短い話まとめ

道しるべ



 
 三月上旬、気温は十度を下回り、汚れた雪が道路や軒下に依然として多く残っている。雨予報であったものの、今の時点で降雨は見られない。そんな状況下、山王工業高等学校の卒業式は執り行われる。

「はぁ。やっと肩の荷が降りますな」
「今年は問題児も多かったですからねぇ」
 朝からそんな雑談を耳にしつつ、式の最終確認を終えると息つく間もなく校門へ向かった。
 歩きながら袖を通した上着は若い頃に奮発して購入したもので、この歳になっても変わらず品良く見せてくれて気に入っているものの、いささか重い。年に数回着るか着ないかの代物を探し回る時間も気力もなく、着る度に来年は買い換えようと思いながら後回しにしていた。
 ふと玄関先の鏡に映った冴えない表情に、自分のことながら驚いた。
 自らの仕事に加え、式の打ち合わせやリハーサルで日増しに溜まっていった疲労が顔に出ている。ほかにも思い当たる節があるにはあるが、あくまでも個人の問題だ。門出を祝う場に相応しくないと表情を引き締め、玄関先で革靴を履き、ネクタイを正す。

 外は雨が降っていないとはいえ厚い雲に覆われていて、見上げた空に気霜きじもがのぼる。いつもの癖で口許くちもとに触れるが、馴染んだ感触はない。吹きさらす風が慣れない素肌に冷たかった。
 登校してくる生徒を校門から玄関までの途中に立って出迎えていると、太く低い男子の声に女子生徒の華やぐ声が明るく重なる。

「おはようございまーす」
「おはよう。最後の挨拶くらいしっかりしなさい」
「ゴローちゃんに会えなくなるの寂しくて泣いちゃう〜」
「バカ言ってないでほら、早く行きなさい。最後の一日、楽しんでこいよ」 
 高校生活を無事終える喜びや達成感から、皆の顔は晴れやかだ。
 保護される立場の子供から自立した大人へ向けての大切な移行期間であり、思春期の混乱のなか、心身ともに大きく成長する三年間。それを見守ってきた立場であるがゆえ、普段から気さくに話しかけてきていた生徒が深々と頭を下げて、感謝を伝えてくれたときには胸が熱くなった。
 やんちゃばかりだった生徒と固い握手を交わしていると、見覚えのある集団が目に留まった。男子ばかりの工業高校のなかで、一際飛び出た身長の多いバスケ部、元部員達。
 三学期は登校することがほぼないため、二月の卒業式の予行練習以来の登校だ。寮や下宿に世話になっていた者もすでに引き払っていて、苦楽を共にした仲間との再会に浮かれているのか、ほかの生徒同様、楽しげに近づいてくる。その数名のなかに、松本の姿もあった。
 いつ気がつくだろうかと待ち構えていると、部員の一人がこちらの存在に気づき、周りに伝えたのだろう。私を見るなり、不揃いで歩いていた歩幅が整い笑顔が消えて、まるで試合前の顔つきに変わった。それにならい胸を張り、後ろで手を組んで迎えてやる。

「おはようございます!」
 どこまでも響きそうな声量に、顔がほころびそうになる。毎年のことだが、幾度となく見てきたつむじも今日で見納めだと思うと、感慨深いものがあった。

「おはよう。楽しそうなのは構わんが、あくまでもバスケ部であることは忘れるなよ。最後まで恥じない姿で臨むように」
「はいっ!」
 入部してまずはじめに伝えた言葉であり、うんざりするほどに聞かせてきた言葉でもある。もはや言わずとも分かっているだろう。しかし、巣立ってゆく教え子に、指導者として伝えるべきこと、教えるべきことはもうなにもなかった。
 今年の三年生はとくに優秀で、自ら考え動き、たった一度きりの敗戦を除き、周囲が求める結果を出してきた。
 今でも鮮明に思い出される夏の苦い記憶を乗り越え、あの日かけた言葉通り這い上がってきた彼らを、この寒空の下、順に見ていく。
 入学当時には期待と不安の色を浮かべていた少年達は、今では自信に満ちた顔をして、瞳は希望に溢れている。
 そんななか、ひとりだけ鋭い眼差しを向けてきていた松本に対しては流し見るに留め、隣の一之倉に視線をやるとその薄い口が開いた。

