BLACK BOX
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浴場で温もった体温が、ゆるゆると眠気の波を打つ。居室へ戻るまでの道すがら、夜の冷気に手先が冷えはじめたので、腕を組むようにして浴衣の袖に手を突っ込んだ。
日がな一日ろくに休まず歩いていたせいだろう、薄い穏やかな痛みが土踏まずに張り付いていた。歩く度それが脈打つような感じを味わっていた。
居室へ戻ると、敷布団が二つ敷かれている。壁際の敷布団の上で、私と同じ旅館の浴衣を着た卿が、背を向けて胡座を掻いていた。卿は漆喰に向かってこそこそと話していた。その様子に一瞬「ついに虚無と会話しはじめたか……」と遠い目になったが、どうやら私用の携帯電話で通話していただけらしかった。
視線を感じ取ったのか、卿がこちらを振り返る。通話をしている都合上、こちらに会話が飛んでくることはない。浴衣を着た私を彼がわざとらしく二度見したが、私は謹んで無視をして空いている窓際の敷布団に滑り込んだ。今日一日、メフィスト・フェレス卿と過ごして学んだことは、彼の挙動にいちいちリアクションを取っていると無駄に疲れるということだった。
「──もうお休みですか?」
ピ、という調子の良い電子音の後に卿が言う。通話が終わるまで天井の木目を眺めていた私は、卿の居る敷布団に顔を向けた。胡座を掻いていた彼は、いつの間にか横になっている。
「眠る前に恋バナしましょうよ。恋バナ☆」
「お断りします」
「そ、即答ですか……」
それから、しばらく、沈黙した。
その間の、お互いが横になって黙って見つめ合っている状況が少し愉快だった。ここが良い値段のする隠れ旅館で、私たちの見た目が大人でなければ、或いはティーンエイジャーの青春ドラマに見えたかもしれない。尤も、数千年を生きる卿の立場から考えれば、百年がいいところの人間など子供同然なのだろうが。
「ねぇ」
次第にうろうろと落ちかける私の目蓋を、卿が呼び止めた。
「アナタって、私が傍にいて危機感を覚えたりしないんですね」
「……は?」
半ば夢に浸っていた意識を引き上げる。
「不意に私が襲ってきたりするとか、考えないのかなと。今日一日、ずっと悪魔が隣にいることに、命の危機を感じないのかと」
苛立っている風ではない。単純に疑問のようだった。
自分の熱で心地よく温まってきた布団の中で、私は卿に向き合うため体勢を整える。そうだな、と今更ながら考えた。
メフィスト・フェレス卿──時の王・サマエルは虚無界の第二権力者であり、八候王(虚無界における王族だ)においてはその第二位に腰を据える。その本質は時と空間を司り、内に秘める魔力は底が知れない。そんな卿が何故どういった経緯で祓魔師の総本山たる正十字騎士團に与しているのかは分からないが、もし敵対するような状況になれば騎士團は根底から瓦解するだろう。各地に点在する支部や出張所の往来に用いられる魔法の鍵は、他でもない卿が作成したものだ。無論、作成者が運営を止めてしまえば鍵は形だけのガラクタに成り果てる。容易であった移動手段が絶たれた末には、これまでとは比にならない対応の遅れが出る。ひょっとしなくても恐ろしい悪魔なのは違いない。
性格を述べるなら、紳士を語っておきながら三禁を謳うし、人間のエンタメを余すところなく消費、蒐集している。「私は悪魔なので」が枕詞だ。それでも、私の知る限りにおいて騎士團の職務はきちんとこなしている。
卿の憑依体については、正直何も語ることがない。憑依体の筋肉量や性別が如何であれ、悪魔という要素が加わった時点で私はかれらに勝てないからだ。
そんなことを一通り考えて、適当な結論に達した私は切り出した。
「この布団の周囲に聖水の牆壁を作ることもできますが、貴方には効果ないでしょ」
「まあ、はい」
「たとえ悪魔契約を結んで、貴方は私に触れてはならないという規約を設けたとしても、その規約の穴を見つけて実行に移せる能力を貴方は持ってるでしょ。この場合、魔法を使えば私から貴方に触れさせることは可能じゃないですか」
「……」
人畜無害を装いながら、卿は立てた人差し指をくるくると振る。やろうと思えばできる、やらないだけで、という意思を感じる。
「私は、結果が分かり切っていることに労力を使いたくないんですよ」
私が溜め息と一緒に呟くと、卿が「しかし」と口を開いた。
