BLACK BOX
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ゆったりとした足取りに合わせて、衣擦れの音もゆっくりだった。す、す、す──と。明かりを落とした寝室のなか、冷房の稼働音だけが響く部屋のなかで、その音だけが際立って耳に入る。
私が布団に入って、しばらくしてからやってきた馴染みの気配。足音が聞こえない理由は、気配の根源が裸足だからだろう。日本の慣習に合わせて靴は脱いできたのか、それとも──彼は和服を着ていて、それに合わせた装いをしているに過ぎないのか。
ぱっちりと目覚めている私に気付いたらしい。横向きの身体を仰向けにすると、ちょうど敷布団の中間で立ち止まった卿と目が合った。
浴衣姿だ。涼しげだが、あまり見かけないデザインだ。足から首にかけて薄くなるグラデーションに、星形の模様が散りばめられた。
「バレちゃいましたか」
れっきとした不法侵入に悪びれることなく、卿は平然と笑いかけてきた。
私は両目を細める。
「……バレるでしょ…」
「バレない自信があったのですけど」
「むしろ気付かれるように入ってきたでしょう」
「ウフ。さすが、鋭いっ☆」
肩をすくめてウィンクをする、卿の姿は可愛くない。
卿はその場に腰を下ろし、少し考えるような素振りをみせてから私の枕元にある目覚まし時計を手に取った。秒針が回っている面をひとしきり眺めた後、裏返す。そっちはゼンマイがある面だ。
「ステキな懐古趣味ですね」
呟いてゼンマイを巻く。その手にある時計を自分が贈ったこと、卿が覚えているのかは定かでなかった。
「夜明けに設定しておきました」
そっと戻された目覚まし時計は元の時刻を指している。体勢を戻し目を凝らすと、アラーム設定時刻を示す細い長針が五時に動かされていることに気が付いた。
夜明けと言うなら朝の五時だろう。
それまできっと、ここに居座るつもりなのだろう。
私は卿の気まぐれに付き合うつもりで、引っ付いたように重い唇を動かした。
「……弁解をしにいらしたのですか?」
敷布団の中間で、胡坐をかいた卿がハッと目を丸くする。
「私が、アナタに? ふふ。一体何をですか??」
笑えるほど白々しかった。卿本人が笑っていた。
私は卿のあからさまな揶揄に気を病んで、うつな気持ちになりながら先日の件を引き合いに出した。
私の自宅へ繋がる鍵を卿が所持していたこと。スペアが無いと言い切った直後、まるで普段使いしているふうにその鍵を取り出したこと。私の与り知らないところで、卿が自宅へ来ていたかもしれない──それが気にかかって仕方がないこと。
不安がる私を珍しそうに眺めながら、卿は胡坐をかいた腿に片肘を突いてニコついていた。「心配なさらずとも」
「アレは今この状況へと至らせる布石ですよ。使用だって、この一度きりにします」
甘い顔つきと宥める口調が、慣れているというか、そんな風情。
嫌疑の矛先が自分に向いているなど、何てことないようだった。
私は居た堪れなくなった。ただの一人芝居な気がしてきた。逃げ場欲しさに布団で顔を隠すと、卿の笑みがいたずらに深くなる。彼はそのまま「しかしねナマエさん」と切り出した。
「私がアナタに会いに行くとき、それは決まって寂しいときです。よもや低俗かつハレンチな思惑など……まあ、なくはないですけど、アナタと相対した私の心はいつだって野に咲く花のようで害意など欠片も……」
「……」
「お休みになられました?」
「起きてます」
「良かった。ともかくこれらは寂しい悪魔の人恋しさが起こした、一夜の過ちだったわけです」
隠した私の唇がへの字に曲がった。
つまり卿が言うには、私の自宅へ繋がる鍵は持っていただけで、使ったのは今回が初めて。今の状況が不法侵入であることは理解している。けれど疚しい思いはないし、悪いことなどしないので、一連の出来事は水に流してくれないか、という。
私は冷静になった。
もし目の前の卿が見知らぬ人間であったとして、先と同じようなことを告げてきた場合を脳内でシミュレートしてみた。シミュレート内の私は間髪入れず110番に通報した。
