BLACK BOX
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三年前の初夏。
あの子は当時二十二で、ヴァチカン本部に属していた。
所得称号は騎士・竜騎士・詠唱騎士と前線向きのものが多く、階級は今と変わらない中一級だったが、その実力は人並み外れていたのだと思う。と言うのも、メフィストが興味を持って閲覧した彼女の部隊編成記録には、四大騎士や聖騎士から名指しされて入った任務が多かった。
ある程度腕が立ち、他者の技量の目利きができる者であれば、鷹が隠した爪の所在も簡単に突き止められたということだろう。まあ彼女に隠す気があったかどうかは、今もって昇級の申請を出していないところから推し量ることができるか。
あの子はけっこう面倒臭がりだ。
・
毎月ヴァチカン本部で開かれる定例会の帰り。同じ会議に出席していた藤本を伴って基地内を散策していたときに、メフィストは名字ナマエという人間を知った。
藤本の呼びかけに応じたナマエの背後には、さっそく初夏の熱にやられたらしい出戻りの祓魔師たちが亀のような足取りで行きかっていた。殆どの者が(当時聖騎士だった藤本も含めて)ジャケット仕様の團服を着ているのに対し、彼女だけがコート仕様の分厚い團服を着込み、両手と顔の肌を手袋とマスクで隠していた。驚異的な布面積で、しかも汗を掻いている様子はない。日照る地上とは比べるべくもないが、湿気が強く蒸し暑い地下基地で、ナマエの出で立ちは奇妙だった。
「調子はどうだ?」
メフィストからナマエを隠すように、藤本は前へ躍り出た。おかげでメフィストからは藤本の真っ白い後頭部しか見えなくなったが、彼とメフィストの身長差は3センチあるかないかくらいだったので、メフィストが少し背伸びをすれば藤本の足掻きは徒労に終わった。
爪立った先でナマエと目が合う。まなざしは穏やかで、静か。
自然な流れで逸らされる。
「口と喉が痛むくらいで、おおむね好調です」
「そうか。いいね。そのままサクッと全快しちまえ。で、俺の仕事を楽にしてくれ」
「ふふふ。……今日は何用で本部へ?」
藤本が振り返り、恨みがましく睨んできた。
「クッッソつまんねぇ会議」
先の会議でしきりに話を振ったことを根に持っているのだろうか。メフィストとしては、特等席で舟をこぐ彼を起こしてあげようとしたまでなのだが。
そろそろ前を塞がれているのにも飽きたので、一歩ずれて藤本の横に立つ。
ナマエに合わせて身を屈めば、もの静かな瞳がメフィストを捉えた。
「初めまして。フロイライン」
「初めまして。ヴァチカン本部所属、名字ナマエです」
ぺこりとお辞儀をされた際、消毒液の臭いがした。
濃くはないが薄くもない。そっと何か隠すような薬品臭の裏に、メフィストは思いがけず妙な香りを嗅ぎ取って、ひとつ「おや」と口走った。それは人の血に似ていながら、どこかメフィストの同類を思わせる。悪魔との戦闘で返り血を浴びた……にしては潤いのある香りだった。
純粋な人の身に、無理やり悪魔の血を流し入れたような。死んでいるようで、生きているような。
「……不躾ながら、どこか怪我をなされているので?」
常ならば紳士然として名乗るところを、珍しく忘れて質問した。
ちぐはぐするオーデコロン。ナマエが着込む團服も、手袋もマスクも、全てあの香りを閉じ込めるための装いに思えてならなかった。振り返れば三年前の初夏から今まで、メフィストがナマエを思い浮かべるとき、いつだってそこに香りがあるのはこの所為だろう。悪魔も人も、香りというのは忘れがたい。
ナマエは一度藤本に視線を配り、マスクの上の唇にあたる部分に人差し指を立てた。そしてそれを藤本に向け、向ける過程で手のひらを開いてヒラリと揺らした。静粛を求める仕草と、奥にあるものを示す仕草。言ってはいけない。言えない。藤本さんに聞いて下さい。藤本さんに口止めされている。
ナマエのハンドサインを汲み取ったメフィストは速やかに手刀を作り、自分の顔の前で短く振った。「アレスクラー。どうも失礼」
「私はメフィスト。メフィスト・フェレス。所属は日本支部です──」
・
あの子は怠惰に忠実で、メフィストは知識欲に弱いきらいがある。
日本支部へ帰った後。名字ナマエの『言えない秘密』を藤本から聞き出したメフィストは、開口一番「コワイ」と言った。『無常の風』に吹かれたナマエが、生きて立って、あまつさえ不自由なくメフィストと会話できていたことが、あまりに不思議で怖かったのである。
またその不思議さが、その物珍しさが、彼を時めかせてならなかった。
