パルテナの鏡 - 機械仕掛けのレクイエム -
4章:名もなき奇跡
なにを間違えたというのだろう。
どこから踏み外したというのだろう。
もっと自分に知恵があれば。
もっと自分に力があれば。
彼のような、勇気があれば。
全てを失わずに済んだのに――。
★☆☆☆☆
「――ッ⁉︎」
弾けるようにアメジストの瞳が見開かれ、即座に臨戦態勢を取る。周囲に視線を這わせていた翼を背に携えた――サリエルは、敵影ひとつないことに小さく息を洩らす。
(ここは……家?)
意識がない間に自分は室内に運ばれ、スプリングが弾む寝台 の上に寝かされたようだ。近くにはマントやジャケットといった衣類と、撃剣クルセイダーが置かれている。着替えようと床に足を下ろし立ちあがろうとしたサリエルは直後、迸 る苦痛に顔を歪めた。自身の体を見下ろすと、戦いで負った傷一つ一つが丁寧に手当てされている。サリエルを保護したであろう――現在は家を留守にしている――家主の優しさが窺える。
(……恐らくここは地上。『人間』の家に違いない。人格がどうであれ、深く関わるのはまずい。早く立ち去らないと)
お礼ひとつ言わないで立ち去るのは心苦しいが、自分にはやらねばならぬことがある。それに、家主は物珍しい自分を捕まえて道具にする可能性だって考えられる。いずれにせよ、早めに立ち去るのが吉だとサリエルが服に袖を通していた時だった。
「──!」
ノックもなしに扉が開かれる。紙袋を抱え、入室した少年はサリエルの姿に瞠目 した。それはサリエルも同じで、硬直している間に少年の接近を許してしまう。
「天使様! お目覚めになられたのですね!」
ぱたぱたと駆け寄って来た少年は、エメラルドの瞳を輝かせてサリエルを見つめる。天使“様”などと呼ばれたサリエルは狼狽 し、僅かに後退した。
「さ、様はやめてほしいな……そう呼ばれるほどでもないし」
少年は目を丸くした。
「えっいいの? バチ当たらない?」
「……人間が僕達をどう見ているのか知らないけど、少なからず不幸は訪れないよ」
「わかった。なら普通にするね」
少年はサリエルをじっと見つめると、小首をかしげる。
「もう行くの?」
「……うん。怪我、手当てしてくれてありがとう。君がしてくれたんだよね?」
「うんっ。……あ、でも待って」
少年は紙袋をテーブルの上に置き、背負っていたバックパックを床に下ろし傍 らに片膝をつく。中身を漁っていた少年が手に取ったのは、2つの小瓶だった。
「これ、鎮痛薬と傷口に染み込ませてる傷薬。天使に人間の薬が効くか分からないけど……持っていって」
「いいの?」
「うん。事情はよく知らないけど、急いでるんでしょ? 傷の回復を待てないほど」
鋭い観察眼にサリエルは軽く目を見張る。
「……受け取っておくよ。ありがとう」
懐に小瓶を入れたサリエルは着替えを終え、「見送らせて」と言った少年の案内で外に出る。少年の家があった場所は森の中。ここなら飛んでも人間の目に映ることはないだろう。
「本当にありがとう。なにもお返し出来なくてごめんね」
「お返しなんて要らないよ。でも……ひとつだけ、聞いてもいい?」
「……僕に答えられることなら」
「名前を聞きたいんだ。きみの名前を」
少年は、サリエルの目を真っ直ぐと見つめる。まるでその瞳に焼き付けるかのように。サリエルは微笑んだ。
「僕はサリエル。女神ペルセポネ様に仕えている“堕天使”さ」
“堕天使”という言葉に少年は驚くも、すぐに微笑み返す。
「教えてくれてありがとう。……サリエル君」
「君の名前は?」
聞き返したサリエルに、少年は不思議そうに自身を指差す。
「ぼく?」
「うん。君の名前、知りたいな」
少年は嬉しそうに破顔した。
「ぼくの名前はウィルド。ウィルド・マナルーン」
「ウィルド……」
少年――ウィルドの名前を、大切に、丁寧に呼ぶ。
もう会うことはない恩人の名を、決して忘れぬように。
「さようなら、ウィルド」
「うん。バイバイ、サリエル君」
撃剣を握り締め、サリエルは翼をはためかせる。惜しみながらも振り返ることなく、ただ真っ直ぐ、前だけを見て。
「……凄いなぁ」
あっという間に遠ざかっていくサリエルの姿に、ウィルドはぽつりと溢す。天使と会うどころか話すなんて、最初で最後の出来事だろう。忘れられそうにない。
「……ん?」
と、そこでウィルドは、キラリと光を放つ何かが空から落ちてくるのを目撃した。好奇心のままに駆け出してみると、自宅から数キロ離れた場所で半透明の鉱石を発見した。掌よりも一回り大きく、不思議な印が中に刻まれている。
