Phosphorescence
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人目が無いと飛んでしまう。
誰も私を見ていないとき、私は誰の世界にも存在しないから。飛んでしまう私を繫ぎとめるものも存在しないから。
私の残影だけが彼らの中にある──長く在っても必ず消える残影だけが、彼らの世界にある。
飛んで回って、跳んで、跳んで。
それでも幼い時分の私は京都以外には跳ばなかった。
あの頃の私には京都以外の世界が無く、誰も私を見つけられない遠い場所が恐かったし、怖さ以上に家族を信じていたから。
父母が抱き締めてくれたときの暖かさが、兄が手を繋いでくれたときの暖かさが、暖かであるという心からの信用が、私を京都に繋ぎとめてくれていた。
命綱は五歳の頃に切れた。
跳んだ先で人食い悪魔に襲われ、目覚めた場所が家ではない病室で、そこに家族はいなかった。
寒気がした。
あまりの寒さに父母に抱き締めてほしくなり、兄に手を握ってほしくなったが、私に父母はおらず、兄もいなかったので、起こした身体は空ぶった。その拍子に、命の手がかりは凍って割れた。
いるのは義父母で義兄。暖かく優しさに満ちた彼ら、けれど、どうしようもなく分厚い壁が隔たっている彼ら。
私は向こう側にいる。
(しまったな)
子供が作った迷路の中、他人事のように思っていた。
幅狭く密閉された暗黒空間で、乾いた絵の具と糊の臭いが湿気と共に籠っている。ツンとするにおい、カッターの錆の臭い、寂しさから流れる香り。
園のみんなと一緒にいるから。大丈夫だから。そう永遠に自分を騙せるほど強く重くあれたなら、きっと私は跳んでいったりなどしなかった。
(せめて手を繋いでいれば)
園児たちの楽しげな声が消えていた。
壁を伝って出口に行こうと両手を前に彷徨わせて、長い間そうしていたが、一向に壁が見つからず終わりを悟った。胸にすとんと落ちてきた空虚感に清々しささえ覚えた。自分の心に何も無さすぎて、それが悲しくて笑えた。
それでもどこか諦めきれずに歩いているうち、不意に何かに蹴つまずき、つまずいたものに覆い被さる形で倒れた。
打ちつけた頬にボタンのような感触が触れ、起き上がろうと突いた手に濡れた布の感触があった。真っ暗でよく見えなかったが、濡れた布から漂う臭いが、血だろうことには直ぐに気づけた。
五歳児の私は、その、血塗れの何かに。
「──ああ」
同情した。
誰かが、私と同じような誰かが、同じように、同じ暗闇に置いていかれている。
同じ。ここにいる誰かと同じ。
この寂しさも、この苦しみも、誰も抱き締めてやれない、手を繋いでやれない、傍にいてやれない、暖かさを優しさをじかに分けてあげられない、この空しさも共に同じ。
「そこにいる、誰か、」
何かの身体から降り、その顔を手探り、目鼻口の感覚器官を確かめた私は、かれの頬を両手で包んだ。
私の手指にかれの睫毛が二度ほど当たったので、かれが生きて起きているのだと分かって安心した。暗闇はしんと静かで、耳を澄ませば浅い呼吸音が聞き取れる。
「私がいるから、ふたりだね」
寂しくて、苦しくて、寒すぎる。
暖かな優しさから遠い二人。
向こう側の二人。
ふたりだね、と言われた何かは動かなかった。
けれどかれの呼吸の音が、そのとき一瞬、驚いたように引き攣れた。
・
いつの間にか眠っていて、目覚めると明るい場所にいた。
壁に大きなはめ殺しがある打ちっぱなしコンクリートの部屋で、床には飴色の調度品や丸めた絨毯が場違いに雑多に置かれている。私たちはその、とりあえず広げたという様子の絨毯に横たわっていた。
