後(2-1まで)
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降誕祭前夜。
ニューオーリンズは冬だろう。
亜熱帯故めったに雪が降らないそこで、少年期に二度体験した異例の積雪を、アラスターはよく覚えている。
窓枠が風化したアパート、未舗装の道路、居並ぶ露店、黒人出禁のレストラン。若くして近視があったのもそう見えた一因だろう、総じて一色になった町は壮観だった。靴が沈むほど積もった雪で、赤黄緑の建築物がそのときだけは同じにみえた。
──ときに、その地理から積雪を予見していなかった町の、寒気や路面凍結に空を仰ぐ大人たち。それにつられて見上げた空。
逆光になった雪片が、いなごに見えて恐ろしかったことは、母にも言えずじまいだった。
アラスターは上向きながら鼻で笑った。
世界的な祝日と言えどそれは地上での話。
あらゆる罪禍が蔓延る地獄で、今日も諍いの炎が燃える。
赤い空に灰が舞っていた。ひらひらとした飛翔物の奥に、傲慢の輪と称される五芒星が太陽づらして浮かんでいる。あれが地獄の窯の蓋だった。365日毎、あそこを通じて天使様が清掃にいらっしゃる。おかげで当地は干ばつ知らず。地面は濡れるが、しかし凍ることはない。
雪など降らない。
「おや」
繊維がぷちぷちと切れる音がした。
思い出したように、片手に引きずる悪魔を振り返る。
立ち止まり見下ろせば、シャツの首襟、うなじまで貫いた弾痕に取手よろしく指を引っかけていたのが、張力に耐えきれず裂けそうになっていた。
アラスターが勢いよく腕を引くと、シャツの首襟はあっさりと裂けた。
悪魔の頭が地面へ直行。ゴツンッ!と良い音が鳴る。
低く息んだ悪魔の声に、しかしアラスターは目もくれない。楽になった片手をふらふらと揺らしながら、
「私としたことが失念していたよ」
軽く顎を引く。
「別に歩いて運ばずとも、スナップひとつで済んだものを」
ちょうど足先にある顔に、思わず息が洩れた。
今ので起きたか起きていたのか知れないが、悪魔が瞳を潤ませて気色ばんでいる。そんな目で見られても面白いだけなのだが。
「ごめんね My Deaarr」
仰向ける悪魔へ腰を折る。右手を背に、左手を腹部に。ウインクも付けて笑いかければ、目下の顔が嫌そうに歪む。
わざと長距離引き回したのを隠す気がないせいか、間延びした語尾といいウインクといい、すまなそうには見えないせいか。しおらしく眉を下げてはみたものの、どうもこの悪魔を前にするとふざけたくなってしまう。……不思議なことに。罪悪感など微塵もない。
くっくと笑って、アラスターは背の手を悪魔に掲げてみせた。
それをくるりと半回転。
気だるげな瞳が、示された手指の形を見て固まった。
パチンと指を鳴らすと、赤黒い靄が二人を取り囲む。
直後少しの浮遊感。耳元で、何か軋むような音が。
周囲にいっせいに浮かび上がったのはヴェヴェと呼ばれるブードゥ教の印章だ。主だって現れるそれらは、門や十字路を司る精霊のもの。
目下の悪魔にも少しは分かるだろうか。
当転移魔術はアラスターが頻用する一つであるからには──。
と。
前傾姿勢を崩さずにいるアラスターの正面、先ほどまで足元にいた悪魔が目の高さから落ちてきた。それに靄と印章が撒かれる。
血だらけ泥まみれが落ちたのはアールデコ調のカウチソファ。満身創痍されるがままの悪魔は、すべやかなクッションに半端に弾かれて小さく唸った。
うつ伏せになり、座面に乗っているのは左半身のみ。ソファに引っかかるような格好にどこか既視感があると思えば、ダリの記憶の固執だ。あの柔らかい時計に似ている。
血でくったりとした後ろ髪もそれらしい、と、思うアラスターの目の前で襟足から一筋の赤が。はたと焦点がずれたところで、引きずり回した悪魔の背から砂利が幾らかこぼれ落ちる。
