出立
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季節は水無月の初旬。
梅雨の気配はまだ遠く、初夏の陽気が包む奥州は米沢城。
その本丸の東側にある櫓から、私は城下を見下ろしていた。
足元では若い衆たちがハラハラしながら私を見上げている。
落ちないから大丈夫だって言っているのに。
「姫様ぁー! 本当にそろそろ降りてきてくだせぇー!」
「あと少しだけ! お願い!」
米沢城にいられるのも、今日が最後。
だからこの光景を、目に焼き付けておきたい。
今日は城下もどこか浮き足立っているみたいに思える。
その理由は私も察しているけれど、やっぱり寂しいものは寂しい。
「……?」
不意に足元が騒がしくなったと思ったら、櫓の階段から兄様が顔を出した。
「ここに居たのか」と笑う表情はいつになく優しくて、柔らかい。
思えば昔からそうだった。
私に向けられる兄様のお顔はいつだって優しい微笑みで、仏頂面や人を挑発するような笑みとは違う。
「……いざ離れるとなると、恋しく思えてしまって」
「そうか。嫌なら辞めるか?」
「えっ?」
「ここに居たけりゃ、ずっと居ればいい」
私の隣で同じように城下を見下ろして、兄様はまるで夕餉の話をするかのような口振りで言った。
それが兄様の優しさであり、厳しさだと知っている。
兄様は私に対してだけ、優しい言葉で突き放す。
私の決意を知っているからこそ。
「……ううん。私、二本松に行くわ」
「ああ。それでいい」
力強い声が私の背を押す。
不意に目の前が滲んで、私は瞬きで誤魔化した。
それから隣に立つ兄様の袖を掴む。
兄様、私の大好きな兄様。
「兄様、大好きよ」
「知ってる」
「それはこれからも変わらないの。覚えておいて」
「Of course.忘れろと言われたって忘れてやらねぇさ」
「綱元を困らせちゃ駄目よ」
「急に説教かよ」
「景頼と景康のことも困らせたら駄目なの。喜多のこともよ」
「わかったわかった」
「お酒は飲みすぎないで。煙草も吸いすぎは駄目よ。鼠汁なんて二度と挑戦しないで」
「おい待て最後のは誰からだ」
「綱元と景康と景頼からよ! あの三人、本気で怒ってたんだから!」
「チッ……。OK,OK.流石にもうやらねぇよ。俺も懲りた」
食べていいものといけないものの区別がついていると思っていたのに、まさか鼠を食べようとするなんて。
いくら食用に育てたものだといっても、元々が食べられる生き物じゃないんだから、無理に決まってたのに。
逃げ出してきた三人が、厨がものすごい臭いだったって言っていたもの。
大惨事だったのは想像に難くない。
「兄様に手紙を書くわ。たくさん書くから、気が向いたら返事をしてね」
「次の文通相手は俺か。悪くねぇな、気が向いたら返事してやる」
「たまには二本松にも遊びに来てね?」
「ああ、たまにな」
これくらいの逃げ道なら、兄様も許してくれるから。
私にとっては、これで充分。
私を離れから連れ出してくれた、命の恩人。
大好きな兄様の元から、私は今日──小十郎の元へお嫁に行く。
櫓を降りた先で、若い衆たちから「心配したんすよ!」と怒られながら、屋内へと見送られた。
兄様は登り慣れているからともかく、私が櫓に登った回数なんて、片手で足りる程度。
心配をかけるつもりはなかったとはいえ、流石に反省しなきゃ。
私の部屋では既に用意も整っており、こっそり抜け出していた私を喜多までが叱ってきた。
「こんな大事な日に櫓へ登られるなど! 落ちて怪我でもなさったらどうするのですか!」
「ごめんなさい……。どうしても米沢の景色を目に焼き付けておきたくて……」
米沢城は平城だから、天守がない。
