Phosphorescence
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
人の魂はつむじから抜けていくことを五歳の頃に知った。
あの日、私は幼稚園で父の迎えを待っていたはずだが、気づけば幼稚園からずっと離れた京都タワーの根元に立っていた。
ここはどこだろうと辺りを彷徨っていると、私のもとに歩いてきた着ぐるみに青い風船を手渡されたのを覚えている。
一人で幼稚園に帰ろうとして、その幼稚園に置いてきた幼馴染たちと父の心境を想像し、とても胸がもやもやとしたことも覚えている。
……。
もちろん園児の時分では、本来バスを経由して行く京都タワーから幼稚園までの道のりなど分からなかった。ましてや歩いて帰るなど無謀にも程があったが、所持金も無い状況では歩いて帰る以外の選択肢が無かった。
かと言って無闇に動けば迷子になると子供ながらに考えたのだろう、私はとりあえず目に入った歩道橋に登り目視で幼稚園を探すことにした。幼稚園の方角さえ分かれば、後は突き進むだけで良い。
その日はよく晴れていた。あんな日をぽかぽか陽気と呼ぶのだろう。
私が歩道橋の塀と手すりの隙間から幼稚園の屋根を探していると、いつの間にか私の隣に立っていた男性が声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、お一人様?」
尋ねる男は目の下に深い隈を作っていた。
頬が痩けていて、猥雑に絡まりまくった髪の毛は白と黒が入り混じっている。
私が「そうだよ」とあしらうと、男は唐突に引き攣れたように笑い出した。それと同時に私の手にあった風船がひとりでに割れ、全身に激しい悪寒が走った。
男の異様な雰囲気に逃げようと思い立ったが遅く、大きくて爪の長い男の手が私の肩をガッシリと掴んでいる。
あまりの恐怖に声も出せなかった。
「名前は? 歳は!? お父さんはお母さんは!!? もしかして本当に本当にお一人様!!??」
矢継ぎ早に問う口がやけに大きく見えた。全ての永久歯がバラの棘のように尖ってみえ、その歯で首など嚙まれたときには怪我では済まないと直感した。
なぜ、私は幼稚園から京都タワーへと移動していたのか。
なぜ、わざわざ歩道橋から幼稚園を探そうとしたのか。
なぜ、この男は──。
五歳児の頭では処理しきれない量の疑問が行ったり来たりしていた。男の手とやかましい声に揺さぶられる自分の身体を現実に残し、ただ漠然と「ああ私今から殺されるんだ」と思っていた。
誰かが助けてくれるだろう希望を抱く余裕もなく、男の手を振り払う勇気も湧かない。そもそも、トイレの水が流れる音にさえ恐怖していた幼い私が、その状況を打開できるはずがなかった。
落ち着いて思考できるようになった頃、私は大きな血溜まりに横たわっていた。血溜まりには青空と、私の横顔が赤いフィルターを通したような状態で映っていて、私は血溜まり越しに自分の首から流れる血と、自分の頭から半透明の何かがふわふわと抜け出ていく様子を眺めていた。半透明のそれを件の男が一心不乱に食っているのに気づいたのはまだ機能していたらしい聴覚が運んできた「むしゃむしゃ」という咀嚼音で、もうその時点の私には恐怖も痛みも感じることができなかった。
無性に寒い……。
……。
まるでコップの底に溜まった、茶殻にでもなっているかのような心地だった。くぐもった耳鳴りに瞼を開けると、今度は病室のベッドに横たわっていた。
どうやら現場に居合わせた祓魔師二人が件の男を成敗してくれたらしく、男は食人嗜好のある悪魔に憑依されて、正気ではなかったと。
悪魔のさらなる詳細を私のベッドの傍らにいた祓魔師が話し込んでいたが、幼い頃の私には全く内容が呑みこめなかった。
