タイトル未定




 松本は寝返りを繰りかえしていた。布団にはいってから右、左と何度向きを変えたかわからない。すでに自分で定めた就寝時間はとうに過ぎていて、いい加減うんざりして頭まで潜らせていた布団を勢いよくはいだ。首にひやりとした風が通り過ぎ、こもった熱を連れていく。
 
「……はぁ」
 
 脳は起きていても体は疲れきっていて、明日も朝練があるのに……と鬱々としながら部屋を出て、重い体を食堂に向かわせる。静まりかえった廊下に室内用サンダルの音がペタペタと呑気に響く。
 松本は、自身が通う山王工業高校の正面にある下宿で世話になっている。高校の敷地内にある寮ではなくこの下宿を選んだのは、リフォームされたばかりで共同のトイレや風呂が綺麗だったからだ。夏はウォータージャグを自室に置いていたが、お盆を過ぎて涼しくなってきてからは、のどが渇けばこうして食堂に出向くようになっていた。
 十月ともなると秋田の夜はすっかり寒い。コンクリートの硬い床はサンダル越しでも冷たく感じて、松本はトレーナーの上から腕をさすった。
  
 こんなに眠れないのはいつぶりだろうか。
 憧れの山王バスケ部の見学をしたあの日、ここでバスケがしたいと切に思い、練習に励む先輩方の姿が頭から離れず眠れなかった。入学が決まったときも、白のユニフォームを着た自分がコートのなかでシュートを決める姿を想像しては、胸が弾んで眠れなかった。それ以来、実に半年ぶりだった。
 松本からすれば、この半年はあっという間だった。
 ついていくのがやっとの厳しい練習に耐えかねて辞めていく部員。夏の合宿では、逃げないと死ぬ……とみんなで脱走の計画をたてたが、結局松本は逃げなかった。かっこいい理由なんてない。実行前にトイレで会った先輩に用事を頼まれ、逃げそびれただけだった。
 それも今では、逃げそびれてよかったと思えるほどには、厳しい練習にやりがいを感じている。入学前に想像していた自分のユニフォーム姿は、着実に近づいてきていると思っていた。今日までは――。
 
 何の気なしに窓に目をやると、松本自身の沈んだ顔と、その奥には灰色の雲で覆われた空。まるで自分の気持ちと重なっているようで、松本は立ち止まりぼんやりと外を眺めた。
 雲が風に流され、雲間から下弦の月が顔をのぞかせた。冴えない空に浮かぶ薄黄色のはっきりとした輪郭をみて、よからぬことが頭を過ぎる。どくん、どくん、と鼓動がはやくなっていく。
 あれ・・がみたい……でも……だって……。
 思考を巡らせているうちに、月はふたたび雲に隠された。松本は詰めていた息をほっとしたように吐き出し、ふたたび食堂に足を進めた。 
 食堂は消灯されていて、当然誰もいない。明かりをつけるのは気が引けて、暗いなか食器棚からコップを取り出し蛇口をひねる。水を二杯飲み、のどの渇きは解消したが、眠れる気はしなかった。むしろ目が覚めてしまった気さえする。しかし、寝なければ……諦めて部屋に戻ろうとしたとき、勝手口が目に止まった。
 
『おばちゃん、ここの鍵閉まんねぇ』
『そうなの、壊れちゃってねぇ。週明けに直してもらうから』
 
 つい昨日のやり取りだ。
「危ない人なんて、でないだろうけど」ごめんねと、申し訳なさそうに笑っていたおばちゃん。 
 勝手口に吸い寄せられるように近づき、ドアノブに手をかけた。時刻は十一時三十分を指していて、門限の時間は過ぎている。爆発しそうな心臓を抑えるように胸に手をあて、何度も後ろを振りかえった。
 おばちゃんごめん。心でつぶやき、扉を開けた。
 
