閉架書庫入り口
「――かはっ」
肺から空気を吐き出し、げほげほと咳込みながら目を覚ます。
「おい、起きろ」
冷え切った声の主を確認しようと周囲に視線を向けたレイは、自身が置かれている現状に困惑する。辺りは暗闇に包まれ、自分達の周辺だけは天井の灯りで照らされている。
そして、最も重要なのは。
(僕は捕らえられている……のかな?)
座っている椅子にロープで固定されていることだ。
身動ぎしてみるが全く解ける気配はない。
「おい」
苛立ちも含まれた声音に、レイはようやく頭上を仰ぐ。
目の前に佇むのは青みがかった黒髪の男。
こちらを見下ろす瞳は暗く、それでいてレイ自身を『映していない』ようであった。
初めて見る顔だが――男の装いは、ラフェルトの彷彿とさせる。
「君は……【アタラクシア】の人? エルさんのお知り合い?」
以前レイが所長を務める【オータムヌ探偵事務所】に依頼人として訪れ、まんまとレイ達を騙した女『エルミタージュ』。彼女もラフェルト、そして目の前の男とよく似たデザインのローブを羽織っていた。
エル、という名に男の眉間が僅かに寄る。
「ああ……あの件か。髪が切られたとか何とかほざきやがって。……まあそんなことはどうでもいい」
男はレイに背中を向け、光の外側へと向かう。
「――レッキス」
「ここにいるよ」
「ッ⁉︎」
気配もなく背後から両肩に小さな手が置かれる。レイが振り返るより前に正面へと回ったその人物は幼い子供。頭から白い兎の耳が生えていること以外は至って普通の。
『レッキス』と呼ばれた少年は、不敵な笑みを浮かべたままそっとレイの腹部に片手を添える。
「ねえ、おにーさん」
愛らしく、少年は嗤う。
「たっくさん悲鳴を上げてね」
「それはどういう……」
声は途切れた。
いや、『話せなくなった』。
少年の頬が赤い血潮で染まる。
座っていた椅子の背もたれが壊れ、レイの体はロープから解放された。
固い床に倒れ込む。
レイは、息が吸えなかった。
レイは、閉じた目を開けたくはなかった。
筆舌に尽くしがたい痛みと、嗚咽感が体を襲う。
でもきっと、『見ていない分』は軽いのだろう。
「……あれ、痛くないの? じゃあこれは?」
悪魔の囁きと、肉が潰れる音が耳朶にこびりつく。
……左脚の感覚がない。
「あははははは! もう一回してもいい?」
今度は顔のすぐ横で音がする。
勢いよく飛び散った生温かいものが、レイの顔にべっとりと。
右手の肘から先が、レイの意思に応えることはない。
気絶してしまいたい。
この現実から、今すぐ逃れたい。
悪夢なら早く醒めてほしい。
残酷な子供の哄笑が暗闇に響く中。
「何……してるの?」
青い蝶を引き連れて現れたラフェルトは――珍しくその瞳をあらんばかりに見開いていた。
暗闇に包まれていた部屋が明るみになる。
家具一つない無機質な空間に、むせ返るような血の匂いが充満する。
ラフェルトは男の背に広がる光景に、動揺していた。
「……その男に、何をしている」
静かにラフェルトは問いかける。
その瞳に、確かな殺意を宿らせながら。
「遊んでいただけだよ? アンタだって、昔はよくやっていたんでしょ」
レッキスはそう嗤いながら、男の背中越しに『何か』を放り投げる。
身構えたラフェルトの前に放物線を描きながら落下したそれは――『人の片腕』。
それがレイのものだと気づいた時には、ラフェルトは飛び出していた。
「……やはり、か」
男が腕を振り払うと、ラフェルトの足元に魔法円が浮かび上がる。
反射的に青い蝶の障壁を展開したラフェルトを、円から発生した光柱が包み込む。
「……?」
光が収まると、ラフェルトは眉根を寄せた。
痛みはなく、視界を奪われた時に攻撃された形跡もない。
動きが止まるラフェルトに、男は目を細める。
「――お前は、数分もしないうちに息絶える」
何を言って、と返そうとしたラフェルトは意味を知る。
自分の肉体が『消えかかっていた』からだ。
気を取られている隙をつき、男の背後から飛び出したレッキスがその手に握るハンマーを振り翳す。
自身が持つ魔力の『全て』を奪われたラフェルトに防御する術はなく、大きく吹き飛ばされる。
壁を突き破るほどの威力。
空中へと投げ出された彼は――切り立った崖から、遥か地上まで落下する。
(終わったか……)
最期を悟り、瞑目する男。
しかしながら、すぐに我が目を疑うこととなる。
「――は?」
靡く風に乗って鼻腔を刺激する血の匂い。
ラフェルトを追い崖から飛び降りた――レイの姿に、レッキス共々茫然とする。
「あいつ狂ってる‼︎ 頭おかしい!」
「……お前に一番言われたくない言葉だろうな」
――ラフェルト!
「‼︎」
意識を飛ばしていたラフェルトは、その声に目を開ける。
落ちていく自身の手を掴んでいたのは、痛々しい姿となったレイ。まだ無事な左手で強く握りしめている。
「……放せ」
「嫌だ」
「あんたまで死ぬよ」
「死なないよ。……君も」
透けた自分の手に、レイはぐっと力を入れる。
「このまま君を見殺しにしたら、僕はこの先ずっと後悔する」
「……」
「だから、今だけでいい。今だけでいいから――僕を『信じて』」
ラフェルトは、まさか、と瞠目する。
「初めから……『こうなることが分かってて』……?」
レイは微笑んだ。
「答えが知りたいなら、信じてみせてよ」
肯定とも、否定とも取れないその言葉に――ラフェルトは口元を歪めた。
「……信じてあげる。君のこと」
刹那。手の中から温もりは消え、入れ違いに現れた一振りの剣を握る。
視界を遮る真っ白な炎。それは我が身を焼き尽くすことなく真っ黒に。
悠々と地上に降り立ったラフェルトは、実体を取り戻した手のひらを握っては開き、感触を確かめる。
そして一変した体で崖を見上げると、元の姿へと戻り――四肢が復活したレイが現れた。
すでに意識がない彼を抱え、ラフェルトは蝶の翅を携え飛翔する。
(――ああ、なんだ。こんな近くに在ったのか)
僕が求める『