憂鬱と淋しさ、安堵と愛しさ
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✽1✽
うつらうつらとしている内に朝になってしまった。
これなら起きて夜を明かした方がマシだったかもしれない。しばらくの間ベッドで重い頭を抱えていたリヴァイは、ゆっくりと息を吐いた。
何故眠れなかったか……。
理由は薄々勘付いているが、それを自分で認めるのは抵抗を感じた。
まさかこんなくだらない事で……?
身支度を整えながらリヴァイは時計を見る。
――まだ時間も早い。
(少し歩くか……)
いつもだったら、立体機動で演習場の林を飛び鬱々とする気分をクリアにするところだ。
しかし、今日はそんな気分にもなれなかった。
昨日から続く自分らしくない思考のせいだろう。この状態で飛んでも逆にクリアになんてならないかもしれない……。
調整日の今日は、皆の起床もいつもより遅いはず。
中には朝早くから出掛ける者もいるだろうが、なにせこの時間だ。のんびりそこらを歩いていても、その者達とバッタリ会う可能性は低いと思う。
とにかく、今の自分は朝の涼しい風に当たり頭を冷やす必要があるだろう。
(問題は何処を歩くかだな)
馬小屋方面か中庭……いや、何故か中庭へは行く気になれない。その理由まで推測出来る自分は一体どうしたものか……。
頭は一層重くなった。
とにかく外へ。これ以上はあまり深く考えない方がいい。その方が絶対に楽だ。
(なんだか言い訳みてぇだな……)
自嘲しながらドアを開けた。
ゴツッ!
「?」
開けた途端ドアに何かが当たり、動きが鈍くなる。怪訝に思いながらもう一度ゆっくりとドアを動かすと、今度はキチンと開いた。
「……おい」
――原因はこれか。
リヴァイは眉根を寄せた。
「こんな朝っぱらから人の部屋の前で何してんだ、お前は」
「いったぁ……。リヴァイさん、開ける時は“開けるぞ”ってちゃんと言って下さい……」
「早朝ドアの向こうに誰かが居ることを察して開ける奴がどこにいんだよ」
「それが分かっちゃうのがリヴァイさんですよね?」
「俺に透視能力は無い」
頭を押さえ座りこんでいるフェリーチェを見下ろし言うが、フェリーチェは聞こえてないのか姿勢を崩さずにまた「いたい……」と呟いていた。
「人類最強なのに」
「どんな無茶振りだ、ソレは……」
深く重い溜息が出る。
まさか悩みのタネが奇襲攻撃をかけてくるとは……。
「何故ここにいる」
「リヴァイさんに謝ろうと思って」
「この時間にかよ。お前には常識が無いのか?」
「それくらいありますよ」
「無ぇだろうが。早朝から男の部屋の前で待ち伏せだ? お前は女だろう。普通に考えればこんな事は出来ねぇよ。そういう常識が欠けてるから昨夜だって――」
ハッとし、口を閉じた。
これは言うつもりではなかった言葉だ。
「………。昨日、嘘を吐きました。隠していた事を誤魔化す嘘です……。ごめんなさい」
自分が言いたい事は嘘のことでは無かった。どうやら彼女は何か勘違いしているようだ。
でも、それならそれで構わない。どちらかといえば自分にとってむしろ都合が良い。
フェリーチェは、ぼそぼそと小さな声で謝る。項垂れている姿に彼女なりの苦悩が垣間見え、リヴァイは大きく息を吸ってから、なるべく声を抑え返した。
「何を隠していた」
「エルヴィンさんの所に行く事……。大切な話があるからって言われたんです」
「大切な話? 二人だけのか」
「…………」
肩をビクつかせたフェリーチェに、昨日と同じ苛立ちを覚えてしまう。
お前はそうやってまた隠すのかよ。言えないならば、なぜ俺にそんな中途半端に事を明かす。
未だ座ったまま自分を見ないフェリーチェを、自分にちゃんと向き合わせたいとやっぱり思う。
しかし、その気持ちを表せば昨夜の繰り返しだ。
ここで再び彼女が逃げたら、自分はこの重苦しい気分を持ちながら調査に行かなければならないかもしれない。
それこそあまり気分のいいものじゃないだろう。
(せめて顔を上げろ。表情が見えないとかける言葉も見つからねぇ)
心の中で吐き出す声。
すると、まるでリヴァイの言葉を聞きとったかの様にフェリーチェが顔を上げる。
「壁外調査のこと……を」
不安げな表情でフェリーチェはリヴァイを見つめ答えた。
(それか……。聞いたのか)
勝手な事をしてくれたもんだ……まずそう思う。
しかし、エルヴィンもまさかフェリーチェが知らないなんて思いもしなかったのだろう。
言いたくなかったとはいえ、フェリーチェに今まで黙っていたのは自分だ。エルヴィンを責める事は出来ない。
それに、彼は彼で壁外調査が迫った中、ここに残るフェリーチェに伝えたい言葉があったのかもしれない。
(アイツがフェリーチェに言いたい事……?)
駄目だ。考えるな――。
「その件に関しては、俺もお前に謝らないといけねぇな」
「なんで教えてくれなかったんですか?」
「お前が、自分も行くとか言い出すんじゃねぇかと思ったからだ」
「エルヴィンさんに言ったら、駄目って言われました……」
「言ったのか……!? 本当にお前は……馬鹿じゃねぇか?」
「だって私だって……私も……」
今にも泣き出しそうにしぼんでいく声。
こっちはまた溜息だ。どんな風に伝えられたか知らないが、こうなるなら自分で言っておいた方が良かった。
「とにかく立て。いつまでも座っているな」
誰かに見られでもしたら何を言われるか分からない。早朝、ドアの前に男と女。誤解されるには十分な状態だ。
さっさと立たせようとフェリーチェの右手首を掴んだリヴァイだったが、ふと気付く。
反対の腕を、フェリーチェが隠す様な素振りを見せた。
「この手はどうした」
「あっ……その、これは」
左手を取り確認すると、掌にぐるぐると包帯が巻かれていた。
しかし、その巻き方は雑な上に血が滲んできている。医務室で手当てを受けたとは思えない処置の仕方だ。
「ちょっと壁に喧嘩を売ってしまいまして」
「あ?」
「つまり、八つ当たりしちゃったんですよね」
あはは、とフェリーチェは呑気に笑っているが、いくら壁に八つ当たりしたといってもここまでなるものだろうか?
