーチェがピッタリなんだね」
「?」
「人類最強&最強補佐。誰も文句言えない最強コンビ」
「……私はそんなに強くない」
そうかな?
クライダーはクスクス笑い、でもすぐに笑うのを止めた。
「そうだ、忘れるトコだったよ。……はい、これ班長から。いつもの如くフェリーチェに差し入れ。兵長が居ない間寂しくなったらおいで、ってのが伝言。ウチの班、今回調査に参加してないもんだから、班長も班員も不謹慎にも呑気でさ。僕もその内の一人だから人の事言えないけどね」
渡されたのは、林檎だった。
クライダーの上官は、時々彼を介してフェリーチェの好きな林檎をくれる。娘にあげてる気分らしいよ、とクライダーは笑った。
「ありがとう。その内ちゃんとお礼に……」
「フェリーチェが来たら班長いつまでも帰さなそうだな……。来る時はリヴァイ兵長と一緒がいいかも」
これにはつい笑ってしまう。
「そうする」
「じゃあ僕はこれで」
「あ、うん」
「調査……一人でも多く無事に戻るといいね。もちろん兵長も」
クライダーはそう呟くと去っていく。
「……そうだね」
誰もいない廊下、林檎に視線を落とし、フェリーチェも呟いた。
執務室への距離が遠く感じるのは、ただの気のせい。分かっているのだけど、でも遠く感じた。
一番問題の食堂さえ過ぎてしまえば、人にはほぼ会わない。リヴァイ達の執務室があるこちら側には、普通の兵は滅多に入ってこれないからだ。
「やっと静かになった……」
クライダーと別れ、歩き慣れた廊下に戻って来たフェリーチェは、ホッと息をつく。
“大丈夫”な人物に分類されるクライダーだけど、全部を信頼出来る人物ではまだなかった。まともに目を見て話す事はいまだに出来ないし、言葉も上手く出てこない。
(他の人に比べたら平気? 大丈夫なんだけど、やっぱり少し怖いんだよね……。近寄られると離れたくなる……あ、でも林檎くれるから、その時だけはちょっと気が楽だ)
こんな調子なのだから、いくらリヴァイがそうしろと言っても、ニコニコと兵団中を歩ける訳がない。
リヴァイやハンジがいてくれるからこそ、フェリーチェは兵団内を歩けると言っても過言ではないのだ。
「あら、フェリーチェちゃん。お昼は行ってきたの? お昼休みの時間でしょう。ちゃんと休まなきゃ駄目よ?」
「お疲れ様です。大丈夫です。問題ありません。適度にお休みしてます」
廊下で珍しく事務官の女性と会った。彼女は研究所にいた女性達と年齢が近く雰囲気もよく似ていたので、割と早く“大丈夫”な人になった。時々書類を届けるし、顔を合わせる事も多いから、会話もスムーズに出来る。
そういえば、一度ハンジと一緒にいる時に彼女と話す事があったけど、その時ハンジに「いや、フェリーチェ。君のソレはまだまだスムーズとは言い難い」と笑われたのは何故だろう? こんなにいい感じに話せているのに……。
執務室に戻って来たフェリーチェは、部屋の真ん中にあるテーブルに林檎を置いた。
ソファーに座って、しばしそれを眺める。
艶があって鮮やかな赤。形は完璧ではないけど、林檎好きな自分には判る。この林檎はきっと甘い。
(うさぎの形に切る? その方がかわいいもんね)
前にそうやって切って出したら、リヴァイは顔と体を固まらせていた。最強の兵士と言われている彼が林檎のうさぎを前にして戸惑っているのは、中々見ごたえある画だったと思う。
ふふっ、と思い出し笑い。
「リヴァイさん、今日はどう切ります?」
そう言ってリヴァイの机に顔を向けたフェリーチェは、瞬間、自分の行動に凍り付いた。
忘れていた。リヴァイは居ない。
「………」
しん、と静まり返った部屋の温度が、ほんの僅かな時間で数度下がった気がした。
……笑われるだろうな、なんて事を思う。
こんな姿を見られてたら、リヴァイは「馬鹿か」と呆れ、ハンジは「いいね!傑作だ」と大笑いするだろう。
……だけど、どんなにそれを想像しても、二人はここに居ない。
「仕事しなきゃね」
独り言を言いながら自分の机に向かったフェリーチェは、そう自分で言ったものの溜息を吐いた。
リヴァイが居ないからか、書類が持ち込まれる様子がない。
クライダーに言ったことは本当で、処理出来るものは全てやろうと思っていた。でも、その肝心な仕事が増えないのだ。増えなければ当然、出来る事も無くなる。
片付けていけば仕事はいずれ……。
午前中に全部終わらせてしまったのは失敗。仕事のペース配分をすっかり見誤ってしまった。
――やっぱり忘れていたのだ。リヴァイが居ない事を。
持て余すだろうこの後の時間を、自分はどうやってやり過ごせばいいのだろう。
テーブルに置いた林檎をぼんやり見つめて、フェリーチェはまた溜息を落とした……。
夕食の時間が過ぎ兵士達にとっては自由時間となる頃、フェリーチェは図書室にいた。
案の定、午後の時間は暇になってしまったが、それでも何とかやれる事を見つけてフェリーチェは時間を過ごしたのだが……。
(明日からどうしようかな)
前から気になっていた本を読んでいてもかまわないだろうか?
