Phosphorescence
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消灯した校内はしんと静まり、夜の闇を湛えている。
結局、祓魔塾から件の私立校──正十字学園の正門に辿りついた頃には日付も変わっていた。
幸い高等部の始業が明後日であることを承知していたので、落ちついて警備員にわけを説明できたのだが、当然不審者扱いされ敷地に入るだけのことに思いのほか時間を要した。
寮への道のりも長く険しかった。きっと今日一日のイベントで相当疲労が溜まったのだ。
大講堂の大扉にぶち当たったり、小さな段差につまずいて危うくコンクリートで額を割りかけたりと、ともかく散々だった。
その上で女子寮入り口に張り出された模造紙から自分の部屋番号を探し出し、やっと人心地がつくと安堵したところで、これから過ごすこととなる寮室に鍵がかかっていたら泣きたくもなる。
「んー。……」
ほの暗い寮の廊下で一人、肌寒さに身じろぎながら考えた。
まさか、祓魔塾で見かけた桜色のスコティッシュテリアに呪いでもかけられたのだろうか。かの戯曲・ファウストに登場する有名な悪魔は初めムク犬の姿をとっていたし、あながち無いとも言い切れない。次に遭遇した際は撫でくり回してやろうか。しかし、それは犬にとってはご褒美か──。
「Gnädiges Fräulein」
それは唐突なバリトンボイスだった。
ぎょっとして声のした方を振り返ると、廊下の暗がりから背の高いひょろりとした男性がこちらに歩いてくるのが見えた。
かろうじて男が時代錯誤な紳士服を着ていると分かったのは、その服が新雪のような白に染められていたからだ。
この学園の警備が厳重であることは、つい先ほど己で実証したはずだった。それだのに男は涼しげな顔でここに立っている。
さらに真夜中の学校、それも生徒寮を狙っての侵入であれば、誘目性の低い黒や紺を着込んでくるはずだ。よりにもよって白など、「自分は異質な存在です」と表明しているようなものだ。
「Was suchen Sie?」
ドイツ語か。
男が被っていた白いシルクハットを胸に抱き、恭しくこちらの顔を窺ってきた。
男の緑の瞳が、廊下の間接照明に照らされてちらちらと煌めいている。
「Ich, kann kein Deutsch sprechen(私はドイツ語を話せません)」
私の返答に男は瞳を細めた。
「これは、とんだご無礼を。お気を悪くされましたか……?」
ひっそりと笑んだ口の端から、いやに鋭い犬歯が覗く。
「いえ」
一歩退くと、男の時代錯誤な紳士服がさらに異質に見えた。
鋭い犬歯に緑の瞳。深い隈。見れば見るほど目の前の男が人ではない確信を持ってしまう。実際、男は悪魔憑きの特徴を網羅している。
「貴方は何者ですか」
「メフィスト・フェレスと申します。表向きはヨハン・ファウスト五世の名で、本学園の理事も務めております」
それ、あの戯曲の悪魔と契約主の名前じゃないか。
やはり悪魔、と思う一方で今の言葉に引っかかる。
「……“も”?」
「はい。メフィスト名義では、貴方が本日無断欠席した祓魔塾の管理を務めております」
「なる、ほど。それを知っているということは、私が今日入学式をサボったことも……」
「存じております」
奇抜な紳士服に反して、メフィストは妙にしめやかな物言いをした。この学園の理事を務めているという発言や、あの日の悪魔とは違う落ちつき払った態度などから、メフィストはこちらに悪意を抱いていないように思える。
不思議と逃げる気が起きないのは、なぜだろう?