目覚めた私に彼らが気づくまでの間、私は父母と兄の姿がないか目だけで探したが、ついに姿は見えなかった。
「お話しする前に、僕の日本語が分かりづらかったらごめんね。どうして君は、あそこに一人でいたの?」
鼻頭まで前髪が伸びた男性の祓魔師が、ベッド脇の椅子に腰かけて問いかけてきた。その背後にもう一人。
後ろの祓魔師は、さらさらとした長い金髪を後ろで纏めていた。私のことを痛ましいものでも見るような目で見ている。
彼らの反対側には開ききった窓があり、流れてきた風によって手前の彼の前髪が揺れていた。垣間見えた青い瞳が私を眺めている。
二人とも真っ黒な團服を着ていた。
私に質問をした男性は京都タワーのマスコット「たわわちゃん」の縫いぐるみを膝に乗せていた。厳かな團服にひょうきんな縫いぐるみの、その組み合わせが妙に笑えた。
「……うふっ、あははっ」
私の首には包帯が巻かれていた。
声を出す度に包帯の下で何か浸み出すような感触があったが、痛みを感じなかったので少々気持ちが悪いだけだった。
大の大人相手に緊張もせず、むしろ面白がって笑い出した私を不思議に思ったのだろう。たわわちゃんの祓魔師がぴくりと下唇を動かし、金髪の祓魔師が眉をしかめた。
「それが知らんのですわ。けど、あん男の人が私をあそこに連れてきたっちうんは違うやろなあ。私知らん間にあそこ居ったし」
話していると、たわわちゃんの祓魔師が私の首筋に手を添えてきた。彼の手は父と同じような大きさだったが、明確に父の手ではないと分かる涼しげな雰囲気を持っていた。
「ちょっと前までは幼稚園に居りました。今日は和尚が非番やったんで、迎えに来てくれるいうことになってました。坊や子猫さん、志摩坊もみんな嬉しそうに待ってはった。なんか悪いことしてもうた気ぃします」
「医者を呼んでくる」と言い残して金髪の祓魔師が出て行った。どうしたのだろうと思っていると、視界の隅に映った枕が真っ赤に染まっていた。そのシミが自分の血で出来ていることに直ぐ気づけたが、痛みの伴わない出血は夢のように現実味がなかった。
いつまでも喋っていられそうだったので、私は質問に答えようと口を動かした。
「はあ、帰ったら謝らなあかん気ぃもする。それで、他に聞きたいことありますか?」
こともなげに私が言うと、
「……いい。もう、話さなくていいよ」
たわわちゃんの祓魔師がとても優しげに言った。
私はなぜか、その言葉に突き放されたような感じがして急に悲しくなった。それでも泣くと迷惑だろうと思ったので、私は努めて笑顔を作った。すると、念を押すように「笑わなくてもいいんだよ」と言われてしまった。
「あああもう、血が足りないのに!」病室に来た白衣の女性が私を見るなり大声で言った。女性の後からやってきた金髪の祓魔師が、目を見開いて唇を戦慄かせているのが遠目に見えた。
やがて近づいてきた白衣の女性がたわわちゃんの祓魔師を押しのけ、私をひと目見るや否や走って部屋から出て行った。その際たわわちゃんの祓魔師と肩がぶつかったように見えたが、彼が何も言わなかったので実際はぶつかっていなかったのかもしれない。
「エンジェル、そう気に病むな。この子はちゃんと生きてる」
金髪の祓魔師が、たわわちゃんの祓魔師に言われて下唇を嚙んでいた。
……。
父母と兄がやってきたのは次に目覚めた昼のこと。
綺麗になった枕元にはたわわちゃんの縫いぐるみが置かれ、四つ葉のイラストが描かれたメッセージカードが添えられていた。
〈きっと怖くて寂しかったよね。でも、もう大丈夫。君を守るために、特別なおまじないを縫いぐるみにかけておきました。どうぞ大切にしてください。君に神の加護がありますように〉