図書室から出たフェリーチェは、借りた本を一度廊下に置きドアを閉めた。仕事を終えたこの時間には、司書も利用者もいない。覗きに来るには丁度いい時間だ。勿論、司書には許可を貰っていた。
再び本を抱えると、上から顎で押さえ本の崩れを予防する。
この冊数ともなるとさすがに厚みも重さも相当なのだが、開発部では日常の事だったのでフェリーチェにとっては何ともなかった。今ここに「それ重いだろ? 持ってあげるよ」という紳士が現れたとしたも、持ち上げてすぐ「すみませんでした」と項垂れるだろう。
てくてくと廊下を行くフェリーチェは、執務室へと戻る。数冊明日の為に置いて、残りは部屋へ持って帰ろうと思っていた。
が、その途中で数人の兵を見かけ、くるりと回れ右。さっと柱の影に隠れる。
「お前、何やってんだよ。こんな所で」
「お前こそ」
「いやぁさ。フェリーチェさん居ないかなって思って」
「あ! お前も?」
「そ。普段もこの時間はリヴァイ兵長と仕事してるだろ? もしかしたら……って期待、的な?」
「どいつもこいつも考えることは一緒だな。てか、兵長いないんだから可能性低いじゃん」
「そう思ってるのに来てるお前は何なんだよ」
(あ、危なかった……!)
数分早かったらバッチリ鉢合わせだった……。
隠れながら、早くいなくなれ……とフェリーチェは願った。しかし、彼らは去ろうとしない。それどころか一人増えた様だ。
「何やってんだ?」
「クライダーじゃん。あ、お前ももしかして?」
「は?」
「フェリーチェさんだよ。お前、何故か仲良いじゃん。会いに来たんだろ」
「いや。僕はただ……」
「いいよなぁ~。あの子とハナシ出来てさ。すっげぇ羨ましいんですけど。なぁ、休みとか遊んだりする訳?」
「街まで行っちゃったり?」
「今度オレ達も誘ってくれよ」
クライダーと同じ班の人……? それとも違う……?
どちらにしても、聞いていて不愉快に思う会話だった。クライダーとは、話はするけど遊んだりなんかしない。
休みは部屋にこもって本を読んでいるか、ハンジと街に買い物に行く。最近はリヴァイの部下のペトラも一緒に行く事もあった。
男っ気なんか一つも無いのだ。唯一休みに一緒にいる男性はリヴァイだけ。それも、自分が無理矢理後ろをついてまわるので、彼には嫌な顔をされている。
「そうだ、クライダー。一度聞きたかったんだけどさ。リヴァイ兵長とフェリーチェさんってどんな感じなの?」
「は? どんなって?」
「仲良いワケ? いろ〜んな意味で」
「……何だよそれ」
「だってよ~、兵長だって男だし? 相手はフェリーチェさんだし?」
「男と女が部屋に二人きり」
「そうなりゃ、考えるコトなんか一つだろ。兵長、アッチも強そうだしな」
「きっと美味しく頂いちゃってんだろうな〜」
「あぁ……俺らの女神フェリーチェさんが、兵長と……」
「ははっ、ヤバイって! お前ら妄想し過ぎ!」
「ッ! やめろよ!! 兵長に失礼だぞ! 彼女にも!」
「えっ、あ〜っ! 待てよ! じゃあフェリーチェさんの情報なんかを一つ!」
声が遠ざかっていく。
そっと柱から顔を出すと、クライダーを先頭に兵士達がぞろぞろと廊下を去っていくのが見えた。
はぁ〜っと息を吐く。あぁ……怖かった。クライダーが離れてくれなかったら、彼らはまだここで話をしていただろう。
「……だめだ」
少し考えた末、フェリーチェはいつもの秘密基地へ行く事にした。また誰かが来たら……と思うと、怖くてこの先に進めない……。来た道を戻り変えた目的地へと向かう。