「先生、ひげ剃ったんですね」
「ん? まぁ、な……ほら、もう行きなさい」
 今日、何度目のことだろうか。気分が滅入りそうになりつつ、言葉を濁して歪む口許を手で隠した。校舎に向かうよう視線で促すと、部員達はふたたび深く頭を下げて去っていく。
 気温一桁にも関わらず防寒着を着ない男子高校生達の美意識が、視界に眩しい。もちろん松本もそのひとりで、着倒したことで光沢の出た学生服の背中を目で追った。
 寒さから赤く染る耳、マフラーで覆われた白い首、短く刈り上げられた丸い頭、学生服の下に隠された均整の取れた体。松本が一歩進むごとに離れていく距離に、名状しがたい気持ちが押し寄せる。
 大きく吐いた息が白く霞んで、後ろ姿が一瞬ぼやけた。今日、松本は卒業する。


「お、今から体育館ですか。今年もあれが見られるんですね」
「はは、からかわないでくださいよ」
 上着を置きに一旦職員室へ戻り、同僚とそんなやり取りをした。各教室からの賑やかな声を聞き流しつつ、体育館へと向かう。
 受付に立ったこともあるが、感謝を伝えたいと考える保護者が列を成して以来、校内の案内役という名ばかりの役割を与えられていた。他の来賓者の迷惑にならぬようにと学校側の配慮だ。
 体育館に入り隅に位置取ると今年も案の定、バスケ部員達の保護者が挨拶に訪れて、ちょっとした列を作った。手をあわせて頭を下げる父母もいることから、職員室では毎年「バスケ部父母によるお礼参り」と話のネタにされていた。生徒からのお礼参りにかけた冗談のようなものだが、私からしたら大切な子供達を任せてもらったばかりか、労いの言葉をかけてくださることは、ありがたいことでしかなかった。

「うちの子があんなに頑張れたのは、ほんっとに堂本先生のおかげ! ありがとね!」
「いやぁ、私も沢山学ばせてもらいましたよ。こちらこそありがとうございます」
 おめでとうございます。ありがとうございます。いえいえこちらこそ。感謝の意を込めながらも同じ会話をこなし、徐々に列が短くなっていく。二組後ろの河田の両親に隠れていたが、最後尾に松本の両親の姿があった。
 視界の端に見つけた時点で覚悟はしていたが、近づいてくるほどに鼓動は激しく、全身に響いていた。笑顔を作り直し、顔に貼り付ける。

「堂本先生」
 いざ順番がきて向きあうと、情けないが思わず膝が震え出しそうだった。暖房の当たらない体育館の隅で、嫌な汗が背中を伝う。前で手を組み、爪が皮膚にくい込んで痛いほどに固く握った。

「朝からお会いできて良かった。息子が大変お世話になりました」
 よく知る顔にそっくりな男性が言った。怜悧な表情や、性格を表すように真っ直ぐ伸びた背筋がよく似ている。隣では、柔らかな雰囲気の女性が微笑んでいる。

「松本さん。本日は稔君のご卒業、おめでとうございます」
 深く、深く頭を下げた。できれば、このままやり過ごしてしまいたいとすら思ってしまう。

「ふふ、ご丁寧にありがとうございます。やだもう先生ったら、頭を上げてください」
 内心は恐る恐る、しかし毅然たる態度で頭をもたげると、松本の母親は雰囲気そのものの柔らかな笑顔を見せていた。この表情にも、見覚えがあった。まさに、松本はこのふたりからなっていると実感せざるを得ない。

「先生のおかげで、充実した学生生活だったと聞いてるんですよ」
 先生のおかげで、という言葉にきっと深い意味はない。それでも勝手に見透かされたような気持ちになり、鳴り止まぬ心臓が、より大きく脈打った。はたして笑えているだろうか。