「もしかして……!」
この真上は、ちょうどサリエルが通った道だ。彼が落としてしまったのだろうか。
「……よし! 荷物を持って、追いかけるぞ!」
彼の行き先は分からない。
分かるのは、彼が向かった方向だけ。
あるのは、ワクワクとしたこの感情だけ。
バックパックに鉱石をしまい、杖ととんがり帽子を持って。少年ウィルドは冒険へと出発した――。
★★☆☆☆
(僕がすべきことはオルトロスの奪還。ペルセポネ様はきっと、タナトス様とパンドーラ様が守ってくれているだろうし、それに……)
サリエルは翼に力を入れ、急加速。上へ大きく旋回し、逆さの状態で真下の敵――『からくり兵』を撃剣クルセイダーの十字弾で撃ち抜いた。
(もう居場所を掴まれたか! やっぱり、『海底神殿』に向かわなくて良かった)
サリエルは自分が追われているのを理解していた。今の状況でペルセポネと合流しても、却 って彼女の居場所を知らせてしまうこととなり、危険に晒してしまう。最低限オルトロスを奪還したあとに合流すべきだろう――そうサリエルは考えていた。
わらわらと集まりつつある敵兵の合間を縫い、時に身を隠しながら、先へと進む。
(あの川だな)
サリエルが目指していたのは、急流で有名な2つの川がその勢いのままぶつかり合う合流地点。周囲に集落はなく、河原が広がっている物悲しい地。
(今――!)
隠れていた大岩の影から飛び出し、脇目も振らず川を目指す。気づいたからくり兵の攻撃や追跡を振り切り、サリエルは激しい水飛沫を上げて川に飛び込んだ。
からくり兵達は暫く監視するも、サリエルの体が浮上しないことに気付き、再びサリエルの追跡を開始する。
“着地”を決めたサリエルは立ち上がり、周囲を確認する。
川の“底”と繋がっていたのは、静まり返る大河。自身が立つ岩の足場――埠頭 には、一艘 の船がとまっている。
この大河の名は、三途の川 。天命を終えた死にかけの肉体が、生者から死者へ、移り変わる川であり、彼岸 は冥府界の入り口でもある。多くの出入口がからくり兵によって消され監視される中、サリエルは“ある条件下のもとで発現する道”を選んだ。予想通り追っ手は来ない。初めて訪れた地に不安を抱きつつ、サリエルは一艘の船に近づいた。
「失礼します。貴方がステュクスの渡し守、『カロン』様で間違いないでしょうか?」
小船は、無人ではなかった。木製の櫂 を手に座り込むその神は、サリエルの声に顔をあげる。
正気 のない白い肌に剃り整えられていない髭、骨格 が浮き出るほど窶 れた体と船を繋ぐ千切れた鎖――ステュクスの渡し守、カロンは気怠げに答えた。
「いかにも……冥界に縁 を持つ天使か。ここへ何用だ」
「冥王ペルセポネ様の使い、サリエルです。お願いします、僕を冥府界へ運んでください」
「冥府の主はまた変わったのか……。通行手形は?」
「はい。こちら……に……」
懐に手を入れたサリエルは、通行手形となる宝石を落としたことに色を失う。一体いつ、どこで落としてしまったのか。
サリエルの様子に何となく察したのか、カロンは船の上で立ち上がる。
「乗れ。……送ってやる」
「あ……ありがとうございます、カロン様」
サリエルが船に乗り込むのを確認し、カロンは船を漕ぎ始める。
非常に緩やかな水の流れに乗って船は彼岸へと進む。チャポン、チャポンと船尾に立つカロンが櫂 で水を掻き分ける音が心地よく、まるで全てを忘れてしまいそうな――。
「……天使」
「っ、はい」
非常事態というのに自分ときたら。ぼうっとしていたサリエルはカロンの声でハッと現実に帰る。
「なんでしょう」
「もうじき着く。……降りる準備を」
カロンは出航地点と同じような岩の埠頭 に船を寄せ、サリエルは船から降りる。
「ありがとうございました」
「……」
頭を下げるサリエルと言葉を交わすことなくカロンはひとり、船で川を上る。サリエルは見送りもほどほどに背中を向け、彼岸の先――冥府の入り口に足を踏み入れた。
★★★☆☆
吹き荒むのは死の息吹。運ぶのは死の雪冷。緋色に染まる空、照らされるのは死の大地。
(……久しぶりに戻って来た気分だ。そこまで離れていないのに)
人知れず冥府界に降臨したサリエルは、渓谷 の底から空を見上げる。巡回しているからくり兵の多さに、眉を顰 めた。
(この撃剣で耐えられるか……?)
