天国にひとり
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朝ぼらけの空に、月が低く出ていた。
西の向こうへと戻るのだ。
真夜中よりも険の淡くなった反射光が、網戸の細かい格子を透して⚹ 状に膨張している。……中心は満月のようにみえた。が、今月のフルムーンは過ぎている。それらしくみえるときほど月齢と認識がずれて、欠けた明かりを満ちて感ずるのである。
色むらのない灰青を眺めていると、影が三羽通りすぎた。大きさからして雲雀かなと、春をして、安直な空想をする。雲雀といえば"仔羊と寝て雲雀と起きよ"という諺がイギリスにあった。シェイクスピアが発端だったか、日本でいう"早起きは三文の徳"だ。
壁の時計をみてみるが暗いのと乱視があるのとでよく分からない。
窓を離れて寝室を出ると、回廊は東天の陽を受けてばかに明るく、起きて早早こころが挫けてくる。
花のつめたい香りがする。
昨晩開けておいた突出し窓から、中庭の気が流れてくるのだ。
桜は無いから沈丁花だろう。すぐ散る花は暖冬で早まって咲いた。……このところ天気は……暑いか寒いかの二極だ。快晴が多い。雨は一か百しか無い降り方をして、だから山に水が浸透しないで、ダムには水が溜まらないのだといつかニュースで聴いた。
局所的豪雨というと、先日散歩した緑地では、歩道側に枝をもたげた桜が三分咲きで降られて散った。
あの日の夜はいろいろとあり寝つけずに、わたしはまた一階のリビングのソファで、赤い男の幻覚と話していたのだ。
『地球より自分の身を案じたら?』
それもそうかと考えて返事を濁すと、赤い男は早口で『No no no no』とかぶりを振った。
『いやね私はきみを害そうだなんて欠片も考えちゃいないがね。──不用心だろう、こんな土地にひとり暮らしは?』
この家は町の丘陵に建っていて、針葉樹に囲繞 されているから取り壊しができない。
ちょうど"冂 "の形をした木造建築。これでいう鉤の部分に玄関がある。ぽかりと空いた下部分は東を向き、まん中の窪みに、広広とした中庭が収まる。
不動産屋いわく築百年を超える。しかし、外装内装ともに往年の使用感はあれど、どこも経年劣化していない修理修繕の要が無いという逸物だ。
そんな物件が破格の安値で売られていたのだった。買手はわたし一人。理由。有り体にいって交通の便が悪い、改築が図り難い、また、ポルターガイストが頻発するおばけ屋敷だったからに相違ない。
とはいえ、わたしがおばけと出会ったのは居住六年目の秋。よく晴れた昼間だった。
その日わたしは、前日、前前日と快晴続きで花粉が大量に飛散していたというのに、家の裏手で繁茂したカナムグラを刈ろうとして花粉にあてられた。くしゃみの弾みで鼻出血し……それで鼻梁を押さえながら屋内に戻り、しかし、やり方が上手くなかった。血が掌底や下顎を垂れてあちこちに散り滴り。床に血痕を残しながらやっとリビングに着いた、ところで、ゴオッ!と何か燃えあがるような音を背後に聞いたのだ。
『HELLO!』
声がした。振り向いた。
まず視界に入ったのは、蛍光、黄緑色の影だ。それは無垢材の床に描かれた正円に正十字の陣から──わたしが描いたのではない──見てくれは焔のようにして噴出していた。
陣の中央に男が立っていた。『NICE TO MEET YOU!』大音量、まるでテープ・デッキを通したような声で話しかけてきた。
『I'm ALASTOR! So, It's a deal then?』
わたしは喫驚 して硬直した。
目前の光景を起きてみる貧血の夢と思い、夢でないのなら、不動産屋が教えてくれたおばけだろうと。
『Wait, ……Huh?? Hold it moment??』
逃げ腰になって口を押さえていたから、胸がつかえて声が籠もった。
わたしが返事に窮していると、黄緑色の影は薄まって消えた。
すると六年暮らしている空間に平素の静けさと明るさが戻ってくる。
正面には、依然と、男。
その色彩が白光に照らされ明瞭に分かる。
長身痩躯に洋物の礼装を着ている。赤髪、動物の立ち耳が生えて枝角が生えている。淡い褐色肌に赤い瞳。しっかりとした眉。はにかんだ黄いろい歯がすべて鋭い。『落ち着いてもらえる?』やんわりと頬笑まれて、わたしは危ぶんで後退した。