〈Ruin Rite〉
それから二か月後、私は真っ白な悪魔に出会った。
2・魂の行き先と思い出
あの日、私は幼稚園で父の迎えを待っていたはずだが、気づけば幼稚園からずっと離れた京都タワーの根元に立っていた。
ここはどこだろうと辺りを彷徨っていると、私のもとに歩いてきた着ぐるみに青い風船を手渡されたのを覚えている。
一人で幼稚園に帰ろうとして、その幼稚園に置いてきた幼馴染たちと父の心境を想像し、とても胸がもやもやとしたことも覚えている。
……。
もちろん園児の時分では、本来バスを経由して行く京都タワーから幼稚園までの道のりなど分からなかった。ましてや歩いて帰るなど無謀にも程があったが、所持金も無い状況では歩いて帰る以外の選択肢が無かった。
かと言って無闇に動けば迷子になると子供ながらに考えたのだろう、私はとりあえず目に入った歩道橋に登り目視で幼稚園を探すことにした。幼稚園の方角さえ分かれば、後は突き進むだけで良い。
その日はよく晴れていた。あんな日をぽかぽか陽気と呼ぶのだろう。
私が歩道橋の塀と手すりの隙間から幼稚園の屋根を探していると、いつの間にか私の隣に立っていた男性が声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、お一人様?」
尋ねる男は目の下に深い隈を作っていた。
頬が痩けていて、猥雑に絡まりまくった髪の毛は白と黒が入り混じっている。
私が「そうだよ」とあしらうと、男は唐突に引き攣れたように笑い出した。それと同時に私の手にあった風船がひとりでに割れ、全身に激しい悪寒が走った。
男の異様な雰囲気に逃げようと思い立ったが遅く、大きくて爪の長い男の手が私の肩をガッシリと掴んでいる。
あまりの恐怖に声も出せなかった。
「名前は? 歳は!? お父さんはお母さんは!!? もしかして本当に本当にお一人様!!??」
矢継ぎ早に問う口がやけに大きく見えた。全ての永久歯がバラの棘のように尖ってみえ、その歯で首など嚙まれたときには怪我では済まないと直感した。
なぜ、私は幼稚園から京都タワーへと移動していたのか。
なぜ、わざわざ歩道橋から幼稚園を探そうとしたのか。
なぜ、この男は──。
五歳児の頭では処理しきれない量の疑問が行ったり来たりしていた。男の手とやかましい声に揺さぶられる自分の身体を現実に残し、ただ漠然と「ああ私今から殺されるんだ」と思っていた。
誰かが助けてくれるだろう希望を抱く余裕もなく、男の手を振り払う勇気も湧かない。そもそも、トイレの水が流れる音にさえ恐怖していた幼い私が、その状況を打開できるはずがなかった。
落ち着いて思考できるようになった頃、私は大きな血溜まりに横たわっていた。血溜まりには青空と、私の横顔が赤いフィルターを通したような状態で映っていて、私は血溜まり越しに自分の首から流れる血と、自分の頭から半透明の何かがふわふわと抜け出ていく様子を眺めていた。半透明のそれを件の男が一心不乱に食っているのに気づいたのはまだ機能していたらしい聴覚が運んできた「むしゃむしゃ」という咀嚼音で、もうその時点の私には恐怖も痛みも感じることができなかった。
無性に寒い……。
……。
まるでコップの底に溜まった、茶殻にでもなっているかのような心地だった。くぐもった耳鳴りに瞼を開けると、今度は病室のベッドに横たわっていた。
どうやら現場に居合わせた祓魔師二人が件の男を成敗してくれたらしく、男は食人嗜好のある悪魔に憑依されて、正気ではなかったと。
悪魔のさらなる詳細を私のベッドの傍らにいた祓魔師が話し込んでいたが、幼い頃の私には全く内容が呑みこめなかった。
目覚めた私に彼らが気づくまでの間、私は父母と兄の姿がないか目だけで探したが、ついに姿は見えなかった。