撃剣クルセイダーは、サリエルが使用する『狙杖エクリプス』の代理に過ぎない。信用してないわけではないが、慣れない分不安は残る。
(けど……今からディントス様の工房に取りに行くのは……)
『狙杖エクリプス』は現在、神器神ディントスのもとにある。訳あって彼に預けているのだ。
仕方ない、とサリエルは渓谷を進む。なるべく敵に見つからないように、戦闘を避けて。元凶を前にして悔しいが、耐えなければ。ひとりで乗り込んだとて、勝てる相手ではない。そのための力を持ち合わせていないのだから。
(……そういえば)
サリエルは懐から小瓶を取り出した。ウィルドが持たせてくれた鎮痛剤だ。意識せず痛みに耐えていたサリエルは、試しに飲んでみることに。
(あっ……効いてる……)
まだ少し痛みは残るが、それでも薬の効力は早く現れた。ありがとう、と心の中でお礼を言い、冥府の地を踏み締める。
神弓オルトロスは、冥府城から目と鼻の先にある祈祷 の間(といっても使われた事実はほとんど無いが)に建てられた神殿内部に安置されている。このことはサリエルしか知り得ない機密事項であり、だからこそひとりで戻ると言ったのだ。
(敵兵の姿はないな)
物陰から様子を伺い、サリエルは身を捩じ込むように神殿へと飛び込む。
オルトロスは神殿の地下――壁と同化しているスイッチを押し込むことで現れる階段を下った先にある。掛けられた燭台 が独りでに灯り、部屋全体が明るみになるが。
「え……⁉︎」
台座の上にあるはずの神弓の姿はない。
「ど、どうして……」
(まさか運び出された……⁉︎ でもオルトロス は誰にでも扱えるモノじゃ……)
オルトロスは自ら所有者を選ぶ不思議な神器。その威力を知るサリエル達ならともかく、事情を知らない彼らは価値を知らないはずだ。
(まずいな……どうしよう……)
思考に耽 っていたサリエルは突然振り返り、撃剣を構えた。感じた気配 の正体は、理解不能な文字の羅列に包まれ降臨する。
「ペルセポネ様……⁉︎」
「……」
「いや……違う。お前は……!」
主君に向けるべきではない眼差しに、ペルセポネは動じない。無言で矢を番 え、放つ。動揺していたサリエルは反応が遅れ、矢を撃剣で弾くも。ビキッ、という亀裂音が撃剣から響く。驚き見ると、撃剣に大きな亀裂が入っていた。壊れていないのが奇跡だ。
続け様に撃ち込まれた矢を飛び退き、躱す。努 めて冷静に、感情を殺し、思考を巡らせながら、サリエルは己が主君の肉体 と対峙する。
★★★★☆
他方。三途の川 の渡し守カロンは、現世側の埠頭 に誰かが立っているのを船の上から確認した。死んだ人間が川を渡ろうとしているのだろう。埠頭に船をつけたカロンは、その姿を間近にして――目を見開く。
「生者……なぜ、生者が……」
カロンの呟きは少年――ウィルドの耳に届かなかった。
ウィルドは忙しなく辺りを見渡していたが、カロンに気づくと駆け寄って。
「あの、すいません。ここが何処だかご存知でしょうか……?」
生者が迷い込むことは非常に稀であり、何百年かに一度はあるかないか。
カロンは少年の背後にある、現世への入り口を指で示す。
「……ここに来るにはまだ早い。そこから戻るといい」
ウィルドは背後を見遣るとカロンに向き直り、「ありがとうございます」と笑みを浮かべる。
しかし、立ち去ろうとしたウィルドをカロンは引き留めた。
「待て。……お前、“通行手形”を持っているな?」
「……通行手形?」
素直に立ち止まったウィルドは小首をかしげる。
「シャンルリンのですか? それともラメラリア?」
「人間の国ではない。冥府のだ」
「冥府……?」
「この川を下った先……人間が“あの世”と呼ぶ、死者の魂が行き着く地の通行手形だ」
ウィルドは取れる勢いで頭と手を横に振って否定。
「あの世⁉︎ 持ってないですよ⁉︎ というかあるんですか⁉︎」
「ある。……なぜ持っている」
「なぜって言われても……そんなヤバい品物を手に入れた覚えは……、あっ。」
ウィルドはバックパックを地面に下ろし、拾った不思議な鉱石を――サリエルが落としたものを取り出した。
「それだ。……それは、天使が持っていたものではないか?」
「そうです! 落としていっちゃったみたいで届けに……知り合いなら、あなたから……」