 共有の外用サンダルをつっかけて、早足に歩く松本の息は弾んでいた。トレーナーと下はジャージ、裸足にサンダルの格好で寒いはずだが、気にも留めなかった。息をするたび秋の空気が身体を巡り足取りが軽くなる。
 外灯の少なく歩道もない道を、松本は迷いなく突き進んでいく。こんな時間に好んで通る人間は他にいないだろう。ひび割れたアスファルトの隙間からは雑草が生えている。たまに顔をみせる月が空き地を照らし、生い茂るススキが風になびく。まるで踊ってるようだった。 
 みえてきた突き当たり手前の古びた建物。雑草が這うブロック塀に囲まれていて、数年前まで老夫婦が二階に住み、一階の店舗で駄菓子屋を営んでいた。その店舗のガラス戸に、松本が下宿を抜け出してまでみたかったあれ・・が――日に焼けて色あせた往年の演歌歌手のポスターが貼ってある。笑顔で拳を握る男性の目が半月のような形をしていて、それが今日の月と重なった。
 曲を聴いたこともない演歌歌手だったが、松本はポスターを見るたび握る拳の力強さに励まされた。だから、どうしても、見たかった。
 
「え」
 
 駄菓子屋が間近に迫り、松本は顔を曇らせた。
 二階の窓から、人工的な明かりが細く漏れている。最後に訪れた二週間前には、窓越しに室内の剥がれた壁紙がみえていた。誰も住んでいない。はずだった。
 あのポスターはどうなったのか確かめなければ……そんな衝動に駆られた。いつの間にか灰色の雲は消え去っていて、濃紺の夜空にまばゆいほどの星が散らばっている。その星に囲まれた月に後押しされるように、松本はゆっくりと一歩、踏み出した。サンダルとアスファルトが擦れて、小さな石が弾みで暗闇にのまれていった。足もとを照らすのは点滅している外灯と月明かり。 
 建物の正面に来てみれば、ポスターは剥がされて、ガラス戸にセロハンテープのあとがうっすら残っている。松本は呆然とする間もなく、白のセダンが停まっているのに気がついた。この車には見覚えがあった。もしかして。と胸騒ぎがするのを、まさか。と必死に否定した。しかしざわついた気持ちは収まらず、思わず胸もとを握りしめる。ここにいたらまずいと、後ずさったときだった。窓が開き誰かが顔を出した。
 なんてタイミングの悪さだろうか。逆光になっているが、その人物が誰なのか松本はほぼ確信していた。幸いというべきか、空を見上げていて気づいていない。そのまま後ずさろうと息を殺した。
 
「誰だ?」
 
 こんなにあっさりと終わりを迎えるなんて。似合わないことはするもんじゃないと心底思った。背中からはじわじわと汗がにじみ、鼓動が鼓膜まで響いている。俯いたまま、瞬きもできない。
 
「……松本か?」
 
 聞き慣れた声だ。普段は笑顔を絶やさない先輩の表情をも歪ませる力をもつ低い声。ぎこちなく顔をあげると、影がこちらを見下ろしている。
 
「……はい」
 
 松本は声を絞りだした。開け放たれた窓の奥には、剥がれた壁紙ではなく棚が置かれていた。
 
「裏に階段があるから、あがって」
 
 松本は車を横切り建物の裏にまわった。一段、二段、三段と階段をのぼる。まるで処刑台に向かう囚人の気分だった。どのように裁かれるのか。逃げだしたい、と松本は思った。
 ドアが開く音が頭上から聞こえ、赤みを帯びたオレンジ色の照明で足もとが明るくなった。松本は俯いたまま踊り場までのぼりきり、ゆっくりと顔をあげた。
 サンダル、ベージュのスラックス、茶色のベルト、紺のポロシャツ。張りだした喉仏、引き結ばれた口、整えられた髭、角度のついた眉、刺さるような鋭い視線。松本が所属するバスケ部の監督を務める堂本五郎が、腕組みをして待ち構えていた。 
 名門と呼ばれる山王工業高校バスケ部において堂本という存在は、いるだけで部員達の気が引き締まる。涼しい顔で過酷な練習を課せては常に部員に目を配り、なにかあれば、怒声を浴びせることはないが徹底的に指導する。そんな人物にみつかってしまっては、逃げだせるわけがない。
 夏の合宿で逃げそびれ、結果よかったと思えたように、今日のこともいつか、よかったと言える日がくるのだろうか――。
 