「いえ、彼の努力あってこその三年間です。私はサポートをしたに過ぎませんから」
 本心からの言葉だったが、両親を前にただの男になってしまわぬよう、威厳ある空気を何重にも纏わせる。
 良心を捨てて得られた幸福のためなら、いくらでも偽わろう。
 そう開き直ってみると、あれほど騒がしかった拍動は落ち着きを取り戻した。だが、握った手の痛みだけは変わらなかった。


 厳かな雰囲気のなか式は進んだ。入場の際には我が子を追って保護者の視線が動き、今まで注意されてばかりいた生徒も胸に花を飾り、列からはみ出すことなく参加していた。
 深く関わったバスケ部員達の堂々とした立ち振る舞いには自然と顔がほころび、同時に誇らしい気持ちが湧き上がる。厳しい練習に耐え抜きやり遂げた経験は、いつか挫けそうになったときの支えになるだろう。
 そんななかでも、贔屓目だろうか。教員席から見る松本の姿は、誰よりも凛としていた。
 呼名に返事をする声は、冬の早朝のように鋭くも澄んでいて耳に心地よく、壇上で卒業証書を受け取る真摯な姿には心が震えた。
 すべてが恋しく、愛しく思う。しかし今は、誰よりも近いはずが誰よりも遠く感じ、そばにいたいのに離れていくような、そんな気がした。
 松本、と、声に出さず呼んだ。曇りなき眼差しは真っ直ぐ前を向いている。
 松本、と心で思う。よそ見をすることも振り返ることもなく、歩みを進めていく。 
 震える心は痛みだし、松本から目が離せないまま視界が歪みそうになった。手探りでジャケットの内ポケットからライトグレーのハンカチを取り出し、無理やり視線を外した。記憶を引き出しながら、ストライプの柄に沿って指で撫でる。二年前、肩に雪をのせながら部屋に訪れ渡された誕生日祝いは、いとも簡単に当時へ引き戻す。
 はにかんだ笑顔やひたむきな好意、すべてが幼かったあの頃から、随分と成長したように思う。同じ高さだった目線は見上げるようになり、抱きとめる細い身体はいつしか収まらなくなっていた。まだまだ大きくなるだろう。
 ハンカチを左胸の内ポケットにしまいジャケットの上から一撫ですると、気持ちが少し落ち着いた。あくまで見送る立場だということを、忘れてはいけない。
 卒業という祝福すべき日に相応しい表情を作り直し、ふたたび生徒達に目を向けた。

 
  ◇


 仕事を終えて家に帰ると、松本がいた。
 玄関に行儀よく揃えられた靴で来ているのは分かってはいたが、夜にもかかわらずメイン照明をつけず、ベッドサイドのライトが部屋の一部を照らしているだけだった。

「あ、おかえりなさい」
 間接照明でオレンジ色に照らされた松本は相好を崩し、手に持っていた本を閉じてテーブルに置いた。コーヒーを飲んでいたのだろう、コクのある香りが部屋に漂っていて、目に入ったマグカップの中身は深い茶色で染まっている。
 卒業式で顔を合わせたのが二週間前、ふたりで会うのは、三週間ぶりだった。今までならばその笑顔に心温まるばかりだったが、なぜか胸のあたりが苦しく感じ、思わず目を逸らした。 

「電気くらいつけなさい。目悪くするぞ。いつから来てたんだ? これじゃあ寒いだろ」
 返事を待たずまくしたてるように話し、電気をつけてストーブの設定温度を上げた。そのまま手を洗いに行こうとしたとき、松本の手が伸びてきて、上着の裾をつかんだ。白く明るくなった室内で、四つん這いの姿勢で見上げてくる松本と視線がぶつかる。

「おかえりなさい」
「……ただいま」
 裾をつかんで離さない松本が、なにを言いたいのかは分かっていた。きっと同じことを考えている。だが、なぜかそうする気にならなかった。