『私はアラスター。今後ともよろしく!』
『い』
『きみの名前を訊く前に。先刻から鼻血が出ている。気づいているね?』
『ああ…』
『まずはそれをどうにかしよう。どうぞ洗ってきて。待っているから』
『……』
秋に出会って、冬を越した。
影が消えてもアラスターは居残っていた。
共生して一年も経ずにアラスターは自分の身の上を悪魔だと打ち明けた。だから契約を取り付けにきたのだと、今でも、わたしに頻繁に詰め寄ってくる。
他方わたしは契約も約束も何に対しても気概が無かった。だからいつも『NO』と言ったきり、アラスターが営業を中断するまで口をきかない。
『何が欲しい?』
何も欲しくはない……。
『まあまあ言ってみるだけ。きみも人間、生きているかぎり欲とは縁が切れないものだ。さあひと思いに言ってみな!』
……。
『……今日の夕餉は?』
『もう寝ます』
『作ってあげるよ。何が食べたい?』
『クリームシチュー』
『分かったジャンバラヤね』
『おやすみ』
ああそう。
昨晩はそんなやりとりをして寝室に籠もった。
クリームシチューは、……ホワイトシチューとも呼ばれて、これはどちらも和製英語だ。内容も日本独自に発展した欧風料理。発端は、第二次世界大戦後に政府が学校給食で供したホワイトソース仕立ての白シチューであるとされる。ただし当時は牛乳ではなく、栄養価の高い脱脂粉乳で作られていたと。
この情報をつい昨晩、日本語版Wikipediaで初めて知った。経由して脱脂粉乳の頁を読むと、戦後間もない日本の学校給食で用いられたこれは、主にユニセフからの援助品であったと記してある。
ジャンバラヤは、複数の食文化が混合して出来たニューオーリンズの伝統料理"クレオール料理"の一種とある。米に、肉や魚や野菜などの具材を加え、さらに香辛料を効かせた炒め飯。その起源はスペイン料理のパエリア、綴りは南フランスがプロヴァンス地域のJAMBALAIAが由来、かもしれない、という記述が英語版にある。
その頁では似た米料理から類推して、一六世紀から一九世紀初頭の約三〇〇年行われた大西洋奴隷貿易との関係も示唆されている。とかく歴史的経緯は謎が多いと。
二階にもある洗面所で洗顔と歯磨きを済ませる。
今日もリビングまでに休憩を挟む。
北側の屋内階段を降りるとまた回廊がある。白地に白のアカンサスが描かれた壁紙が朝日を無差別に反射して、光を拾った目の奥がまるで細針を食ったように痛んでくる。
目……眼精疲労は……首や肩周りの凝りが原因の場合があると二〇代後半の頃にクリニックで聴いた。事務で前のめりの姿勢をとり続けていると首肩が凝りやすい、つまり今ではスマートフォンの長時間使用でも同様のことがいえる。だから首肩の筋肉をほぐすと緩和する場合がある。また、視界に明暗の極端な場所があると眼精疲労を起こしやすい。いわゆる逆光に気をつけると良いのだと。
回廊の終わりまできて片開きのドアを開ける。
広いリビングだ。
居間と食堂と台所とが一つ所にある。
この部屋の東側には引き違いの大窓が付いていて、そこから中庭へ直接出られるようになっている。だからやはり朝方は明るく、遮光カーテンを閉めきっていても照明の要が無い。夜間もまた朔日や曇天を除いて完全な闇にはならない。太陽と月の軌道が平行してほとんど同じである理由で、東から西へと動く月の反射光が、部屋に影をすら齎すときがある。
「Good morning, My dear」
アラスターに話しかけられて嬉しく思うのは、……この止めどない思考に、一旦でも区切りがつくためだ。
「Good morning, Alastor」
「Yea」
こういうとき"YES"とは言わないのだな、と思う。
習い性なのか敢えてなのか、アラスターは古い言い回しを好んでいた。わたしを"MY DEAR"と呼ぶのが好例だ。ただしこれはアラスターが"DEER"、つまり鹿の悪魔であることの掛け詞かもしれなかったが。
そういえば好きな歌人が鹿の詩を書いていた。
"白樺の"
「なあ朝餉は食べるだろう?」
アラスターの声。
次に、ぱちんっ、と乾いた音がする。
