パルテナの鏡 - 厄災の目 -

外伝


 赤黒い空、枯れ果てた地、背筋を凍らす冷風。

 ──ここは、死者の魂が集う『冥府界』。陽光も、月光の祝福も受けず、生きとし生ける者を拒み、肉体を失った者を受け入れる地。

 切りたった崖を乗り越えた先に“それ”はある。

 『冥府界』を支配する人ならざる者達が暮らす城……『冥府城』。

 ここで語るのは、『冥府城』で日夜働く一人の天使の話だ。





「ふぅ……やっと終わったぁ……」

 手元にある資料を掲げ、頬を緩ませる。

 黒く染まる羽に物々しい眼帯。とても天使とは思えない彼こそが、今回の主人公──サリエルである。

 椅子に座るサリエルの前には、思わず目を逸らしたくなるほど積み重なった資料。よく見れば部屋の至る所にも資料の山がある。サリエルはこれらを、一週間費やして片付けた。寝る暇を惜しんで。

 眠気はとっくにピークを超えている。

「じゃあ、寝るか」

 とはならず。自身に課せられた大事な使命を果たすべく、椅子から立ち上がる。

「今日こそ管理者を探しに──」
「サリエルくん。お仕事の追加デスよ」
「……」

 片手を机に、片手を握りしめながら固まるサリエル。そんな彼の前に積まれた資料を持って来たのは、死を司る神タナトス。

「えっ……」
「ご苦労様デス。お願いしますね」
「えっえっちょっと!」

 踵を返して退散しようとするタナトスの前に回り込む。

「なんデスか?」
「今終わったばっかりですよ! どうして増えるんですか!」
「タイミングが悪かったデスねぇ。じゃっ」
「待って下さい!」

 サリエルを避けて立ち去ろうとするタナトスの行手を塞ぐ。譲る気はない、とサリエルの瞳が訴えている。

「今日こそは仕事を手伝って貰いますよ」
「わたしは忙しいのデスよ。あー、肩が凝りますねぇ」
「嘘つかないで下さい。撃ちますよ」

 わざとらしく肩を揉むタナトスに対し、狙杖を取り出す。

「わたしがするより、サリエルくんの方が早いデスよ」
「仕事量が多いんです。これじゃあ探しにいけません」
「別にイイじゃないデスか〜。サリエルくんお偉いさんデスよ。王様デスよ」
「要らないです」

 ばっさりと切られ、あうっ! と胸を抑える。刹那、タナトスの足元目掛けて撃たれる閃光。言わずもが、狙杖の弾である。

「あわわわわわわ」
「次は……」
「アッ〜! ソコはダメデスよ! わたしのチャームポイントが〜!」
「サリエルく〜ん、いるぅ〜?」

 艶かしい声を上げながら部屋に入って来たパンドーラは、直後「あらっ?」と笑みを崩さないまま小首を傾げる。

「お取り込み中だったかしら〜?」

 タナトスのお腹に押し付けられる狙杖の先端。イヤイヤ、と首を横に振るタナトスを無視して、サリエルは引き金を引こうとしている光景を見れば、そう思うのも必然だ。

「そうですね。今からタナトス様のお腹を引き締めようかと」
「ヤダなにこの子コワイデス!」
「いいと思いますよ〜。タナトスさま、ハンサムになっちゃうかも?」
「ならなくてイイデスよ! ぱ、パンドーラは何用デスか?」

 話題を自身からパンドーラに無理やり移す。うふふ、とパンドーラは妖艶な笑みを浮かべると。

「サリエルくんにお・し・ご・と♡」
「お持ち帰り下さい」
「ダ〜メ。サリエルくんのしごとだもん」
「お持ち帰り下さい」

 持ち帰れの一点張り。む〜っと、頬を膨らませるパンドーラ。実年齢を考えた方がいい。

「がんばってくれたらごほうびあ・げ・る」
「要りません」
「あ〜ん欲なさすぎ〜」

「……半年です」

 と、サリエルは狙杖を下ろしながらぽつり。これにはタナトスもホッと胸を撫で下ろした。

「半年デスか?」
「僕がここに来てから半年。その間、一度も探しに行けていません」

 あらら、とパンドーラは口元に手を添えて。

「それどころか仕事は増えるばかりで碌に休めません」
「め、冥府には格差社会もなければ労働基準もないのデスよ〜……」
「そのうち仕事もへって……」
「そのうち? そのうちとはいつですか? もう事後処理も終えてます。今の仕事はお二人方でも出来るはずですよ。寧ろ僕より慣れているはずなのでは?」