病院着は元の色彩を図れないほど赤く染まり、肌はことごとく欠損している。落ち窪んだ目が私を見ていた。恐らく夜が明けるまでずっと、彼は自分の頬を包む私の右手を、皮膚の爛れた左手で、私がしていたように包んで待ってくれていた。
二人が横たわる絨毯の外にのたうち回ったような血痕が見えた。
彼の身体の状態は尋常ではなく、尋常ではないはずなのに、彼は静かに私に向けて──乾燥か腐蝕かで切れた口角を上げた──笑った。
恐怖で体が萎縮する。笑いかけられる直前まで意識していなかったが、彼には明らかに人ならざる雰囲気があった。それは私をどん底に引きずり込んだあの悪魔と同質だったが、しかしこちらに伝わる重圧はあの悪魔を遥かに凌駕している。
今度こそ死ぬと思ったのだ。
敢えて蛇足を加えると、この出来事の二か月前に私は魂の殆どを失っていて、精神以外はもはや死体のようなものらしい──エーテル体がどうこうと、曰く。根性で肉体を動かしている状態なのだと、だから貴方は真に生きているとは言えない、自分を残影と呼ぶ貴方の認識は正しくその通りなのだと。
「It’s like」
彼の手が、固まる私の頭を撫でた。
「A phosphorescence」
ただ一つ健在な、緑の瞳と目が合った。
悪魔の瞳だ。蛇を彷彿とさせる縦長の光が、窪んだ奥でキュウと細まるのが見えた。不意に呟かれた未知の言語に私は唖然として、そんな私に彼は少し困ったように黙った。
しかし直ぐに合点がいったようで、彼はゆっくりと首を屈めて私のつむじに口づけをした。つむじは魂の出入り口で、欠損はそこからでしか補えないために。
「知らないあなた」
髪の毛越しにかかる息が、少しくすぐったかったように思う。
それから、私も、頭上から落ちてきた言葉の続きに合点がいって、また涙が出てきてしまった。
「私がいるから、ふたりですね」
光の王ルシフェルは、私にとっては光明だった。
7・まるで燐光のよう
誰も私を見ていないとき、私は誰の世界にも存在しないから。飛んでしまう私を繫ぎとめるものも存在しないから。
私の残影だけが彼らの中にある──長く在っても必ず消える残影だけが、彼らの世界にある。
飛んで回って、跳んで、跳んで。
それでも幼い時分の私は京都以外には跳ばなかった。
あの頃の私には京都以外の世界が無く、誰も私を見つけられない遠い場所が恐かったし、怖さ以上に家族を信じていたから。
父母が抱き締めてくれたときの暖かさが、兄が手を繋いでくれたときの暖かさが、暖かであるという心からの信用が、私を京都に繋ぎとめてくれていた。
命綱は五歳の頃に切れた。
跳んだ先で人食い悪魔に襲われ、目覚めた場所が家ではない病室で、そこに家族はいなかった。
寒気がした。
あまりの寒さに父母に抱き締めてほしくなり、兄に手を握ってほしくなったが、私に父母はおらず、兄もいなかったので、起こした身体は空ぶった。その拍子に、命の手がかりは凍って割れた。
いるのは義父母で義兄。暖かく優しさに満ちた彼ら、けれど、どうしようもなく分厚い壁が隔たっている彼ら。
私は向こう側にいる。
(しまったな)
子供が作った迷路の中、他人事のように思っていた。
幅狭く密閉された暗黒空間で、乾いた絵の具と糊の臭いが湿気と共に籠っている。ツンとするにおい、カッターの錆の臭い、寂しさから流れる香り。
園のみんなと一緒にいるから。大丈夫だから。そう永遠に自分を騙せるほど強く重くあれたなら、きっと私は跳んでいったりなどしなかった。
(せめて手を繋いでいれば)
園児たちの楽しげな声が消えていた。