「防止策を講じるのと講じないのとでは、対する姿勢が違うでしょう」
危機感を覚えたところでドン詰まり、という回答では納得できなかったようで、卿は先ほどの私と同じように溜め息を吐く。卿の深い隈に縁取られた瞳はパッチリと開いていて、ちっとも眠そうではない。私はと言えば、もう眠気が最高潮に達していて、殆ど目を閉じているような状態だった。
「今ここで、貴方という悪魔に何の対策もしていないのは」
旅館の湯舟に浸かる前、卿と共に観覧したイルミネーションの残像が、視界一面で昏く揺らめいている。卿の質問に対する、私なりの答えと理屈。
それは簡単なことだった。
「私が貴方を信頼しているからです」
不思議なほどあっけらかんとして、月並みなそれ。
信頼──という単語を聞いて直ぐ、卿が顔から表情を落とした気がした。
「祓魔師が、悪魔を、信頼ですか」
悪魔の卿からしてみれば、聖職者から寄せられる信頼など、お笑い種にさえならないことは分かっている。元より愛などは執着の錯覚に過ぎないと語っていた卿のことだ。敵同士が仲良く手を取り合うような、地に足が付かない感情論は果てしなく詰まらないのだろう。
私は睡魔に苛まれながら、
「貴方の悪魔としての自覚を」
と補足した。
「確かに、頽落へ誘うための布石として、手を出してくる場合もあるでしょう。そのために他人を操ることも。しかし、決定打は本人の意思で、本人の手で打たせる」
「……」
「誘惑と誘導が、悪魔の主とする形式美ですから」
聞き入ろうとしてか頬杖になった卿の視線を、寝返りを打って翻した。イグサの匂いが鼻先を掠める。畳を張り替えたばかりの部屋を予約するなんて、どこまでもサービス精神に溢れた悪魔だと思う。人の反応を見ることが好きな彼は、いつも貪欲なまでに私たちの一挙手一投足に気を配る。
「貴方の……。その形式を重んじるひたむきさを、私は信頼しています」
後半は口の中で溶けてしまい、自分でもよく聞こえなかった。部屋の明かりを避けようとして布団に顔をうずめると、卿が指を鳴らして照明を消した気配がした。あえかな調子の「おやすみなさい」は聞こえたようで聞こえなかった。
窓から落ちる月影はなく、思えば今日が朔日であったことを私は思い出す。卿と共に見たイルミネーションが胸裡に余韻を残すわけを、その気付きを得るには意識が夢に沈みすぎていた。
2020/2月・BLACK BOX
日がな一日ろくに休まず歩いていたせいだろう、薄い穏やかな痛みが土踏まずに張り付いていた。歩く度それが脈打つような感じを味わっていた。
居室へ戻ると、敷布団が二つ敷かれている。壁際の敷布団の上で、私と同じ旅館の浴衣を着た卿が、背を向けて胡座を掻いていた。卿は漆喰に向かってこそこそと話していた。その様子に一瞬「ついに虚無と会話しはじめたか……」と遠い目になったが、どうやら私用の携帯電話で通話していただけらしかった。
視線を感じ取ったのか、卿がこちらを振り返る。通話をしている都合上、こちらに会話が飛んでくることはない。浴衣を着た私を彼がわざとらしく二度見したが、私は謹んで無視をして空いている窓際の敷布団に滑り込んだ。今日一日、メフィスト・フェレス卿と過ごして学んだことは、彼の挙動にいちいちリアクションを取っていると無駄に疲れるということだった。
「──もうお休みですか?」
ピ、という調子の良い電子音の後に卿が言う。通話が終わるまで天井の木目を眺めていた私は、卿の居る敷布団に顔を向けた。胡座を掻いていた彼は、いつの間にか横になっている。
「眠る前に恋バナしましょうよ。恋バナ☆」
「お断りします」
「そ、即答ですか……」
それから、しばらく、沈黙した。
その間の、お互いが横になって黙って見つめ合っている状況が少し愉快だった。ここが良い値段のする隠れ旅館で、私たちの見た目が大人でなければ、或いはティーンエイジャーの青春ドラマに見えたかもしれない。尤も、数千年を生きる卿の立場から考えれば、百年がいいところの人間など子供同然なのだろうが。
「ねぇ」
次第にうろうろと落ちかける私の目蓋を、卿が呼び止めた。
「アナタって、私が傍にいて危機感を覚えたりしないんですね」
「……は?」
半ば夢に浸っていた意識を引き上げる。
「不意に私が襲ってきたりするとか、考えないのかなと。今日一日、ずっと悪魔が隣にいることに、命の危機を感じないのかと」
苛立っている風ではない。単純に疑問のようだった。