 言われてしまえば、揃いも揃って視線を逸らす。

「とにかく。僕は出かけさせていただきます」

 真っ直ぐに部屋の外を目指す。……が、突如として上下逆さまになる視界。頭を押さえながら小さく唸り、傾く体。

「サリエルくん」

 床にぶつかる直前、タナトスがギリギリ拾い上げる。そのまま軽く揺らしてみるも反応はなく、パンドーラと顔を見合わせる。

「寝て……いるみたいですね〜」
「仕方ないデスねぇ。運んであげますよ」
「あらおやさしい」





 始まりは、無情に降り注ぐ雨の日だった。


「……」

 暗い森の中。木に体を預け、僕は下を向いていた。あの厚い雲を抜けた先には……僕を“捨てた”人達が居る。そう思うと、空を見上げられなかった。

 地上に堕とされてから何日が経ったのだろう。

 涙はとっくに枯れ果て、冷たい雨に体温が奪われていく。このまま……僕は……。


『ここで何をしている』


 初めて聞く声にゆっくりと顔をあげる。

 見えたのは真っ白に光り輝く“何か”。

『その目は……』

 どうやら声はそこから発せられているらしい。目……この不気味な目のことだろう。隠すように僕は手で覆った。

『隠す必要はない。その程度の呪いであれば効かないからな』

 ……驚いた。この目の呪いが効かないなんて。

 そんな僕の心情を汲み取ったのか、小さく笑いを溢した。

『こんなところに何故天使が、と思ったが……なるほどな。“堕とされた”か』

 不思議と、何の感情も湧かなかった。ああ、やっぱりそうなんだなって、どこかで納得していて。

『それで。貴様はここで何をしている』
「……分からない」

 僕は一体どうしたいんだろう?

 生きてはいけない僕に残された道はただ一つ。

『それは間違っている』

 その“何か”は、ふよふよと僕の目の前にやって来た。

『貴様が死ねていないのは生きたいと思っているからだ。何もしないのはどうすればいいか分からないのではなく、分かっているが行動しないだけだ』

 生きたい……。

「……でも、僕は居てはいけない」
『だが死にたくないのだろう?』

 そうだ……僕は生きたいんだ……。

『世界に拒絶されるというなら、その世界を変えればいい。その目を当たり前とする世界に』

 悪魔が囁いた。

『“厄災”を“日常”と化せ。“無”を“憎悪”に変えろ。白く、清らかな空を、黒く、穢してしまえ。己を“堕とした”奴等の喉笛を掻っ切れ。それをして初めて、貴様の存在は認められる』

 その言葉に。

 僕は小さく“笑った”。

 そうでもしなければ生きることを許されないこの世界に。

 僕は、何度も絶望するのだろう。





「っ……!」

 ハッとして深い眠りから目覚める。

 サリエルの視界に映るのは、見慣れた部屋の天井。間もなく、自分の部屋だと認識すると、ゆっくりと体をベッドから起こし、部屋の中を見渡す。

「……あ」


 そうだ……。確か、僕はタナトスさんとパンドーラさんと話していたら急に眠気が来て……そのまま寝ちゃったんだな……。


 その二人が部屋まで運んでくれたのだろう。後でお礼言わなきゃ。

 サリエルは重心を後ろに傾かせ、ボフンっと音を立てながらベッドに寝転ぶ。そのまま横に向くと、シーツに指を立て、握りしめ、呟く。

「……ダムド様……」

 あの日、あのとき。ダムドに出会わなければ、自分はあそこで息絶えていただろう。ダムドは、当たりこそ強かったが、大切な人には変わりなかった。

「……」

 脳裏に蘇る、彼の最期。

 何度も何度も、他に道はあったのではないかと考えてきた。けれど、やり直すことはもう出来なくて。

 そんなとき。必ず思い浮かぶのはピットの顔だった。ダムドを喪った自分を、あの手この手で楽しませようとしてくれた彼の姿を思い返すたびに、心があったかくなる。まるで、雨雲を晴らす太陽のように。