「……俺は渡し守。落としたものを届けはしない。あの天使も……来るかどうかは知らない」
つまりカロンは落としものを届けることも、預かることもしないと言っている。ウィルドは冥府の通行手形を見つめ、カロンに尋ねた。
「……あの、ぼくを連れて行ってもらうことはできますか?」
「……冥府にか?」
「はい。届けに行きたいんです」
「正気か? ……楽園ではないぞ」
カロンは、正気 に満ちた少年の瞳を見据える。生者を死者の国へ連れて行くのは御法度だ。ゆえにカロンは問いかける。
「醜い化物が蔓延 る大地に、その身を切り裂く風刃、魂をも凍てつかせる烈寒に、肌を爛 れさせる灼熱の地獄……泣いて喚いても助けは来ない。本物の“死者”になりたくなければ、早々に去 ね」
少年の瞳があからさまに揺れた。彼岸の先を見遣り、広がる地獄を想像しては鼓動を激しく打ち鳴らす。
ウィルドはバックパックに差していた杖を引き抜き、ギュッと抱きしめては呼吸を整える。
「っ……それでも、行きます」
「……戻れないぞ」
「いいえ、戻ります。必ず」
瞳に宿る覚悟に折れ、カロンは櫂 を手に取る。
「乗れ。船賃は要らん」
「――ありがとうございます‼︎」
満面の笑顔を咲かせたウィルドに、カロンは僅かに口角を上げた。
「その代わり……ツケにしてやる。死んだ 時にまとめて払え」
★★★★★
冥府の闇に似合わぬ光が堕天使を蹂躙 する。
床が、壁が、天井が。オルトロスの矢を受けて粉砕され瓦礫が散らばり、地下は見る影もない。燭台は壊れ、暗闇が視界を遮断するもオルトロスの光が姿を照らす。
サリエルの体力も、気力も限界だった。攻撃を避けながら隙を狙い、ペルセポネの背後へと回り手を伸ばすも。すんでのところで特殊なシールドが展開され、弾き飛ばされる。ペルセポネどころかオルトロスでさえ、指一本触れられない状況に焦りが募 る。
(考えろ……考えるんだ! 必ず打開策がある! 必ず……!)
「ぐぅっ⁉︎ あああああああああああっ‼︎‼︎」
絶叫が響き渡る。動きが鈍ったサリエルの足に、オルトロスの矢が突き刺さる。ブチブチと肉を切り裂き、神経に電撃のような痛みを流し、足元に血溜まりを作る。
たった一撃、それだけなのに。脚を切り落としたくなるような激痛がサリエルを襲う。
立つことが難しくなったサリエルはその場に座り込んだ。近づいてくる足音に顔を上げ、撃剣を向ける。
(撃たないと殺られる……でも撃ったら彼女は……‼︎)
サリエルが僅かに撃剣を下ろした――直後、ペルセポネの体がぐらりと揺れた。まるで横から“誰かに突き飛ばされた”かのように。だが、ここにいるのはサリエルとペルセポネだけ。他には誰も……。
(いや、“居る”! そこに誰かが‼︎)
そう断言出来たのはオルトロスがペルセポネの手から離れ、空中に漂っていたからだ。
オルトロスを奪われたペルセポネは手を払う動作で、文字の弾を放つ。被弾した“何か”は大きく吹き飛ばされ、壁に打ち付けられる。
「いっ……てて……」
「――! ウィルド!」
真っ二つに割れた兜が外れ、“居るはずのない人間”の姿が露わとなり、サリエルは瞠目 する。背中を打ち付け頭から血を流しているも、ウィルドは生きていた。
「させない‼︎」
考えるより早くウィルドを掻っ攫い、ペルセポネの追撃を躱す。そのまま羽を広げたサリエルは、ペルセポネを“置き去り”に脱出を試みる。
「さ、サリエ」
「絶対に離さないでッッ‼︎」
抱えられたウィルドはオルトロスを握る手に力を入れ、歯を食いしばっては風圧に耐える。神風の如く冥府の空を飛翔するサリエルを、巡回していたからくり兵が行手を阻む。
多勢に無勢。万事休すか。
その時、サリエルの上空から不自然な光が差し込んだ。なんだなんだとウィルドが混乱する中、彼らの姿は光に吸い込まれて冥府界から消えた――。
一瞬で景色が変わる。
見知らぬ地に舞い降りたサリエルはウィルドを床に下ろすや否や、振り向き様 に撃剣を構えた。銃口を向けられたその男はピエロのように嗤い、平然と佇む。
「ひどいじゃないデスかサリエルく〜ん」
「……本物かどうか、確認する必要があるので」
「たしかにその通りデスねぇ。じゃ、一思いにやってイイデスよ」
サリエルは撃剣を向けたまま、男の動向を探っていたが。本物だと認め、撃剣を下ろす。