「手洗ってくるから」
 そう言うと、なにも言わず松本は手を離した。


 洗面所で手を洗いながら、香ばしい香りとマグカップに注がれた深い色、そしてそれを飲む松本を思い浮かべるが、まったく想像がつかなかった。牛乳を足しながら「香りは好きなんですけどね」と口を尖らせる松本や、触れあわせた唇が離れたときの「やっぱり苦い」と笑う松本しか、私は知らない。
 こうして会わない間に、知らないことが増えていくのだろうか。新たな環境に馴染み、いつかこの部屋で過ごした時間が過去になっていくのだろうか。
 ハンドソープの泡がすべて流れ落ちても流水で手を流し続けた。それでも感傷じみた考えは消えてくれなくて、手はどんどんと冷たくなっていく。

「学校で……なにかあったんですか?」 
 声をかけられ我に返り顔を上げると、卒業式のあの日から取り残されたままの自分が、正面の鏡に映し出されていた。松本は洗面所のドアから顔だけのぞかせて、気遣わしげにこちらの様子を伺っている。

「顔に出てたか。まあ、いろいろな」
 心配だけれどかまって欲しそうな態度はよく知った通りの松本で、自然と口許がほころんだ。

「いろいろって?」
 密度の濃いまつ毛が寂しそうに揺れる。

「……いろいろだよ。さっきはすまん。ほら、おいで」
 手を拭いてドアの方へ体を向ければ、松本の憂いを帯びた瞳はぱっと明るくなり、いそいそと近寄ってくる。腰を抱かれ、お返しに冷えた手で頬を包むと松本は目を細め、嬉しそうに笑った。

「ぐは、冷てぇ」
「よーく洗ったからな」
 たかが三週間、されど三週間。ふたりで会える時間が少なくとも、ほぼ顔を見ない日はなかった毎日が、どれほど幸せなことだったのかを思い知る。
 視線を重ねながら頬を引き寄せると鼻先があたり、擦りあわせて戯れる。「会いたかった」の言葉にはキスで応えて、まるで松本の苦味をすべて舐めとるように、まるでこの瞬間を刻むように角度を変えて舌を激しく絡ませた。恋しくて愛しくて、手離したくない。
 松本の頬から体温が伝わり、いつの間にか手は温まっていた。その手を松本の着ているシャツの隙間に潜り込ませ、鎖骨を撫でる。

「んぅ……っあ?!」
 松本はなにか思い出したような声を上げて、きつく抱き締められていた体が突然解放された。

「どうした?」
「すみません帰らないと! 終電!」
 頭をがしがしと掻いて、松本は慌てて居間に向かい帰り支度をはじめた。飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、渋い顔をする。

「間にあいそうか?」
「走れば多分いけます! 大丈夫です!」
 時間が迫り急いでいるため当然ではあるが、こちらを振り返らずに返事をする松本を見て、このまま帰してしまっていいのか? と心のなかで葛藤が生まれた。次はいつ会えるのか分からない。引越し、入学、新生活と怒涛の日々を送っているうちに、会いたいことすら忘れてしまうのではないか――。情けない感傷に抗いたくて、少しでも長く一緒にいたい。そう思った。

 
  ◇


「え?! 車で?!」
 松本は驚きと嬉しさを顔に浮かべながら、不安の色もみせた。

「間にあうか微妙なら、はじめから送って行った方がいいだろ」
「でも、誰かに見られたら」
「心配しなくても大丈夫だ」
 実際過去に、部活に顔を出してくれた卒業生を送ったこともある。今ならいくらでも誤魔化せるだろう。片側の口角を上げていたずらに笑ってみせると、松本は少し困ったように眉を下げた。
 車に乗り込んでも落ち着かない様子で視線をさまよわせていて、緊張しているのが見て取れた。
 当然といえば当然で、部屋以外で過ごすのははじめてのことだ。ましてや車という狭く閉ざされた空間は、いやでも意識してしまうだろう。不安や期待、新鮮さや興奮といった感情が隣から伝染するように伝わってきて、つきあいたてを思い出すようなくすぐったさがあった。
 時間帯的に車通りが少なく安心したのか、住宅街と市街地を過ぎて国道に合流する頃には、松本に笑顔が見られるようになっていた。
「メガネだ」「マニュアルなんですね」「部屋とはまた違うにおいがする。芳香剤かな」「うまく言えないけど、いいですね。こういうの」「特別って感じがして」――嬉々として話し続ける恋人が可愛らしくて、心が和む。
 ほとんどの店の照明は消えていて、街灯と信号だけが街を照らした。車を南に走らせて、国道沿いの高速道路の入口を通り過ぎる。