 ……半年。もう、別れてから半年が経っている。

 僕ら天使にとっては短い時間だけど、この半年間は一日一日を長く感じたな。

「会いに行きたいな……」

 ……なーんて。夢のまた夢だよね。





 青い空、草木芽吹く大地、光溢れた世界。

 『冥府界』とは対となる『天界』は、遥か上空に位置し、空から地上を見守りつづけている。

「は……っくしょん!」

 『天界』の一角、女神パルテナが暮らす神殿に、大きなくしゃみが響き渡った。

「誰かうわさでもしてるのかな……」

 きょろきょろとあたりを見渡しながら、鼻を啜る。

「……ピット?」

 部下の不審な行動に、麗しい容貌の女神様はその顔を歪めた。

「あ、ぁああいや! なんでも! なんでもありません!」
「そうですか?」

 神弓の手入れをしていたピットだったが、親愛する女神が訪れたことで中断し、どうしましたかと小首を傾げる。

 対して、女神は優しく微笑み。

「特に、これといった用はありませんけど……。少しお話しませんか?」
「うれしいです! じゃあ、ボク、お茶とか用意しますね!」
「いえ、今日はこのまま。お茶はまた今度にいたしましょう」

 え? と足を踏み出していたピットが振り返ると、すでにパルテナはその場に腰を下ろしていた。

「ぱ、パルテナ様! お召し物が汚れてしまいますよ!」
「あら、ではピットの羽衣にも汚れがついているかしら。落としてあげますね」
「分かりました! 分かりましたから!!」

 と、何故かお尻を手で抑える。パルテナはくすくすと楽しそうだ。

「私の隣へどうぞ」
「し、失礼しますっ……」

 ぎこちない動きでパルテナの隣に腰を下ろし、三角座りに。緊張でカチコチになるピットとは反対に、パルテナは目の前に広がる景色を、双眸に映していた。

「調子はいかがですか? ピット」
「へ!? あ、元気いっぱいです! ですが、最近は戦いもあまりなくて体が鈍りそうですね……」
「最近は特に平和ですからね。サリエルが上手く手を回してくれているのかもしれません」
「それはありそうですね。忙しいみたいですし」

 ピットの表情は嬉しそうな反面、どこか寂しげにも見える。やはり、半年間連絡が一通もないからだろう。

 元気にしているのか、管理者探しは順調なのか。もし会えたとき、どんな話をしようかな。期待と不安で胸をいっぱいにしながら、一日一日を過ごしてきた。

「……今、なにをしているのかな……」

 思わずといったように、ピットはハッと口元を抑えた。隣に視線を移せば、パルテナと目が合う。

「……ふふ、私もサリエルの姿が見てみたくなりました」
「ボクは会いたいとは言っていませんよ!」
「顔に書いてありますよ〜」
「あぁああぁあ! ちょっ、頬を突かないで下さい!」
「まぁ……最近は平和ですし、少しぐらい離れても問題はありません」
「……と、いいますと?」

 フフン、とパルテナは誇るように胸を張ると。

「ピット。貴方に特別任務を与えます」
「と、いいますと!?」
「冥府城に赴き、サリエルの様子を月桂樹越しに私に教えて下さい」
「このピットにお任せ下さい!!」

 こうして、ピットは特別任務を遂行するべく、冥府界に向かうことが決定した。……かと思われたが。

「ただし、その前にやっておくことがあります」
「はい、なんでしょうか? 通行手形……はありますよね」
「はい。それとは別に……」





『見えてきましたよ』

 脳内に響くパルテナの声。目の前に聳える城を、こんなにもワクワクとしながら見つめたことがあっただろうか。

『あやつ、ここがどこだか忘れておるのではないか?』
「三回も死にかけたくせにな」
「三回!? 死にかけたのは一回だけだ!」

 飛翔するピットと並ぶのは、自然軍幹部ブラックピット。自然の女神、ナチュレも月桂樹越しに参加している。

 どこからか、ピットがサリエルに会いに行くという情報を手にしたナチュレは、わらわも見たいとブラックピットを向かわせた。

『一応、内密に事を進めたのですがね……』
『侮るでないぞよ、パルテナ。わらわが本気を出せば、このぐらい朝飯前なのじゃ!』
「様子を見るだけならボクだけで十分だっただろ!」
『ブラピが乗り気なのは不思議ですね』
「ブラピはやめろ。……その神弓の話、アイツにするんだろ? オレも聞きたいと思ってな」

 ブラックピットの視線は、ピットが小脇に抱える長方形の箱に向けられていた。中に入っているのは、対ダムド戦で使用した神弓“オルトロス”。戦いの後、ディントスに返却していたものだったが、パルテナの進言により譲り受けた。