コンクリートの地面が今や瀟洒なペルシア絨毯に変わっていた。
何を隠そう、ここはアラスターの別邸だ。
悪魔がいるソファ前には飴色のアンティークテーブル。その机上には、読了した新聞紙が几帳面に畳まれて置かれている。
アラスターは悪魔へ歩み寄り、投げ出された右腕を掴んだ。ドアでも開けるようにして左へ引っ張る。うつ伏せから仰向けに。右腕を離し、はみ出た脚を靴裏で押し込む。
悪魔がいるカウチソファの後ろ、切れ目なく壁紙が張られたそこに、美しい牡鹿の剥製が飾られていた。黒い木枠に納まった生首の下には、蹄脚のチェストが一台。
全身座面に収まった悪魔と目が合った。今しがたアラスターが何処を見ていたか、それを見ていて悟った顔だ。緊張の滲むまなざしに、笑いかけると瞳が揺れる。
「、かえ」
「帰る? その体たらくでか」
開口一番遮られ、目先の口が引き結ばれる。
悪魔の服はシャツにズボンのみ。装飾品や携帯品、銃もナイフも持っていない。──はじめから持っていなかった。
右頬に切り傷。首の中心には銃創。これは声音から治りかけているだろう。また腹部に複数の刺し傷があった。下半身も同様、様々な外傷に彩られる。
重傷と言って相違なかった。無策無防備で火遊びに行き、結果、蜂の巣にされてこのざまだ。流れ出た血は戻らないのだから、大人しくしておくのが賢明だった。いや、動けぬからこそ帰るなどと口走ったのか。
「そうだ」
現に動かぬ悪魔へ向けて、アラスターはにこやかに言った。
「クリスマスだな」
部屋は薄暗い明かりで満ちている。
一瞬、悪魔がたじろいだように見えた。暗がりに罪人と、陰気な組み合わせが懺悔室そのものだ。しかし地獄に神も御使いもいない。神父など、なべて元の肩書きが付く。
アラスターはテーブルの新聞を端に退け、
「楽しく過ごす日だ。やり方はどうあれ」
詠うように続けながら、悪魔の傍を通り過ぎた。
足を止めたのは、牡鹿の剥製が飾られる壁際。蹄脚のチェスト前。
抽斗から取り出したのは木製のカトラリーケースだ。ただし、入っているのはナイフでもフォークでもスプーンでもない。
「奇跡を届けると言った」
「いらない」
今度は語調がしっかりとしていた。
黙っているばかりでは分が悪いと悟ったのだろう、漂う気配も積極的。そうこなくては。
「しかし私は、これが愉しいのでね」
アラスターはゆったりと言い含め、後ろ手に抽斗を閉めた。
「君も知っての通り、私は、手が届く範囲のことは何でも自分でやりたいんだ」
抽斗から手を離し、チェストに腰をもたせながら。
抓み上げたのは小さな待ち針だ。"Berry Pin"と呼ばれるもの。アラスターが持つ待ち針には黒い玉が付随している。
「料理も掃除も、裁縫もね」
「さ……ッだから、」
「繕えるなら、できるなら私好みに」
ところで黒には死や復讐などの意味が……と、誦んじたところで聞こえていないのか。
家事のひとつに括られたのが余程癪だったのか、悪魔は「だから」と「いらない」を交互に口走っていた。それに「うんうんうん」と相槌返すと無言になる。
チェストを離れ、アラスターは横寝る悪魔の隣に立った。指の腹で待ち針を回しながら、ソファ前のテーブルに腰を下ろす。
脇にカトラリーケースを置くと、それを見た悪魔が「やっぱり」と口走った。焦った瞳が手にある待ち針を捉らえる。「うわわ」と眉を引き攣らせた悪魔が、何をとち狂ったか、急に体を起こそうとして蚊の鳴くような悲鳴を上げた。
「……大丈夫?」
むろん、頭が、という主語が抜けている。
逃げを打った悪魔の体を座面に戻し、思案する。
しばらく横になっていたのが却って害になったのか、半端に治った傷口が更に裂けでもしたのだろう。
断りを入れてシャツを捲ると、案の定、腹部の傷が赤く濡れていた。
