BLACK BOX
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最期の一念は善悪の生を引く。
魔神に身体を乗っ取られたその人は、息子を虚無界に連れ去られる寸前に意識を取り戻し、自死して魔神を退けたという。
棺の中のその人に白ユリを供え、礼拝堂の席に戻ってからも、私はずっと考えていた。
あなたがこの世を去ったとき、善であったのか。それとも悪であったのか。
「安らかな眠りをお祈りいたします」
決まったような言葉を縁者たちに告げた後、藤本獅郎故人が語っていたことを思い出した。
『祈り自体に他人を救う力は無い』
『あるとすれば、それを聞く人間の心の中に』
・
クローゼットから引っ張り出した喪服は、サイズが合わなくなっていた。痩せたらしい。ざんざん降りの空に傘を差すと、ふわついた袖口がするすると肘まで落ちた。
修道院の門前で咲く桜は、梅雨を急ぐ雨で散りかかっている。私はその下まで歩いて、立ち尽くしていた。透明なビニール傘が枝を伝ってきた雨粒で揺れる。雨降りの湿っぽい空気に花の香りが混ざり、この一帯だけ夜みたいな感じがした。それはきっと、春の夜の甘い漬物のような香りと似ていたからだろう。
知り合いの葬儀に参列した日は、いつもぼうっとして動けなかった。悲しいとか寂しいとかは感じない。……いや、寂しさの極致を喪失感と言うならば、私は寂しすぎて動けないのかもしれない。棺の中の静けさがあまりに寂しい。目の前の背中が急になくなってしまって、伸ばした手が空ぶる感じ。
こういう日、私は必ず小一時間、何も考えずに息と瞬きだけをしている。
・
ぽんぽん。叩かれた肩に振り向くと、普段と変わらない風貌のメフィスト・フェレス卿が立っていた。白とピンクを基調とした正装に、デフォルトの薄い笑み。礼拝堂に姿はなかったはずだが、藤本さんの親友を名乗っていた卿のことだから、来ているだろうとは思っていた。そんなことをぼんやりと考えながら挨拶すると、卿は私が差すビニール傘越しに雨が止んでいることを教えてくれた。
「ずっとそうしていらっしゃったの」
卿の問いかけに私はゆっくりうなずいて、折りたたんだビニール傘で地面を数回打った。水音が足元に散る。
「お身体を冷やしますよ」
卿は言って、手袋をしたまま指を鳴らした。パチン、と小気味良い音が弾ける。布が擦れ合って出来る音ではない。
不意に首元に重みを感じて、私は思わず目を伏せた。喪服の襟元を隠すようにしてマフラーが巻かれている。そっと片手で触れてみると、それはとても柔らかい生地で出来ていた。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。アナタに風邪を引かれては困るのでね」
「はい。やるべきことが山ほどありますから、引くのは処理を終えてからにします」
「はー……。無病息災のお守りを贈ります」
「結構です。かさむので」
「お守り程度かさみません!」
「かさみますよ。貴方、ことあるごとにモノ贈ってくるじゃないですか」
今しがた拝領したマフラーを持ち上げてみせる。図星であったようで、卿は拗ねたように顔を逸らした。そっぽ向いた横顔の頬が膨らんでいる。何というか、昔からこの人は外見年齢にそぐわない可愛さを主張してくる。
卿が顔を逸らした先には修道院に併設されている墓地があった。墓地、桜、修道院という並びである。この桜の下からは柵で隠れていない墓地の入り口だけが見えた。墓地のお墓は全てシンプルな十字墓で統一されているため、遠目にはどこに誰が埋葬されているのか区別がつかない。けれど、入り口近くの一列に藤本さんのお墓があることを私は知っていた。
藤本さんの墓前には白いトルコキキョウの花束が供えられていた。
「……」
棺に白ユリを供えた瞬間を思い出して、二秒ほど目を閉じた。
最期の一念は善悪の生を引く。止めどない哲学だ。納得のいく答えを出せる気がしない。悪魔が存在するこの世界なら、或いは来世も存在しうるのかもしれないが、そも善悪なんてものは視点によってどちらにも転がりゆくものだ。明日の自分が善くあるように、善くあれるような世界でありますように。そういった願掛けに近いだろう。無病息災を祈るお守りもまた、死者へ捧げる祈りにも似て。
「……帰ろうかな」
「そうしましょう」