資料室へ近付くにつれ廊下は薄暗くなり、はじめから人気の無いこっちに来れば良かったと思った。
部屋に入ると鍵を閉め、窓を開ける。 こびり付いたカビ臭さは中々抜けないけれど、それでも以前よりはマシになっている。
――やっぱりここは落ち着く場所だ……。
窓辺に座り、横に置いた本の山から一冊を手にし読もうとしたフェリーチェだったが、
「……あれって」
表紙を開くのをやめた。
さっきの兵士達とクライダーの会話を思い出してしまったからだ。
(色んな意味って、どういう意味だろう)
よく分からないけど、リヴァイがいい感じには思われていなくて、その原因はどうやら自分にあるらしい。それはなんとなく理解した。
(私がいつもそばにいるから、リヴァイさんに迷惑をかけている? だから、一人で食堂に行ける様になれって言ったり、皆と仲良くする様にって言ったのかな)
「……ちがうっ」
自分の考えを、頭を振って否定した。
リヴァイは遠回しな事はしない。
迷惑なら迷惑、寄ってほしくないなら寄るなと言う。自分が信頼しているリヴァイはそういう人のはず。
自分の事を本当に拒絶したくなった時には、ハッキリとその意思を伝えてくるだろう。
(拒絶……。せっかく、ちゃんとした補佐だと認めてくれてるって分かったのに、拒絶されるのは嫌だな……。でも)
――膝から本が落ちた。
その音にビックリしてから、フェリーチェはゆっくりと窓の外を仰ぎ見る。
(それは私が決める事じゃない)
空には丸い月が浮かんでいた。
雲がかかると辺りは暗くなり、雲が流れていくと明るさが戻る。今晩は、上空の風の流れが速いようで、頻繁にそれが繰り返されていた。
――みんなもこの空を見ているのかな……。
――今日の調査はどうだったんだろう?
――夜はゆっくり休めるの?
夜空の明暗ごとに、フェリーチェの心は段々と落ち着かなくなってきた。フェリーチェ自身それに戸惑いを感じる。
何故? 何に対して? 答えが分からない事に?
様々な思いが余計に心を揺らし、フェリーチェはたまらなくなり、立ち上がると窓を閉めた。
それでも落ち着く事は無い。
ここが一番落ち着ける場所なのに、どうして今日はこんなにも……。
フェリーチェは、とうとう資料室を飛び出した。
廊下を走る。時間が経ったせいか、誰とも会わず執務室に辿り着けた。
暗い部屋に明かりも灯さずソファーに座ると、わずかな月灯りが林檎を照らす。
一人で食べる気にはならなくて、置きっ放しになっていたものだ。赤い林檎は、暗さの中でもその色を主張していた。
昼間は美味しそうな鮮やかな色だったのに、今は妖しく不気味に見える。光に照ると、紅が血の色の様で、フェリーチェは思わずゾッとした。
リヴァイの席へ目を向ける。――空席。
ソファーに座っていても、休憩にするから紅茶を淹れろという声もお茶飲みに来たよ~! という声も、聞こえては来なかった。当然だ。彼等は昨日から壁外に行っている。
当たり前の事が急に怖くなった。
――当たり前だった事に今更気が付いた。
リヴァイもハンジも、自分がここへやって来た時からそばに居た存在で、その存在に寄りかかって過ごしてきた事を思い出す。
エルヴィンもミケも、ペトラやリヴァイ班のあの三人も、モブリットも。みんな近くに居た。
だけど今日は、自分だけ独り。
『一人でも多く無事に戻るといいね』
クライダーの言葉が薄暗さの中に響くと、フェリーチェは咄嗟に耳を塞いだ。
こびり付いて離れない声は、何度も何度も頭の中で再生され、穏やかなクライダーの声音が酷く不吉なものに聞こえる。
——ここも落ち着かない。
