BLACK BOX
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「どうしてこんな面白いことに?」
ドアノブに手をかけたまま、卿は今にも吹き出しそうな顔で私を振り返った。
双方、徹夜明けであったのが災いしたのだろうか。数分かけて考えてみて、やはり一つも思い当たる節がない。
目が合った卿が可笑しそうに小首を傾げたので、私も同じように小首を傾げてみる。
何がどうなってこうなったのか。
「私にもちょっと分かりません」
──魔法の鍵に異変が起きたのは、日もすっかり暮れた頃。
遠方での任務が終わり、日本支部に帰還しようとしたときだった。
平時どおり現場で報告書を書き上げ、近場のドアに鍵を使った。日本支部に繋がる鍵でドアを開けたのなら、当然その先は日本支部であるはずだ。そのことに何の疑いもなかった私は、二、三歩ドアの向こうへ足を踏み出して止まった。
敷き詰め絨毯の、足が沈む感触。ブーツ越しの感触は支部の硬質な石畳ではない。
違和感に顔を上げた矢先、唖然とした。すかさず手元を確認するが、手には確かに日本支部の鍵が握られている。
瞳を擦って凝視して、改めて見上げたドアの向こうにはメフィスト・フェレス卿の執務室が広がっていた。
部屋は明かりが点いておらず、主の姿もなかった。今日の午後は所用があると話していたので、きっとそれで留守にしているのだろう。
私は自分が鍵の不具合に遭ったことを承知して、しかし同時に疲れから気でも迷ったのだと考えた。誰もいない部屋に回れ右をし、先ほど通ってきたドアに再び支部の鍵を使った。が、ドアの先は今いるフェレス卿の執務室。
さらにもう一度鍵を使うが同じ光景。ならばと自宅へ繋がる鍵を使ってみるが同じ光景。最後に出張所の鍵を使って、やはり同じ光景が現れ、そこで鍵束を腰のベルトに戻した。
卿の邸宅に常駐しているベリアルさんに事情を伝えると、快く応接間へ通してくれた。道中「よろしければ支部まで送迎いたしましょうか」と提案されたが、丁重にお断りした。
特段、報告書を即日で出さなければならない決まりは騎士團にない。任務完了後すぐに報告書を出しているのは単なる私のルーティンであって、それに強い執着があるわけでもないのだ。
応接間で待つこと三時間半。
もはや夜明けも間近になって、卿は帰宅した。
そして状況は冒頭へ。
「ナマエさん、鍵はいくつお持ちでしたっけ」
「百は下らないかと思います」
「フーン。もう、昇級なさればよろしいのに」
私からじゃらじゃらとした鍵束を受け取った卿は、手遊びのようにそれを揺らした。所用から帰った着の身着のままで来てくれたらしい、白い團服に身を包んだ卿は手袋だけを外した風体だった。その、鍵束ではなく手の爪先を見るような仕草に、いつになく疲れが滲み出ていた。
「手騎士とか取らないんです?」
ふら、と寄越された視線に思わず笑う。
「手騎士は適性がなくて」
「……へえ?」
「試験官の折り紙つきです。筆記が良くても、実技が駄目ではね」
ひとしきり何か確認し終えたのか、卿が不具合のあった鍵束をひときわ強く振った。重いキーリングは揺れの転換で脈絡なく消える。持ち物がなくなった手のひらをぱっと広げて握り込み、握り込んだ手を卿は私に差し伸べた。
「残念」
「はい」
「でも、どうか気を落とさないで」
直後、伸べられた手が指を鳴らす。
『ポン』という軽い音と共にピンクの煙が目の前で弾け、私は反射的に口を覆った。
「、……」
煙は刹那に霧散した。クリアな視界の中心で、変わらず差し伸べられている手のひらに消えたはずの私の鍵束がかけられている。──いや、キーリングを滑る鍵の順番は似通っているが、鍵のひとつひとつが真新しい。往年の使用感はなく、色味も鮮やかだ、この鍵束は私のものではない。
私が硬直していると、卿は私の腰に遠慮なく鍵束を取り付けた。
「スペアキーで揃えたものです。そちらは問題なく動作しますので、修理が終わるまでお使い下さい」
「……ありがとう、ございます。あの、修理はいつ頃に終わりますか」
「数が数なので保証しかねますが、遅くとも一週間後には」
思ったよりもずっと早い。
「宜しくお願いします」
過ぎるくらいの手際の良さに頭を下げると、卿は至極平然として「まあノアの箱舟に乗ったつもりでいて下さいよ」と笑った。適当に笑い返しておいたが、ここに反悪魔主義の祓魔師がいれば聖銀製の弾丸が飛んできそうだ。それが、卿に効くのかは別として。