卿と見知らぬ人間の違いは、私からの信頼があるかないか、悪魔か人間かの二つだろう。が、しかしその信頼がなければ卿もシミュレート内の人間と同様、110番のお世話になっているはずだ。どのような事情があれ、両者とも犯罪を冒したことに変わりはないのだから。
「大目に見られません」
掛け布団から顔を出して、きっぱりと言い放った。
「理由があってもなくてもです」
「赦して下さらない?」
「貴方にとって赦されることに、意味があるとは思えません」
卿は私の言葉を聞いて、片肘を突いたまま一層笑んだ。
「まったく仰る通りで」
ゆるく下げられた眉と眦に、常夜灯も落とした部屋の闇が、まるで喪服のベールのようになって垂れこめている。
平気そうな緑の瞳が、一瞬何かに揺らめいて見えた。
それが何にか考えが至る前に、笑んだ唇が次の語を発していた。
「悪魔に……情状酌量の余地があるなどという、そんなお優しい考えは打ちやっておいた方が良い」
微笑った顔は相変わらずで、声音の方も落ち着いている。
おかしいのは下げられた眉と、揺らめいてみえた緑の瞳だ。
涙か、風か、あるいは錯覚。卿の表情が本心なのか演技なのか、私には分からなかった。けれど私が読み取れる情報として、私にそう思われるよう、彼が意図して『悲しいかお』を示してきたのは確かだった。
──傷付けたと、卿は私に思ってほしかったのだろうか。
傷付けてしまったことに、傷付いてほしかったのだろうか。
誘惑にしては、やさしげな。
胸を過ぎった言葉にぎくりとした。
誘惑だって、これが?
わだかまる動悸は、はっきりとした動揺だ。
私は薄く息を吐いた。
急にそちらを見られなくなり、横頬を預けていた枕に顔を埋めた。
……私が手騎士を取れないのは、こういう所以だった。
かれらがパーソナルスペースに入ってこない限りは、何事にも動じすにいられるが、一度入られると、もう駄目なのだ。弱いながらも起こった動悸は致命的だ。真水に落ちた一粒の塩のように、ほんの小さな汚染を許してしまう時点で、私は悪魔堕ちと隣り合わせな手騎士には向いていなかった。
聖職者の本懐を忘れてはならないと、分かっていながら構いたくなるし、あまつさえ構ってくるのだから、悪魔との対話は難しかった。
ひと呼吸、ふた呼吸置けば動悸は収まった。
私はゆっくりと顔を上げた。
『悲しいかお』はどこへやら捨てやり、卿は依然、甘い顔つきを私に向けていた。
「メフィストさん」
初めて名前を呼ばれたことに、彼はきっと気付いただろう。
私は布団に収めていた右手を出し、卿を静かに手招いた。それに一拍きょとんとした卿が、直ぐに頬杖を解いて、枕元へ顔を寄せてくる。
「はあい。なんでしょう」
穏やかな口調。無警戒というよりは、何をされてもどうとでもなるから、されるがままのようだ。
その、従順な左頬を、私は手招いた手で摘まんでみせた。
「……へぁ?」
すっとんきょうな声が上がる。私に頬を摘ままれながらだったので、引き伸ばされた口端から並より鋭い犬歯が見えた。そうして口をぼんやりと開けた状態で、説明が欲しそうに見つめられる。
「……。いや」
私は率直な感想を述べることにした。
「誘惑されているのかなと」
率直すぎたせいか、卿の左頬が強張った。
「触れられて満足するなら、触れてあげようと思いまして」
卿がぱちぱちと目を瞬かせる。
「ふれ。触れるにしても、これは」
卿はその先を詰まらせた。頬を摘まむ私の手と、私の顔を交互に見ながら、「ん」やら「あ」やら口ごもっている。
それに今度は私が目を丸くした。もっと軽々にあしらわれると思っていた。
誘惑を指摘された悪魔って、こういう反応をするものなのか。メフィスト・フェレス卿ともあろう大悪魔(ひと)が、常ならば軽く受け流すだろう図星に、どうすればいいか分からなくなっているのか。
初めて間近に見る狼狽姿を、私はまじまじと見つめてしまった。が、やがて目を見開いて固まってしまったフェレス卿の、その酷い動揺の仕方がかわいそうになり、遠慮がちに左頬から手を離した。