フェリーチェは無意識の内に林檎を掴むと、執務室を飛び出し、再び暗い廊下を走った。
“一人でも多く無事に戻るといいね”
調査兵団の兵士達と開発部の人間の意識の差は、そこにこそ表れていると思う。
あちらでは、帰った人数など話題にもならなかった。……ただ研究に実用的なデータのみが必要だから、生者の数も死者の数もあまり重要視されない。
自分は、それを深く考えた事も無かった。いつの間にか慣れていたから、感覚がおかしくなってしまったのかもしれない……。
調査前の調整日に出かけて行く兵士達を見て、自分には人間っぽさがまだ足りないのでは……と思ったが、それも所詮“思っただけ”だったのだ。
理解するのと感じるのでは雲泥の差だ……。
調査に向かう日の朝、エルヴィンが心配してくれたのか声をかけてきた。「一人にさせてすまない」と。
ハンジとペトラは「帰ったら食事に行こうね」と笑った。
リヴァイは「行ってくる」とだけ呟き、自分の頭に手を置いた。
自分は頷く事しか出来ない。
――最悪の事を考えながらたった一人で待つのが、こんなに辛いなんて。
(知らなかった……)
林檎を胸に抱きフェリーチェは大きく息を吸った。
ジワジワと心臓に拡がっていく不快感は、走ったせいで速まっている鼓動とは別物だった。
遠い遠い記憶の中で同じ感覚を味わった様な気もするが、その時感じたそれも今と同じものだったか……? 思い出せない。
記憶を辿る間も与えてくれない程、いま感じている不快感は物凄い速さでフェリーチェを覆い始めていた。
『一人でも多く』
ああ……ほら、まただ。また頭に響いてくる。
真っ暗な廊下の果てから、自分を追いかけてくる言葉。
生者と死者のバランスはいつもどんな感じだった? あんなに多くのデータを集めていたのに、自分の中にはその単純なパーセンテージすら出てこない。
多く――どちらが?
「……もう、やめて……こわい…」
みんなは帰ってくると信じているのに、度々よぎる不安がその気持ちを遮っていく。
これ以上は考えられない。考えればまた不安に飲み込まれる。
「………」
やがて、脳が思考することを拒否した――。
響く言葉に追い詰められ、ドアに肩を預けていたフェリーチェは、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
フェリーチェが行き着いた廊下には明かり一つ無い。並ぶ部屋の住人たちは、皆ここに居ないからだ。明かりを灯す必要は無い……数日間。
真っ暗な廊下に、フェリーチェの手から落ちた林檎が転がっていった。明かりが無い中では、紅い林檎もただの黒い球体にしか見えない。
ぼんやりとそれを見つめていると、期待も不安も不快感も、そして恐怖も、たった一つの感情にしかならなくなった。
(――淋しい……)
淋しい。
(早く帰ってきて……みんな)
リヴァイの部屋の前で、フェリーチェは朝までずっとお守り代わりの包帯を握りしめ、ただ虚ろげに黒い林檎を見つめていた。
何故、調査に向かう時のリヴァイの後姿ばかりが頭に浮かぶんだろう――。
たとえ考える気力が残っていたとしても、それは今のフェリーチェには解らない答えだった。
医務室を出たフェリーチェは、足早に廊下を歩いていた。
リヴァイの執務室に戻るには、どうしても食堂の前を通らなければならない。昼食の最初のピークは越したが、それでも誰かに会う可能性がある以上、そこを通るには勇気がいった。本当なら思いきりダッシュで通り過ぎたい位だ。
走るな! とリヴァイに怒られた事さえなければ、確実にそうしてる……。
(ナイスタイミング!)