わたしは入口に立ったままでいて、後ろ手にドアを閉めてから歩きだした。
リビングにある食卓は四人掛けで、これは前の住民が残していった家財のひとつだった。備付けの椅子なんかも同じ経緯だ。
食卓一式は部屋の南側にあるキッチンカウンターに寄せてある。便宜を図って食塩や七味唐辛子の小瓶なんかを卓上に置いてみたが、わたしは味の濃いものが苦手だからあまり使わない。
食卓の定位置に座る。対面にはアラスター。
ふたりの手前にはいつの間に用意されたのか、湯気の立ちのぼる朝食が揃っている。
……一枚の丸皿に、……トースト、スクランブルエッグ、ウインナー、レタスとトマト。利き手側にフォークが置かれている。ほんの少し視線をずらすと、丸皿の向こうに珈琲がみえた。淹れたてだろうか。好きな香りだ。
「召し上がれ」
言うと、アラスターは指を鳴らした。
ぱちんっと音がした直後に、アラスターの手元に新聞が現れる。横文字だ。見出しや内容は乱視で読めないが、附された写真に載っているのは人間ではない。……誰もに動物特有の耳か角が生え、歯牙 や指爪 が尖っている。人間のような体をしながら、頭部だけ液晶TVのひともいる。
慣れないものもある。
「……ありがとう」
「良いよ」
「ただのついでだ」とアラスターは言った。伏し目のまま一瞥もくれず、革手袋を嵌めた手で器用に新聞を捲りはじめた。
わたしは恐縮して再度礼を述べた。「いただきます」と言って朝食に手を合わせると、新聞を捲るアラスターの手が止まる。それにわたしは気に留めていないふりをする。
「……」
まずは珈琲に手を伸ばす。あつあつだ。
ひと口ちびりと飲んでみるが熱すぎて味が分からない。香りは好い。
腕を下ろすと黒い液体の表面に自分の顔が映っていた。やたらに白い影。わたしの対面には──アラスターが座る背後──中庭へと通ずる大窓があって、その遮光カーテンが全開されている。勢いのある朝日が無尽蔵に差しこんでいる。だからこれほど明瞭に映るのだ。
「不思議なひとだね」
アラスターが言った。
わたしが珈琲をもうひと口飲むと、「美味しい?」と訊ねてきたので、軽く顎を引いて肯定した。するとアラスターは「でしょ」と嬉しそうに笑い、新聞を角を揃えて畳んでからそれを机の隅に置いた。
「……」
そうして一拍ほど思案してから、アラスターもまたフォークを取った。
1・シャングリラ
西の向こうへと戻るのだ。
真夜中よりも険の淡くなった反射光が、網戸の細かい格子を透して
色むらのない灰青を眺めていると、影が三羽通りすぎた。大きさからして雲雀かなと、春をして、安直な空想をする。雲雀といえば"仔羊と寝て雲雀と起きよ"という諺がイギリスにあった。シェイクスピアが発端だったか、日本でいう"早起きは三文の徳"だ。
壁の時計をみてみるが暗いのと乱視があるのとでよく分からない。
窓を離れて寝室を出ると、回廊は東天の陽を受けてばかに明るく、起きて早早こころが挫けてくる。
花のつめたい香りがする。
昨晩開けておいた突出し窓から、中庭の気が流れてくるのだ。
桜は無いから沈丁花だろう。すぐ散る花は暖冬で早まって咲いた。……このところ天気は……暑いか寒いかの二極だ。快晴が多い。雨は一か百しか無い降り方をして、だから山に水が浸透しないで、ダムには水が溜まらないのだといつかニュースで聴いた。
局所的豪雨というと、先日散歩した緑地では、歩道側に枝をもたげた桜が三分咲きで降られて散った。
あの日の夜はいろいろとあり寝つけずに、わたしはまた一階のリビングのソファで、赤い男の幻覚と話していたのだ。
『地球より自分の身を案じたら?』
それもそうかと考えて返事を濁すと、赤い男は早口で『No no no no』とかぶりを振った。
『いやね私はきみを害そうだなんて欠片も考えちゃいないがね。──不用心だろう、こんな土地にひとり暮らしは?』
この家は町の丘陵に建っていて、針葉樹に
ちょうど"
不動産屋いわく築百年を超える。しかし、外装内装ともに往年の使用感はあれど、どこも経年劣化していない修理修繕の要が無いという逸物だ。
そんな物件が破格の安値で売られていたのだった。買手はわたし一人。理由。有り体にいって交通の便が悪い、改築が図り難い、また、ポルターガイストが頻発するおばけ屋敷だったからに相違ない。