「信じちゃうんデスか〜⁇」
「……死の神である貴方にとって、死は軽いものですからね――タナトス様」
道化の姿をした魔神タナトスは、頭の骸骨を揺らしニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべる。
「イヤな証明デスねぇ〜」
「タナトス様、お聞きしたいことが」
「わかってるデスよ。わたしもサリエルくんに聞きたいデスねぇ、ナゼ『人間』がいるのかを」
びくりとウィルドとサリエルの肩が跳ねる。
「それは……」
「話はあとにするがイイデスよ。その血をどうにかしてほしいデスね」
「ぼく応急処置ならできるよ。薬もいっぱい持って来たし」
だから重かったのか――とサリエルは苦笑を浮かべ、意見を求めるようにタナトスを見遣る。
「してもらったらどうデスか〜? どのみちわたしじゃあ、傷を治せないデスからねぇ」
サリエルはウィルドに向き直り、気恥ずかしそうに肩をすくめる。
「してもらってもいいかな。……手当、してもらったばかりだけど」
「うんっ! 任せてよ!」
「けど、ウィルドも手当してね。痛かったでしょ?」
「いや〜まあ……それなりに。でもいつものことだから」
ウィルドは座ってよとサリエルを促し、応急処置を始めた。
堕天使と人間。彼らの出会いは、鬼が出るか蛇 が出るか。予測できない事態を前に、タナトスはひとり、唇を怪しく歪ませた。
←4章:名もなき奇跡 5章:ディントス攻防戦→
なにを間違えたというのだろう。
どこから踏み外したというのだろう。
もっと自分に知恵があれば。
もっと自分に力があれば。
彼のような、勇気があれば。
全てを失わずに済んだのに――。
「――ッ⁉︎」
弾けるようにアメジストの瞳が見開かれ、即座に臨戦態勢を取る。周囲に視線を這わせていた翼を背に携えた――サリエルは、敵影ひとつないことに小さく息を洩らす。
(ここは……家?)
意識がない間に自分は室内に運ばれ、スプリングが弾む
(……恐らくここは地上。『人間』の家に違いない。人格がどうであれ、深く関わるのはまずい。早く立ち去らないと)
お礼ひとつ言わないで立ち去るのは心苦しいが、自分にはやらねばならぬことがある。それに、家主は物珍しい自分を捕まえて道具にする可能性だって考えられる。いずれにせよ、早めに立ち去るのが吉だとサリエルが服に袖を通していた時だった。
「──!」
ノックもなしに扉が開かれる。紙袋を抱え、入室した少年はサリエルの姿に
「天使様! お目覚めになられたのですね!」
ぱたぱたと駆け寄って来た少年は、エメラルドの瞳を輝かせてサリエルを見つめる。天使“様”などと呼ばれたサリエルは
「さ、様はやめてほしいな……そう呼ばれるほどでもないし」
少年は目を丸くした。
「えっいいの? バチ当たらない?」
「……人間が僕達をどう見ているのか知らないけど、少なからず不幸は訪れないよ」
「わかった。なら普通にするね」
少年はサリエルをじっと見つめると、小首をかしげる。
「もう行くの?」
「……うん。怪我、手当てしてくれてありがとう。君がしてくれたんだよね?」
「うんっ。……あ、でも待って」
少年は紙袋をテーブルの上に置き、背負っていたバックパックを床に下ろし
「これ、鎮痛薬と傷口に染み込ませてる傷薬。天使に人間の薬が効くか分からないけど……持っていって」
「いいの?」
「うん。事情はよく知らないけど、急いでるんでしょ? 傷の回復を待てないほど」
鋭い観察眼にサリエルは軽く目を見張る。
「……受け取っておくよ。ありがとう」
懐に小瓶を入れたサリエルは着替えを終え、「見送らせて」と言った少年の案内で外に出る。少年の家があった場所は森の中。ここなら飛んでも人間の目に映ることはないだろう。
「本当にありがとう。なにもお返し出来なくてごめんね」
「お返しなんて要らないよ。でも……ひとつだけ、聞いてもいい?」
「……僕に答えられることなら」
「名前を聞きたいんだ。きみの名前を」
少年は、サリエルの目を真っ直ぐと見つめる。まるでその瞳に焼き付けるかのように。サリエルは微笑んだ。
「僕はサリエル。女神ペルセポネ様に仕えている“堕天使”さ」
“堕天使”という言葉に少年は驚くも、すぐに微笑み返す。