壁を伝って出口に行こうと両手を前に彷徨わせて、長い間そうしていたが、一向に壁が見つからず終わりを悟った。胸にすとんと落ちてきた空虚感に清々しささえ覚えた。自分の心に何も無さすぎて、それが悲しくて笑えた。
それでもどこか諦めきれずに歩いているうち、不意に何かに蹴つまずき、つまずいたものに覆い被さる形で倒れた。
打ちつけた頬にボタンのような感触が触れ、起き上がろうと突いた手に濡れた布の感触があった。真っ暗でよく見えなかったが、濡れた布から漂う臭いが、血だろうことには直ぐに気づけた。
五歳児の私は、その、血塗れの何かに。
「──ああ」
同情した。
誰かが、私と同じような誰かが、同じように、同じ暗闇に置いていかれている。
同じ。ここにいる誰かと同じ。
この寂しさも、この苦しみも、誰も抱き締めてやれない、手を繋いでやれない、傍にいてやれない、暖かさを優しさをじかに分けてあげられない、この空しさも共に同じ。
「そこにいる、誰か、」
何かの身体から降り、その顔を手探り、目鼻口の感覚器官を確かめた私は、かれの頬を両手で包んだ。
私の手指にかれの睫毛が二度ほど当たったので、かれが生きて起きているのだと分かって安心した。暗闇はしんと静かで、耳を澄ませば浅い呼吸音が聞き取れる。
「私がいるから、ふたりだね」
寂しくて、苦しくて、寒すぎる。
暖かな優しさから遠い二人。
向こう側の二人。
ふたりだね、と言われた何かは動かなかった。
けれどかれの呼吸の音が、そのとき一瞬、驚いたように引き攣れた。
・
いつの間にか眠っていて、目覚めると明るい場所にいた。
壁に大きなはめ殺しがある打ちっぱなしコンクリートの部屋で、床には飴色の調度品や丸めた絨毯が場違いに雑多に置かれている。私たちはその、とりあえず広げたという様子の絨毯に横たわっていた。
病院着は元の色彩を図れないほど赤く染まり、肌はことごとく欠損している。落ち窪んだ目が私を見ていた。恐らく夜が明けるまでずっと、彼は自分の頬を包む私の右手を、皮膚の爛れた左手で、私がしていたように包んで待ってくれていた。
二人が横たわる絨毯の外にのたうち回ったような血痕が見えた。
彼の身体の状態は尋常ではなく、尋常ではないはずなのに、彼は静かに私に向けて──乾燥か腐蝕かで切れた口角を上げた──笑った。
恐怖で体が萎縮する。笑いかけられる直前まで意識していなかったが、彼には明らかに人ならざる雰囲気があった。それは私をどん底に引きずり込んだあの悪魔と同質だったが、しかしこちらに伝わる重圧はあの悪魔を遥かに凌駕している。
今度こそ死ぬと思ったのだ。
敢えて蛇足を加えると、この出来事の二か月前に私は魂の殆どを失っていて、精神以外はもはや死体のようなものらしい──エーテル体がどうこうと、曰く。根性で肉体を動かしている状態なのだと、だから貴方は真に生きているとは言えない、自分を残影と呼ぶ貴方の認識は正しくその通りなのだと。
「It’s like」
彼の手が、固まる私の頭を撫でた。
「A phosphorescence」
ただ一つ健在な、緑の瞳と目が合った。
悪魔の瞳だ。蛇を彷彿とさせる縦長の光が、窪んだ奥でキュウと細まるのが見えた。不意に呟かれた未知の言語に私は唖然として、そんな私に彼は少し困ったように黙った。
しかし直ぐに合点がいったようで、彼はゆっくりと首を屈めて私のつむじに口づけをした。つむじは魂の出入り口で、欠損はそこからでしか補えないために。
「知らないあなた」
髪の毛越しにかかる息が、少しくすぐったかったように思う。
それから、私も、頭上から落ちてきた言葉の続きに合点がいって、また涙が出てきてしまった。
「私がいるから、ふたりですね」
光の王ルシフェルは、私にとっては光明だった。
7・まるで燐光のよう