「入りなさい」
「……はい」
 
 堂本の視線にうながされ、松本は震えそうな脚に力をこめて玄関に足を踏みいれる。
 温かみのある色は人の心を穏やかにするとテレビでやっていたな……と、こんなときに思い出した。しかし堂本はその真逆にあった。練習中に怠惰な部員をみつけたときのような目で、松本を射すくめる。部屋に入るよう顎で指示され重たい脚を動かせば、板床が軋む音に、背後で玄関の鍵のかかる音がした。
 人を穏やかにするなんて嘘っぱちな電球色とは違い、居間には色をもたない光が広がっている。太陽光に似た色に晒された松本の表情は、人生の終わりといわんばかりに血の気が引いて青白い。
 もうすぐ日付けが変わり、新しい一日がはじまろうとしている。しかし松本の一日はまだ終わりそうもなかった。

 
 いたるところに積み重ねられたパンダのイラストが描かれたダンボールに、居場所の定まっていない物が床に置かれた雑多な空間は、引越したてであることが見て取れた。
 
「まだ片付いてないんだが……そこ、座れ」
「……はい」 

 堂本は髭を触りながらテーブルとベッドの間に視線をやった。松本の声は聞こえなかったかもしれない。それほど細く掠れていた。 
 言われたとおりに腰をおろすと、すぐ隣でにっこりと笑うパンダが、まるで自分をせせら笑っているように松本は感じた。カーテンが揺れて冷たい空気が入りこみ、汗ばむ体にまとわりついた。心音は壁掛け時計の秒針よりもはやく刻んでいる。
 
「こんな時間になにしてた?」
 
 堂本は変わらず髭を撫でながら、壁にもたれ薄目で松本を見下ろした。
 
「……すみません……」
「答えになってないぞ」
「……すみません」
「あのなぁ」
 
 この言葉しか出てこなかった。松本は、棘のある瞳から逃れるように太ももに置いた自分の拳を凝視して、置物のように固まった。
 互いに言葉を発することなく、どれだけ経っただろうか。息苦しい時間。黙ってやり過ごそうとしているわけではなかった。ただ重い空気に呼吸をするのがやっとだった。
 堂本がため息をつき、冷えた汗が凍りつく。
  
「腹減ってないか?」
 
 予想していなかった台詞に思わず視線をあげた。その先には、あくびをしながら両腕をあげ体を伸ばす堂本がいた。変わらず松本を見下ろしてはいるが、棘は感じない。
 
「飯まだなんだ。お前も食べないか?」
 
 返事のまえに堂本はダンボールの奥にある台所に向かった。戸棚からインスタントラーメンを手に取り「なにかあったかな」と言いながら冷蔵庫を物色している後ろ姿は、松本の知る堂本ではなかった。
 
「すぐできるから、待ってろ」
「……はい」
「よし」
 
 振り向きざまにみた顔は微笑んでいて、聞いたことのない、撫でるような柔らかい声だった。
 咎められる覚悟でいたからか、肩透かしを食らった松本の視線はあちらこちらとさまよった。開けられていないダンボールや床に物が置かれているなか、バスケ関連の物だけはすでに居場所を見つけていた。誇らしげに棚のなかで整列している。
 鼻をくすぐるにおいで空腹感に襲われる。それを紛らわすように、背中の定規が弓なりになるほどに背筋を伸ばし膝を正した。堂本を目で追うと、冷蔵庫から缶ビールを取りだし飲みながら鍋を見守っている。機嫌がいいようにも感じるが、油断はできないと松本は眉をひそめた。これは古い刑事ドラマにありがちな取調室のカツ丼で、きっと気持ちを和ませ自白を誘導する作戦だ。
 
「できたぞ」
 
 かき玉ラーメン、と目の前に置かれた丼には、麺の上にふわふわの卵がのっている。透明のグラスに麦茶が注がれ、波立つ表面から一滴跳ねた。
 松本の正面に座り「卵しかなかった」と片側の眉を歪ませて堂本は苦笑した。二つの重なる湯気の先にそれをみて、松本は目を見開いた。
 そんな顔はみたことがなかった。これも、作戦なんだろうか。
 