「……」
だけども卿は尚も茫然としている。
私は自分の所在なくなった右手を、布団に戻そうか戻さまいかと揺らした。急に何も言われなくなったので、どうしていいか分からなくなったのだ。そして私は、自分でもわけが分からないうちに、迷った右手を卿が床についていた左手に重ねていた。寝せつけるように親指で撫でると、手の甲の骨が引っかかった。
冷たい手だった。
浴衣の装いに合わせてか、卿はいつもの手袋を嵌めていなかった。
だから直に触れ合うと、卿の手の薄く骨ばった感じや、皮膚の下から冷えているような肌の感じが、はっきりと伝わってきた。
知っていた。卿が憑依しているドイツ人男性の身体は、はるか昔に生命活動を終えている。このひとの身体が瘦せっぽちで冷たいなんて、分かりきっていたことだった。なのに、それらがまるで今初めて私の眼前に現れて、突きつけられたように唐突に感じられた。
不意に、卿の左手が私から逃れて、お互いの位置を変えた。そのまま上から握られて、私の右の手のひらはまた卿の左頬に添わされた。
動揺から脱した目とかち合う。
交差する視線を仕舞い込むように、卿はゆるりと目を閉じた。
私の右の手のひらの下、私が摘まんでいたと思われる部分は、すっかり死人の冷たさに戻っていた。
その体に憑依した彼自身は、今を生きて、今も息をしているのに。
「──……私は骨のようでしょう」
私は何も言えなかった。つくづく手騎士に向いていないなと、この寝室と同じくらい暗くなった心で痛感した。
生ける熱を大切そうに掴んでいる、彼の自虐にどのような言葉を返せば良いのか、分からなかった。分かったところで私がかける慰めの言葉など、鋭い氷のナイフほど残酷で、無意味なものにしかなりようがない。
「それは自惚れですよ」
はたと目蓋を上げた卿が、私の瞳を注視して笑った。
嘲笑交じりの揶揄だった。
部屋の暗闇に目が慣れて、悪魔憑きの深すぎる隈が視認できる。
私は口を引き結んだ。
冷房の効いた快適な寝室で、卿に捕らえられた右手だけが私の意識を冴えさせている。
「私はね」
と、卿は柔らかく前置いた。
「ナマエさんのそういう飾り気のないところや、世の中から少し突出した考え方や在り方が、三年前から面白いなと思っていますよ」
「……は はあ」
「有り体に言うと好きです。たぶん」
たぶん。
思わず復唱した。それに卿が困ったふうに笑う。
「私自身、アナタへ抱く気持ちについてよく分かっていないんです。これでも、公私混同はしない主義なのですが……ナマエさんを本部から引き抜いて私直属の部下にしたり、ナマエさんのご自宅にこうして訪ねたり。いずれこの気持ちの延長がアナタの負担になることもあるでしょう」
「…………今?」
「あは。はい。そして大目に見て下さらないとのことなので、今、本気で自重を考えているところです」
私の右手を離さずに、卿はゆっくりと横になった。布団から出た私の右腕が、枕元に置かれていた目覚まし時計のベルに触れる。ハッとする金属の冷たさだ。目ざとい卿は迅速に、横寝する私の頭上あたりに時計を移動させた。
「しかし私は悪魔なので、己の欲求を捻じ曲げるのは不本意でしてね」
卿が「くくっ」と喉を鳴らす。
「本気で自重を考えていると言った手前、アナタの夢に私が現れないことを祈るくらいしか、自重の仕方も思い浮かばないんですよ」
「……もともと自重する気がないんじゃありません」
「違いない。ですから遅かれ早かれ、きっと私がナマエさんの心身の負担になりますので、今ご忠告しておきます」
愉快そうな顔をして、私の右手を握ってくる。この左手から逃れようとすることが、どれほど無為で無駄であるのか察したので、そのまま、私は卿の指手の冷たさにされるがままにしておいた。
悪魔に気に入られ、かつ安眠を祈られる祓魔師というのは、どうなのだろう。
私が知らないだけで、ままあるのだろうな、と。
暗闇のなか、卿と目を合わせながら他人事のように考えていると、やはり思考を読まれていたようで、卿はむっと下唇を突き出した。そんな卿の様子を見、読心術を逆手に取って「そろそろ帰ってほしい」と一念送れば、受信したらしいメフィスト・フェレスは私の右手で両目を隠した。