怪訝に思ったリヴァイだが、このまま放って置く訳にもいかない。
(仕方ない……諦めるか)
考えずに済むように……と歩くつもりが、まさかその原因と一緒に歩く羽目になるとは。皮肉なものだ。
「とにかく医務室だ。適切な処置を受けろ」
「えっ!? そ、それだけは嫌です!」
「は? 何言ってんだ。傷口が化膿でもしたらどうする。どの程度の怪我か知らねぇが、そんな雑な状態のままでいいはず無い」
「医務室嫌いなんですーっ!」
「子供か!」
「あの広くて無駄に真っ白な空間と薬品の臭い、本っ当に大嫌い!」
怪我をしている癖に力だけは強い。思いもよらない所でフェリーチェは馬鹿力を発揮する女だ。
そういえば、街へ行く日の朝もこんなような事をしていた……。
リヴァイは、抵抗するフェリーチェの腕を引っ掴んで医務室へ連れて行こうとした。しかしフェリーチェも中々引かず、首を振って嫌がっている。
これでは、“親が怖がる子どもを病院に連れていく光景”を二人で演じている様じゃないか。何なんだ一体!
「フェリーチェ! 本当にお前って奴は、懲りずに毎度毎度、面倒ばかりかけやがって……いい加減大人しく俺の言う事を聞け!」
「いくらリヴァイさんの頼みでもこれだけは譲れません!」
「頼んでねぇ、命令してんだアホが!」
静かな周りの事を考え、大声は出さずに押し問答を繰り返す。
フェリーチェも同じく小声だったのは、自分と同じ様に思っていたからに違いない。それに医務室をこんなに頑なに拒否するところをみると、他の人間に怪我を知られるのが相当嫌らしい。
(チッ……これじゃあ埒が明かねぇ! もういっそ担いででも連れて行くしか……)
強硬手段に出るしかない。
加減を忘れると折ってしまいそうなくらい細いフェリーチェの腕をより強く引っ張ったリヴァイだったのだが、それと同時に廊下のどこかで小さな物音がしたのを聞いた。
誰かが起きてきたのかもしれない。
「ッ!」
「えっ!?」
反射というのは恐ろしいものだ。見られてはいけないという焦りが、咄嗟の行動に表れてしまう。
同じフェリーチェの腕を引く力でも、彼女を担ぐ為ではなく部屋に引き入れる為に使ってしまった。
「わっ!? あれっ?」
足をもつれさせながら自分の部屋に飛び込んだフェリーチェの後姿を見て、リヴァイは「しまった」と後悔する。今度は悩みのタネを自らの部屋に招き入れてしまうとは。
しかもこれはまた……
(厄介なことになった)
もはや盛大な溜息しか出てこない――。
リヴァイの部屋に入ったフェリーチェは「すごいっリヴァイさんの部屋広い!」「執務室も綺麗ですけどお部屋はもっと綺麗なんですねぇ」と早口で続け、くるりと回ったり笑ったり、なんとも楽しそうだった。
手から取れかかった血の滲む包帯の端が、ふわふわとフェリーチェの動きに合わせ左右に行ったり来たりしている。
(コイツ、男に面識が無いとはいえ、これは無ぇだろう)
危機感もへったくれもない。
「フェリーチェ……お前もう少し考えて行動しろ」
「じゃあ、リヴァイさんが私を部屋に入れてくれたのもリヴァイさんの考えがあって……ということですか?」
「……」
(嫌なタイミングで痛いところを突いてくるな、コイツ)
リヴァイは何も言わず背を向けると、本棚の下から救急箱を取り出した。使う機会は無いが一応常備して置いたものだ。
備えあれば憂い……なし?
まさか役に立つ日が来るとは。
でもこれなら、フェリーチェを部屋から出す時に誰かに見られたとしても、応急処置を言い訳に出来ると思う。
「とにかく座れ。そんな、いつ血で床を汚すか分からない状態で俺の部屋をウロウロするな」
「はぁい」
「こんな時だけは素直に人のいうこと聞くのかよ、お前は……」
ソファーに座ったフェリーチェの横に自分も座り救急箱を開く。フェリーチェが興味深げにそれを覗き込んできた。
「案外色々揃ってるんですね。ご自分で使うことも?」
「俺はお前みたいに医務室嫌いじゃねぇからな。世話になる事は無い」
言いながら包帯を巻き取っていく。
(処置の仕方から想像はしていたが、やっぱり思った通りだ。この馬鹿、ただ包帯を巻いただけで済まそうとしたな。止血も考えなかったか)
包帯の厚みが消えていくにつれ、白は赤に侵食されている。
しかも、ろくに止血されなかったせいだろう。最後の方は血で湿っている有様だった。
「これで何とかなると思っていたのか?」
「そのうち止まると思って」
「止血くらいは出来たはずだ」
「別に痛くなかったですし」
「お前の危機感と痛覚はえらく鈍いようだな。後で頭の中も医者に診てもらえ」
「嫌ですよ。お医者様にプライベート情報を曝け出す義務はありません」
「フェリーチェよ……お前本当に頭のネジどっかぶっ飛んでんじゃねぇか?」
きょとん、と自分を見上げてきたフェリーチェにリヴァイは眉間に力を入れる。
「リヴァイさんも研究室のみんなと同じこと言うんですね? 残念ながら私の頭の中は他の人と同じく脳しか詰まってません」
「………そっちで手を洗って来い」
会話をするのも面倒になってきた――。
フェリーチェが洗面所へ行っている間に、紅く染まった包帯をゴミ箱に放る。手についたフェリーチェの血はハンカチで拭った。
「フェリーチェ」
「何ですかー?」
「……周りを汚すなよ」
「了解ですっ」
パシャパシャと聞こえてくる音に視線を向け、リヴァイは聞こうとした事を飲み込む。
(いつから部屋の前に居たんだ? お前の手が大分冷えているのは、血で濡れてたせいじゃないだろう?)
………聞いたとしても、どうせ誤魔化されて終わりだ。
よろしくお願いします、と戻ってきたフェリーチェと改めて向かい合ったリヴァイは、消毒しようと伸ばした自らの手を驚きに一度止めた。
「派手に八つ当たりしたもんだな……お前は」
「打ち所が悪かった……んですかね?」
「お前がそう言いたいならそれで構わねぇが、次八つ当たりで何かに喧嘩を売る時は……もう少し相手を選べ」
「あはは。本当ですね。覚えておきます」
痛くないと言っていたが、それは強がりなのか?