「いつも高速乗るから、下道はじめてです」
「そんなに距離は変わらないからな」
 時間に関しては、言及しなかった。高速を使えば三十分は早く着くが、少しでも長くいられたらと下道を選んだ。露とも知らず、松本は窓の外を眺めている。日本海沿いのこの国道は、高速道路とは違って昼間であれば海の景色が楽しめるが、今はひたすらに暗闇だけが広がっていた。

「松本」
「なんですか」
「なんでもない」
「えー?」
 こっちを向いて欲しかった、とは言わなかった。近づかずに顔をのぞきこんでくる松本の頭を、シフトレバーから手を離し雑に撫でた。少し伸びた髪に、手のひらが埋まる。
 松本が卒業したことで寂しさや不安にばかりとらわれていたが、新たな扉が開けたような希望も感じた。なぜ、今まで気がつかなかったのだろう。

「もう部活は参加してるんだったな。どうだ、大学生に混ざってやるのは大変か?」
 松本は少し考え込むように視線を落としながら答えた。

「家から遠いんで、頑張って週一で参加してる感じですね。うーん……案外やれるなーとは、思ってます」
「ははぁ、さすがだな。まあ、地に足つけて頑張りなさい」
「はい。あー……あのときは……ご迷惑おかけしました」
 きまりが悪そうに松本が言った。
 大学に進学する者が多いバスケ部において、多数の大学から声がかかっていた松本が就職すると言い出したあのとき・・・・は、誰もが驚愕したものだ。

「おかげで石原先生のいい顔見られたけどな」
「こっちからしたら、すげー恐かったですよ。目かっぴらいて口ひん曲げて」
 理由も言わずに「もう決めてます」と強い意志を伝えられた担任が、松本が言う通り口を歪ませて私のところに泣きついてきたことは、記憶に新しい。
 ふたりで会ったときにも影響は及び、はじめは努めて優しく理由を引き出そうとした。だが、はぐらかそうとする松本に苛立ち、最後には帰れと言って部屋から追い出そうとした。それに焦り、やっと口を開いたかと思えば「早く社会に出て一人前になりたい」と松本は言った。その目は真剣で、純粋で、子供そのものだった。

「あのときはさすがに俺もまいったぞ」
 わざとらしく横目でじっとり見ると、隣から乾いた笑いが返ってくる。

「ははは……すみません。あんな風に怒るんだって、すげー焦りました」
 結果として松本は、隣県の国公立大学の推薦入試に挑み、合格した。この大学のバスケ部は二部リーグに所属していて、毎年一部リーグへの昇格を目指して優勝争いに加わるものの、リーグ戦終盤で失速してしまうチームだった。一部リーグで通用するであろう松本の実力を考えると、もどかしさは今でもあった。
 それでもこの大学に決めたのは、なるべくこの土地から離れたくないという思いがあったのだろう。声がかかった大学は強豪校ばかりだったが、秋田から通うには遠かった。

「でも、離れたくなかったから」
「……後悔するなよ」
 進む先の信号が赤に変わり、停止線にあわせて車を止める。周囲に車や人の気配はなく、街灯とヘッドライトが道路を照らしていた。暑く感じるほど暖まった車内に風を入れようと少しだけ窓を開けると、海の香りが流れ込む。

「バスケ好きだし、うまくなりたい気持ちはずっとあります。もっと上を目指したい。そりゃあレベル高い環境の方がいいのは知ってます」
 松本は、でも、とつけ加えた。
「どん底から這い上がって手に入れた優勝は、すげー嬉しいって知っちまったんで」
 揺るがない決意に満ち溢れた瞳から、目が離せなかった。若くて青い情熱に、思わず息を呑む。