「教えてくれてありがとう。……サリエル君」
「君の名前は?」
聞き返したサリエルに、少年は不思議そうに自身を指差す。
「ぼく?」
「うん。君の名前、知りたいな」
少年は嬉しそうに破顔した。
「ぼくの名前はウィルド。ウィルド・マナルーン」
「ウィルド……」
少年――ウィルドの名前を、大切に、丁寧に呼ぶ。
もう会うことはない恩人の名を、決して忘れぬように。
「さようなら、ウィルド」
「うん。バイバイ、サリエル君」
撃剣を握り締め、サリエルは翼をはためかせる。惜しみながらも振り返ることなく、ただ真っ直ぐ、前だけを見て。
「……凄いなぁ」
あっという間に遠ざかっていくサリエルの姿に、ウィルドはぽつりと溢す。天使と会うどころか話すなんて、最初で最後の出来事だろう。忘れられそうにない。
「……ん?」
と、そこでウィルドは、キラリと光を放つ何かが空から落ちてくるのを目撃した。好奇心のままに駆け出してみると、自宅から数キロ離れた場所で半透明の鉱石を発見した。掌よりも一回り大きく、不思議な印が中に刻まれている。
「もしかして……!」
この真上は、ちょうどサリエルが通った道だ。彼が落としてしまったのだろうか。
「……よし! 荷物を持って、追いかけるぞ!」
彼の行き先は分からない。
分かるのは、彼が向かった方向だけ。
あるのは、ワクワクとしたこの感情だけ。
バックパックに鉱石をしまい、杖ととんがり帽子を持って。少年ウィルドは冒険へと出発した――。
(僕がすべきことはオルトロスの奪還。ペルセポネ様はきっと、タナトス様とパンドーラ様が守ってくれているだろうし、それに……)
サリエルは翼に力を入れ、急加速。上へ大きく旋回し、逆さの状態で真下の敵――『からくり兵』を撃剣クルセイダーの十字弾で撃ち抜いた。
(もう居場所を掴まれたか! やっぱり、『海底神殿』に向かわなくて良かった)
サリエルは自分が追われているのを理解していた。今の状況でペルセポネと合流しても、
わらわらと集まりつつある敵兵の合間を縫い、時に身を隠しながら、先へと進む。
(あの川だな)
サリエルが目指していたのは、急流で有名な2つの川がその勢いのままぶつかり合う合流地点。周囲に集落はなく、河原が広がっている物悲しい地。
(今――!)
隠れていた大岩の影から飛び出し、脇目も振らず川を目指す。気づいたからくり兵の攻撃や追跡を振り切り、サリエルは激しい水飛沫を上げて川に飛び込んだ。
からくり兵達は暫く監視するも、サリエルの体が浮上しないことに気付き、再びサリエルの追跡を開始する。
“着地”を決めたサリエルは立ち上がり、周囲を確認する。
川の“底”と繋がっていたのは、静まり返る大河。自身が立つ岩の足場――
この大河の名は、
「失礼します。貴方がステュクスの渡し守、『カロン』様で間違いないでしょうか?」
小船は、無人ではなかった。木製の
「いかにも……冥界に
「冥王ペルセポネ様の使い、サリエルです。お願いします、僕を冥府界へ運んでください」
「冥府の主はまた変わったのか……。通行手形は?」
「はい。こちら……に……」
懐に手を入れたサリエルは、通行手形となる宝石を落としたことに色を失う。一体いつ、どこで落としてしまったのか。
サリエルの様子に何となく察したのか、カロンは船の上で立ち上がる。
「乗れ。……送ってやる」
「あ……ありがとうございます、カロン様」
サリエルが船に乗り込むのを確認し、カロンは船を漕ぎ始める。
非常に緩やかな水の流れに乗って船は彼岸へと進む。チャポン、チャポンと船尾に立つカロンが
「……天使」
「っ、はい」
非常事態というのに自分ときたら。ぼうっとしていたサリエルはカロンの声でハッと現実に帰る。
「なんでしょう」
「もうじき着く。……降りる準備を」
カロンは出航地点と同じような岩の
「ありがとうございました」
「……」
頭を下げるサリエルと言葉を交わすことなくカロンはひとり、船で川を上る。サリエルは見送りもほどほどに背中を向け、彼岸の先――冥府の入り口に足を踏み入れた。
吹き荒むのは死の息吹。運ぶのは死の雪冷。緋色に染まる空、照らされるのは死の大地。
(……久しぶりに戻って来た気分だ。そこまで離れていないのに)
人知れず冥府界に降臨したサリエルは、
(この撃剣で耐えられるか……?)