「お話しする前に、僕の日本語が分かりづらかったらごめんね。どうして君は、あそこに一人でいたの?」
鼻頭まで前髪が伸びた男性の祓魔師が、ベッド脇の椅子に腰かけて問いかけてきた。その背後にもう一人。
後ろの祓魔師は、さらさらとした長い金髪を後ろで纏めていた。私のことを痛ましいものでも見るような目で見ている。
彼らの反対側には開ききった窓があり、流れてきた風によって手前の彼の前髪が揺れていた。垣間見えた青い瞳が私を眺めている。
二人とも真っ黒な團服を着ていた。
私に質問をした男性は京都タワーのマスコット「たわわちゃん」の縫いぐるみを膝に乗せていた。厳かな團服にひょうきんな縫いぐるみの、その組み合わせが妙に笑えた。
「……うふっ、あははっ」
私の首には包帯が巻かれていた。
声を出す度に包帯の下で何か浸み出すような感触があったが、痛みを感じなかったので少々気持ちが悪いだけだった。
大の大人相手に緊張もせず、むしろ面白がって笑い出した私を不思議に思ったのだろう。たわわちゃんの祓魔師がぴくりと下唇を動かし、金髪の祓魔師が眉をしかめた。
「それが知らんのですわ。けど、あん男の人が私をあそこに連れてきたっちうんは違うやろなあ。私知らん間にあそこ居ったし」
話していると、たわわちゃんの祓魔師が私の首筋に手を添えてきた。彼の手は父と同じような大きさだったが、明確に父の手ではないと分かる涼しげな雰囲気を持っていた。
「ちょっと前までは幼稚園に居りました。今日は和尚が非番やったんで、迎えに来てくれるいうことになってました。坊や子猫さん、志摩坊もみんな嬉しそうに待ってはった。なんか悪いことしてもうた気ぃします」
「医者を呼んでくる」と言い残して金髪の祓魔師が出て行った。どうしたのだろうと思っていると、視界の隅に映った枕が真っ赤に染まっていた。そのシミが自分の血で出来ていることに直ぐ気づけたが、痛みの伴わない出血は夢のように現実味がなかった。
いつまでも喋っていられそうだったので、私は質問に答えようと口を動かした。
「はあ、帰ったら謝らなあかん気ぃもする。それで、他に聞きたいことありますか?」
こともなげに私が言うと、
「……いい。もう、話さなくていいよ」
たわわちゃんの祓魔師がとても優しげに言った。
私はなぜか、その言葉に突き放されたような感じがして急に悲しくなった。それでも泣くと迷惑だろうと思ったので、私は努めて笑顔を作った。すると、念を押すように「笑わなくてもいいんだよ」と言われてしまった。
「あああもう、血が足りないのに!」病室に来た白衣の女性が私を見るなり大声で言った。女性の後からやってきた金髪の祓魔師が、目を見開いて唇を戦慄かせているのが遠目に見えた。
やがて近づいてきた白衣の女性がたわわちゃんの祓魔師を押しのけ、私をひと目見るや否や走って部屋から出て行った。その際たわわちゃんの祓魔師と肩がぶつかったように見えたが、彼が何も言わなかったので実際はぶつかっていなかったのかもしれない。
「エンジェル、そう気に病むな。この子はちゃんと生きてる」
金髪の祓魔師が、たわわちゃんの祓魔師に言われて下唇を嚙んでいた。
……。
父母と兄がやってきたのは次に目覚めた昼のこと。
綺麗になった枕元にはたわわちゃんの縫いぐるみが置かれ、四つ葉のイラストが描かれたメッセージカードが添えられていた。
〈きっと怖くて寂しかったよね。でも、もう大丈夫。君を守るために、特別なおまじないを縫いぐるみにかけておきました。どうぞ大切にしてください。君に神の加護がありますように〉
〈Ruin Rite〉
それから二か月後、私は真っ白な悪魔に出会った。
2・魂の行き先と思い出