2020/8月・BLACK BOX
私が布団に入って、しばらくしてからやってきた馴染みの気配。足音が聞こえない理由は、気配の根源が裸足だからだろう。日本の慣習に合わせて靴は脱いできたのか、それとも──彼は和服を着ていて、それに合わせた装いをしているに過ぎないのか。
ぱっちりと目覚めている私に気付いたらしい。横向きの身体を仰向けにすると、ちょうど敷布団の中間で立ち止まった卿と目が合った。
浴衣姿だ。涼しげだが、あまり見かけないデザインだ。足から首にかけて薄くなるグラデーションに、星形の模様が散りばめられた。
「バレちゃいましたか」
れっきとした不法侵入に悪びれることなく、卿は平然と笑いかけてきた。
私は両目を細める。
「……バレるでしょ…」
「バレない自信があったのですけど」
「むしろ気付かれるように入ってきたでしょう」
「ウフ。さすが、鋭いっ☆」
肩をすくめてウィンクをする、卿の姿は可愛くない。
卿はその場に腰を下ろし、少し考えるような素振りをみせてから私の枕元にある目覚まし時計を手に取った。秒針が回っている面をひとしきり眺めた後、裏返す。そっちはゼンマイがある面だ。
「ステキな懐古趣味ですね」
呟いてゼンマイを巻く。その手にある時計を自分が贈ったこと、卿が覚えているのかは定かでなかった。
「夜明けに設定しておきました」
そっと戻された目覚まし時計は元の時刻を指している。体勢を戻し目を凝らすと、アラーム設定時刻を示す細い長針が五時に動かされていることに気が付いた。
夜明けと言うなら朝の五時だろう。
それまできっと、ここに居座るつもりなのだろう。
私は卿の気まぐれに付き合うつもりで、引っ付いたように重い唇を動かした。
「……弁解をしにいらしたのですか?」
敷布団の中間で、胡坐をかいた卿がハッと目を丸くする。
「私が、アナタに? ふふ。一体何をですか??」
笑えるほど白々しかった。卿本人が笑っていた。
私は卿のあからさまな揶揄に気を病んで、うつな気持ちになりながら先日の件を引き合いに出した。
私の自宅へ繋がる鍵を卿が所持していたこと。スペアが無いと言い切った直後、まるで普段使いしているふうにその鍵を取り出したこと。私の与り知らないところで、卿が自宅へ来ていたかもしれない──それが気にかかって仕方がないこと。
不安がる私を珍しそうに眺めながら、卿は胡坐をかいた腿に片肘を突いてニコついていた。「心配なさらずとも」
「アレは今この状況へと至らせる布石ですよ。使用だって、この一度きりにします」
甘い顔つきと宥める口調が、慣れているというか、そんな風情。
嫌疑の矛先が自分に向いているなど、何てことないようだった。
私は居た堪れなくなった。ただの一人芝居な気がしてきた。逃げ場欲しさに布団で顔を隠すと、卿の笑みがいたずらに深くなる。彼はそのまま「しかしねナマエさん」と切り出した。
「私がアナタに会いに行くとき、それは決まって寂しいときです。よもや低俗かつハレンチな思惑など……まあ、なくはないですけど、アナタと相対した私の心はいつだって野に咲く花のようで害意など欠片も……」
「……」
「お休みになられました?」
「起きてます」
「良かった。ともかくこれらは寂しい悪魔の人恋しさが起こした、一夜の過ちだったわけです」
隠した私の唇がへの字に曲がった。
つまり卿が言うには、私の自宅へ繋がる鍵は持っていただけで、使ったのは今回が初めて。今の状況が不法侵入であることは理解している。けれど疚しい思いはないし、悪いことなどしないので、一連の出来事は水に流してくれないか、という。
私は冷静になった。
もし目の前の卿が見知らぬ人間であったとして、先と同じようなことを告げてきた場合を脳内でシミュレートしてみた。シミュレート内の私は間髪入れず110番に通報した。