今日は誰にも会わない。無事通過! と歩く速度を落とした時、背後から、
「フェリーチェ!」
と声が飛んできた。
「き、ひやぁっ!」
「え……。何その声。ひどい反応だなぁ」
声の主の残念そうな言葉に、フェリーチェは振り返った。この声は知ってる。大丈夫な人だ。
「クライダー……ごめんね。驚いて」
「相変わらずダメなのか……。だったら、もう少し時間ずらさないとキツイよ? そろそろ第二波が来る時間だ」
フェリーチェに声をかけたのは、補給隊のクライダーという青年だった。主に食事の配膳や仕入れを担当していると前に聞いている。
壁外調査に行く事もあると言っていたが、今ここに居るということは、今回の参加はなかった様だ。
「医務室行ってたの……? あぁ、じゃあこれフェリーチェ? そこに落ちてたんだけど」
「あ……!? 私のっ!」
「なんでそんなの持ってんの。医務室で処分してくれなかったのか?」
包帯をクライダーからひったくる様に取り戻したフェリーチェは、自分の行動にハッとなった。拾ってくれた人に対して、今のはちょっと失礼だったかもしれない。
「……これ…大事なものだから……」
「使用済み包帯が?」
クライダーは不思議そうに言ってから笑った。優しい青年は特に自分の行動に怒ってはいないみたいで、ホッとする。
「……お守り」
「?」
「あると、もう怪我しないような気がする」
リヴァイが手当してくれた時の包帯だ。
文句を言いつつ丁寧に処置をしてくれたのが嬉しくて、お礼代わりに言われた事は守ろうと、フェリーチェはあれからリヴァイの言いつけ通りちゃんと医務室へ通っていた。無論、嫌々ではあるが。
日に一度消毒してもらうこと数日。それも、もう必要無いだろうとさっき言われたばかりだ。
これでリヴァイが帰ってきた時には「治しましたからね!」と見せびらかせる。
もっとも、調査に行く前から医務室に行ってる事を知ってるリヴァイには、当たり前だと一蹴されるだろうけど……。
「へぇ……そうなんだ。それじゃあ確かに大事なものだね」
「うん」
「これから仕事戻るの? リヴァイ兵長いないと、フェリーチェの仕事も暇だろ?」
「でも、リヴァイさんが仕事をやり易いように、私で出来る事はやっておく。調査は大変だろうから、帰ってきた時、リヴァイさんになるべく負担がかからない様にしておきたい」
廊下を一緒に歩きながら、そんな会話をする。
クライダーは、横で空のカゴを抱えながら黙って聞いていた。彼は大人しい性格らしく、他の兵士とは違い、たたみ掛けるような話し方はしない。口調も雰囲気も穏やかそのものだった。
だから、フェリーチェも少しだけ彼とは話しやすかった。偶然に同い歳だと知った事で、親近感が他の人よりあったのも理由のひとつだ。
「補佐ってすごいな。あ……フェリーチェだからそこまで出来るのか。だからリヴァイ兵長にはフェリーチェがピッタリなんだね」
「?」
「人類最強&最強補佐。誰も文句言えない最強コンビ」
「……私はそんなに強くない」
そうかな?
クライダーはクスクス笑い、でもすぐに笑うのを止めた。
「そうだ、忘れるトコだったよ。……はい、これ班長から。いつもの如くフェリーチェに差し入れ。兵長が居ない間寂しくなったらおいで、ってのが伝言。ウチの班、今回調査に参加してないもんだから、班長も班員も不謹慎にも呑気でさ。僕もその内の一人だから人の事言えないけどね」
渡されたのは、林檎だった。
クライダーの上官は、時々彼を介してフェリーチェの好きな林檎をくれる。娘にあげてる気分らしいよ、とクライダーは笑った。
「ありがとう。その内ちゃんとお礼に……」
「フェリーチェが来たら班長いつまでも帰さなそうだな……。来る時はリヴァイ兵長と一緒がいいかも」
これにはつい笑ってしまう。
「そうする」
「じゃあ僕はこれで」
「あ、うん」
「調査……一人でも多く無事に戻るといいね。もちろん兵長も」
クライダーはそう呟くと去っていく。
「……そうだね」
誰もいない廊下、林檎に視線を落とし、フェリーチェも呟いた。
執務室への距離が遠く感じるのは、ただの気のせい。分かっているのだけど、でも遠く感じた。
一番問題の食堂さえ過ぎてしまえば、人にはほぼ会わない。リヴァイ達の執務室があるこちら側には、普通の兵は滅多に入ってこれないからだ。
「やっと静かになった……」
クライダーと別れ、歩き慣れた廊下に戻って来たフェリーチェは、ホッと息をつく。
“大丈夫”な人物に分類されるクライダーだけど、全部を信頼出来る人物ではまだなかった。まともに目を見て話す事はいまだに出来ないし、言葉も上手く出てこない。
(他の人に比べたら平気? 大丈夫なんだけど、やっぱり少し怖いんだよね……。近寄られると離れたくなる……あ、でも林檎くれるから、その時だけはちょっと気が楽だ)
こんな調子なのだから、いくらリヴァイがそうしろと言っても、ニコニコと兵団中を歩ける訳がない。