フェリーチェの手に残る傷を見て思う。
掠り傷も酷いが切り傷はもっと酷い。縫わなければならない程ではないものの、深く抉る様な傷は傍から見ているだけでも痛々しく、並みの痛みを超えていそうな気もする。
「リヴァイさん、手当て上手ですね」
「普段はこういう事は部下や医療班任せだがな。……昔はそれなりに必要だったからやり方を覚えている。それだけだ」
「そうなんだ……」
「今、俺を医務室代わりに使えると思っただろう」
「そんなことありません」
「クソが」
目だけ笑っていない所を見るとそう考えているのは明白だ。
やめろという意を指先に籠め、額を弾いてやった。
「うっ!? いいじゃないですか少しくらい! ボランティアだと思って」
「よし。ならば医者に代わって俺が診てやる。頭真っ二つに掻っ捌いて、お前のその能天気な頭の中をな」
「ごめんなさいもう言いません。あ! すごい! 綺麗に巻いてあるっ」
「当たり前だ。でもこれはあくまで応急処置だ。後で必ず医務室には行け。それまではあまり力を入れて握ったりするなよ」
「手ぐるぐる巻きにしなくても、こんな風に小指と掌だけ巻けばいいんですね~。動かしやすい!」
溜息が出た。握って開いてを繰り返しているフェリーチェに注意をしたものの、果たしてどこまで聞き入れて貰えるか――。
新しい包帯を嬉しそうに見ているフェリーチェを横目でながめ、リヴァイは安心する一方で再度溜息を吐いた。
「フェリーチェ」
「?」
「俺が調査に行っている間、大人しく待っていると約束しろ」
「大人しく……ですか?」
フェリーチェが隠し持つあの瞳が頭をよぎる。
(たかがやつ当りでその怪我かよ。一体何しやがった)
どんな顔をして、その手を……?
――攻撃的な鋭い刃。刺すような強い目。
壁外調査の件を話さなかったのもそれを見ていたからだ。自分も行くと言い出すだけではなく、またあの目を引き出してくるのでは……と懸念した。
あの瞳は駄目だ。
確固たる理由はまだ無いが、とにかく表に出させてはいけない。それだけは言える。
「お前は人見知りが強いから他人とトラブルを起こす事は無ぇと思うが、その反面何をやらかすか分からねぇ部分が多い。多過ぎる」
「……はぁ」
「帰ってきた早々お前の尻拭いだけは御免だ。いいか? 大人しくしていろよ」
「それを約束しろ、と」
「そうだ」
自分の知らぬ所で、フェリーチェがあの瞳を持ってして何かをしたら……。そう思うと彼女を一人にするのは大丈夫なのか? と思う。
しかし、連れて行く危険よりはまだマシだ。壁外で彼女を守りきれる保証は無い。安全な場所に置いて行き、何事も起きてくれるなよと願う方が、自分の気持ちもまだ違うと思った。
「リヴァイさんがそう言うなら」
フェリーチェは笑った。
相変わらずほわんとした、人の毒気を消していく笑顔だ。
それを見たリヴァイの心にまた少しの安堵が生まれる。
――そうだ。笑っている方がいいに決まっている。似合わない目を持つ必要は無い。
何よりも自分が、フェリーチェのあの瞳を見たくないと思っている……。
「でも、私はまるでトラブルメーカーみたいな言われ様ですね」
「実際そうだろうが……」
手と同じように冷えているだろうフェリーチェの頬に、リヴァイは自然と触れたくなっていた。
戸惑いつつも動く手。
そのリヴァイの手をフェリーチェの方が先に取った。
心を見透かされたのかとギョッとしていると、フェリーチェは「あ。駄目です」と呟く。さらに驚き心臓が跳ねた。
「これじゃあ、指切りできない」
「……そっちか」
「え?」
「反対の手があるだろう。……じゃねぇよ、なんで俺がお前と指切りなんぞしなきゃならねぇ」
「約束といえば指切りですもん」
「ガキじゃあるまいし」
数秒前の自分の気持ちを打ち消そうとすれば、出す声はどうしても低くなった。
それで自分を抑えているかのように。
リヴァイの低い声にフェリーチェが首を傾げた。
「子供でも大人でも指切りはしますよね? うちの部ではみんな普通にしてましたけど?」
「……大丈夫なのか? 開発部は。変わり者の集まりにしても程があるだろ」
(そんな所に引きこもっているからこういう娘が出来上がるのか。まぁ……分からないでもない)
研究員たちとフェリーチェが仲良く指切りしている図が頭に浮かぶ。そして気が付いた。みんなという事は……当然男も含まれている筈だ。
――何だそれは。……気に食わない。
「男の人! っていう手ですよね。リヴァイさんの手」
「……俺は男だぞ。馬鹿にしてるのか」
「えっと、そうじゃなくてですね。私とはやっぱり違うなって」
指切りを断念したのか、代わりにリヴァイの手に自分の手を重ね合わせたフェリーチェ。
彼女はそんな当たり前の事を言い、ふと悲しそうな表情を見せた。
「この手でリヴァイさんは巨人を倒すんですね。そして、沢山の人の命も救う……」
「救えねぇ命の方が多い」
「救っている事は確かです。リヴァイさんの手には、とても大事な意味がある」
フェリーチェは重ねた手をジッと見つめ、
「でも私の手には何もない……」
ぽつりと言葉を零した。
「フェリーチェ……?」
「どれくらいの意味があるんでしょうか……私の手に。私は何も倒していないし、誰かを救ってもいない」
「……おい」
小さな手が微かに震えていた。
それにフェリーチェ自身も気付いたのか、震えを隠す様に彼女はリヴァイの指と自分の指を絡ませギュッと握る。
「ッ!!?」
それでも、リヴァイの手には隠しきれていない震えが伝わってきていた。
「夜中に外出する人を何人か見て、今日が何故調整日なのか考えました……。壁外調査直前のお休み……大事な人達のもとへ帰る方もいるんですよね。こんな簡単な事、全然気付かなかった」
開発部は、とフェリーチェは続ける。組み合わせた手を見つめるフェリーチェの目は虚ろげだ。
「開発部はこんな時、ただ殺伐としています。調査兵団の空気とはまるで違う。でも分かっています。あそこではそうしているのは当たり前……冷静な分析が必要だからです」
「仕事柄だろう。それは必要な事だ」
「えぇ。でも、だからこそ壁外調査に対しての意識も皆さんと少し違うのかもしれません……」
リヴァイの胸に、ざわっと嫌な気配が現れる。
自分の目も、手も、フェリーチェは見ていなかった。