思わず視線が冷えたのは、これまで幾度と縫い合わせた傷が、当てつけのように断たれていたため。
…──形状からして、凶器はサバイバルナイフだろうか。鋸歯の加工が暴力的な大型ナイフだ。
傷は鋸歯をもろに食らったらしい。糜爛のようにはらはらと抉れた皮膚が、強い痛みを引き起こす上に治りづらいのだろう。
と。
「……ッ、ヅゔぅ、」
噛み殺す声に気分が戻った。
ああそう自ら刺されに行ったのだ。コレができるのはせいぜいが抜糸。己で己の腹を裂くなど、思いついてもしないはず。
キリスト教では今なお自死は罪に数えられる。人間が生まれながらに持つ罪は、日々を生き、自然に死ぬことで贖えるという考えが根底にあるために、自死は信仰の放棄に他ならない。
故に死ぬなら他人の手で、と思い至る道理も多少は解せた。止むに止まれず、部下に首を刎ねさせた為政者の事例もある。それが正しい判断か、そうでないかは測りかねるが──いずれにしても。
情けの一撃には責任が伴うだろう。両者に。
「ちょっと痛むよ」
一応前置きし、アラスターは狙いを定めた。
悪魔が窮するその裂傷の谷に、手に持った黒い待ち針を刺した。
「──」
当然の如く、未だ痛覚が生きている悪魔は、麻酔も無しに臓を穿たれ息を呑んだ。妙なところに息が入ったか呼吸の音がおかしいが、まあ痛むのは一瞬だ。震える悪魔そっちのけで、脇のケースから追加の待ち針を数える。ひとぉつ、ふたぁつ。露骨に長く数えていると怖い瞳で睨まれた。それに微笑み返してやりながら。
見える範囲のめぼしい傷を的確に仮止めていく。悪魔の方は刺される度に浅い呼吸を途切らせていたが、次第に楽になってきたらしい。
聞こえる呼吸が深く、リズムが整いはじめたのを区切りに、アラスターは手を止めた。
改まって向き合えば、斜め下から見上げる顔が憤懣やる方ない様子。
射殺すようなそのまなざしを、小首を傾げて往なしながら。
「元気?」
と訊けば瞳がかっ開かれた。
「あほかテメエ!! ッッい」
「ふーん?」
仮止めたのはあくまでも腹の傷だ。それも、損傷の激しい部位に限定している。つまり傷が深くなければ放置だ。浅い傷は勝手に治るのもある。が、アラスターはこの悪魔が眠ってしまわないよう、相応の苦痛は与え続けるつもりでいたので。
「元気そうだねえ」
悶える悪魔ににこつきながら、殊更大仰に脚を組んだ。長い両脚を交差させる際、履き慣らした革靴が悪魔の腕にダイレクトに当たる。むろん当てたのだが、ぎゃ!という喚きから傷を刺激したのだと知れる。
悪魔は腕を押さえようにも碌に動けていなかった。重傷のため当然なのだが、その腹に刺さった待ち針も大いに影響しているだろう。黒は悪魔を"死"から守り、代わりに自由を"殺し"ている。
パチンと指を鳴らす。
鳴らした手に落ちたのは長方形の箱だった。ディスポーザブル、使い捨て手袋と呼ばれるものだ。外科手術などで執刀医が身に着ける薄いゴム製の手袋。100枚入り。それをカトラリーケースとは反対側へ。
次いでからんと音がした。後ろへ退けていた新聞に落としたのはステンレス製の銀盆。そこへ更に別のものを落とす。勢い余った接触音が半鐘のように景気が良い。
はっと悪魔がアラスターを見た。正確にはアラスターの背後。見開かれた瞳の中に、黒光りする鋭利な刃物が映っている。
「おい」
低い声だった。
痛む傷口の分母が減って、気持ちに余裕ができたせいか。平時の口調に戻ってきた。
「いつになったら、テメエ、話が通じるんだ」
悪魔の瞳が、一語言う毎こちらへ近づく。
おい。(Fuck)
テメエ。(Fuckin' bastard)
口が悪くて泣けてくる。
「まったく。出会ったときは君(You)と言っていたのに」
「……ハア…? 気にするとこ、そこじゃねえだろ」
「気にするさぁ。職業柄ねぇ」