「なーんだ。てっきりサリエルに会いたいのかと」
『意外にも、そうかもしれぬがな。照れ隠しかもしれん』
「ツンデレブラピ……あ、デレブラピ!」
「撃つぞ」
『あとにせい。オルトロスを無くすわけにはいかぬからな』

 あ、これ帰る前にぶち抜かれるやつだな。

 超高速で逃げようと考えるピットの体は、冥府城にあるバルコニーへと。降り立つと同時に奇跡が切れ、ブラックピットと二人で城の内部を歩く。言っておくが、不法侵入には変わりない。

「ちゃんとお城なんですね」
『わらわもこのエリアは初めて見る』
『ここは冥府軍の総本山ですからね。ちゃんと生活できる場所もありますよ』
「罠とかないよな。スイッチ踏んだら槍が飛んでくるとか」
『さあ? 試してみてはどうですか?』
「……そう」
「や、やめて! 絶対やめて! ボクが爆散する未来しかみえないから!!」

 どうやらここは魔物がいないセーフティーエリアらしく、どれだけ叫んでも何も出てこない。やがて、無闇矢鱈に歩いていても仕方ないという話になり、サリエルが居そうな場所を特定してみるので待機してくださいと、二人は廊下で待つことに。

「ここだけ見てると立派だよな〜」
「フン。オマエに城の価値が分かるものか」
「そういうブラピはどうなんだよ! 分かるのか!」
「オレは他の城を知らないんでね」

 くだらない言い合いをしていた二人だったが、視界の端に不審な影を捉え、顔つきを変える。

「今……なにか見えたよね」
「影……それもオレ達よりひと回り小さめな……」

 パルテナとナチュレは気づいていないらしく、月桂樹からの通信はない。ちょっと見てくるよ、と歩き出したピットの手を、ブラックピットは掴んで引き留めた。

「待て。オマエはここで神弓それ守ってろ」
「え?」
「冥府軍が、オレ達を見つけて隠れるか? 堂々と出てくればいいだろ」
「た、たしかに……ブラピ頭いいね」
「まあな」

 行ってくると一言告げ、影が隠れた棚にゆっくりと近づく。ハラハラと見守るピットの視線を受けながら、ブラックピットは一定の距離で足を止めると、一気に。

「誰だ!」
「ひゃああああっ……」
「……は?」

 棚の影にしゃがみ込んでいたのは、魔物のような奇怪な姿……ではなく、人間のような容姿の女。あどけなさが残る、いかにもか弱そうな女の子だった。

「ぶ、ブラピ……?」
『お待たせしました。解析が……ってあら?』
『そなたらはなにをしておるのじゃ?』
「それが……」

 ピットが説明をしている間。ブラックピットは、見極めるように女の子を凝視した。すると、先程まで怯えていた様子だった女の子は、何かに気付いたように顔を上げる。

「その羽……もしかして、サリエル君と同じ……?」
「サリエルを知っているのか?」

 小さく頷く。

「……ピット」
「な、なに?」
「コイツ、サリエルの知り合いらしい」
「えっ、ホント!?」

 警戒心も何もかも投げ捨ててブラックピットに駆け寄る。急な登場に女の子が盛大に肩を跳ね上がらせると、ブラックピットはオイと睨みつけた。

「あっ……ゴメンね。驚かせちゃって」
「ううん」
『……驚いた。こやつは人間じゃ……!』
『ええ。微かに神の力を感じますが、人間ですね』
「人間? ここに人間が?」
「ちょっとブラピ。この子には聞こえないんだから気をつけて」
「……あなた達は……誰……?」

 ピットは膝をつき、女の子と視界を合わせると、安心させるように笑いながら。

「ボクはパルテナ親衛隊隊長ピット。あ、こっちはブラピね」
「ブラックピットだ」
「ボク達、サリエルに会いたくて天界から来たんだ。キミはサリエルの知り合いなんだよね? どこに居るか知らない?」