不意に、ポッポッポーと軽妙な音が鳴った。
鳩時計だ。応接間の壁を振り返ると、朝五時を知らせる時報だった。
鳩時計のある壁の奥、私たちが立つドアの反対側にある窓の、閉じられたカーテンの隙間から淡い明るい水色が見えた。こちらに朝日は射してきていないが、外はきっと暖かな光が流れているだろう。
ポッポー、ポッポー、鳩時計の時報が終わる。
徹夜明けの泥のような沈黙が一拍ほど落ちて、どうして私はメフィスト・フェレス卿の邸宅で朝を迎えているのだろうと急に我に返った。よく考えてみると意味が分からない。なぜ、私の魔法の鍵は、卿の執務室以外に繋がらなくなったのか。理由も原因も意味も分からない。
「……帰って寝ます」
「ですね。私も自室で眠ります。今日はオフにしましょう」
「ありがとうございます。お疲れのところ申し訳ありませんでした」
部屋奥に向けていた顔を戻し、卿にお辞儀をして腰の鍵束を手に取った。
私がせんとすることを読み取った卿がドア前から一歩退く。それに再度お辞儀をして自宅へ繋がる鍵を探していると、ふと卿が「そうだ」と言葉を洩らした。
「ナマエさんの自宅へ繋がる鍵、スペアを作っていないのでした。すみません忘れていて。私が所持しているものを差し上げますので、使って下さい」
「ああ。ありがとうございま、……」
鍵。
無色透明な鍵。スペアがない鍵。
真横から手が伸びてきて、流れるような動作で私が持つキーリングに取り付けた。
「おやすみなさい。良い夢を」
耳の隣で言われた。
どうして彼の懐から、さも当然のように私の自宅へ繋がる鍵が取り出されたのか。
鍵穴に挿した魔法を捻る。
「……良い夢を。失礼します」
それは甚だ不可解だったが、しかし眠気に勝てなかった私は早々に邸宅を後にした。
双方、徹夜明けであったのが災いしたのかもしれない。
風呂に入り、歯を磨き、寝巻きに着替えて冷房をかけ、布団の中で眠るまで。卿への疑念は頭に残り続けていた。
そのせいなのかは分からない。初めて夢に現れたフェレス卿は、私の頬を両手で包み、まるで水底を覗き込むようにして私の瞳と目を合わせていた。
2020/7月・BLACK BOX
ドアノブに手をかけたまま、卿は今にも吹き出しそうな顔で私を振り返った。
双方、徹夜明けであったのが災いしたのだろうか。数分かけて考えてみて、やはり一つも思い当たる節がない。
目が合った卿が可笑しそうに小首を傾げたので、私も同じように小首を傾げてみる。
何がどうなってこうなったのか。
「私にもちょっと分かりません」
──魔法の鍵に異変が起きたのは、日もすっかり暮れた頃。
遠方での任務が終わり、日本支部に帰還しようとしたときだった。
平時どおり現場で報告書を書き上げ、近場のドアに鍵を使った。日本支部に繋がる鍵でドアを開けたのなら、当然その先は日本支部であるはずだ。そのことに何の疑いもなかった私は、二、三歩ドアの向こうへ足を踏み出して止まった。
敷き詰め絨毯の、足が沈む感触。ブーツ越しの感触は支部の硬質な石畳ではない。
違和感に顔を上げた矢先、唖然とした。すかさず手元を確認するが、手には確かに日本支部の鍵が握られている。
瞳を擦って凝視して、改めて見上げたドアの向こうにはメフィスト・フェレス卿の執務室が広がっていた。
部屋は明かりが点いておらず、主の姿もなかった。今日の午後は所用があると話していたので、きっとそれで留守にしているのだろう。
私は自分が鍵の不具合に遭ったことを承知して、しかし同時に疲れから気でも迷ったのだと考えた。誰もいない部屋に回れ右をし、先ほど通ってきたドアに再び支部の鍵を使った。が、ドアの先は今いるフェレス卿の執務室。
さらにもう一度鍵を使うが同じ光景。ならばと自宅へ繋がる鍵を使ってみるが同じ光景。最後に出張所の鍵を使って、やはり同じ光景が現れ、そこで鍵束を腰のベルトに戻した。
卿の邸宅に常駐しているベリアルさんに事情を伝えると、快く応接間へ通してくれた。道中「よろしければ支部まで送迎いたしましょうか」と提案されたが、丁重にお断りした。
特段、報告書を即日で出さなければならない決まりは騎士團にない。任務完了後すぐに報告書を出しているのは単なる私のルーティンであって、それに強い執着があるわけでもないのだ。