言いながら、顔はカトラリーケースに伏せていた。
ケースの待ち針は黒だけではない。死や復讐を詠うのみが魔術ではないように、一般に魔術師に依頼される病や怪我の快復、卜占や言祝ぎに用いる待ち針の色はさまざまだ。白に、赤に、紫に青。
色別に分けられた待ち針を一本取る。
今回はピンク。
「職業柄……テメエがやってんのは、馬鹿笑いと虐殺だろ」
「そりゃ随分と聞こえが悪い」
先と同じ手で取ったのは緑の待ち針。
「君微笑めばと歌があるだろう?」
手から粘着音がした。
当該曲をハミングしつつ、アラスターは視線を手元に。待ち針を少し動かして見れば、銀の針部分がわずかに赤い。きっと先ほど付いたのだろう、生地が黒いため分かりづらいが、革手袋が血濡れていた。
「ところであれのカバー、」
これが特注品であることは思考の隅に追いやった。
さっさと気持ちを切り替えて、アラスターは悪魔を振り向く。
「サッチモとプリマだったら、どちらが好き?」
手ぶらになった両手を揺らし、にっこりとして立ち上がる。
その眼下、弾痕が目立つ悪魔の首に待ち針が2本追加されていた。ひとつはピンク、ひとつは緑だ。意味は死と沈静。今に分かる。
ソファからは何も聞こえない。とくに驚きもないらしい。
むくれた口が「ビリー・ホリデイ」と動いていた。次いで呟かれたのは「シーガー・エリス」。本元。挙げた二択を無視してくるのはいつものことだ。が、どれだけ機嫌が悪かろうと、それでも律儀に答えるところが好ましい。
「良い選曲だ」
率直に応えると、何の話と言いたげだった。
それに流し目くれながら、革手袋を裏返しに脱ぐ。
「手を洗ってきますよ」
言えば、その一言で事の重大さに気付いたらしかった。
革手袋をズボンに突っ込み、成り行きで腰に手を当てる。格式ばった声色で「言い残すことは?」と訊いてみるが、ソファからは何の音沙汰もない。
はくはくと動く唇が鯔のよう──と、常備しているのど飴を投げ入れてみると、ぺっと絨毯に吐き捨てられた。捨てるはずだった包み紙を丸めて投げつける。悪魔は咄嗟に目口を閉じて、投げられた紙を跳ね返した。
「うんうん静かで大変結構」
指も鳴らさずに使い魔を喚ぶ。楽器も弾ける利口な影たちだ。それらに飴と包み紙を取らせながら、アラスターは爪の整った指で悪魔に念押しした。「いいかい」
「大人しくしているように。くれぐれも、そのソファから動かないこと」
「……」
「なぜって? もちろん君が汚いからだ。その格好で許可なく家をうろついてみろ、修理代掃除代を請求してさらに目鼻口を縫い合わせるからな」
本気だ。
ここはアラスターの本宅ではないが、置いている家財はどれも選りすぐりの高級品。マホガニーの木製家具は買い直しが難しく、ペルシア絨毯も、本革の椅子も手入れに手間がかかる。悪魔が横寝るカウチソファはもはや諦めているが、これ以上面倒を増やされるのは御免だった。
まあ……その面倒を連れてきたのは自分だったが。
見える範囲にいるのが悪い。
「いいね」
と、アラスターは締め括った。
いくら痛みを減らしたとは言え、悪魔は未だ満身創痍だ。体の自由を封じているから無いとは思うが、しかし、これは悪魔のためでもある。
始終憮然としていた口が、「言われなくてもそうするつもり」と動いていた。続けて何やら呟かれるが、語数が多く読み取れない。一瞬まじめに考えそうになったが、やがてそれが待ち針を取らせる誘導だと気付いてアラスターは取り合うのをやめた。
背後の使い魔に二三言付け姿を消させる。
あそこの悪魔は動かんだろうが、うろつくようなら殴って殺せ──燭台にでも刺しておけ、と。
聞こえたらしい悪魔の顔にウインクを一つお見舞いして、部屋を出てから後悔したのはむろんあの悪魔のこと。
アレに使う縫合糸と、脱脂綿の在庫があったかどうかが、アラスターにとって喫緊の問題だった。