とはいえ、わたしがおばけと出会ったのは居住六年目の秋。よく晴れた昼間だった。
その日わたしは、前日、前前日と快晴続きで花粉が大量に飛散していたというのに、家の裏手で繁茂したカナムグラを刈ろうとして花粉にあてられた。くしゃみの弾みで鼻出血し……それで鼻梁を押さえながら屋内に戻り、しかし、やり方が上手くなかった。血が掌底や下顎を垂れてあちこちに散り滴り。床に血痕を残しながらやっとリビングに着いた、ところで、ゴオッ!と何か燃えあがるような音を背後に聞いたのだ。
『HELLO!』
声がした。振り向いた。
まず視界に入ったのは、蛍光、黄緑色の影だ。それは無垢材の床に描かれた正円に正十字の陣から──わたしが描いたのではない──見てくれは焔のようにして噴出していた。
陣の中央に男が立っていた。『NICE TO MEET YOU!』大音量、まるでテープ・デッキを通したような声で話しかけてきた。
『I'm ALASTOR! So, It's a deal then?』
わたしは
目前の光景を起きてみる貧血の夢と思い、夢でないのなら、不動産屋が教えてくれたおばけだろうと。
『Wait, ……Huh?? Hold it moment??』
逃げ腰になって口を押さえていたから、胸がつかえて声が籠もった。
わたしが返事に窮していると、黄緑色の影は薄まって消えた。
すると六年暮らしている空間に平素の静けさと明るさが戻ってくる。
正面には、依然と、男。
その色彩が白光に照らされ明瞭に分かる。
長身痩躯に洋物の礼装を着ている。赤髪、動物の立ち耳が生えて枝角が生えている。淡い褐色肌に赤い瞳。しっかりとした眉。はにかんだ黄いろい歯がすべて鋭い。『落ち着いてもらえる?』やんわりと頬笑まれて、わたしは危ぶんで後退した。
『私はアラスター。今後ともよろしく!』
『い』
『きみの名前を訊く前に。先刻から鼻血が出ている。気づいているね?』
『ああ…』
『まずはそれをどうにかしよう。どうぞ洗ってきて。待っているから』
『……』
秋に出会って、冬を越した。
影が消えてもアラスターは居残っていた。
共生して一年も経ずにアラスターは自分の身の上を悪魔だと打ち明けた。だから契約を取り付けにきたのだと、今でも、わたしに頻繁に詰め寄ってくる。
他方わたしは契約も約束も何に対しても気概が無かった。だからいつも『NO』と言ったきり、アラスターが営業を中断するまで口をきかない。
『何が欲しい?』
何も欲しくはない……。
『まあまあ言ってみるだけ。きみも人間、生きているかぎり欲とは縁が切れないものだ。さあひと思いに言ってみな!』
……。
『……今日の夕餉は?』
『もう寝ます』
『作ってあげるよ。何が食べたい?』
『クリームシチュー』
『分かったジャンバラヤね』
『おやすみ』
ああそう。
昨晩はそんなやりとりをして寝室に籠もった。
クリームシチューは、……ホワイトシチューとも呼ばれて、これはどちらも和製英語だ。内容も日本独自に発展した欧風料理。発端は、第二次世界大戦後に政府が学校給食で供したホワイトソース仕立ての白シチューであるとされる。ただし当時は牛乳ではなく、栄養価の高い脱脂粉乳で作られていたと。
この情報をつい昨晩、日本語版Wikipediaで初めて知った。経由して脱脂粉乳の頁を読むと、戦後間もない日本の学校給食で用いられたこれは、主にユニセフからの援助品であったと記してある。
ジャンバラヤは、複数の食文化が混合して出来たニューオーリンズの伝統料理"クレオール料理"の一種とある。米に、肉や魚や野菜などの具材を加え、さらに香辛料を効かせた炒め飯。その起源はスペイン料理のパエリア、綴りは南フランスがプロヴァンス地域のJAMBALAIAが由来、かもしれない、という記述が英語版にある。
その頁では似た米料理から類推して、一六世紀から一九世紀初頭の約三〇〇年行われた大西洋奴隷貿易との関係も示唆されている。とかく歴史的経緯は謎が多いと。
二階にもある洗面所で洗顔と歯磨きを済ませる。
今日もリビングまでに休憩を挟む。