「これが今のオレの最適解だと思ってます」
「……そうか」
 シフトレバーを握る左手に手が添えられて、その松本の手のひらは熱く湿っていた。ひたむきな視線は柔らかなものに変わり、交差した視線をゆっくりと近づけ、距離をなくした。乾燥した車内に、潮の香りと湿った空気が心地よかった。


 市街地を抜けて松本の実家へ向かう途中、バス停の後ろにずらっと並ぶ自動販売機に立ち寄った。周辺の暗さに反発するように明るく主張する自動販売機が松本を照らしていて、なんだか不思議な感覚だった。この時間にふたりで外にいる。今まで、散々バレないようにと気を使って過ごしてきたことが嘘のようだ。
 ふたり分の飲み物を買って、バス停のベンチに並んで腰を下ろした。部屋にいるときとは違い、子供一人座れるぐらいの隙間がある。

「あっという間でしたね」
 寒さに体を縮こまらせ、手に持った缶に視線を落としたまま、松本が言った。

「あっという間だったな」
 約一時間半、本当にあっという間だった。途切れることなく話し続け、そしてまだ足りないとも思う。帰りは隣に松本がいない。そのことに気持ちが込み上げ溜息をつきそうになったが、細く息を吐いて誤魔化した。

「あっ、そういえば気になってたんですけど」
 ぱっと顔を上げた松本の声は、ふたりの間に漂うしんみりした空気を振り払うような、明るい声だった。

「ん?」
「卒業式の日、なんで髭剃ってたんですか? 知らなかったから、気になってすげー見ちまって」 
 当日の朝、松本から注がれた鋭い眼差しを思い出す。なにを睨んでるのかと思ってはいたが、理由がそれと判明して苦笑が漏れる。

「あ〜あれなあ。」
「なんすか、あれって」
「校長に言われたんだよ、『卒業式という日に相応しい身だしなみをして来てくださいね』って。しかも皆の前でな」
 職員室で鼻と口の間に指をさした校長の真似をしてみせた。人差し指に、あの日からほぼ生え揃った髭が触れる。それを見て、松本が顔をしかめた。

「うわ、感じわりぃ。オレあの人偉そうにしてて嫌いです」
「気があうな。俺も嫌いだ」
 今年度就任したばかりの校長は、連覇を示す垂れ幕が校舎から外される光景を、冷ややかな面差しで見つめていた。顔をあわすたびに嫌味な態度を取られるようになり、秋の大会で優勝旗を持ち帰ってからは多少ましにはなったが、その振る舞いは変わらなかった。そんな大人の対応もできない人間を好ましく思えるほど、出来た人間ではなかった。
 ひとしきり校長の悪口を言って笑い終えると、会話が途切れ、ふたたび静寂に包まれた。
 高校時代のすべてが過去として語られ、この先、学校のどこに目を向けても松本はいない。こうして隙あらば迫りくる感傷や悲観から、解放されるときはくるのだろうか。

「大学生か……」
 つぶやきながら、飲みきった缶コーヒーを足元に置いた。前かがみの体勢から戻ると、松本が距離をつめ、膝があたった。咄嗟に辺りを見回すが、私達のほかには誰もいない。
 

 隣りあう手と手を絡ませなにも言わずに、どのくらい経っただろう。ほんの一瞬のような気もするし、永遠にも感じた。冬が終わったとはいえ夜は寒く、じっとしていたら震えそうななか、触れた部分だけが熱を持っていた。

「……今度から、五郎さんって呼ぼうかな」
 先に言葉を発したのは松本だった。口許には笑みを浮かべている。 

「どうした、急に」
「だって、もう生徒じゃないんで」
 屈託のない笑顔で、永遠なんてものは存在しないのだと言われたようだった。薄氷で覆われた心にヒビが入り、今にも崩れ落ちそうだ。
 喉が焼かれるように痛む。それでも必死に声を絞り出した。

「……先生だよ。これからも」
 これまで送り出してきた生徒達は、今でも先生と呼び慕ってくれている。特別な感情を持っていたとしても、松本が大切な生徒であることは変わらない。