視線は確かにこちらに向いているのに、意識は自分を越え遠くへと向けられている。
あの日、自分が味わった別の感覚――。
リヴァイはそれを思い出し、ただの恐怖とは違う恐れを全身に感じた。
「フェリーチェ」
潜む刃の冷たさとは別だった瞳の色。今見ている彼女の目には同じものがある。
「おい、フェリーチェ」
「…………」
フェリーチェは、度々自分と通じなくなる時がある。会話もそのうちのひとつ。しかし、そんなものは問題にもならない事だった。
それを知ったのはあの日のあの場所。街を歩き最後に立ち寄った紅茶店でだった。
紅茶缶の文字をなぞる細い指。
真剣にそれを追う大きな目。
小さな立ち姿は、周りを遮断し透明な壁を作っている様に見えた。
フェリーチェが文字をなぞり視線を流す毎に、自分との距離を遠くする。
箱庭よりも狭く深い世界に沈んでいく様なフェリーチェを目にして、リヴァイはその時に全く感じたことのない怖さを知った。
思わず焦り声をかけたのは何故だろうか。
仲間を目の前で失った時の絶望にも似ているようでまた全然違う……言い知れぬ苦痛を感じたからかもしれない。
何度声をかけても、フェリーチェは中々こちら側へ戻ってこなかった。
膨らむ不安から、最後には自分でも驚くほど大きな声で彼女を呼び戻したくらいだ。
「殺伐としすぎているのは、人間らしさが欠けていってるからだとしたら……。私に足りないのはそれ? だから私、いつまで経っても何も出来ないの……?」
独り言だった。
「何も……」
か細い声に反して、リヴァイの手を握るフェリーチェの手に力が籠っていく。
指から腕へ、肩から全身へ。嫌な感覚に肌が粟立つ。リヴァイは心あらずのフェリーチェを再び呼んだ。
「フェリーチェ!」
「まだ何か足りないんだ……」
「オイ!」
フェリーチェにされるがままだった手に力を入れ、彼女の手を強く握り返す。
痛めている手だ。あまり力を入れては傷口に障るだろうし、痛みを与える。
だが、そんなことよりもまずフェリーチェを取り戻したかった。
「聞け! フェリーチェ!」
リヴァイの声に、一気に目が覚めたといわんばかりにフェリーチェが反応した。
ハッとリヴァイを見る姿は紅茶店での姿と同じで、澄んだ瞳が数度まばたきを繰り返す。
「……リヴァイさん」
「お前……本当に大丈夫なのか?」
「あ……。ちょっと考え事に夢中になっちゃいました。話してる最中にごめんなさい」
「ちょっとどころじゃねぇだろ……」
自分に向くフェリーチェに深い溜息が出た。呆れでも抑うつでもない、安堵からくるものだ。
やっと戻ってきたか――。
「調査兵団の皆さんはとても優しくて強い方ばかりなんですよね……。それに比べて本当、私はいつも自分の事ばかりで」
「自分の事しか考えて無い奴が、簡単に壁外へついて行くなんて言うかよ。フェリーチェ、お前は少し自分を否定し過ぎだ」
「……え?」
「自分の手にはどんな意味があるかと言ったな。何も倒していない救っていないと言うが、それは当たり前の事だ。お前は兵士じゃねぇ。そもそもの役目が違う」
リヴァイの言葉に、フェリーチェは悲しそうに視線を落とすと下唇を噛んだ。
「そんな顔をするな」
絡めていた手を離しフェリーチェの頭を撫でる。
そして、自分でも驚くほど自然に、その手が頬に滑り落ちた。
「お前にはお前のやるべき事がある。兵士には出来ない事をお前はしているだろうが。忘れてんじゃねぇよ、この開発部の引きこもりめ」
「リヴァイさん……私の事……開発部の人間だって思ってくれてるんですか……?」
「は? それ以外何だってんだ? まぁ、お前の今の仕事は事務メインで俺の補佐だがな」
「……よかった」
「良くねぇよ」
触れていた柔らかい頬をつまみ、顔を寄せる。
目を丸くするフェリーチェを目の前に、リヴァイは少々ドスを利かせた声で囁いた。
「だからこそ、問題を起こされるとこっちが困る。いいな、フェリーチェ。補佐の間は俺の命令をちゃんと聞け。俺が戻るまで大人しく待っていろ」
「……は、い」
「それから……笑え」
「は? わらえ?」
「兵士達はお前のちょこまか走り回る姿が大層お気に入りだそうだ。お前がへらへら笑って歩き回っているだけで兵の士気が上がるなら、それに越したことは無い」
「えー……」
フェリーチェはあからさまに困った顔をする。
それもそうだ。酷い形相で逃げ回っているのが常の人間に、愛想を振りまけと言っているのだから。
でも、笑っていてほしい。
自分の目が届かない間は特に――。
本当はこんな余計な事を言うべきではないと分かっているのだが、気持ちをそのまま伝えるなど自分の性に合わない。
なんと言えば相手に心地よく聞こえるのかもよく分からない。
「それも……命令ですか?」
不安げな声と表情になったフェリーチェの頬をまたつまみ、リヴァイは「そうだな……」と呟いた。
「……頼み、だ」
「じゃあいいですよね」
「……あ?」
「いえ! いくらリヴァイさんの頼みでもそれだけは無理ですっ」
「オイ」
なぜかドヤ顔で返してくるフェリーチェに、思わずクッと笑ってしまう。
なんだそれは。なに誇らしげに言ってんだよ、お前。
「少しは愛想よくしてやれ」
「だったら、まずはリヴァイさんが愛想よくすべきです。で、そのついででも良いので補佐にはもう少し優しく……ほっぺた痛い」
「あぁ……悪い」
つまんで赤くなった頬を雑に撫でまわすと、フェリーチェは「だから優しくですね~!」と文句を言い始めた。
目の届かない所でも笑っていてほしいと思うのに、自分の知らない所で他の者に笑いかけているのは腑に落ちない……という複雑な気分。
持て余すそれを、フェリーチェの言葉ひとつが払ってしまった。
……深く考えるのはとりあえずやめだ。
今、目の前で笑っているならそれでいい。
頬を赤くしながら「人の気も知らないで〜っ」とむくれているフェリーチェに思った。
(お前だって人の気を知らねぇだろうが)
うつらうつらとしている内に朝になってしまった。
これなら起きて夜を明かした方がマシだったかもしれない。しばらくの間ベッドで重い頭を抱えていたリヴァイは、ゆっくりと息を吐いた。
何故眠れなかったか……。
理由は薄々勘付いているが、それを自分で認めるのは抵抗を感じた。
まさかこんなくだらない事で……?