卿と見知らぬ人間の違いは、私からの信頼があるかないか、悪魔か人間かの二つだろう。が、しかしその信頼がなければ卿もシミュレート内の人間と同様、110番のお世話になっているはずだ。どのような事情があれ、両者とも犯罪を冒したことに変わりはないのだから。
「大目に見られません」
掛け布団から顔を出して、きっぱりと言い放った。
「理由があってもなくてもです」
「赦して下さらない?」
「貴方にとって赦されることに、意味があるとは思えません」
卿は私の言葉を聞いて、片肘を突いたまま一層笑んだ。
「まったく仰る通りで」
ゆるく下げられた眉と眦に、常夜灯も落とした部屋の闇が、まるで喪服のベールのようになって垂れこめている。
平気そうな緑の瞳が、一瞬何かに揺らめいて見えた。
それが何にか考えが至る前に、笑んだ唇が次の語を発していた。
「悪魔に……情状酌量の余地があるなどという、そんなお優しい考えは打ちやっておいた方が良い」
微笑った顔は相変わらずで、声音の方も落ち着いている。
おかしいのは下げられた眉と、揺らめいてみえた緑の瞳だ。
涙か、風か、あるいは錯覚。卿の表情が本心なのか演技なのか、私には分からなかった。けれど私が読み取れる情報として、私にそう思われるよう、彼が意図して『悲しいかお』を示してきたのは確かだった。
──傷付けたと、卿は私に思ってほしかったのだろうか。
傷付けてしまったことに、傷付いてほしかったのだろうか。
誘惑にしては、やさしげな。
胸を過ぎった言葉にぎくりとした。
誘惑だって、これが?
わだかまる動悸は、はっきりとした動揺だ。
私は薄く息を吐いた。
急にそちらを見られなくなり、横頬を預けていた枕に顔を埋めた。
……私が手騎士を取れないのは、こういう所以だった。
かれらがパーソナルスペースに入ってこない限りは、何事にも動じすにいられるが、一度入られると、もう駄目なのだ。弱いながらも起こった動悸は致命的だ。真水に落ちた一粒の塩のように、ほんの小さな汚染を許してしまう時点で、私は悪魔堕ちと隣り合わせな手騎士には向いていなかった。
聖職者の本懐を忘れてはならないと、分かっていながら構いたくなるし、あまつさえ構ってくるのだから、悪魔との対話は難しかった。
ひと呼吸、ふた呼吸置けば動悸は収まった。
私はゆっくりと顔を上げた。
『悲しいかお』はどこへやら捨てやり、卿は依然、甘い顔つきを私に向けていた。
「メフィストさん」
初めて名前を呼ばれたことに、彼はきっと気付いただろう。
私は布団に収めていた右手を出し、卿を静かに手招いた。それに一拍きょとんとした卿が、直ぐに頬杖を解いて、枕元へ顔を寄せてくる。
「はあい。なんでしょう」
穏やかな口調。無警戒というよりは、何をされてもどうとでもなるから、されるがままのようだ。
その、従順な左頬を、私は手招いた手で摘まんでみせた。
「……へぁ?」
すっとんきょうな声が上がる。私に頬を摘ままれながらだったので、引き伸ばされた口端から並より鋭い犬歯が見えた。そうして口をぼんやりと開けた状態で、説明が欲しそうに見つめられる。
「……。いや」
私は率直な感想を述べることにした。
「誘惑されているのかなと」
率直すぎたせいか、卿の左頬が強張った。
「触れられて満足するなら、触れてあげようと思いまして」
卿がぱちぱちと目を瞬かせる。
「ふれ。触れるにしても、これは」
卿はその先を詰まらせた。頬を摘まむ私の手と、私の顔を交互に見ながら、「ん」やら「あ」やら口ごもっている。
それに今度は私が目を丸くした。もっと軽々にあしらわれると思っていた。
誘惑を指摘された悪魔って、こういう反応をするものなのか。メフィスト・フェレス卿ともあろう大悪魔(ひと)が、常ならば軽く受け流すだろう図星に、どうすればいいか分からなくなっているのか。
初めて間近に見る狼狽姿を、私はまじまじと見つめてしまった。が、やがて目を見開いて固まってしまったフェレス卿の、その酷い動揺の仕方がかわいそうになり、遠慮がちに左頬から手を離した。
「……」
だけども卿は尚も茫然としている。