「貴方は今年の新入生で一番の問題児ですね」
メフィストが器用に片眉を上げる。
「ちなみに二番は奥村燐くん。彼はご存じ?」
「いえ。その子は何をしたんですか」
「教室を一つ破壊しました」
思わず渋い顔になった。
問題児の序列もさることながら、教室を一つ破壊するゴリラのような生徒が在籍していることに困惑を禁じ得ない。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、メフィストが窘めるような目つきになった。
「再度お尋ねします。奥村燐くんはご存じでない?」
「はい。知りませんし、教室の破壊にも関与していません。というか、教室の破壊より無断欠席の方が物理的損害は少ないはずでは……」
「そうですね。奥村くんの問題は物質的ですが、貴方の問題は精神的です。目に見えるか、見えないか、平たく言えば種類が違う訳です」
「うーん。時限爆弾か不発弾か、みたいな話ですか?」
「例えが物騒ですね……。いえまあ、その認識で結構です」
メフィストは続けた。
「いつ爆発するか分からない、故に貴方は何よりも危険な訳です。ある意味、教室を破壊した奥村くんよりもね」
「さい、ですか…」
ここまで、何の話か全く理解できていないが。
メフィストの、”オクムラくん”よりも私は危険、という言葉に、私の背後にいる白い悪魔が含まれているのは分かる。
ルシフェルさん、確かに怒ると怖そうだし。
ややあって会話の終了を悟ったらしいメフィストが、どこからともなくキーリングを取り出した。
キーリングには、鍵が二つだけぶら下がっていた。白と黒の色違いで、形状は昼に使った塾の鍵とほぼ同じだ。
「白は貴方の寮室の鍵。施錠と解錠オンリーです。スペアはありません。紛失した場合は女子寮の管理人に知らせること」
「……うん?」
「黒はいつどの扉からでも貴方の寮室へ繋がる魔法の鍵。迷子になりやすいようなのでお渡しします。用途は塾の鍵と同じです。これもスペアはありません。紛失した場合は私に知らせること」
「……ああ、なるほど。ありがとうございます。頂きます」
私はメフィストに目礼してから両手で鍵束(と言って良いものか)を受け取った。その場でスカートに入れていた塾の鍵をキーリングに取りつけ、再度メフィストに一礼する。
「……」
「……」
「……」
まだ話があるのか。
沈黙に堪えきれず顔を俯けると、不意に大きな手のひらのようなものが私の頭に落ちてきた。
思わず顔を上げれば、メフィストの手のひらが私の頭を撫でているのに気づく。壊れ物でも扱うような優しい手つきは、まさに物が壊れないよう加減を推しはかっているようだ。
「な、に」
頭を──そうだ魂の出口を──撫でられるなんて、義父や義母でさえぞっとするのに、“彼”じゃない悪魔なんて尚更ぞっとする。
対面よりも身構えた私に、メフィストは素知らぬ風に睫毛を揺らす。
「こぼれていますよ」
甘ったるい囁き声。
「を……」
急転直下の勢いで意識に靄がかかった。
頭頂にあった手のひらが後頭を抱き、私を前へ進ませるよう圧をかけてくる。そのまま、私はメフィストの胸部と思われる壁にくらりと倒れた。
「入れた端からこぼれているのか」
すぐ足元で、メフィストの手にあったシルクハットが落ちたような音がした。
ふわふわと後頭を撫でる、その手つきがいやらしいまでに穏やかだ。後頭とは別の手が私の背中を撫で、もっと寄れという風に押す。一瞬、メフィストの胸部がどこかに消えたかと思えば、抱き上げられたような浮遊感があった。
「危なっかしいので部屋まで運びます」
魔法か。恐らくそうだろう。抵抗する気も起きないくらい、優しい手つきに絆されている。
「またお話ししましょう」
靄がかった意識が落ちきる直前。
どこまでも薄く、掴みどころのない危機感を覚えながら、遠くで鍵が開く音を聞いた。
4・ちょっとした揶揄
結局、祓魔塾から件の私立校──正十字学園の正門に辿りついた頃には日付も変わっていた。
幸い高等部の始業が明後日であることを承知していたので、落ちついて警備員にわけを説明できたのだが、当然不審者扱いされ敷地に入るだけのことに思いのほか時間を要した。
寮への道のりも長く険しかった。きっと今日一日のイベントで相当疲労が溜まったのだ。
大講堂の大扉にぶち当たったり、小さな段差につまずいて危うくコンクリートで額を割りかけたりと、ともかく散々だった。
その上で女子寮入り口に張り出された模造紙から自分の部屋番号を探し出し、やっと人心地がつくと安堵したところで、これから過ごすこととなる寮室に鍵がかかっていたら泣きたくもなる。
「んー。……」
ほの暗い寮の廊下で一人、肌寒さに身じろぎながら考えた。
まさか、祓魔塾で見かけた桜色のスコティッシュテリアに呪いでもかけられたのだろうか。かの戯曲・ファウストに登場する有名な悪魔は初めムク犬の姿をとっていたし、あながち無いとも言い切れない。次に遭遇した際は撫でくり回してやろうか。しかし、それは犬にとってはご褒美か──。
「Gnädiges Fräulein」
それは唐突なバリトンボイスだった。
ぎょっとして声のした方を振り返ると、廊下の暗がりから背の高いひょろりとした男性がこちらに歩いてくるのが見えた。
かろうじて男が時代錯誤な紳士服を着ていると分かったのは、その服が新雪のような白に染められていたからだ。
この学園の警備が厳重であることは、つい先ほど己で実証したはずだった。それだのに男は涼しげな顔でここに立っている。
さらに真夜中の学校、それも生徒寮を狙っての侵入であれば、誘目性の低い黒や紺を着込んでくるはずだ。よりにもよって白など、「自分は異質な存在です」と表明しているようなものだ。
「Was suchen Sie?」
ドイツ語か。
男が被っていた白いシルクハットを胸に抱き、恭しくこちらの顔を窺ってきた。
男の緑の瞳が、廊下の間接照明に照らされてちらちらと煌めいている。
「Ich, kann kein Deutsch sprechen(私はドイツ語を話せません)」
私の返答に男は瞳を細めた。
「これは、とんだご無礼を。お気を悪くされましたか……?」
ひっそりと笑んだ口の端から、いやに鋭い犬歯が覗く。
「いえ」
一歩退くと、男の時代錯誤な紳士服がさらに異質に見えた。
鋭い犬歯に緑の瞳。深い隈。見れば見るほど目の前の男が人ではない確信を持ってしまう。実際、男は悪魔憑きの特徴を網羅している。
「貴方は何者ですか」
「メフィスト・フェレスと申します。表向きはヨハン・ファウスト五世の名で、本学園の理事も務めております」
それ、あの戯曲の悪魔と契約主の名前じゃないか。
やはり悪魔、と思う一方で今の言葉に引っかかる。
「……“も”?」
「はい。メフィスト名義では、貴方が本日無断欠席した祓魔塾の管理を務めております」
「なる、ほど。それを知っているということは、私が今日入学式をサボったことも……」
「存じております」
奇抜な紳士服に反して、メフィストは妙にしめやかな物言いをした。この学園の理事を務めているという発言や、あの日の悪魔とは違う落ちつき払った態度などから、メフィストはこちらに悪意を抱いていないように思える。
不思議と逃げる気が起きないのは、なぜだろう?