撃剣クルセイダーは、サリエルが使用する『狙杖エクリプス』の代理に過ぎない。信用してないわけではないが、慣れない分不安は残る。
(けど……今からディントス様の工房に取りに行くのは……)
『狙杖エクリプス』は現在、神器神ディントスのもとにある。訳あって彼に預けているのだ。
仕方ない、とサリエルは渓谷を進む。なるべく敵に見つからないように、戦闘を避けて。元凶を前にして悔しいが、耐えなければ。ひとりで乗り込んだとて、勝てる相手ではない。そのための力を持ち合わせていないのだから。
(……そういえば)
サリエルは懐から小瓶を取り出した。ウィルドが持たせてくれた鎮痛剤だ。意識せず痛みに耐えていたサリエルは、試しに飲んでみることに。
(あっ……効いてる……)
まだ少し痛みは残るが、それでも薬の効力は早く現れた。ありがとう、と心の中でお礼を言い、冥府の地を踏み締める。
神弓オルトロスは、冥府城から目と鼻の先にある
(敵兵の姿はないな)
物陰から様子を伺い、サリエルは身を捩じ込むように神殿へと飛び込む。
オルトロスは神殿の地下――壁と同化しているスイッチを押し込むことで現れる階段を下った先にある。掛けられた
「え……⁉︎」
台座の上にあるはずの神弓の姿はない。
「ど、どうして……」
(まさか運び出された……⁉︎ でも
オルトロスは自ら所有者を選ぶ不思議な神器。その威力を知るサリエル達ならともかく、事情を知らない彼らは価値を知らないはずだ。
(まずいな……どうしよう……)
思考に
「ペルセポネ様……⁉︎」
「……」
「いや……違う。お前は……!」
主君に向けるべきではない眼差しに、ペルセポネは動じない。無言で矢を
続け様に撃ち込まれた矢を飛び退き、躱す。
他方。
「生者……なぜ、生者が……」
カロンの呟きは少年――ウィルドの耳に届かなかった。
ウィルドは忙しなく辺りを見渡していたが、カロンに気づくと駆け寄って。
「あの、すいません。ここが何処だかご存知でしょうか……?」
生者が迷い込むことは非常に稀であり、何百年かに一度はあるかないか。
カロンは少年の背後にある、現世への入り口を指で示す。
「……ここに来るにはまだ早い。そこから戻るといい」
ウィルドは背後を見遣るとカロンに向き直り、「ありがとうございます」と笑みを浮かべる。
しかし、立ち去ろうとしたウィルドをカロンは引き留めた。
「待て。……お前、“通行手形”を持っているな?」
「……通行手形?」
素直に立ち止まったウィルドは小首をかしげる。
「シャンルリンのですか? それともラメラリア?」
「人間の国ではない。冥府のだ」
「冥府……?」
「この川を下った先……人間が“あの世”と呼ぶ、死者の魂が行き着く地の通行手形だ」
ウィルドは取れる勢いで頭と手を横に振って否定。
「あの世⁉︎ 持ってないですよ⁉︎ というかあるんですか⁉︎」
「ある。……なぜ持っている」
「なぜって言われても……そんなヤバい品物を手に入れた覚えは……、あっ。」
ウィルドはバックパックを地面に下ろし、拾った不思議な鉱石を――サリエルが落としたものを取り出した。
「それだ。……それは、天使が持っていたものではないか?」
「そうです! 落としていっちゃったみたいで届けに……知り合いなら、あなたから……」
「……俺は渡し守。落としたものを届けはしない。あの天使も……来るかどうかは知らない」
つまりカロンは落としものを届けることも、預かることもしないと言っている。ウィルドは冥府の通行手形を見つめ、カロンに尋ねた。
「……あの、ぼくを連れて行ってもらうことはできますか?」
「……冥府にか?」
「はい。届けに行きたいんです」
「正気か? ……楽園ではないぞ」
カロンは、
「醜い化物が
少年の瞳があからさまに揺れた。彼岸の先を見遣り、広がる地獄を想像しては鼓動を激しく打ち鳴らす。
ウィルドはバックパックに差していた杖を引き抜き、ギュッと抱きしめては呼吸を整える。
「っ……それでも、行きます」
「……戻れないぞ」
「いいえ、戻ります。必ず」
瞳に宿る覚悟に折れ、カロンは
「乗れ。船賃は要らん」
「――ありがとうございます‼︎」
満面の笑顔を咲かせたウィルドに、カロンは僅かに口角を上げた。
「その代わり……ツケにしてやる。
冥府の闇に似合わぬ光が堕天使を
床が、壁が、天井が。オルトロスの矢を受けて粉砕され瓦礫が散らばり、地下は見る影もない。燭台は壊れ、暗闇が視界を遮断するもオルトロスの光が姿を照らす。
サリエルの体力も、気力も限界だった。攻撃を避けながら隙を狙い、ペルセポネの背後へと回り手を伸ばすも。すんでのところで特殊なシールドが展開され、弾き飛ばされる。ペルセポネどころかオルトロスでさえ、指一本触れられない状況に焦りが
(考えろ……考えるんだ! 必ず打開策がある! 必ず……!)