ニューオーリンズは冬だろう。
亜熱帯故めったに雪が降らないそこで、少年期に二度体験した異例の積雪を、アラスターはよく覚えている。
窓枠が風化したアパート、未舗装の道路、居並ぶ露店、黒人出禁のレストラン。若くして近視があったのもそう見えた一因だろう、総じて一色になった町は壮観だった。靴が沈むほど積もった雪で、赤黄緑の建築物がそのときだけは同じにみえた。
──ときに、その地理から積雪を予見していなかった町の、寒気や路面凍結に空を仰ぐ大人たち。それにつられて見上げた空。
逆光になった雪片が、いなごに見えて恐ろしかったことは、母にも言えずじまいだった。
アラスターは上向きながら鼻で笑った。
世界的な祝日と言えどそれは地上での話。
あらゆる罪禍が蔓延る地獄で、今日も諍いの炎が燃える。
赤い空に灰が舞っていた。ひらひらとした飛翔物の奥に、傲慢の輪と称される五芒星が太陽づらして浮かんでいる。あれが地獄の窯の蓋だった。365日毎、あそこを通じて天使様が清掃にいらっしゃる。おかげで当地は干ばつ知らず。地面は濡れるが、しかし凍ることはない。
雪など降らない。
「おや」
繊維がぷちぷちと切れる音がした。
思い出したように、片手に引きずる悪魔を振り返る。
立ち止まり見下ろせば、シャツの首襟、うなじまで貫いた弾痕に取手よろしく指を引っかけていたのが、張力に耐えきれず裂けそうになっていた。
アラスターが勢いよく腕を引くと、シャツの首襟はあっさりと裂けた。
悪魔の頭が地面へ直行。ゴツンッ!と良い音が鳴る。
低く息んだ悪魔の声に、しかしアラスターは目もくれない。楽になった片手をふらふらと揺らしながら、
「私としたことが失念していたよ」
軽く顎を引く。
「別に歩いて運ばずとも、スナップひとつで済んだものを」
ちょうど足先にある顔に、思わず息が洩れた。
今ので起きたか起きていたのか知れないが、悪魔が瞳を潤ませて気色ばんでいる。そんな目で見られても面白いだけなのだが。
「ごめんね My Deaarr」
仰向ける悪魔へ腰を折る。右手を背に、左手を腹部に。ウインクも付けて笑いかければ、目下の顔が嫌そうに歪む。
わざと長距離引き回したのを隠す気がないせいか、間延びした語尾といいウインクといい、すまなそうには見えないせいか。しおらしく眉を下げてはみたものの、どうもこの悪魔を前にするとふざけたくなってしまう。……不思議なことに。罪悪感など微塵もない。
くっくと笑って、アラスターは背の手を悪魔に掲げてみせた。
それをくるりと半回転。
気だるげな瞳が、示された手指の形を見て固まった。
パチンと指を鳴らすと、赤黒い靄が二人を取り囲む。
直後少しの浮遊感。耳元で、何か軋むような音が。
周囲にいっせいに浮かび上がったのはヴェヴェと呼ばれるブードゥ教の印章だ。主だって現れるそれらは、門や十字路を司る精霊のもの。
目下の悪魔にも少しは分かるだろうか。
当転移魔術はアラスターが頻用する一つであるからには──。
と。
前傾姿勢を崩さずにいるアラスターの正面、先ほどまで足元にいた悪魔が目の高さから落ちてきた。それに靄と印章が撒かれる。
血だらけ泥まみれが落ちたのはアールデコ調のカウチソファ。満身創痍されるがままの悪魔は、すべやかなクッションに半端に弾かれて小さく唸った。
うつ伏せになり、座面に乗っているのは左半身のみ。ソファに引っかかるような格好にどこか既視感があると思えば、ダリの記憶の固執だ。あの柔らかい時計に似ている。
血でくったりとした後ろ髪もそれらしい、と、思うアラスターの目の前で襟足から一筋の赤が。はたと焦点がずれたところで、引きずり回した悪魔の背から砂利が幾らかこぼれ落ちる。
コンクリートの地面が今や瀟洒なペルシア絨毯に変わっていた。
何を隠そう、ここはアラスターの別邸だ。