私は自分の所在なくなった右手を、布団に戻そうか戻さまいかと揺らした。急に何も言われなくなったので、どうしていいか分からなくなったのだ。そして私は、自分でもわけが分からないうちに、迷った右手を卿が床についていた左手に重ねていた。寝せつけるように親指で撫でると、手の甲の骨が引っかかった。
冷たい手だった。
浴衣の装いに合わせてか、卿はいつもの手袋を嵌めていなかった。
だから直に触れ合うと、卿の手の薄く骨ばった感じや、皮膚の下から冷えているような肌の感じが、はっきりと伝わってきた。
知っていた。卿が憑依しているドイツ人男性の身体は、はるか昔に生命活動を終えている。このひとの身体が瘦せっぽちで冷たいなんて、分かりきっていたことだった。なのに、それらがまるで今初めて私の眼前に現れて、突きつけられたように唐突に感じられた。
不意に、卿の左手が私から逃れて、お互いの位置を変えた。そのまま上から握られて、私の右の手のひらはまた卿の左頬に添わされた。
動揺から脱した目とかち合う。
交差する視線を仕舞い込むように、卿はゆるりと目を閉じた。
私の右の手のひらの下、私が摘まんでいたと思われる部分は、すっかり死人の冷たさに戻っていた。
その体に憑依した彼自身は、今を生きて、今も息をしているのに。
「──……私は骨のようでしょう」
私は何も言えなかった。つくづく手騎士に向いていないなと、この寝室と同じくらい暗くなった心で痛感した。
生ける熱を大切そうに掴んでいる、彼の自虐にどのような言葉を返せば良いのか、分からなかった。分かったところで私がかける慰めの言葉など、鋭い氷のナイフほど残酷で、無意味なものにしかなりようがない。
「それは自惚れですよ」
はたと目蓋を上げた卿が、私の瞳を注視して笑った。
嘲笑交じりの揶揄だった。
部屋の暗闇に目が慣れて、悪魔憑きの深すぎる隈が視認できる。
私は口を引き結んだ。
冷房の効いた快適な寝室で、卿に捕らえられた右手だけが私の意識を冴えさせている。
「私はね」
と、卿は柔らかく前置いた。
「ナマエさんのそういう飾り気のないところや、世の中から少し突出した考え方や在り方が、三年前から面白いなと思っていますよ」
「……は はあ」
「有り体に言うと好きです。たぶん」
たぶん。
思わず復唱した。それに卿が困ったふうに笑う。
「私自身、アナタへ抱く気持ちについてよく分かっていないんです。これでも、公私混同はしない主義なのですが……ナマエさんを本部から引き抜いて私直属の部下にしたり、ナマエさんのご自宅にこうして訪ねたり。いずれこの気持ちの延長がアナタの負担になることもあるでしょう」
「…………今?」
「あは。はい。そして大目に見て下さらないとのことなので、今、本気で自重を考えているところです」
私の右手を離さずに、卿はゆっくりと横になった。布団から出た私の右腕が、枕元に置かれていた目覚まし時計のベルに触れる。ハッとする金属の冷たさだ。目ざとい卿は迅速に、横寝する私の頭上あたりに時計を移動させた。
「しかし私は悪魔なので、己の欲求を捻じ曲げるのは不本意でしてね」
卿が「くくっ」と喉を鳴らす。
「本気で自重を考えていると言った手前、アナタの夢に私が現れないことを祈るくらいしか、自重の仕方も思い浮かばないんですよ」
「……もともと自重する気がないんじゃありません」
「違いない。ですから遅かれ早かれ、きっと私がナマエさんの心身の負担になりますので、今ご忠告しておきます」
愉快そうな顔をして、私の右手を握ってくる。この左手から逃れようとすることが、どれほど無為で無駄であるのか察したので、そのまま、私は卿の指手の冷たさにされるがままにしておいた。
悪魔に気に入られ、かつ安眠を祈られる祓魔師というのは、どうなのだろう。
私が知らないだけで、ままあるのだろうな、と。
暗闇のなか、卿と目を合わせながら他人事のように考えていると、やはり思考を読まれていたようで、卿はむっと下唇を突き出した。そんな卿の様子を見、読心術を逆手に取って「そろそろ帰ってほしい」と一念送れば、受信したらしいメフィスト・フェレスは私の右手で両目を隠した。
2020/8月・BLACK BOX