自分の熱で心地よく温まってきた布団の中で、私は卿に向き合うため体勢を整える。そうだな、と今更ながら考えた。
メフィスト・フェレス卿──時の王・サマエルは虚無界の第二権力者であり、八候王(虚無界における王族だ)においてはその第二位に腰を据える。その本質は時と空間を司り、内に秘める魔力は底が知れない。そんな卿が何故どういった経緯で祓魔師の総本山たる正十字騎士團に与しているのかは分からないが、もし敵対するような状況になれば騎士團は根底から瓦解するだろう。各地に点在する支部や出張所の往来に用いられる魔法の鍵は、他でもない卿が作成したものだ。無論、作成者が運営を止めてしまえば鍵は形だけのガラクタに成り果てる。容易であった移動手段が絶たれた末には、これまでとは比にならない対応の遅れが出る。ひょっとしなくても恐ろしい悪魔なのは違いない。
性格を述べるなら、紳士を語っておきながら三禁を謳うし、人間のエンタメを余すところなく消費、蒐集している。「私は悪魔なので」が枕詞だ。それでも、私の知る限りにおいて騎士團の職務はきちんとこなしている。
卿の憑依体については、正直何も語ることがない。憑依体の筋肉量や性別が如何であれ、悪魔という要素が加わった時点で私はかれらに勝てないからだ。
そんなことを一通り考えて、適当な結論に達した私は切り出した。
「この布団の周囲に聖水の牆壁を作ることもできますが、貴方には効果ないでしょ」
「まあ、はい」
「たとえ悪魔契約を結んで、貴方は私に触れてはならないという規約を設けたとしても、その規約の穴を見つけて実行に移せる能力を貴方は持ってるでしょ。この場合、魔法を使えば私から貴方に触れさせることは可能じゃないですか」
「……」
人畜無害を装いながら、卿は立てた人差し指をくるくると振る。やろうと思えばできる、やらないだけで、という意思を感じる。
「私は、結果が分かり切っていることに労力を使いたくないんですよ」
私が溜め息と一緒に呟くと、卿が「しかし」と口を開いた。
「防止策を講じるのと講じないのとでは、対する姿勢が違うでしょう」
危機感を覚えたところでドン詰まり、という回答では納得できなかったようで、卿は先ほどの私と同じように溜め息を吐く。卿の深い隈に縁取られた瞳はパッチリと開いていて、ちっとも眠そうではない。私はと言えば、もう眠気が最高潮に達していて、殆ど目を閉じているような状態だった。
「今ここで、貴方という悪魔に何の対策もしていないのは」
旅館の湯舟に浸かる前、卿と共に観覧したイルミネーションの残像が、視界一面で昏く揺らめいている。卿の質問に対する、私なりの答えと理屈。
それは簡単なことだった。
「私が貴方を信頼しているからです」
不思議なほどあっけらかんとして、月並みなそれ。
信頼──という単語を聞いて直ぐ、卿が顔から表情を落とした気がした。
「祓魔師が、悪魔を、信頼ですか」
悪魔の卿からしてみれば、聖職者から寄せられる信頼など、お笑い種にさえならないことは分かっている。元より愛などは執着の錯覚に過ぎないと語っていた卿のことだ。敵同士が仲良く手を取り合うような、地に足が付かない感情論は果てしなく詰まらないのだろう。
私は睡魔に苛まれながら、
「貴方の悪魔としての自覚を」
と補足した。
「確かに、頽落へ誘うための布石として、手を出してくる場合もあるでしょう。そのために他人を操ることも。しかし、決定打は本人の意思で、本人の手で打たせる」
「……」
「誘惑と誘導が、悪魔の主とする形式美ですから」
聞き入ろうとしてか頬杖になった卿の視線を、寝返りを打って翻した。イグサの匂いが鼻先を掠める。畳を張り替えたばかりの部屋を予約するなんて、どこまでもサービス精神に溢れた悪魔だと思う。人の反応を見ることが好きな彼は、いつも貪欲なまでに私たちの一挙手一投足に気を配る。
「貴方の……。その形式を重んじるひたむきさを、私は信頼しています」
後半は口の中で溶けてしまい、自分でもよく聞こえなかった。部屋の明かりを避けようとして布団に顔をうずめると、卿が指を鳴らして照明を消した気配がした。あえかな調子の「おやすみなさい」は聞こえたようで聞こえなかった。
窓から落ちる月影はなく、思えば今日が朔日であったことを私は思い出す。卿と共に見たイルミネーションが胸裡に余韻を残すわけを、その気付きを得るには意識が夢に沈みすぎていた。
2020/2月・BLACK BOX