「ぐぅっ⁉︎ あああああああああああっ‼︎‼︎」
絶叫が響き渡る。動きが鈍ったサリエルの足に、オルトロスの矢が突き刺さる。ブチブチと肉を切り裂き、神経に電撃のような痛みを流し、足元に血溜まりを作る。
たった一撃、それだけなのに。脚を切り落としたくなるような激痛がサリエルを襲う。
立つことが難しくなったサリエルはその場に座り込んだ。近づいてくる足音に顔を上げ、撃剣を向ける。
(撃たないと殺られる……でも撃ったら彼女は……‼︎)
サリエルが僅かに撃剣を下ろした――直後、ペルセポネの体がぐらりと揺れた。まるで横から“誰かに突き飛ばされた”かのように。だが、ここにいるのはサリエルとペルセポネだけ。他には誰も……。
(いや、“居る”! そこに誰かが‼︎)
そう断言出来たのはオルトロスがペルセポネの手から離れ、空中に漂っていたからだ。
オルトロスを奪われたペルセポネは手を払う動作で、文字の弾を放つ。被弾した“何か”は大きく吹き飛ばされ、壁に打ち付けられる。
「いっ……てて……」
「――! ウィルド!」
真っ二つに割れた兜が外れ、“居るはずのない人間”の姿が露わとなり、サリエルは
「させない‼︎」
考えるより早くウィルドを掻っ攫い、ペルセポネの追撃を躱す。そのまま羽を広げたサリエルは、ペルセポネを“置き去り”に脱出を試みる。
「さ、サリエ」
「絶対に離さないでッッ‼︎」
抱えられたウィルドはオルトロスを握る手に力を入れ、歯を食いしばっては風圧に耐える。神風の如く冥府の空を飛翔するサリエルを、巡回していたからくり兵が行手を阻む。
多勢に無勢。万事休すか。
その時、サリエルの上空から不自然な光が差し込んだ。なんだなんだとウィルドが混乱する中、彼らの姿は光に吸い込まれて冥府界から消えた――。
一瞬で景色が変わる。
見知らぬ地に舞い降りたサリエルはウィルドを床に下ろすや否や、振り向き
「ひどいじゃないデスかサリエルく〜ん」
「……本物かどうか、確認する必要があるので」
「たしかにその通りデスねぇ。じゃ、一思いにやってイイデスよ」
サリエルは撃剣を向けたまま、男の動向を探っていたが。本物だと認め、撃剣を下ろす。
「信じちゃうんデスか〜⁇」
「……死の神である貴方にとって、死は軽いものですからね――タナトス様」
道化の姿をした魔神タナトスは、頭の骸骨を揺らしニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべる。
「イヤな証明デスねぇ〜」
「タナトス様、お聞きしたいことが」
「わかってるデスよ。わたしもサリエルくんに聞きたいデスねぇ、ナゼ『人間』がいるのかを」
びくりとウィルドとサリエルの肩が跳ねる。
「それは……」
「話はあとにするがイイデスよ。その血をどうにかしてほしいデスね」
「ぼく応急処置ならできるよ。薬もいっぱい持って来たし」
だから重かったのか――とサリエルは苦笑を浮かべ、意見を求めるようにタナトスを見遣る。
「してもらったらどうデスか〜? どのみちわたしじゃあ、傷を治せないデスからねぇ」
サリエルはウィルドに向き直り、気恥ずかしそうに肩をすくめる。
「してもらってもいいかな。……手当、してもらったばかりだけど」
「うんっ! 任せてよ!」
「けど、ウィルドも手当してね。痛かったでしょ?」
「いや〜まあ……それなりに。でもいつものことだから」
ウィルドは座ってよとサリエルを促し、応急処置を始めた。
堕天使と人間。彼らの出会いは、鬼が出るか
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