身支度を整えながらリヴァイは時計を見る。
――まだ時間も早い。
(少し歩くか……)
いつもだったら、立体機動で演習場の林を飛び鬱々とする気分をクリアにするところだ。
しかし、今日はそんな気分にもなれなかった。
昨日から続く自分らしくない思考のせいだろう。この状態で飛んでも逆にクリアになんてならないかもしれない……。
調整日の今日は、皆の起床もいつもより遅いはず。
中には朝早くから出掛ける者もいるだろうが、なにせこの時間だ。のんびりそこらを歩いていても、その者達とバッタリ会う可能性は低いと思う。
とにかく、今の自分は朝の涼しい風に当たり頭を冷やす必要があるだろう。
(問題は何処を歩くかだな)
馬小屋方面か中庭……いや、何故か中庭へは行く気になれない。その理由まで推測出来る自分は一体どうしたものか……。
頭は一層重くなった。
とにかく外へ。これ以上はあまり深く考えない方がいい。その方が絶対に楽だ。
(なんだか言い訳みてぇだな……)
自嘲しながらドアを開けた。
ゴツッ!
「?」
開けた途端ドアに何かが当たり、動きが鈍くなる。怪訝に思いながらもう一度ゆっくりとドアを動かすと、今度はキチンと開いた。
「……おい」
――原因はこれか。
リヴァイは眉根を寄せた。
「こんな朝っぱらから人の部屋の前で何してんだ、お前は」
「いったぁ……。リヴァイさん、開ける時は“開けるぞ”ってちゃんと言って下さい……」
「早朝ドアの向こうに誰かが居ることを察して開ける奴がどこにいんだよ」
「それが分かっちゃうのがリヴァイさんですよね?」
「俺に透視能力は無い」
頭を押さえ座りこんでいるフェリーチェを見下ろし言うが、フェリーチェは聞こえてないのか姿勢を崩さずにまた「いたい……」と呟いていた。
「人類最強なのに」
「どんな無茶振りだ、ソレは……」
深く重い溜息が出る。
まさか悩みのタネが奇襲攻撃をかけてくるとは……。
「何故ここにいる」
「リヴァイさんに謝ろうと思って」
「この時間にかよ。お前には常識が無いのか?」
「それくらいありますよ」
「無ぇだろうが。早朝から男の部屋の前で待ち伏せだ? お前は女だろう。普通に考えればこんな事は出来ねぇよ。そういう常識が欠けてるから昨夜だって――」
ハッとし、口を閉じた。
これは言うつもりではなかった言葉だ。
「………。昨日、嘘を吐きました。隠していた事を誤魔化す嘘です……。ごめんなさい」
自分が言いたい事は嘘のことでは無かった。どうやら彼女は何か勘違いしているようだ。
でも、それならそれで構わない。どちらかといえば自分にとってむしろ都合が良い。
フェリーチェは、ぼそぼそと小さな声で謝る。項垂れている姿に彼女なりの苦悩が垣間見え、リヴァイは大きく息を吸ってから、なるべく声を抑え返した。
「何を隠していた」
「エルヴィンさんの所に行く事……。大切な話があるからって言われたんです」
「大切な話? 二人だけのか」
「…………」
肩をビクつかせたフェリーチェに、昨日と同じ苛立ちを覚えてしまう。
お前はそうやってまた隠すのかよ。言えないならば、なぜ俺にそんな中途半端に事を明かす。
未だ座ったまま自分を見ないフェリーチェを、自分にちゃんと向き合わせたいとやっぱり思う。
しかし、その気持ちを表せば昨夜の繰り返しだ。
ここで再び彼女が逃げたら、自分はこの重苦しい気分を持ちながら調査に行かなければならないかもしれない。
それこそあまり気分のいいものじゃないだろう。
(せめて顔を上げろ。表情が見えないとかける言葉も見つからねぇ)
心の中で吐き出す声。
すると、まるでリヴァイの言葉を聞きとったかの様にフェリーチェが顔を上げる。
「壁外調査のこと……を」
不安げな表情でフェリーチェはリヴァイを見つめ答えた。
(それか……。聞いたのか)
勝手な事をしてくれたもんだ……まずそう思う。
しかし、エルヴィンもまさかフェリーチェが知らないなんて思いもしなかったのだろう。
言いたくなかったとはいえ、フェリーチェに今まで黙っていたのは自分だ。エルヴィンを責める事は出来ない。
それに、彼は彼で壁外調査が迫った中、ここに残るフェリーチェに伝えたい言葉があったのかもしれない。
(アイツがフェリーチェに言いたい事……?)
駄目だ。考えるな――。
「その件に関しては、俺もお前に謝らないといけねぇな」
「なんで教えてくれなかったんですか?」
「お前が、自分も行くとか言い出すんじゃねぇかと思ったからだ」
「エルヴィンさんに言ったら、駄目って言われました……」
「言ったのか……!? 本当にお前は……馬鹿じゃねぇか?」
「だって私だって……私も……」
今にも泣き出しそうにしぼんでいく声。
こっちはまた溜息だ。どんな風に伝えられたか知らないが、こうなるなら自分で言っておいた方が良かった。
「とにかく立て。いつまでも座っているな」
誰かに見られでもしたら何を言われるか分からない。早朝、ドアの前に男と女。誤解されるには十分な状態だ。
さっさと立たせようとフェリーチェの右手首を掴んだリヴァイだったが、ふと気付く。
反対の腕を、フェリーチェが隠す様な素振りを見せた。
「この手はどうした」
「あっ……その、これは」
左手を取り確認すると、掌にぐるぐると包帯が巻かれていた。
しかし、その巻き方は雑な上に血が滲んできている。医務室で手当てを受けたとは思えない処置の仕方だ。
「ちょっと壁に喧嘩を売ってしまいまして」
「あ?」
「つまり、八つ当たりしちゃったんですよね」
あはは、とフェリーチェは呑気に笑っているが、いくら壁に八つ当たりしたといってもここまでなるものだろうか?