リヴァイやハンジがいてくれるからこそ、フェリーチェは兵団内を歩けると言っても過言ではないのだ。
「あら、フェリーチェちゃん。お昼は行ってきたの? お昼休みの時間でしょう。ちゃんと休まなきゃ駄目よ?」
「お疲れ様です。大丈夫です。問題ありません。適度にお休みしてます」
廊下で珍しく事務官の女性と会った。彼女は研究所にいた女性達と年齢が近く雰囲気もよく似ていたので、割と早く“大丈夫”な人になった。時々書類を届けるし、顔を合わせる事も多いから、会話もスムーズに出来る。
そういえば、一度ハンジと一緒にいる時に彼女と話す事があったけど、その時ハンジに「いや、フェリーチェ。君のソレはまだまだスムーズとは言い難い」と笑われたのは何故だろう? こんなにいい感じに話せているのに……。
執務室に戻って来たフェリーチェは、部屋の真ん中にあるテーブルに林檎を置いた。
ソファーに座って、しばしそれを眺める。
艶があって鮮やかな赤。形は完璧ではないけど、林檎好きな自分には判る。この林檎はきっと甘い。
(うさぎの形に切る? その方がかわいいもんね)
前にそうやって切って出したら、リヴァイは顔と体を固まらせていた。最強の兵士と言われている彼が林檎のうさぎを前にして戸惑っているのは、中々見ごたえある画だったと思う。
ふふっ、と思い出し笑い。
「リヴァイさん、今日はどう切ります?」
そう言ってリヴァイの机に顔を向けたフェリーチェは、瞬間、自分の行動に凍り付いた。
忘れていた。リヴァイは居ない。
「………」
しん、と静まり返った部屋の温度が、ほんの僅かな時間で数度下がった気がした。
……笑われるだろうな、なんて事を思う。
こんな姿を見られてたら、リヴァイは「馬鹿か」と呆れ、ハンジは「いいね!傑作だ」と大笑いするだろう。
……だけど、どんなにそれを想像しても、二人はここに居ない。
「仕事しなきゃね」
独り言を言いながら自分の机に向かったフェリーチェは、そう自分で言ったものの溜息を吐いた。
リヴァイが居ないからか、書類が持ち込まれる様子がない。
クライダーに言ったことは本当で、処理出来るものは全てやろうと思っていた。でも、その肝心な仕事が増えないのだ。増えなければ当然、出来る事も無くなる。
片付けていけば仕事はいずれ……。
午前中に全部終わらせてしまったのは失敗。仕事のペース配分をすっかり見誤ってしまった。
――やっぱり忘れていたのだ。リヴァイが居ない事を。
持て余すだろうこの後の時間を、自分はどうやってやり過ごせばいいのだろう。
テーブルに置いた林檎をぼんやり見つめて、フェリーチェはまた溜息を落とした……。
夕食の時間が過ぎ兵士達にとっては自由時間となる頃、フェリーチェは図書室にいた。
案の定、午後の時間は暇になってしまったが、それでも何とかやれる事を見つけてフェリーチェは時間を過ごしたのだが……。
(明日からどうしようかな)
前から気になっていた本を読んでいてもかまわないだろうか?
図書室から出たフェリーチェは、借りた本を一度廊下に置きドアを閉めた。仕事を終えたこの時間には、司書も利用者もいない。覗きに来るには丁度いい時間だ。勿論、司書には許可を貰っていた。
再び本を抱えると、上から顎で押さえ本の崩れを予防する。
この冊数ともなるとさすがに厚みも重さも相当なのだが、開発部では日常の事だったのでフェリーチェにとっては何ともなかった。今ここに「それ重いだろ? 持ってあげるよ」という紳士が現れたとしたも、持ち上げてすぐ「すみませんでした」と項垂れるだろう。
てくてくと廊下を行くフェリーチェは、執務室へと戻る。数冊明日の為に置いて、残りは部屋へ持って帰ろうと思っていた。
が、その途中で数人の兵を見かけ、くるりと回れ右。さっと柱の影に隠れる。
「お前、何やってんだよ。こんな所で」
「お前こそ」
「いやぁさ。フェリーチェさん居ないかなって思って」
「あ! お前も?」
「そ。普段もこの時間はリヴァイ兵長と仕事してるだろ? もしかしたら……って期待、的な?」
「どいつもこいつも考えることは一緒だな。てか、兵長いないんだから可能性低いじゃん」
「そう思ってるのに来てるお前は何なんだよ」
(あ、危なかった……!)
数分早かったらバッチリ鉢合わせだった……。
隠れながら、早くいなくなれ……とフェリーチェは願った。しかし、彼らは去ろうとしない。それどころか一人増えた様だ。
「何やってんだ?」
「クライダーじゃん。あ、お前ももしかして?」
「は?」
「フェリーチェさんだよ。お前、何故か仲良いじゃん。会いに来たんだろ」
「いや。僕はただ……」
「いいよなぁ~。あの子とハナシ出来てさ。すっげぇ羨ましいんですけど。なぁ、休みとか遊んだりする訳?」
「街まで行っちゃったり?」
「今度オレ達も誘ってくれよ」
クライダーと同じ班の人……? それとも違う……?