応接間で待つこと三時間半。
もはや夜明けも間近になって、卿は帰宅した。
そして状況は冒頭へ。
「ナマエさん、鍵はいくつお持ちでしたっけ」
「百は下らないかと思います」
「フーン。もう、昇級なさればよろしいのに」
私からじゃらじゃらとした鍵束を受け取った卿は、手遊びのようにそれを揺らした。所用から帰った着の身着のままで来てくれたらしい、白い團服に身を包んだ卿は手袋だけを外した風体だった。その、鍵束ではなく手の爪先を見るような仕草に、いつになく疲れが滲み出ていた。
「手騎士とか取らないんです?」
ふら、と寄越された視線に思わず笑う。
「手騎士は適性がなくて」
「……へえ?」
「試験官の折り紙つきです。筆記が良くても、実技が駄目ではね」
ひとしきり何か確認し終えたのか、卿が不具合のあった鍵束をひときわ強く振った。重いキーリングは揺れの転換で脈絡なく消える。持ち物がなくなった手のひらをぱっと広げて握り込み、握り込んだ手を卿は私に差し伸べた。
「残念」
「はい」
「でも、どうか気を落とさないで」
直後、伸べられた手が指を鳴らす。
『ポン』という軽い音と共にピンクの煙が目の前で弾け、私は反射的に口を覆った。
「、……」
煙は刹那に霧散した。クリアな視界の中心で、変わらず差し伸べられている手のひらに消えたはずの私の鍵束がかけられている。──いや、キーリングを滑る鍵の順番は似通っているが、鍵のひとつひとつが真新しい。往年の使用感はなく、色味も鮮やかだ、この鍵束は私のものではない。
私が硬直していると、卿は私の腰に遠慮なく鍵束を取り付けた。
「スペアキーで揃えたものです。そちらは問題なく動作しますので、修理が終わるまでお使い下さい」
「……ありがとう、ございます。あの、修理はいつ頃に終わりますか」
「数が数なので保証しかねますが、遅くとも一週間後には」
思ったよりもずっと早い。
「宜しくお願いします」
過ぎるくらいの手際の良さに頭を下げると、卿は至極平然として「まあノアの箱舟に乗ったつもりでいて下さいよ」と笑った。適当に笑い返しておいたが、ここに反悪魔主義の祓魔師がいれば聖銀製の弾丸が飛んできそうだ。それが、卿に効くのかは別として。
不意に、ポッポッポーと軽妙な音が鳴った。
鳩時計だ。応接間の壁を振り返ると、朝五時を知らせる時報だった。
鳩時計のある壁の奥、私たちが立つドアの反対側にある窓の、閉じられたカーテンの隙間から淡い明るい水色が見えた。こちらに朝日は射してきていないが、外はきっと暖かな光が流れているだろう。
ポッポー、ポッポー、鳩時計の時報が終わる。
徹夜明けの泥のような沈黙が一拍ほど落ちて、どうして私はメフィスト・フェレス卿の邸宅で朝を迎えているのだろうと急に我に返った。よく考えてみると意味が分からない。なぜ、私の魔法の鍵は、卿の執務室以外に繋がらなくなったのか。理由も原因も意味も分からない。
「……帰って寝ます」
「ですね。私も自室で眠ります。今日はオフにしましょう」
「ありがとうございます。お疲れのところ申し訳ありませんでした」
部屋奥に向けていた顔を戻し、卿にお辞儀をして腰の鍵束を手に取った。
私がせんとすることを読み取った卿がドア前から一歩退く。それに再度お辞儀をして自宅へ繋がる鍵を探していると、ふと卿が「そうだ」と言葉を洩らした。
「ナマエさんの自宅へ繋がる鍵、スペアを作っていないのでした。すみません忘れていて。私が所持しているものを差し上げますので、使って下さい」
「ああ。ありがとうございま、……」
鍵。
無色透明な鍵。スペアがない鍵。
真横から手が伸びてきて、流れるような動作で私が持つキーリングに取り付けた。
「おやすみなさい。良い夢を」
耳の隣で言われた。
どうして彼の懐から、さも当然のように私の自宅へ繋がる鍵が取り出されたのか。
鍵穴に挿した魔法を捻る。
「……良い夢を。失礼します」
それは甚だ不可解だったが、しかし眠気に勝てなかった私は早々に邸宅を後にした。
双方、徹夜明けであったのが災いしたのかもしれない。
風呂に入り、歯を磨き、寝巻きに着替えて冷房をかけ、布団の中で眠るまで。卿への疑念は頭に残り続けていた。
そのせいなのかは分からない。初めて夢に現れたフェレス卿は、私の頬を両手で包み、まるで水底を覗き込むようにして私の瞳と目を合わせていた。
2020/7月・BLACK BOX