「はやく食わないと麺のびるぞ」
「は、はい! いただきます!」
 
 ふわふわの卵と麺を一緒に口にふくんだ。深夜に食べるラーメンなんて美味いに決まっている。熱さが胃にひろがっていき、凍りついて強ばっていた身体が少しほぐれた。
 松本はさりげなく湯気の先をみた。いつも整髪料で整えられている髪の毛は、重力に耐えきれず前髪がまばらに垂れ下がっている。見慣れている顔なのに、雰囲気が違うだけで別人のようだ。
 
「そんなに緊張するな。怒ったりしないから」
「っ! はい、すみません」
 
 間違い探しをするようにみつめてしまっていたようで、松本は慌てて視線を逸らした。
 
「だから、謝らんでいい」
「……はい」
 
 勢いよくグラスの中身を飲み、すみませんの言葉を体の奥に流しこむ。空になったグラスに堂本が麦茶を注ぐと気泡が浮かび、大きい泡は弾けて消えて、小さい泡はコップの内壁に集まっていく。
 
「まあ、無理だよな」
 
 そうつぶやいた堂本の口もとには笑みが浮かんでいた。
 真面目に過ごしてきた松本は、堂本に個人で叱られたことはないが、他の部員にとことん言い聞かせたり、先輩達ですら恐れる様子を目の当たりにしてきた。そんな人物と二人きりで、緊張しないはずがない。しかし今この空間で、この目の前の、目尻にしわを寄せて満足気な表情でビールを飲む堂本を見ていると、身構えているのがばからしくも感じてくる。 
 早々に食べ終えた堂本は、頬杖をついて松本の食べる様子を眺めている。頬をぐにゃりと歪ませてあくびをする姿は、退屈な授業を受ける子供のようだ。
 
「……あの」
 
 松本は居心地が悪くて困ったように眉を下げた。
 
「ん? どうした?」
「見られてると食べづらい、っす」
 
 きっと多分、怒りはしない。でもまだ言葉にするには気が引けた。
 
「そうだな、ふっ、悪い」
 
 堂本は目を丸くしてから笑い、丼を持って立ち上がった。
 はやく食べなければと松本は箸を進め、喉に詰まりそうになり慌ててグラスに手を伸ばす。
 
「今日、どうだった?」
 
 台所にいる堂本の表情はわからない。麦茶が喉を通り過ぎる。水滴が正座した太ももにぽたりと落ちて広がった。今日というのは、きっと――。
 
「沢北、どうだった?」
 
 揺れる松本の瞳を、振り向いた堂本の瞳が捕まえた。逃げることができなくて、胸のあたりが締めつけられる。
 
 毎年なにをしなくても優秀な部員は入ってくるが、監督自ら誘うほどの実力をもつ選手はそういない。
 今日、部活の練習に初参加した沢北は中学生とは思えない実力で、誰よりも上手くて、自由だった。はじめは驚き、次に感服、そして、敗北感。松本が順に感じた気持ちは劣等感となり、そんな感情をもった自分が嫌だった。努力するのみとわかっていても、黒い感情が次々と襲ってきた。沢北のまるで一人でバスケをしているような姿にも、納得がいかなかった。飯を食べても飲みこめなかった劣等感と、風呂でも流れ落ちなかった嫉妬心は、布団のなかの暗闇で松本を追いつめた。 
 この場所は、調書室。カツ丼代わりのラーメンで弱った心を揺り動かして、温情を施し自白を誘う。
 
「沢北……驚きました。あんな奴いるんだって……でも」
 
 あんなの、上手いだけで。認めたくなかった。 
 気づけば堂本は見慣れた監督の顔をしていて、松本から視線を逸らさない。きっと全てをわかっている。多分、怒りはしない。慰めてくれるのか助言してくれるのか。どちらにしても、話せばきっと楽になる。吐き出したかった。
 
「でも?」
 
 わずかな沈黙のあとに堂本が続きを求め、その監督の顔に、松本はある文字が頭に浮かんだ。
 体育館に高々と掲げられた「一意摶心」の横断幕。それを教え導く監督と、体現する部員達。
 弱音を吐いて立ち止まっていても前には進めない。ひたすら自分の気持ちに向きあい、前に進むしかない。
 ぶつかる視線のなかで、松本は薄く開いていた唇を真っ直ぐに強く結んだ。
  