 あっ……、と女の子は小さく声を洩らすと、狼狽え始める。

「わ、私もサリエル君に用があったんだけど、その……迷ってて……」
「つまり迷子か?」

 シュンと落ち込む女の子に、ピットは大丈夫と笑いかけて。

「一緒にサリエルを探そう。ね?」
「あ……ありがとう……」

 ピットの言葉に安心したのか、ぎごちなくはにかんだ。

『ピット。彼女に、サリエルがどこにいるか、おおよそでいいので聞いてもらえますか?』
「ハイ! え〜っと、サリエルがどこにいるか分かる? 大体でいいから」
「多分……仕事部屋、かな? 大きい扉が目印の……」
『ということは、比較的大きめの部屋じゃな』
『はい。まずは幾つか回ってみましょう。緑色の矢印を進んでください』
「了解です! ボク達に付いてきて。一緒に回ろう」
「うんっ」





「ここも違うか〜……」
「ムダにあり過ぎるだろ」
「これなら迷っても仕方ないね」

 パタンと扉を閉め、苦笑い。どこを歩いても似たような景色が続き、尚且つ空き部屋が多いため、一同はサリエルの仕事部屋を見つけられずにいた。

「扉にプレートとか掛けておいてほしいよね。全く、訪問者に優しくないなぁ」
「優しくするわけねーだろ。ここは冥府界だぞ」
『そういえば……そやつはなんという名なのじゃ?』
「オマエ、なんて言うんだ」
「聞き方が怖いよ、ブラピ。もしよかったら、教えてくれる?」
「私はラ──ぺ、ペルセポネ」

 ペルセポネと名乗る女の子は少し焦りながらも答え、ピットは可愛い名前だねと笑う。

『ペルセポネ……彼女はおそらく……』
『冥府界の、新たな“管理者”に違いなかろう』
『ですが、こんなに幼いとは……。早くから人間と引き離し、地下に住ませる。寂しくはないのでしょうか……』
「それはオレ達が決めつけることではない」
「ブラピ……?」

 女神達の会話に口を挟んだブラックピットに、疑問符を浮かべる。

「……オイ、ペルセポネとか言うヤツ。オマエは管理者なんだよな?」
「え? どうしてそれを……」
「オマエはここでの生活はイヤか? 寂しいか?」
「……」

 静寂が辺りを包み込む。息遣いだけが聞こえる中、ペルセポネは自身の手を見つめて。

「寂しい……と言ったら寂しいかもしれない。けど、前の方がもっと寂しかった……。体が弱くて、ずっと部屋で静かにするように言われて……楽しみだったのは本と、花畑にいる時間だけで……。そんなとき、サリエル君と出会ったの。初めて会ったときに、花冠を一緒に作って、仲良くなって」

 嬉しそうに語るペルセポネ。

「管理者とか、よく分からなかったけど……。ここに来てからは毎日体の調子はいいし、サリエル君も、他のみんなも優しくて……。嫌になんて、なれないかな……」
「……そうか」

 ブラックピットの頬が、微かに緩んだ気がした。

『……良い子ですね。彼女』
『そうじゃな……』
『ナチュレが人間に同調するなんて……』
『こやつだけじゃ。……昔のわらわを、思い出してしまいそうじゃがな』

 小さく呟かれた言葉に、パルテナが追及することは無く。ペルセポネはパッと明るい表情を見せると、次行こっ! と指差す。

「そうだね! ボクも早くサリエルに会いた──」

「僕ならここにいるよ。ピット」

「ハッ! 今サリエルの幻聴が……!」
「幻聴なんかじゃねーよ。オレにも聞こえた」
『わらわもじゃ』
『私にも聞こえました』

 何処だ何処だと探していると、ヒョイっと廊下の角から飛び出してきた。

「久しぶり。ピット」

 サリエルだ。最後に別れたときと変わらぬ姿で、サリエルはピットの姿に微笑んだ。

「っ……サリエル!」
「うわあっ!?」

 感極まり、自身に抱きついたピットに体制が崩れかけるも、なんとか堪える。

「元気だった!?」
「う、うん。ピットこそ元気そうだね。会いに行けなくてごめん」
「ノープログラム! いま会えたから平気!」
「そろそろ離してやれ。箱が当たってる」

 ぐえっ、と首根っこを掴まれた猫のように引き剥がされる。

「ブラックピットも久しぶり。元気にしてた?」
「まあな。ナチュレも元気だぜ」
『わらわがここに居ないかのような言い回しをするでない。サリエルよ、久しぶりじゃな』
『私も居ますよ。お元気そうでなによりです』
「ナチュレ様にパルテナ様……お久しぶりです」