高いところから見下ろそうと思ったら、櫓に登るしかなかった。
反省しているのが伝わったのか、幸いなことに喜多の怒りはすぐに収まってくれた。
二本松からの使者はまだ到着していないけれど、それももう間もなくのこと。
喜多とミツ、ふくの三人によって小袖を脱がされ、白無垢への着替えが始まった。
遅れてしまった分の用意を急ぎながら、けれど三人の手が寸分の狂いもなく、丁寧に着付けていく。
「政宗様とお話はできましたか?」
「え?」
「月夜姫様を探しているとお伝えしましたら、お心当たりがあると申されまして。姫様のことは任せてほしいと仰せでしたので、お会いになられたものと」
「……うん。兄様に喝を入れてもらったの」
「政宗様から?」
「厳しいことを月夜姫様に仰るお方ではないと思っておりましたが……。あ、ミツ、そっち押さえて」
「はいよ。月夜姫様、締めますのでしっかりとお立ちくださいね」
二人がかりでぐっと帯紐が締められる。
……兄様は、私に厳しい言葉はかけない。
でも、厳しいことは、ちゃんと言う人だから。
「輿入れをやめてもいいって。米沢に居たかったら居てもいいって言っていたわ」
「なるほど、それは月夜姫様への良い喝でございます」
「喜多もそう思う? さすが兄様よね。私が一度決めたら曲げない性格だって知っているからこそ──その意志を曲げてもいいなんて言うんだもの」
小十郎の元へ行くと決めてからふた月あまり。
その間に私は一度だって、輿入れをやめたいなんて言わなかった。
それはもう私の中で、「小十郎の嫁になる」と固く誓っていたことだから。
だからどんなに「行かなくていい」「ここに残っていい」と言われても──否、言われれば言われるほど、私は頑として首を縦に振らなくなる。
「だから兄様はね、厳しい言葉は言わないの。厳しいことを言うために、優しい言葉で突き放すのよ」
「……ええ。政宗様と月夜姫様は、そうやって手を取り合い、支え合ってこられたのですから」
「ううん、そんなことないの。なんなら私、兄様から厳しい言葉だって言われたわ」
人取橋の戦いを終えた頃、冬の宮森城で私と会った兄様は、初めて私に向かって声を荒らげた。
私も譲れなかったから同じように怒鳴り返したけれど、あのときの言い合いは私の記憶にもずっと残り続けるんだと思う。
娘とはいえ忌み子、私の命など軽いと思っていた私に、兄様は、忌み子だとしても実の娘なのだから、父様が私を殺せるはずがないと言った。
あのやり取りがあったからこそ、私の命は私が思うほど軽くはないと知ることができた。
真っ白な打掛に袖を通し、鏡台の前へと座ると、今度は三人がかりで髪を結い、化粧を施された。
綺麗に結い上げられた髪に櫛や飾りを挿し、かつてない頭の重さに潰されそう。
その上から綿帽子を被せられれば、輿入れする武家の姫としての姿が完成した。
懐剣を帯に差し、喜多の手を借りて立ち上がる。
「さぁ月夜姫様、完成でございますよ!」
「なんてお美しい……。広間にお集まりの皆様がご覧になったら、美しさで言葉も出なくなりそうですね」
「とうとう月夜姫様もお嫁に行かれるのですね……。この喜多、寂しゅうございます……」
「泣かないで、喜多。私まで泣いちゃうの」
「ああ、それはなりません。ええ、そうですね。姫様を送り出しますまで、この喜多、目に力を込めて我慢致します」
おどけたように言ってみせる喜多は、やっぱり最後の最後まで頼もしい。
昼もとうに過ぎた頃、私は三人を伴って広間へとやってきた。
大広間からは形式的なやり取りが続いていて、当主たる兄様を上座に置き、湯目景康と屋代景頼が、二本松からの迎え役と様々言葉を交わしていた。
そっと喜多に背を押され、小さく頷いてから、広間へ入る。