怪訝に思ったリヴァイだが、このまま放って置く訳にもいかない。
(仕方ない……諦めるか)
考えずに済むように……と歩くつもりが、まさかその原因と一緒に歩く羽目になるとは。皮肉なものだ。
「とにかく医務室だ。適切な処置を受けろ」
「えっ!? そ、それだけは嫌です!」
「は? 何言ってんだ。傷口が化膿でもしたらどうする。どの程度の怪我か知らねぇが、そんな雑な状態のままでいいはず無い」
「医務室嫌いなんですーっ!」
「子供か!」
「あの広くて無駄に真っ白な空間と薬品の臭い、本っ当に大嫌い!」
怪我をしている癖に力だけは強い。思いもよらない所でフェリーチェは馬鹿力を発揮する女だ。
そういえば、街へ行く日の朝もこんなような事をしていた……。
リヴァイは、抵抗するフェリーチェの腕を引っ掴んで医務室へ連れて行こうとした。しかしフェリーチェも中々引かず、首を振って嫌がっている。
これでは、“親が怖がる子どもを病院に連れていく光景”を二人で演じている様じゃないか。何なんだ一体!
「フェリーチェ! 本当にお前って奴は、懲りずに毎度毎度、面倒ばかりかけやがって……いい加減大人しく俺の言う事を聞け!」
「いくらリヴァイさんの頼みでもこれだけは譲れません!」
「頼んでねぇ、命令してんだアホが!」
静かな周りの事を考え、大声は出さずに押し問答を繰り返す。
フェリーチェも同じく小声だったのは、自分と同じ様に思っていたからに違いない。それに医務室をこんなに頑なに拒否するところをみると、他の人間に怪我を知られるのが相当嫌らしい。
(チッ……これじゃあ埒が明かねぇ! もういっそ担いででも連れて行くしか……)
強硬手段に出るしかない。
加減を忘れると折ってしまいそうなくらい細いフェリーチェの腕をより強く引っ張ったリヴァイだったのだが、それと同時に廊下のどこかで小さな物音がしたのを聞いた。
誰かが起きてきたのかもしれない。
「ッ!」
「えっ!?」
反射というのは恐ろしいものだ。見られてはいけないという焦りが、咄嗟の行動に表れてしまう。
同じフェリーチェの腕を引く力でも、彼女を担ぐ為ではなく部屋に引き入れる為に使ってしまった。
「わっ!? あれっ?」
足をもつれさせながら自分の部屋に飛び込んだフェリーチェの後姿を見て、リヴァイは「しまった」と後悔する。今度は悩みのタネを自らの部屋に招き入れてしまうとは。
しかもこれはまた……
(厄介なことになった)
もはや盛大な溜息しか出てこない――。
リヴァイの部屋に入ったフェリーチェは「すごいっリヴァイさんの部屋広い!」「執務室も綺麗ですけどお部屋はもっと綺麗なんですねぇ」と早口で続け、くるりと回ったり笑ったり、なんとも楽しそうだった。
手から取れかかった血の滲む包帯の端が、ふわふわとフェリーチェの動きに合わせ左右に行ったり来たりしている。
(コイツ、男に面識が無いとはいえ、これは無ぇだろう)
危機感もへったくれもない。
「フェリーチェ……お前もう少し考えて行動しろ」
「じゃあ、リヴァイさんが私を部屋に入れてくれたのもリヴァイさんの考えがあって……ということですか?」
「……」
(嫌なタイミングで痛いところを突いてくるな、コイツ)
リヴァイは何も言わず背を向けると、本棚の下から救急箱を取り出した。使う機会は無いが一応常備して置いたものだ。
備えあれば憂い……なし?
まさか役に立つ日が来るとは。
でもこれなら、フェリーチェを部屋から出す時に誰かに見られたとしても、応急処置を言い訳に出来ると思う。
「とにかく座れ。そんな、いつ血で床を汚すか分からない状態で俺の部屋をウロウロするな」
「はぁい」
「こんな時だけは素直に人のいうこと聞くのかよ、お前は……」
ソファーに座ったフェリーチェの横に自分も座り救急箱を開く。フェリーチェが興味深げにそれを覗き込んできた。
「案外色々揃ってるんですね。ご自分で使うことも?」
「俺はお前みたいに医務室嫌いじゃねぇからな。世話になる事は無い」
言いながら包帯を巻き取っていく。
(処置の仕方から想像はしていたが、やっぱり思った通りだ。この馬鹿、ただ包帯を巻いただけで済まそうとしたな。止血も考えなかったか)
包帯の厚みが消えていくにつれ、白は赤に侵食されている。
しかも、ろくに止血されなかったせいだろう。最後の方は血で湿っている有様だった。
「これで何とかなると思っていたのか?」
「そのうち止まると思って」
「止血くらいは出来たはずだ」
「別に痛くなかったですし」
「お前の危機感と痛覚はえらく鈍いようだな。後で頭の中も医者に診てもらえ」
「嫌ですよ。お医者様にプライベート情報を曝け出す義務はありません」
「フェリーチェよ……お前本当に頭のネジどっかぶっ飛んでんじゃねぇか?」
きょとん、と自分を見上げてきたフェリーチェにリヴァイは眉間に力を入れる。
「リヴァイさんも研究室のみんなと同じこと言うんですね? 残念ながら私の頭の中は他の人と同じく脳しか詰まってません」
「………そっちで手を洗って来い」
会話をするのも面倒になってきた――。
フェリーチェが洗面所へ行っている間に、紅く染まった包帯をゴミ箱に放る。手についたフェリーチェの血はハンカチで拭った。
「フェリーチェ」
「何ですかー?」
「……周りを汚すなよ」
「了解ですっ」
パシャパシャと聞こえてくる音に視線を向け、リヴァイは聞こうとした事を飲み込む。
(いつから部屋の前に居たんだ? お前の手が大分冷えているのは、血で濡れてたせいじゃないだろう?)
………聞いたとしても、どうせ誤魔化されて終わりだ。
よろしくお願いします、と戻ってきたフェリーチェと改めて向かい合ったリヴァイは、消毒しようと伸ばした自らの手を驚きに一度止めた。
「派手に八つ当たりしたもんだな……お前は」
「打ち所が悪かった……んですかね?」
「お前がそう言いたいならそれで構わねぇが、次八つ当たりで何かに喧嘩を売る時は……もう少し相手を選べ」
「あはは。本当ですね。覚えておきます」
痛くないと言っていたが、それは強がりなのか?