 月桂樹越しに聞こえる声に、サリエルは眼帯をしていない方の目を柔らかく細めた。

「今日は、サリエルにいろいろと話したいことがあって来たんだ」
『はい。神弓“オルトロス”についての話を。長くなりそうですので、私達は後でも構いませんが……』
「あ、すみません。今、人を探していて……」
「さ、サリエル君……」

 おずおずと前に進み出たペルセポネの姿に、サリエルは驚きながらも良かったと安堵。

「ペルセポネ様。ピット達と一緒だったのですね」

「さっきの話、聞こえてなかったんだな」
「シッ!」

「良かったら、ペルセポネ様も一緒に……」
「わ、私はいいっ……向こうに行ってるから……」

 引き止める間も無く、ペルセポネは来た道を駆け足で戻っていってしまう。追いかけようとするサリエルを、またもやブラックピットが引き止めた。

「やめておけ。オレ達の話を聞いていても、居心地が悪いだけだ」
『そうじゃな。安心せい、あやつになにかあれば知らせてやるからの』
「す、すみません……」
『よいよい。さて、立ち話もアレだからの。どこかゆっくりと話せる場所はあるかの』
「それなら、僕の仕事部屋に案内します」
「さっきまで探してたんだよ! どんな感じかな〜」
「あまり期待はしないでよ。書類ばっかだから」

 ペルセポネに後ろ髪を引かれながらも、サリエルは二人を自身の執務室へ誘導する。

『サリエル』

 その途中。パルテナは優しく名を呼んだ。

『彼女……ペルセポネから聞きました。新しい管理者を見つけたのですね』
「はい。ですが、ペルセポネ様はまだ幼いので、仕事は引き続き僕がしています」
「仲いいみたいだね。嬉しそうに花冠作ったって話してたよ」
「ええっ。は、恥ずかしいな……」
『お互いにお互いのことを大切に思っているようで良かったです。後で思いっきり甘やかしてあげてくださいね』
「はい」
「今度来たときはペルセポネに何か持ってくるね」
「ありがとう。きっと喜んでくださる」





「ここが僕の仕事部屋だよ」
「他と大差なくて分かりづらいな」
「そうだよね」

 どうぞと扉を開け、二人を中に招き入れる。

「そこの椅子に座ってて。今お茶を淹れるから」
『あっ、お構いなく』
「オマエは居ないだろうが」

 素直に椅子に座り、足を組むブラックピットに対して、ピットは面白そうに目を輝かせながら部屋全体を見渡す。

「ここが仕事部屋か……カッコイイなぁ……!」
「そうか? 書類の山だらけじゃねえか」
「それがいいんだってば!」
「あはは、今日は比較的少ない方かな」
『完全に労働基準を超えてますね……』
『こやつ、感覚が麻痺しかけておるぞ』

 お茶入ったよ、とサリエルが机にコップを並べ始めると、ピットは椅子に座り、ありがとうと受け取った。

「オマエ以外に居ないのか? こういう事務作業するヤツ」

 お茶を飲みながら訊ねるブラックピットに、サリエルはうーんと考え込むと。

「いるにはいるけど……主に僕がやっているかな」
『冥府軍にも仕事ができる輩がおるのじゃな』
「はい。タナトスさんとパンドーラさんと言う方です」
「「ブーーッ!!」」

 二人同時にお茶を吹き出し、咳き込む。

「え? えっ!? ど、どうしたの??」
『……私が代わりに答えますね』

 咳き込み、まともに話せない二人に代わりパルテナが説明。

「ええっ!? タナトスさんとパンドーラさんは、ピットとブラックピットに倒されていたんですか!?」
『はい……。まさか、また復活しているとは……』
『逆になぜ今まで知らなかったのじゃ……』
『悪さをしているわけではなさそうですし、今は様子を見ることにします』
『それがよかろう。……ん? どうしたのじゃ、サリエル』
「復活するということは生命力が高いはず。少しぐらい無茶をしても大丈夫だと言うことに……」

 ブツブツと呟くサリエルを呼ぶと、ハッとしてすみませんと謝る。

『その話は置いといて。早速ですが、本題に入ります』
『そなたらもちゃんと聞いておくのだぞ』

 回復した二人もタオルで口元を拭きながら頷く。

『神弓“ορθροςオルトロス”。神器神ディントス様の話によれば、決して壊れず、劣ろえることがない、不滅の神器。何百、何千経とうとも、その光が揺らぐことはない……。それは、この冥府界でも変わることはありません』
「地獄で見つけたときにも光ってたな……」
『そこで、サリエルに提案です。このオルトロスを、冥府界の何処かに保管してもらえますか?』
「えっ……」
『な!?』