どちらにしても、聞いていて不愉快に思う会話だった。クライダーとは、話はするけど遊んだりなんかしない。
休みは部屋にこもって本を読んでいるか、ハンジと街に買い物に行く。最近はリヴァイの部下のペトラも一緒に行く事もあった。
男っ気なんか一つも無いのだ。唯一休みに一緒にいる男性はリヴァイだけ。それも、自分が無理矢理後ろをついてまわるので、彼には嫌な顔をされている。
「そうだ、クライダー。一度聞きたかったんだけどさ。リヴァイ兵長とフェリーチェさんってどんな感じなの?」
「は? どんなって?」
「仲良いワケ? いろ〜んな意味で」
「……何だよそれ」
「だってよ~、兵長だって男だし? 相手はフェリーチェさんだし?」
「男と女が部屋に二人きり」
「そうなりゃ、考えるコトなんか一つだろ。兵長、アッチも強そうだしな」
「きっと美味しく頂いちゃってんだろうな〜」
「あぁ……俺らの女神フェリーチェさんが、兵長と……」
「ははっ、ヤバイって! お前ら妄想し過ぎ!」
「ッ! やめろよ!! 兵長に失礼だぞ! 彼女にも!」
「えっ、あ〜っ! 待てよ! じゃあフェリーチェさんの情報なんかを一つ!」
声が遠ざかっていく。
そっと柱から顔を出すと、クライダーを先頭に兵士達がぞろぞろと廊下を去っていくのが見えた。
はぁ〜っと息を吐く。あぁ……怖かった。クライダーが離れてくれなかったら、彼らはまだここで話をしていただろう。
「……だめだ」
少し考えた末、フェリーチェはいつもの秘密基地へ行く事にした。また誰かが来たら……と思うと、怖くてこの先に進めない……。来た道を戻り変えた目的地へと向かう。
資料室へ近付くにつれ廊下は薄暗くなり、はじめから人気の無いこっちに来れば良かったと思った。
部屋に入ると鍵を閉め、窓を開ける。 こびり付いたカビ臭さは中々抜けないけれど、それでも以前よりはマシになっている。
――やっぱりここは落ち着く場所だ……。
窓辺に座り、横に置いた本の山から一冊を手にし読もうとしたフェリーチェだったが、
「……あれって」
表紙を開くのをやめた。
さっきの兵士達とクライダーの会話を思い出してしまったからだ。
(色んな意味って、どういう意味だろう)
よく分からないけど、リヴァイがいい感じには思われていなくて、その原因はどうやら自分にあるらしい。それはなんとなく理解した。
(私がいつもそばにいるから、リヴァイさんに迷惑をかけている? だから、一人で食堂に行ける様になれって言ったり、皆と仲良くする様にって言ったのかな)
「……ちがうっ」
自分の考えを、頭を振って否定した。
リヴァイは遠回しな事はしない。
迷惑なら迷惑、寄ってほしくないなら寄るなと言う。自分が信頼しているリヴァイはそういう人のはず。
自分の事を本当に拒絶したくなった時には、ハッキリとその意思を伝えてくるだろう。
(拒絶……。せっかく、ちゃんとした補佐だと認めてくれてるって分かったのに、拒絶されるのは嫌だな……。でも)
――膝から本が落ちた。
その音にビックリしてから、フェリーチェはゆっくりと窓の外を仰ぎ見る。
(それは私が決める事じゃない)
空には丸い月が浮かんでいた。
雲がかかると辺りは暗くなり、雲が流れていくと明るさが戻る。今晩は、上空の風の流れが速いようで、頻繁にそれが繰り返されていた。
――みんなもこの空を見ているのかな……。
――今日の調査はどうだったんだろう?
――夜はゆっくり休めるの?
夜空の明暗ごとに、フェリーチェの心は段々と落ち着かなくなってきた。フェリーチェ自身それに戸惑いを感じる。
何故? 何に対して? 答えが分からない事に?