フェリーチェの手に残る傷を見て思う。
掠り傷も酷いが切り傷はもっと酷い。縫わなければならない程ではないものの、深く抉る様な傷は傍から見ているだけでも痛々しく、並みの痛みを超えていそうな気もする。
「リヴァイさん、手当て上手ですね」
「普段はこういう事は部下や医療班任せだがな。……昔はそれなりに必要だったからやり方を覚えている。それだけだ」
「そうなんだ……」
「今、俺を医務室代わりに使えると思っただろう」
「そんなことありません」
「クソが」
目だけ笑っていない所を見るとそう考えているのは明白だ。
やめろという意を指先に籠め、額を弾いてやった。
「うっ!? いいじゃないですか少しくらい! ボランティアだと思って」
「よし。ならば医者に代わって俺が診てやる。頭真っ二つに掻っ捌いて、お前のその能天気な頭の中をな」
「ごめんなさいもう言いません。あ! すごい! 綺麗に巻いてあるっ」
「当たり前だ。でもこれはあくまで応急処置だ。後で必ず医務室には行け。それまではあまり力を入れて握ったりするなよ」
「手ぐるぐる巻きにしなくても、こんな風に小指と掌だけ巻けばいいんですね~。動かしやすい!」
溜息が出た。握って開いてを繰り返しているフェリーチェに注意をしたものの、果たしてどこまで聞き入れて貰えるか――。
新しい包帯を嬉しそうに見ているフェリーチェを横目でながめ、リヴァイは安心する一方で再度溜息を吐いた。
「フェリーチェ」
「?」
「俺が調査に行っている間、大人しく待っていると約束しろ」
「大人しく……ですか?」
フェリーチェが隠し持つあの瞳が頭をよぎる。
(たかがやつ当りでその怪我かよ。一体何しやがった)
どんな顔をして、その手を……?
――攻撃的な鋭い刃。刺すような強い目。
壁外調査の件を話さなかったのもそれを見ていたからだ。自分も行くと言い出すだけではなく、またあの目を引き出してくるのでは……と懸念した。
あの瞳は駄目だ。
確固たる理由はまだ無いが、とにかく表に出させてはいけない。それだけは言える。
「お前は人見知りが強いから他人とトラブルを起こす事は無ぇと思うが、その反面何をやらかすか分からねぇ部分が多い。多過ぎる」
「……はぁ」
「帰ってきた早々お前の尻拭いだけは御免だ。いいか? 大人しくしていろよ」
「それを約束しろ、と」
「そうだ」
自分の知らぬ所で、フェリーチェがあの瞳を持ってして何かをしたら……。そう思うと彼女を一人にするのは大丈夫なのか? と思う。
しかし、連れて行く危険よりはまだマシだ。壁外で彼女を守りきれる保証は無い。安全な場所に置いて行き、何事も起きてくれるなよと願う方が、自分の気持ちもまだ違うと思った。
「リヴァイさんがそう言うなら」
フェリーチェは笑った。
相変わらずほわんとした、人の毒気を消していく笑顔だ。
それを見たリヴァイの心にまた少しの安堵が生まれる。
――そうだ。笑っている方がいいに決まっている。似合わない目を持つ必要は無い。
何よりも自分が、フェリーチェのあの瞳を見たくないと思っている……。
「でも、私はまるでトラブルメーカーみたいな言われ様ですね」
「実際そうだろうが……」
手と同じように冷えているだろうフェリーチェの頬に、リヴァイは自然と触れたくなっていた。
戸惑いつつも動く手。
そのリヴァイの手をフェリーチェの方が先に取った。
心を見透かされたのかとギョッとしていると、フェリーチェは「あ。駄目です」と呟く。さらに驚き心臓が跳ねた。
「これじゃあ、指切りできない」
「……そっちか」
「え?」
「反対の手があるだろう。……じゃねぇよ、なんで俺がお前と指切りなんぞしなきゃならねぇ」
「約束といえば指切りですもん」
「ガキじゃあるまいし」
数秒前の自分の気持ちを打ち消そうとすれば、出す声はどうしても低くなった。
それで自分を抑えているかのように。
リヴァイの低い声にフェリーチェが首を傾げた。
「子供でも大人でも指切りはしますよね? うちの部ではみんな普通にしてましたけど?」
「……大丈夫なのか? 開発部は。変わり者の集まりにしても程があるだろ」
(そんな所に引きこもっているからこういう娘が出来上がるのか。まぁ……分からないでもない)
研究員たちとフェリーチェが仲良く指切りしている図が頭に浮かぶ。そして気が付いた。みんなという事は……当然男も含まれている筈だ。
――何だそれは。……気に食わない。
「男の人! っていう手ですよね。リヴァイさんの手」
「……俺は男だぞ。馬鹿にしてるのか」
「えっと、そうじゃなくてですね。私とはやっぱり違うなって」
指切りを断念したのか、代わりにリヴァイの手に自分の手を重ね合わせたフェリーチェ。
彼女はそんな当たり前の事を言い、ふと悲しそうな表情を見せた。
「この手でリヴァイさんは巨人を倒すんですね。そして、沢山の人の命も救う……」
「救えねぇ命の方が多い」
「救っている事は確かです。リヴァイさんの手には、とても大事な意味がある」
フェリーチェは重ねた手をジッと見つめ、
「でも私の手には何もない……」
ぽつりと言葉を零した。
「フェリーチェ……?」
「どれくらいの意味があるんでしょうか……私の手に。私は何も倒していないし、誰かを救ってもいない」
「……おい」
小さな手が微かに震えていた。
それにフェリーチェ自身も気付いたのか、震えを隠す様に彼女はリヴァイの指と自分の指を絡ませギュッと握る。
「ッ!!?」
それでも、リヴァイの手には隠しきれていない震えが伝わってきていた。
「夜中に外出する人を何人か見て、今日が何故調整日なのか考えました……。壁外調査直前のお休み……大事な人達のもとへ帰る方もいるんですよね。こんな簡単な事、全然気付かなかった」
開発部は、とフェリーチェは続ける。組み合わせた手を見つめるフェリーチェの目は虚ろげだ。
「開発部はこんな時、ただ殺伐としています。調査兵団の空気とはまるで違う。でも分かっています。あそこではそうしているのは当たり前……冷静な分析が必要だからです」
「仕事柄だろう。それは必要な事だ」