まず最初に目が合った兄様は──目も口もぽかんと開いて、その右手から扇子をぽとりと落としたのだった。
梅雨の気配はまだ遠く、初夏の陽気が包む奥州は米沢城。
その本丸の東側にある櫓から、私は城下を見下ろしていた。
足元では若い衆たちがハラハラしながら私を見上げている。
落ちないから大丈夫だって言っているのに。
「姫様ぁー! 本当にそろそろ降りてきてくだせぇー!」
「あと少しだけ! お願い!」
米沢城にいられるのも、今日が最後。
だからこの光景を、目に焼き付けておきたい。
今日は城下もどこか浮き足立っているみたいに思える。
その理由は私も察しているけれど、やっぱり寂しいものは寂しい。
「……?」
不意に足元が騒がしくなったと思ったら、櫓の階段から兄様が顔を出した。
「ここに居たのか」と笑う表情はいつになく優しくて、柔らかい。
思えば昔からそうだった。
私に向けられる兄様のお顔はいつだって優しい微笑みで、仏頂面や人を挑発するような笑みとは違う。
「……いざ離れるとなると、恋しく思えてしまって」
「そうか。嫌なら辞めるか?」
「えっ?」
「ここに居たけりゃ、ずっと居ればいい」
私の隣で同じように城下を見下ろして、兄様はまるで夕餉の話をするかのような口振りで言った。
それが兄様の優しさであり、厳しさだと知っている。
兄様は私に対してだけ、優しい言葉で突き放す。
私の決意を知っているからこそ。
「……ううん。私、二本松に行くわ」
「ああ。それでいい」
力強い声が私の背を押す。
不意に目の前が滲んで、私は瞬きで誤魔化した。
それから隣に立つ兄様の袖を掴む。
兄様、私の大好きな兄様。
「兄様、大好きよ」
「知ってる」
「それはこれからも変わらないの。覚えておいて」
「Of course.忘れろと言われたって忘れてやらねぇさ」
「綱元を困らせちゃ駄目よ」
「急に説教かよ」
「景頼と景康のことも困らせたら駄目なの。喜多のこともよ」
「わかったわかった」
「お酒は飲みすぎないで。煙草も吸いすぎは駄目よ。鼠汁なんて二度と挑戦しないで」
「おい待て最後のは誰からだ」
「綱元と景康と景頼からよ! あの三人、本気で怒ってたんだから!」
「チッ……。OK,OK.流石にもうやらねぇよ。俺も懲りた」
食べていいものといけないものの区別がついていると思っていたのに、まさか鼠を食べようとするなんて。
いくら食用に育てたものだといっても、元々が食べられる生き物じゃないんだから、無理に決まってたのに。
逃げ出してきた三人が、厨がものすごい臭いだったって言っていたもの。
大惨事だったのは想像に難くない。
「兄様に手紙を書くわ。たくさん書くから、気が向いたら返事をしてね」
「次の文通相手は俺か。悪くねぇな、気が向いたら返事してやる」
「たまには二本松にも遊びに来てね?」
「ああ、たまにな」
これくらいの逃げ道なら、兄様も許してくれるから。
私にとっては、これで充分。
私を離れから連れ出してくれた、命の恩人。
大好きな兄様の元から、私は今日──小十郎の元へお嫁に行く。
櫓を降りた先で、若い衆たちから「心配したんすよ!」と怒られながら、屋内へと見送られた。
兄様は登り慣れているからともかく、私が櫓に登った回数なんて、片手で足りる程度。
心配をかけるつもりはなかったとはいえ、流石に反省しなきゃ。
私の部屋では既に用意も整っており、こっそり抜け出していた私を喜多までが叱ってきた。
「こんな大事な日に櫓へ登られるなど! 落ちて怪我でもなさったらどうするのですか!」
「ごめんなさい……。どうしても米沢の景色を目に焼き付けておきたくて……」
米沢城は平城だから、天守がない。
高いところから見下ろそうと思ったら、櫓に登るしかなかった。