様々な思いが余計に心を揺らし、フェリーチェはたまらなくなり、立ち上がると窓を閉めた。
それでも落ち着く事は無い。
ここが一番落ち着ける場所なのに、どうして今日はこんなにも……。
フェリーチェは、とうとう資料室を飛び出した。
廊下を走る。時間が経ったせいか、誰とも会わず執務室に辿り着けた。
暗い部屋に明かりも灯さずソファーに座ると、わずかな月灯りが林檎を照らす。
一人で食べる気にはならなくて、置きっ放しになっていたものだ。赤い林檎は、暗さの中でもその色を主張していた。
昼間は美味しそうな鮮やかな色だったのに、今は妖しく不気味に見える。光に照ると、紅が血の色の様で、フェリーチェは思わずゾッとした。
リヴァイの席へ目を向ける。――空席。
ソファーに座っていても、休憩にするから紅茶を淹れろという声もお茶飲みに来たよ~! という声も、聞こえては来なかった。当然だ。彼等は昨日から壁外に行っている。
当たり前の事が急に怖くなった。
――当たり前だった事に今更気が付いた。
リヴァイもハンジも、自分がここへやって来た時からそばに居た存在で、その存在に寄りかかって過ごしてきた事を思い出す。
エルヴィンもミケも、ペトラやリヴァイ班のあの三人も、モブリットも。みんな近くに居た。
だけど今日は、自分だけ独り。
『一人でも多く無事に戻るといいね』
クライダーの言葉が薄暗さの中に響くと、フェリーチェは咄嗟に耳を塞いだ。
こびり付いて離れない声は、何度も何度も頭の中で再生され、穏やかなクライダーの声音が酷く不吉なものに聞こえる。
——ここも落ち着かない。
フェリーチェは無意識の内に林檎を掴むと、執務室を飛び出し、再び暗い廊下を走った。
“一人でも多く無事に戻るといいね”
調査兵団の兵士達と開発部の人間の意識の差は、そこにこそ表れていると思う。
あちらでは、帰った人数など話題にもならなかった。……ただ研究に実用的なデータのみが必要だから、生者の数も死者の数もあまり重要視されない。
自分は、それを深く考えた事も無かった。いつの間にか慣れていたから、感覚がおかしくなってしまったのかもしれない……。
調査前の調整日に出かけて行く兵士達を見て、自分には人間っぽさがまだ足りないのでは……と思ったが、それも所詮“思っただけ”だったのだ。
理解するのと感じるのでは雲泥の差だ……。
調査に向かう日の朝、エルヴィンが心配してくれたのか声をかけてきた。「一人にさせてすまない」と。
ハンジとペトラは「帰ったら食事に行こうね」と笑った。
リヴァイは「行ってくる」とだけ呟き、自分の頭に手を置いた。
自分は頷く事しか出来ない。
――最悪の事を考えながらたった一人で待つのが、こんなに辛いなんて。
(知らなかった……)
林檎を胸に抱きフェリーチェは大きく息を吸った。
ジワジワと心臓に拡がっていく不快感は、走ったせいで速まっている鼓動とは別物だった。
遠い遠い記憶の中で同じ感覚を味わった様な気もするが、その時感じたそれも今と同じものだったか……? 思い出せない。
記憶を辿る間も与えてくれない程、いま感じている不快感は物凄い速さでフェリーチェを覆い始めていた。
『一人でも多く』
ああ……ほら、まただ。また頭に響いてくる。
真っ暗な廊下の果てから、自分を追いかけてくる言葉。
生者と死者のバランスはいつもどんな感じだった? あんなに多くのデータを集めていたのに、自分の中にはその単純なパーセンテージすら出てこない。
多く――どちらが?
「……もう、やめて……こわい…」
みんなは帰ってくると信じているのに、度々よぎる不安がその気持ちを遮っていく。
これ以上は考えられない。考えればまた不安に飲み込まれる。
「………」
やがて、脳が思考することを拒否した――。
響く言葉に追い詰められ、ドアに肩を預けていたフェリーチェは、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
フェリーチェが行き着いた廊下には明かり一つ無い。並ぶ部屋の住人たちは、皆ここに居ないからだ。明かりを灯す必要は無い……数日間。
真っ暗な廊下に、フェリーチェの手から落ちた林檎が転がっていった。明かりが無い中では、紅い林檎もただの黒い球体にしか見えない。
ぼんやりとそれを見つめていると、期待も不安も不快感も、そして恐怖も、たった一つの感情にしかならなくなった。
(――淋しい……)
淋しい。
(早く帰ってきて……みんな)
リヴァイの部屋の前で、フェリーチェは朝までずっとお守り代わりの包帯を握りしめ、ただ虚ろげに黒い林檎を見つめていた。
何故、調査に向かう時のリヴァイの後姿ばかりが頭に浮かぶんだろう――。
たとえ考える気力が残っていたとしても、それは今のフェリーチェには解らない答えだった。