悪魔がいるソファ前には飴色のアンティークテーブル。その机上には、読了した新聞紙が几帳面に畳まれて置かれている。
アラスターは悪魔へ歩み寄り、投げ出された右腕を掴んだ。ドアでも開けるようにして左へ引っ張る。うつ伏せから仰向けに。右腕を離し、はみ出た脚を靴裏で押し込む。
悪魔がいるカウチソファの後ろ、切れ目なく壁紙が張られたそこに、美しい牡鹿の剥製が飾られていた。黒い木枠に納まった生首の下には、蹄脚のチェストが一台。
全身座面に収まった悪魔と目が合った。今しがたアラスターが何処を見ていたか、それを見ていて悟った顔だ。緊張の滲むまなざしに、笑いかけると瞳が揺れる。
「、かえ」
「帰る? その体たらくでか」
開口一番遮られ、目先の口が引き結ばれる。
悪魔の服はシャツにズボンのみ。装飾品や携帯品、銃もナイフも持っていない。──はじめから持っていなかった。
右頬に切り傷。首の中心には銃創。これは声音から治りかけているだろう。また腹部に複数の刺し傷があった。下半身も同様、様々な外傷に彩られる。
重傷と言って相違なかった。無策無防備で火遊びに行き、結果、蜂の巣にされてこのざまだ。流れ出た血は戻らないのだから、大人しくしておくのが賢明だった。いや、動けぬからこそ帰るなどと口走ったのか。
「そうだ」
現に動かぬ悪魔へ向けて、アラスターはにこやかに言った。
「クリスマスだな」
部屋は薄暗い明かりで満ちている。
一瞬、悪魔がたじろいだように見えた。暗がりに罪人と、陰気な組み合わせが懺悔室そのものだ。しかし地獄に神も御使いもいない。神父など、なべて元の肩書きが付く。
アラスターはテーブルの新聞を端に退け、
「楽しく過ごす日だ。やり方はどうあれ」
詠うように続けながら、悪魔の傍を通り過ぎた。
足を止めたのは、牡鹿の剥製が飾られる壁際。蹄脚のチェスト前。
抽斗から取り出したのは木製のカトラリーケースだ。ただし、入っているのはナイフでもフォークでもスプーンでもない。
「奇跡を届けると言った」
「いらない」
今度は語調がしっかりとしていた。
黙っているばかりでは分が悪いと悟ったのだろう、漂う気配も積極的。そうこなくては。
「しかし私は、これが愉しいのでね」
アラスターはゆったりと言い含め、後ろ手に抽斗を閉めた。
「君も知っての通り、私は、手が届く範囲のことは何でも自分でやりたいんだ」
抽斗から手を離し、チェストに腰をもたせながら。
抓み上げたのは小さな待ち針だ。"Berry Pin"と呼ばれるもの。アラスターが持つ待ち針には黒い玉が付随している。
「料理も掃除も、裁縫もね」
「さ……ッだから、」
「繕えるなら、できるなら私好みに」
ところで黒には死や復讐などの意味が……と、誦んじたところで聞こえていないのか。
家事のひとつに括られたのが余程癪だったのか、悪魔は「だから」と「いらない」を交互に口走っていた。それに「うんうんうん」と相槌返すと無言になる。
チェストを離れ、アラスターは横寝る悪魔の隣に立った。指の腹で待ち針を回しながら、ソファ前のテーブルに腰を下ろす。
脇にカトラリーケースを置くと、それを見た悪魔が「やっぱり」と口走った。焦った瞳が手にある待ち針を捉らえる。「うわわ」と眉を引き攣らせた悪魔が、何をとち狂ったか、急に体を起こそうとして蚊の鳴くような悲鳴を上げた。
「……大丈夫?」
むろん、頭が、という主語が抜けている。
逃げを打った悪魔の体を座面に戻し、思案する。
しばらく横になっていたのが却って害になったのか、半端に治った傷口が更に裂けでもしたのだろう。
断りを入れてシャツを捲ると、案の定、腹部の傷が赤く濡れていた。
思わず視線が冷えたのは、これまで幾度と縫い合わせた傷が、当てつけのように断たれていたため。