北側の屋内階段を降りるとまた回廊がある。白地に白のアカンサスが描かれた壁紙が朝日を無差別に反射して、光を拾った目の奥がまるで細針を食ったように痛んでくる。
目……眼精疲労は……首や肩周りの凝りが原因の場合があると二〇代後半の頃にクリニックで聴いた。事務で前のめりの姿勢をとり続けていると首肩が凝りやすい、つまり今ではスマートフォンの長時間使用でも同様のことがいえる。だから首肩の筋肉をほぐすと緩和する場合がある。また、視界に明暗の極端な場所があると眼精疲労を起こしやすい。いわゆる逆光に気をつけると良いのだと。
回廊の終わりまできて片開きのドアを開ける。
広いリビングだ。
居間と食堂と台所とが一つ所にある。
この部屋の東側には引き違いの大窓が付いていて、そこから中庭へ直接出られるようになっている。だからやはり朝方は明るく、遮光カーテンを閉めきっていても照明の要が無い。夜間もまた朔日や曇天を除いて完全な闇にはならない。太陽と月の軌道が平行してほとんど同じである理由で、東から西へと動く月の反射光が、部屋に影をすら齎すときがある。
「Good morning, My dear」
アラスターに話しかけられて嬉しく思うのは、……この止めどない思考に、一旦でも区切りがつくためだ。
「Good morning, Alastor」
「Yea」
こういうとき"YES"とは言わないのだな、と思う。
習い性なのか敢えてなのか、アラスターは古い言い回しを好んでいた。わたしを"MY DEAR"と呼ぶのが好例だ。ただしこれはアラスターが"DEER"、つまり鹿の悪魔であることの掛け詞かもしれなかったが。
そういえば好きな歌人が鹿の詩を書いていた。
"白樺の"
「なあ朝餉は食べるだろう?」
アラスターの声。
次に、ぱちんっ、と乾いた音がする。
わたしは入口に立ったままでいて、後ろ手にドアを閉めてから歩きだした。
リビングにある食卓は四人掛けで、これは前の住民が残していった家財のひとつだった。備付けの椅子なんかも同じ経緯だ。
食卓一式は部屋の南側にあるキッチンカウンターに寄せてある。便宜を図って食塩や七味唐辛子の小瓶なんかを卓上に置いてみたが、わたしは味の濃いものが苦手だからあまり使わない。
食卓の定位置に座る。対面にはアラスター。
ふたりの手前にはいつの間に用意されたのか、湯気の立ちのぼる朝食が揃っている。
……一枚の丸皿に、……トースト、スクランブルエッグ、ウインナー、レタスとトマト。利き手側にフォークが置かれている。ほんの少し視線をずらすと、丸皿の向こうに珈琲がみえた。淹れたてだろうか。好きな香りだ。
「召し上がれ」
言うと、アラスターは指を鳴らした。
ぱちんっと音がした直後に、アラスターの手元に新聞が現れる。横文字だ。見出しや内容は乱視で読めないが、附された写真に載っているのは人間ではない。……誰もに動物特有の耳か角が生え、
慣れないものもある。
「……ありがとう」
「良いよ」
「ただのついでだ」とアラスターは言った。伏し目のまま一瞥もくれず、革手袋を嵌めた手で器用に新聞を捲りはじめた。
わたしは恐縮して再度礼を述べた。「いただきます」と言って朝食に手を合わせると、新聞を捲るアラスターの手が止まる。それにわたしは気に留めていないふりをする。
「……」
まずは珈琲に手を伸ばす。あつあつだ。
ひと口ちびりと飲んでみるが熱すぎて味が分からない。香りは好い。
腕を下ろすと黒い液体の表面に自分の顔が映っていた。やたらに白い影。わたしの対面には──アラスターが座る背後──中庭へと通ずる大窓があって、その遮光カーテンが全開されている。勢いのある朝日が無尽蔵に差しこんでいる。だからこれほど明瞭に映るのだ。
「不思議なひとだね」
アラスターが言った。
わたしが珈琲をもうひと口飲むと、「美味しい?」と訊ねてきたので、軽く顎を引いて肯定した。するとアラスターは「でしょ」と嬉しそうに笑い、新聞を角を揃えて畳んでからそれを机の隅に置いた。
「……」
そうして一拍ほど思案してから、アラスターもまたフォークを取った。
1・シャングリラ
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