 正気か!? とナチュレが叫ぶ。

『わらわか、そなたのところで保管しておけば良かろう! なぜ、わざわざ手放すような真似をするのじゃ!』
『その意見はごもっともです。しかし、私達が厳重に管理してしまえば、あのような“奇跡”は起こらないでしょう。私達が、……ピットが、あの場所で見つけたからこそ、力を発揮した。……私には、そう思えたのです』

 だってよ、とブラックピットがナチュレに声をかけると、ナチュレは納得出来てない様子だったが、押し黙った。

『ありがとう、ナチュレ。……サリエル、貴方にオルトロスの行く末を任せてもいいですか?』
「……分かりました。お引き受けします」
『こちらの我儘に付き合わせてしまいますが……どうか、来たるべき時まで、次の所有者が現れるまで……穏やかな眠りを』

 女神の祈りに応え、オルトロスから洩れていた淡い光がスーッと消えていく。

 再び、この世界を夜明けに導くため。オルトロスは、完全に眠りへとついた。



『本題はこれで終わりです。ここからは、久しぶりの交流といきましょうか』
「ハーイハイハイハーイ! ボクから話しまーす!」
『はい、ピット君』
『挙手形式かのう。ブラックピットも元気よく手を挙げるのじゃ』
「イヤだね。オレはコイツみたいにガキじゃないんでね」
「僕は元気でいいなと思うけど。ピットの話、聞かせてくれる?」
「フフン、聞いて驚くなよー?」
「自分から振ったくせに」
「いいじゃないかー!」
『コラコラ。話が脱線しておるぞ』
『騒がしくてすみませんね』
「いえ、懐かしくて楽しいです」





「ペルセポネ様、いらっしゃいますか?」

 あの場から逃げるように離れ、部屋のベッドで布団にくるまっていたペルセポネは、扉越しに聞こえたサリエルの声で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 眠い目を擦りながら、のそのそと扉に向かい、内側から開ける。

「すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん。大丈夫……」
「良かった……あ、ホットミルクをお持ちしました」
「ありがとう」

 話しているうちに目が覚めたペルセポネは、サリエルの背後を確認するように覗き込む。

「ピット達ならもう帰りましたよ」
「あっ、ごめんなさい……」

 何故謝る必要が? とサリエルは小首を傾げる。

「部屋の中に入ってもいいですか?」
「も、もちろん」

 二人は暖炉の火を眺めながら、ホットミルクの優しい甘さを味わうように、ゆっくりと飲み込んでいく。

「……お話は出来たの?」
「はい。久しぶりだったので、つい話し込んでしまいましたが……」
「そう……」
「あ、そういえばピットが、ペルセポネ様ともっと仲良くなりたいと言ってました」
「私と?」


『冥府界だけじゃなくて、天界にも遊びに来てほしいな! きっと楽しい時間になるよ!』


「……とまあ、こんな感じで」
「天界……でも、行っていいのかな。体調悪くなったりしないかな」
「その点は問題ないと思います。神が治める地、という点では冥府界も天界も同じはずですから」
「そっか! そのときは、サリエル君も一緒に来てくれる?」

 サリエルは少しだけ視線を泳がしたが、はいと笑みを浮かべた。


 天界はまだ苦手だけど……、ペルセポネ様の為にも頑張らなきゃ。


「ありがとう! どんな場所かな……」

 今から胸を躍らせるペルセポネだったが、はしゃぎ過ぎたのと体が温まったのもあり、数分後には寝息を立てて眠ってしまった。サリエルは軽々とペルセポネの体を持ち上げると、ベッドに寝かせ、布団を肩まで掛ける。

「おやすみなさい。良い夢を」

 暖炉の火を消し、食器を回収すると、静かに部屋を後にした。



 ……久しぶりにピットの顔を見れて良かった。向こうも頑張っているみたいだし、僕も頑張らなきゃ。あとは……預かったオルトロスの保管場所を決めなきゃいけないよね。やっぱりお城……ううん、別の場所にしよう。ここから少し離れた場所とかに……。



 ぐるぐると思考を巡らしながら廊下を歩くサリエルの知らないところでは、オルトロスが僅かに反応していた。新たな所有者の訪れを予感して──。


 Fin.


8章:厄災の目
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