…──形状からして、凶器はサバイバルナイフだろうか。鋸歯の加工が暴力的な大型ナイフだ。
傷は鋸歯をもろに食らったらしい。糜爛のようにはらはらと抉れた皮膚が、強い痛みを引き起こす上に治りづらいのだろう。
と。
「……ッ、ヅゔぅ、」
噛み殺す声に気分が戻った。
ああそう自ら刺されに行ったのだ。コレができるのはせいぜいが抜糸。己で己の腹を裂くなど、思いついてもしないはず。
キリスト教では今なお自死は罪に数えられる。人間が生まれながらに持つ罪は、日々を生き、自然に死ぬことで贖えるという考えが根底にあるために、自死は信仰の放棄に他ならない。
故に死ぬなら他人の手で、と思い至る道理も多少は解せた。止むに止まれず、部下に首を刎ねさせた為政者の事例もある。それが正しい判断か、そうでないかは測りかねるが──いずれにしても。
情けの一撃には責任が伴うだろう。両者に。
「ちょっと痛むよ」
一応前置きし、アラスターは狙いを定めた。
悪魔が窮するその裂傷の谷に、手に持った黒い待ち針を刺した。
「──」
当然の如く、未だ痛覚が生きている悪魔は、麻酔も無しに臓を穿たれ息を呑んだ。妙なところに息が入ったか呼吸の音がおかしいが、まあ痛むのは一瞬だ。震える悪魔そっちのけで、脇のケースから追加の待ち針を数える。ひとぉつ、ふたぁつ。露骨に長く数えていると怖い瞳で睨まれた。それに微笑み返してやりながら。
見える範囲のめぼしい傷を的確に仮止めていく。悪魔の方は刺される度に浅い呼吸を途切らせていたが、次第に楽になってきたらしい。
聞こえる呼吸が深く、リズムが整いはじめたのを区切りに、アラスターは手を止めた。
改まって向き合えば、斜め下から見上げる顔が憤懣やる方ない様子。
射殺すようなそのまなざしを、小首を傾げて往なしながら。
「元気?」
と訊けば瞳がかっ開かれた。
「あほかテメエ!! ッッい」
「ふーん?」
仮止めたのはあくまでも腹の傷だ。それも、損傷の激しい部位に限定している。つまり傷が深くなければ放置だ。浅い傷は勝手に治るのもある。が、アラスターはこの悪魔が眠ってしまわないよう、相応の苦痛は与え続けるつもりでいたので。
「元気そうだねえ」
悶える悪魔ににこつきながら、殊更大仰に脚を組んだ。長い両脚を交差させる際、履き慣らした革靴が悪魔の腕にダイレクトに当たる。むろん当てたのだが、ぎゃ!という喚きから傷を刺激したのだと知れる。
悪魔は腕を押さえようにも碌に動けていなかった。重傷のため当然なのだが、その腹に刺さった待ち針も大いに影響しているだろう。黒は悪魔を"死"から守り、代わりに自由を"殺し"ている。
パチンと指を鳴らす。
鳴らした手に落ちたのは長方形の箱だった。ディスポーザブル、使い捨て手袋と呼ばれるものだ。外科手術などで執刀医が身に着ける薄いゴム製の手袋。100枚入り。それをカトラリーケースとは反対側へ。
次いでからんと音がした。後ろへ退けていた新聞に落としたのはステンレス製の銀盆。そこへ更に別のものを落とす。勢い余った接触音が半鐘のように景気が良い。
はっと悪魔がアラスターを見た。正確にはアラスターの背後。見開かれた瞳の中に、黒光りする鋭利な刃物が映っている。
「おい」
低い声だった。
痛む傷口の分母が減って、気持ちに余裕ができたせいか。平時の口調に戻ってきた。
「いつになったら、テメエ、話が通じるんだ」
悪魔の瞳が、一語言う毎こちらへ近づく。
おい。(Fuck)
テメエ。(Fuckin' bastard)
口が悪くて泣けてくる。
「まったく。出会ったときは君(You)と言っていたのに」
「……ハア…? 気にするとこ、そこじゃねえだろ」
「気にするさぁ。職業柄ねぇ」
言いながら、顔はカトラリーケースに伏せていた。
ケースの待ち針は黒だけではない。死や復讐を詠うのみが魔術ではないように、一般に魔術師に依頼される病や怪我の快復、卜占や言祝ぎに用いる待ち針の色はさまざまだ。白に、赤に、紫に青。