「ずっと、松本の先生だよ」
 子供はやがて巣立っていく。笑顔で送り出し、帰ってきたときには成長した姿をみせて欲しい。それなのに、松本にだけは同じように思ってやることができなかった。
 松本が壁にぶつかり悩んだとき、きっと私はそばにいない。電話でいくら励まそうと直接背中を押してやることはできないし、どれだけ好きだと伝えても、触れる温もりには敵わない。
 離れていくな――そう思うと薄氷は崩れ落ち、ずっとこらえていたものが溢れるように頬を濡らした。目の前の大きな瞳が見開かれ、涙の跡を追う視線が揺れた。
 お互いの立場は変わらないと言っておきながら、快く送り出してやることもできない。目の前で涙を流す大人を、松本はどう感じているだろうか。

「はぁ……すまん」
 手を離し、ハンカチを取り出した。それがたまたま松本からもらったもので、ふたたび涙が込み上げる。己の情けなさにうつむきハンカチで顔を覆うが、松本が肩と膝を揺さぶってくる。

「こっち向いてください」 
「それは、……もう少し待ってくれ」
 鼻をすすり顔を隠したまま肘で抵抗するが、松本も引かなかった。

「待てません。ねぇ、先生」  
「やめろ、見られたくない」
「じゃあ、これからも導いてください」
 じゃあ、ってなんだよ。
 繋がらない接続詞に一瞬気が抜けて、それを見逃さなかった松本によって顔から手を引き離された。がっちりとハンカチごと両手を包まれ、顔をのぞき込まれる。
 泣き顔を見せるのは二度目だった。
 一度目はふたりとも泣いていて、お互いの手で涙を拭い、ずっと一緒にいたいと伝えあった。
 今、松本は泣いていない。優しさで包むような、これまで見たことのない穏やかな顔をしていた。

「卒業しても、先生が先生なのは、わかってます。」 
「生徒じゃないって言ったろ」
 言ってすぐに子供じみた言い方だったと思ったが、これだけ情けない姿を晒していたら関係ないか、とも思った。

「名前で呼びたいから、言っただけです……すみません」
 そう言った松本は、少し嬉しそうだった。

「紛らわしいんだよ……好きに呼べよ……名前なんか、どうだっていい」
 そんなことより、離れていくな――喉まで出かかった言葉を、ぐっと堪えた。大切な生徒として、大切な恋人として。笑顔で送り出せなくとも、帰ってきたいと思ってもらえるような存在でいたい。こうしてそばにいるときには、背中を押してやれる存在でいたい。

「先生」
 応えるように、包まれていた手を握り返した。ふたりの手のなかで、濡れたハンカチにシワが寄る。 

「先生が導いてくれたから、今のオレがいます。この先きっと訳分かんねーこと考えて、訳分かんねーことすると思う。だから、間違わないようにこれからも」
「導いて欲しいなんて言うなよ」
「え」
 松本の手が強ばった。予想してなかったのだろう、表情がみるみるうちに困惑に染まった。え、あ、と何度もなにかを言おうとしては、眉毛と口をへの字に歪ませた。
 相変わらず喉は焼けるように痛い。しかし、伝えたい。

「自分の足で進みなさい。見守ってるから」
 松本の顔は歪んだままだった。やはりなにかを言おうとしては口を引き結び、最後には目を伏せた。背後に広がる空には満月が浮かんでいて、くっきりと縁取られた輪郭は、まるで松本のように強く輝かしい。
 どこから空を見上げても、月は変わらず月のまま輝きを放つだろう。どれだけ離れていても、空の下では繋がっていると思わせてくれる。ときに雲に隠れても、いずれ晴れるときがくる。
 松本、と、心で思う。お前は月だ、強く輝け。その思いを込めて、強く握られた手をさらに強く、強く握る。
 松本、と声に出して呼んだ。持ち上げられたまぶたが二重を作り、見つめた瞳が潤みだす。
 大切な生徒に、そして大切な恋人に。今なら言えると思った。
「卒業おめでとう」
 




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