「貴方は今年の新入生で一番の問題児ですね」
メフィストが器用に片眉を上げる。
「ちなみに二番は奥村燐くん。彼はご存じ?」
「いえ。その子は何をしたんですか」
「教室を一つ破壊しました」
思わず渋い顔になった。
問題児の序列もさることながら、教室を一つ破壊するゴリラのような生徒が在籍していることに困惑を禁じ得ない。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、メフィストが窘めるような目つきになった。
「再度お尋ねします。奥村燐くんはご存じでない?」
「はい。知りませんし、教室の破壊にも関与していません。というか、教室の破壊より無断欠席の方が物理的損害は少ないはずでは……」
「そうですね。奥村くんの問題は物質的ですが、貴方の問題は精神的です。目に見えるか、見えないか、平たく言えば種類が違う訳です」
「うーん。時限爆弾か不発弾か、みたいな話ですか?」
「例えが物騒ですね……。いえまあ、その認識で結構です」
メフィストは続けた。
「いつ爆発するか分からない、故に貴方は何よりも危険な訳です。ある意味、教室を破壊した奥村くんよりもね」
「さい、ですか…」
ここまで、何の話か全く理解できていないが。
メフィストの、”オクムラくん”よりも私は危険、という言葉に、私の背後にいる白い悪魔が含まれているのは分かる。
ルシフェルさん、確かに怒ると怖そうだし。
ややあって会話の終了を悟ったらしいメフィストが、どこからともなくキーリングを取り出した。
キーリングには、鍵が二つだけぶら下がっていた。白と黒の色違いで、形状は昼に使った塾の鍵とほぼ同じだ。
「白は貴方の寮室の鍵。施錠と解錠オンリーです。スペアはありません。紛失した場合は女子寮の管理人に知らせること」
「……うん?」
「黒はいつどの扉からでも貴方の寮室へ繋がる魔法の鍵。迷子になりやすいようなのでお渡しします。用途は塾の鍵と同じです。これもスペアはありません。紛失した場合は私に知らせること」
「……ああ、なるほど。ありがとうございます。頂きます」
私はメフィストに目礼してから両手で鍵束(と言って良いものか)を受け取った。その場でスカートに入れていた塾の鍵をキーリングに取りつけ、再度メフィストに一礼する。
「……」
「……」
「……」
まだ話があるのか。
沈黙に堪えきれず顔を俯けると、不意に大きな手のひらのようなものが私の頭に落ちてきた。
思わず顔を上げれば、メフィストの手のひらが私の頭を撫でているのに気づく。壊れ物でも扱うような優しい手つきは、まさに物が壊れないよう加減を推しはかっているようだ。
「な、に」
頭を──そうだ魂の出口を──撫でられるなんて、義父や義母でさえぞっとするのに、“彼”じゃない悪魔なんて尚更ぞっとする。
対面よりも身構えた私に、メフィストは素知らぬ風に睫毛を揺らす。
「こぼれていますよ」
甘ったるい囁き声。
「を……」
急転直下の勢いで意識に靄がかかった。
頭頂にあった手のひらが後頭を抱き、私を前へ進ませるよう圧をかけてくる。そのまま、私はメフィストの胸部と思われる壁にくらりと倒れた。
「入れた端からこぼれているのか」
すぐ足元で、メフィストの手にあったシルクハットが落ちたような音がした。
ふわふわと後頭を撫でる、その手つきがいやらしいまでに穏やかだ。後頭とは別の手が私の背中を撫で、もっと寄れという風に押す。一瞬、メフィストの胸部がどこかに消えたかと思えば、抱き上げられたような浮遊感があった。
「危なっかしいので部屋まで運びます」
魔法か。恐らくそうだろう。抵抗する気も起きないくらい、優しい手つきに絆されている。
「またお話ししましょう」
靄がかった意識が落ちきる直前。
どこまでも薄く、掴みどころのない危機感を覚えながら、遠くで鍵が開く音を聞いた。
4・ちょっとした揶揄