色別に分けられた待ち針を一本取る。
今回はピンク。
「職業柄……テメエがやってんのは、馬鹿笑いと虐殺だろ」
「そりゃ随分と聞こえが悪い」
先と同じ手で取ったのは緑の待ち針。
「君微笑めばと歌があるだろう?」
手から粘着音がした。
当該曲をハミングしつつ、アラスターは視線を手元に。待ち針を少し動かして見れば、銀の針部分がわずかに赤い。きっと先ほど付いたのだろう、生地が黒いため分かりづらいが、革手袋が血濡れていた。
「ところであれのカバー、」
これが特注品であることは思考の隅に追いやった。
さっさと気持ちを切り替えて、アラスターは悪魔を振り向く。
「サッチモとプリマだったら、どちらが好き?」
手ぶらになった両手を揺らし、にっこりとして立ち上がる。
その眼下、弾痕が目立つ悪魔の首に待ち針が2本追加されていた。ひとつはピンク、ひとつは緑だ。意味は死と沈静。今に分かる。
ソファからは何も聞こえない。とくに驚きもないらしい。
むくれた口が「ビリー・ホリデイ」と動いていた。次いで呟かれたのは「シーガー・エリス」。本元。挙げた二択を無視してくるのはいつものことだ。が、どれだけ機嫌が悪かろうと、それでも律儀に答えるところが好ましい。
「良い選曲だ」
率直に応えると、何の話と言いたげだった。
それに流し目くれながら、革手袋を裏返しに脱ぐ。
「手を洗ってきますよ」
言えば、その一言で事の重大さに気付いたらしかった。
革手袋をズボンに突っ込み、成り行きで腰に手を当てる。格式ばった声色で「言い残すことは?」と訊いてみるが、ソファからは何の音沙汰もない。
はくはくと動く唇が鯔のよう──と、常備しているのど飴を投げ入れてみると、ぺっと絨毯に吐き捨てられた。捨てるはずだった包み紙を丸めて投げつける。悪魔は咄嗟に目口を閉じて、投げられた紙を跳ね返した。
「うんうん静かで大変結構」
指も鳴らさずに使い魔を喚ぶ。楽器も弾ける利口な影たちだ。それらに飴と包み紙を取らせながら、アラスターは爪の整った指で悪魔に念押しした。「いいかい」
「大人しくしているように。くれぐれも、そのソファから動かないこと」
「……」
「なぜって? もちろん君が汚いからだ。その格好で許可なく家をうろついてみろ、修理代掃除代を請求してさらに目鼻口を縫い合わせるからな」
本気だ。
ここはアラスターの本宅ではないが、置いている家財はどれも選りすぐりの高級品。マホガニーの木製家具は買い直しが難しく、ペルシア絨毯も、本革の椅子も手入れに手間がかかる。悪魔が横寝るカウチソファはもはや諦めているが、これ以上面倒を増やされるのは御免だった。
まあ……その面倒を連れてきたのは自分だったが。
見える範囲にいるのが悪い。
「いいね」
と、アラスターは締め括った。
いくら痛みを減らしたとは言え、悪魔は未だ満身創痍だ。体の自由を封じているから無いとは思うが、しかし、これは悪魔のためでもある。
始終憮然としていた口が、「言われなくてもそうするつもり」と動いていた。続けて何やら呟かれるが、語数が多く読み取れない。一瞬まじめに考えそうになったが、やがてそれが待ち針を取らせる誘導だと気付いてアラスターは取り合うのをやめた。
背後の使い魔に二三言付け姿を消させる。
あそこの悪魔は動かんだろうが、うろつくようなら殴って殺せ──燭台にでも刺しておけ、と。
聞こえたらしい悪魔の顔にウインクを一つお見舞いして、部屋を出てから後悔したのはむろんあの悪魔のこと。
アレに使う縫合糸と、脱脂綿の在庫があったかどうかが、アラスターにとって喫緊の問題だった。
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