「えぇ。でも、だからこそ壁外調査に対しての意識も皆さんと少し違うのかもしれません……」
リヴァイの胸に、ざわっと嫌な気配が現れる。
自分の目も、手も、フェリーチェは見ていなかった。
視線は確かにこちらに向いているのに、意識は自分を越え遠くへと向けられている。
あの日、自分が味わった別の感覚――。
リヴァイはそれを思い出し、ただの恐怖とは違う恐れを全身に感じた。
「フェリーチェ」
潜む刃の冷たさとは別だった瞳の色。今見ている彼女の目には同じものがある。
「おい、フェリーチェ」
「…………」
フェリーチェは、度々自分と通じなくなる時がある。会話もそのうちのひとつ。しかし、そんなものは問題にもならない事だった。
それを知ったのはあの日のあの場所。街を歩き最後に立ち寄った紅茶店でだった。
紅茶缶の文字をなぞる細い指。
真剣にそれを追う大きな目。
小さな立ち姿は、周りを遮断し透明な壁を作っている様に見えた。
フェリーチェが文字をなぞり視線を流す毎に、自分との距離を遠くする。
箱庭よりも狭く深い世界に沈んでいく様なフェリーチェを目にして、リヴァイはその時に全く感じたことのない怖さを知った。
思わず焦り声をかけたのは何故だろうか。
仲間を目の前で失った時の絶望にも似ているようでまた全然違う……言い知れぬ苦痛を感じたからかもしれない。
何度声をかけても、フェリーチェは中々こちら側へ戻ってこなかった。
膨らむ不安から、最後には自分でも驚くほど大きな声で彼女を呼び戻したくらいだ。
「殺伐としすぎているのは、人間らしさが欠けていってるからだとしたら……。私に足りないのはそれ? だから私、いつまで経っても何も出来ないの……?」
独り言だった。
「何も……」
か細い声に反して、リヴァイの手を握るフェリーチェの手に力が籠っていく。
指から腕へ、肩から全身へ。嫌な感覚に肌が粟立つ。リヴァイは心あらずのフェリーチェを再び呼んだ。
「フェリーチェ!」
「まだ何か足りないんだ……」
「オイ!」
フェリーチェにされるがままだった手に力を入れ、彼女の手を強く握り返す。
痛めている手だ。あまり力を入れては傷口に障るだろうし、痛みを与える。
だが、そんなことよりもまずフェリーチェを取り戻したかった。
「聞け! フェリーチェ!」
リヴァイの声に、一気に目が覚めたといわんばかりにフェリーチェが反応した。
ハッとリヴァイを見る姿は紅茶店での姿と同じで、澄んだ瞳が数度まばたきを繰り返す。
「……リヴァイさん」
「お前……本当に大丈夫なのか?」
「あ……。ちょっと考え事に夢中になっちゃいました。話してる最中にごめんなさい」
「ちょっとどころじゃねぇだろ……」
自分に向くフェリーチェに深い溜息が出た。呆れでも抑うつでもない、安堵からくるものだ。
やっと戻ってきたか――。
「調査兵団の皆さんはとても優しくて強い方ばかりなんですよね……。それに比べて本当、私はいつも自分の事ばかりで」
「自分の事しか考えて無い奴が、簡単に壁外へついて行くなんて言うかよ。フェリーチェ、お前は少し自分を否定し過ぎだ」
「……え?」
「自分の手にはどんな意味があるかと言ったな。何も倒していない救っていないと言うが、それは当たり前の事だ。お前は兵士じゃねぇ。そもそもの役目が違う」
リヴァイの言葉に、フェリーチェは悲しそうに視線を落とすと下唇を噛んだ。
「そんな顔をするな」
絡めていた手を離しフェリーチェの頭を撫でる。
そして、自分でも驚くほど自然に、その手が頬に滑り落ちた。
「お前にはお前のやるべき事がある。兵士には出来ない事をお前はしているだろうが。忘れてんじゃねぇよ、この開発部の引きこもりめ」
「リヴァイさん……私の事……開発部の人間だって思ってくれてるんですか……?」
「は? それ以外何だってんだ? まぁ、お前の今の仕事は事務メインで俺の補佐だがな」
「……よかった」
「良くねぇよ」
触れていた柔らかい頬をつまみ、顔を寄せる。
目を丸くするフェリーチェを目の前に、リヴァイは少々ドスを利かせた声で囁いた。
「だからこそ、問題を起こされるとこっちが困る。いいな、フェリーチェ。補佐の間は俺の命令をちゃんと聞け。俺が戻るまで大人しく待っていろ」
「……は、い」
「それから……笑え」
「は? わらえ?」
「兵士達はお前のちょこまか走り回る姿が大層お気に入りだそうだ。お前がへらへら笑って歩き回っているだけで兵の士気が上がるなら、それに越したことは無い」
「えー……」
フェリーチェはあからさまに困った顔をする。
それもそうだ。酷い形相で逃げ回っているのが常の人間に、愛想を振りまけと言っているのだから。
でも、笑っていてほしい。
自分の目が届かない間は特に――。
本当はこんな余計な事を言うべきではないと分かっているのだが、気持ちをそのまま伝えるなど自分の性に合わない。
なんと言えば相手に心地よく聞こえるのかもよく分からない。
「それも……命令ですか?」
不安げな声と表情になったフェリーチェの頬をまたつまみ、リヴァイは「そうだな……」と呟いた。
「……頼み、だ」
「じゃあいいですよね」
「……あ?」
「いえ! いくらリヴァイさんの頼みでもそれだけは無理ですっ」
「オイ」
なぜかドヤ顔で返してくるフェリーチェに、思わずクッと笑ってしまう。
なんだそれは。なに誇らしげに言ってんだよ、お前。
「少しは愛想よくしてやれ」
「だったら、まずはリヴァイさんが愛想よくすべきです。で、そのついででも良いので補佐にはもう少し優しく……ほっぺた痛い」
「あぁ……悪い」
つまんで赤くなった頬を雑に撫でまわすと、フェリーチェは「だから優しくですね~!」と文句を言い始めた。
目の届かない所でも笑っていてほしいと思うのに、自分の知らない所で他の者に笑いかけているのは腑に落ちない……という複雑な気分。
持て余すそれを、フェリーチェの言葉ひとつが払ってしまった。
……深く考えるのはとりあえずやめだ。
今、目の前で笑っているならそれでいい。
頬を赤くしながら「人の気も知らないで〜っ」とむくれているフェリーチェに思った。
(お前だって人の気を知らねぇだろうが)