「……いえ、なんでもないです」
 
嫉妬の感情は、一意摶心が刻みこまれている限り声にすることはない。ここで捕まるわけにはいかなかった。
 
「……そうか。来年になったら、面倒みてやれよ」
 
 堂本は口角をゆるく上げて笑った。この顔には見覚えがある。
 練習中の堂本は常に部員に目を配り、なにかあれば努力を認め、惜しげも無く言葉にして評価する。普段は厳しく指導を受ける先輩達も、このときばかりは報われたような、喜びを噛み締めるような顔になり、それを見守る堂本の表情もまた、嬉しそうだった。

「……はい」
 
 自分に対してはじめて向けられた表情に、松本は視線を宙に泳がせた。体の熱が温度を増していく。部屋の照明で光るスープの脂ですら、今の松本には眩しく感じた。
 部屋中のパンダがにやにやと笑うなか、時計の針は着々と仕事をこなしている。
 
「そろそろ帰らないとな。松本、お前寮か?」
「いえ、正面の下宿です」
「ああ、そうだったか。抜け出したりして……おばちゃん困らせるなよ。ほら、もう帰れ」
 
 そう話す堂本は、呆れたように右手で目頭を押さえ、わざとため息をついた。
 
「っはい、帰りま――」
 
 ドサッと大きな音をたてて松本は倒れこみ、それを真新しいカーペットが優しく受け止めた。
 この部屋に連行されてから崩すことなく正座していた足は、痺れて立ち上がることもままならない。涙目で悶えていると吹き出すような笑い声がした。人の気も知らないで……そう思い松本は堂本を恨めしそうに見上げると、眉尻をさげ、口もとを隠していた。しかしすぐに堪えきれないといったように歯をみせて笑った。
 はじめて見る表情に、松本は瞬きを忘れてしまうほど見入ってしまった。そんな顔をするなんて知らない。やはり、ここは居心地が悪い。

「すまん、立てるか?」
 
 堂本は松本に近寄り、目の前でしゃがみこむ。
 その顔に月が浮かんでいた。間近に浮かんだふたつの月は、柔らかな曲線で優しく微笑みかける。片手で頬杖をついて、もう片方の手には缶ビール。ひと口飲んで、液体が堂本の喉を通る音がした。
 
 玄関のドアに、あれ・・がマグネットで貼られていた。破れた角はテープで補強されていて、色あせていても、やはり握る拳は力強い。半月目の演歌歌手が、こちらに笑顔を振りまいている。
 
「……これ」
「これか? 好きなんだよなあ。このポスター」
「あ、俺も好きです。なんか元気になるっていうか……」
「そう! そうなんだよ。松本も好きか」
 
 堂本は仲間をみつけた子供のように、真っ直ぐな笑みを松本にむけた。
 
「みんな胡散臭いって言うけどな」
 
 その顔はさすぐに、いたずら好きの子供のような顔にかわった。
 その顔も、はじめて知った。話しかたも酒の仕業かゆるやかで、オレンジ色に照らされた子供のような大人をみて、松本は「電球色は人を落ち着かせるなんてやっぱり嘘だ」と、ぼんやり考える。
 玄関を出て頭を下げると「あ」と思い出したように堂本が声を出し、松本は顔をあげた。
 
「松本は大丈夫だよ、自信持ちなさい」
 
 月の真ん中の黒い瞳が眩しくて、松本は目をそらすように「ありがとうございました」と深く頭を下げた。
 無罪を勝ちえた囚人は、疲労と高揚感が入り混じるなかで、一段、二段、三段とゆっくり階段をくだった。まるで身体の奥から熱がどんどん沸きあがるようだった。
 下宿までの帰り道。ひび割れたアスファルトも、空き地のススキも松本の視界には入らなかった。腹を撫でるとふわふわの卵を思い出し、空から見守る月を見上げれば、自然と口もとが緩んだ。
 別になにか解決したわけじゃない。明日からの練習も逃げ出したいほど辛くて、きっと、これから幾度も劣等感や嫉妬心と向きあうことになる。それでも、月明かりが照らすなら。
 厳しいだけの監督はもう松本のなかには存在しない。子供みたいな大人を思い出し、今さら笑いがこみ上げる。松本は薄暗い道を早足で歩いた。
 



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