三年前の初夏のこと。
2020/5月→・BLACK BOX
あの子は当時二十二で、ヴァチカン本部に属していた。
所得称号は騎士・竜騎士・詠唱騎士と前線向きのものが多く、階級は今と変わらない中一級だったが、その実力は人並み外れていたのだと思う。と言うのも、メフィストが興味を持って閲覧した彼女の部隊編成記録には、四大騎士や聖騎士から名指しされて入った任務が多かった。
ある程度腕が立ち、他者の技量の目利きができる者であれば、鷹が隠した爪の所在も簡単に突き止められたということだろう。まあ彼女に隠す気があったかどうかは、今もって昇級の申請を出していないところから推し量ることができるか。
あの子はけっこう面倒臭がりだ。
・
毎月ヴァチカン本部で開かれる定例会の帰り。同じ会議に出席していた藤本を伴って基地内を散策していたときに、メフィストは名字ナマエという人間を知った。
藤本の呼びかけに応じたナマエの背後には、さっそく初夏の熱にやられたらしい出戻りの祓魔師たちが亀のような足取りで行きかっていた。殆どの者が(当時聖騎士だった藤本も含めて)ジャケット仕様の團服を着ているのに対し、彼女だけがコート仕様の分厚い團服を着込み、両手と顔の肌を手袋とマスクで隠していた。驚異的な布面積で、しかも汗を掻いている様子はない。日照る地上とは比べるべくもないが、湿気が強く蒸し暑い地下基地で、ナマエの出で立ちは奇妙だった。
「調子はどうだ?」
メフィストからナマエを隠すように、藤本は前へ躍り出た。おかげでメフィストからは藤本の真っ白い後頭部しか見えなくなったが、彼とメフィストの身長差は3センチあるかないかくらいだったので、メフィストが少し背伸びをすれば藤本の足掻きは徒労に終わった。
爪立った先でナマエと目が合う。まなざしは穏やかで、静か。
自然な流れで逸らされる。
「口と喉が痛むくらいで、おおむね好調です」
「そうか。いいね。そのままサクッと全快しちまえ。で、俺の仕事を楽にしてくれ」
「ふふふ。……今日は何用で本部へ?」
藤本が振り返り、恨みがましく睨んできた。
「クッッソつまんねぇ会議」
先の会議でしきりに話を振ったことを根に持っているのだろうか。メフィストとしては、特等席で舟をこぐ彼を起こしてあげようとしたまでなのだが。
そろそろ前を塞がれているのにも飽きたので、一歩ずれて藤本の横に立つ。
ナマエに合わせて身を屈めば、もの静かな瞳がメフィストを捉えた。
「初めまして。フロイライン」
「初めまして。ヴァチカン本部所属、名字ナマエです」
ぺこりとお辞儀をされた際、消毒液の臭いがした。
濃くはないが薄くもない。そっと何か隠すような薬品臭の裏に、メフィストは思いがけず妙な香りを嗅ぎ取って、ひとつ「おや」と口走った。それは人の血に似ていながら、どこかメフィストの同類を思わせる。悪魔との戦闘で返り血を浴びた……にしては潤いのある香りだった。
純粋な人の身に、無理やり悪魔の血を流し入れたような。死んでいるようで、生きているような。
「……不躾ながら、どこか怪我をなされているので?」
常ならば紳士然として名乗るところを、珍しく忘れて質問した。
ちぐはぐするオーデコロン。ナマエが着込む團服も、手袋もマスクも、全てあの香りを閉じ込めるための装いに思えてならなかった。振り返れば三年前の初夏から今まで、メフィストがナマエを思い浮かべるとき、いつだってそこに香りがあるのはこの所為だろう。悪魔も人も、香りというのは忘れがたい。
ナマエは一度藤本に視線を配り、マスクの上の唇にあたる部分に人差し指を立てた。そしてそれを藤本に向け、向ける過程で手のひらを開いてヒラリと揺らした。静粛を求める仕草と、奥にあるものを示す仕草。言ってはいけない。言えない。藤本さんに聞いて下さい。藤本さんに口止めされている。
ナマエのハンドサインを汲み取ったメフィストは速やかに手刀を作り、自分の顔の前で短く振った。「アレスクラー。どうも失礼」
「私はメフィスト。メフィスト・フェレス。所属は日本支部です──」
・
あの子は怠惰に忠実で、メフィストは知識欲に弱いきらいがある。
日本支部へ帰った後。名字ナマエの『言えない秘密』を藤本から聞き出したメフィストは、開口一番「コワイ」と言った。『無常の風』に吹かれたナマエが、生きて立って、あまつさえ不自由なくメフィストと会話できていたことが、あまりに不思議で怖かったのである。
またその不思議さが、その物珍しさが、彼を時めかせてならなかった。
三年前の初夏のこと。
2020/5月→・BLACK BOX