ごちた言葉は誰宛でもなかったが、卿は律儀に答えてくれた。
「雨が止んでいる間に、帰りましょう」
2020/4月・BLACK BOX
魔神に身体を乗っ取られたその人は、息子を虚無界に連れ去られる寸前に意識を取り戻し、自死して魔神を退けたという。
棺の中のその人に白ユリを供え、礼拝堂の席に戻ってからも、私はずっと考えていた。
あなたがこの世を去ったとき、善であったのか。それとも悪であったのか。
「安らかな眠りをお祈りいたします」
決まったような言葉を縁者たちに告げた後、藤本獅郎故人が語っていたことを思い出した。
『祈り自体に他人を救う力は無い』
『あるとすれば、それを聞く人間の心の中に』
・
クローゼットから引っ張り出した喪服は、サイズが合わなくなっていた。痩せたらしい。ざんざん降りの空に傘を差すと、ふわついた袖口がするすると肘まで落ちた。
修道院の門前で咲く桜は、梅雨を急ぐ雨で散りかかっている。私はその下まで歩いて、立ち尽くしていた。透明なビニール傘が枝を伝ってきた雨粒で揺れる。雨降りの湿っぽい空気に花の香りが混ざり、この一帯だけ夜みたいな感じがした。それはきっと、春の夜の甘い漬物のような香りと似ていたからだろう。
知り合いの葬儀に参列した日は、いつもぼうっとして動けなかった。悲しいとか寂しいとかは感じない。……いや、寂しさの極致を喪失感と言うならば、私は寂しすぎて動けないのかもしれない。棺の中の静けさがあまりに寂しい。目の前の背中が急になくなってしまって、伸ばした手が空ぶる感じ。
こういう日、私は必ず小一時間、何も考えずに息と瞬きだけをしている。
・
ぽんぽん。叩かれた肩に振り向くと、普段と変わらない風貌のメフィスト・フェレス卿が立っていた。白とピンクを基調とした正装に、デフォルトの薄い笑み。礼拝堂に姿はなかったはずだが、藤本さんの親友を名乗っていた卿のことだから、来ているだろうとは思っていた。そんなことをぼんやりと考えながら挨拶すると、卿は私が差すビニール傘越しに雨が止んでいることを教えてくれた。
「ずっとそうしていらっしゃったの」
卿の問いかけに私はゆっくりうなずいて、折りたたんだビニール傘で地面を数回打った。水音が足元に散る。
「お身体を冷やしますよ」
卿は言って、手袋をしたまま指を鳴らした。パチン、と小気味良い音が弾ける。布が擦れ合って出来る音ではない。
不意に首元に重みを感じて、私は思わず目を伏せた。喪服の襟元を隠すようにしてマフラーが巻かれている。そっと片手で触れてみると、それはとても柔らかい生地で出来ていた。
「ありがとうございます」
「礼には及びません。アナタに風邪を引かれては困るのでね」
「はい。やるべきことが山ほどありますから、引くのは処理を終えてからにします」
「はー……。無病息災のお守りを贈ります」
「結構です。かさむので」
「お守り程度かさみません!」
「かさみますよ。貴方、ことあるごとにモノ贈ってくるじゃないですか」
今しがた拝領したマフラーを持ち上げてみせる。図星であったようで、卿は拗ねたように顔を逸らした。そっぽ向いた横顔の頬が膨らんでいる。何というか、昔からこの人は外見年齢にそぐわない可愛さを主張してくる。
卿が顔を逸らした先には修道院に併設されている墓地があった。墓地、桜、修道院という並びである。この桜の下からは柵で隠れていない墓地の入り口だけが見えた。墓地のお墓は全てシンプルな十字墓で統一されているため、遠目にはどこに誰が埋葬されているのか区別がつかない。けれど、入り口近くの一列に藤本さんのお墓があることを私は知っていた。
藤本さんの墓前には白いトルコキキョウの花束が供えられていた。
「……」
棺に白ユリを供えた瞬間を思い出して、二秒ほど目を閉じた。
最期の一念は善悪の生を引く。止めどない哲学だ。納得のいく答えを出せる気がしない。悪魔が存在するこの世界なら、或いは来世も存在しうるのかもしれないが、そも善悪なんてものは視点によってどちらにも転がりゆくものだ。明日の自分が善くあるように、善くあれるような世界でありますように。そういった願掛けに近いだろう。無病息災を祈るお守りもまた、死者へ捧げる祈りにも似て。
「……帰ろうかな」
「そうしましょう」
ごちた言葉は誰宛でもなかったが、卿は律儀に答えてくれた。
「雨が止んでいる間に、帰りましょう」
2020/4月・BLACK BOX