反省しているのが伝わったのか、幸いなことに喜多の怒りはすぐに収まってくれた。
二本松からの使者はまだ到着していないけれど、それももう間もなくのこと。
喜多とミツ、ふくの三人によって小袖を脱がされ、白無垢への着替えが始まった。
遅れてしまった分の用意を急ぎながら、けれど三人の手が寸分の狂いもなく、丁寧に着付けていく。
「政宗様とお話はできましたか?」
「え?」
「月夜姫様を探しているとお伝えしましたら、お心当たりがあると申されまして。姫様のことは任せてほしいと仰せでしたので、お会いになられたものと」
「……うん。兄様に喝を入れてもらったの」
「政宗様から?」
「厳しいことを月夜姫様に仰るお方ではないと思っておりましたが……。あ、ミツ、そっち押さえて」
「はいよ。月夜姫様、締めますのでしっかりとお立ちくださいね」
二人がかりでぐっと帯紐が締められる。
……兄様は、私に厳しい言葉はかけない。
でも、厳しいことは、ちゃんと言う人だから。
「輿入れをやめてもいいって。米沢に居たかったら居てもいいって言っていたわ」
「なるほど、それは月夜姫様への良い喝でございます」
「喜多もそう思う? さすが兄様よね。私が一度決めたら曲げない性格だって知っているからこそ──その意志を曲げてもいいなんて言うんだもの」
小十郎の元へ行くと決めてからふた月あまり。
その間に私は一度だって、輿入れをやめたいなんて言わなかった。
それはもう私の中で、「小十郎の嫁になる」と固く誓っていたことだから。
だからどんなに「行かなくていい」「ここに残っていい」と言われても──否、言われれば言われるほど、私は頑として首を縦に振らなくなる。
「だから兄様はね、厳しい言葉は言わないの。厳しいことを言うために、優しい言葉で突き放すのよ」
「……ええ。政宗様と月夜姫様は、そうやって手を取り合い、支え合ってこられたのですから」
「ううん、そんなことないの。なんなら私、兄様から厳しい言葉だって言われたわ」
人取橋の戦いを終えた頃、冬の宮森城で私と会った兄様は、初めて私に向かって声を荒らげた。
私も譲れなかったから同じように怒鳴り返したけれど、あのときの言い合いは私の記憶にもずっと残り続けるんだと思う。
娘とはいえ忌み子、私の命など軽いと思っていた私に、兄様は、忌み子だとしても実の娘なのだから、父様が私を殺せるはずがないと言った。
あのやり取りがあったからこそ、私の命は私が思うほど軽くはないと知ることができた。
真っ白な打掛に袖を通し、鏡台の前へと座ると、今度は三人がかりで髪を結い、化粧を施された。
綺麗に結い上げられた髪に櫛や飾りを挿し、かつてない頭の重さに潰されそう。
その上から綿帽子を被せられれば、輿入れする武家の姫としての姿が完成した。
懐剣を帯に差し、喜多の手を借りて立ち上がる。
「さぁ月夜姫様、完成でございますよ!」
「なんてお美しい……。広間にお集まりの皆様がご覧になったら、美しさで言葉も出なくなりそうですね」
「とうとう月夜姫様もお嫁に行かれるのですね……。この喜多、寂しゅうございます……」
「泣かないで、喜多。私まで泣いちゃうの」
「ああ、それはなりません。ええ、そうですね。姫様を送り出しますまで、この喜多、目に力を込めて我慢致します」
おどけたように言ってみせる喜多は、やっぱり最後の最後まで頼もしい。
昼もとうに過ぎた頃、私は三人を伴って広間へとやってきた。
大広間からは形式的なやり取りが続いていて、当主たる兄様を上座に置き、湯目景康と屋代景頼が、二本松からの迎え役と様々言葉を交わしていた。
そっと喜多に背を押され、小さく頷いてから、広間へ入る。
まず最初に目が合った兄様は──目も口もぽかんと開いて、その右手から扇子をぽとりと落としたのだった。