パルテナの鏡 - 厄災の目 -

5章:堕ちた翼に祝福を


「それは誠でございますか、ナチュレ様」

蔓の絵柄が描かれたティーポットを手に、自然軍幹部『静寂のアロン』は長く立派な白髭を上下させ驚きの表情を見せる。

「パルテナから連絡が入った。ピットが証明したそうじゃ」

『自然王ナチュレ』はアロンの言葉に返しながら、淹れたてのお茶を口に運ぶ。ふぅ、と一息つくとカップをソーサーに戻す。

「さすがピット様でございますね。このアロン、感服いたしました」
「アロン。ピットは本来ならわらわ達の敵じゃ。忘れるでないぞ」
「重々承知しております」

ほんとかのぉと差し出されたカップに、アロンはお茶のおかわりを注ぐ。

「して、ナチュレ様。これからどうなさるおつもりで?」
「パルテナとも話をするが、あの天使の回復を待ってダムドの元に突撃することを考えておる」
「さようでございますか。そういうことでしたら、パルテナ様にわたくし特製のブレンド茶葉でもお送りしましょう」
「……さては楽しんでおるな?」
「オホホホホ」

アロンはお茶を淹れ直しにその場を後にした。





「ピット」

──パルテナ軍拠点『パルテナの神殿』。

エメラルドグリーンの髪を揺らすのは『光の女神パルテナ』。

「おはようございます! パルテナ様!」

フライパンを片手に作業していた『パルテナ親衛隊長ピット』は、真っ白な羽を広げながら挨拶した。

「朝食ですか」
「ハイ。サリエルに持っていくんです」

ピットは目玉焼きを慣れた手つきで、こんがりと焼いたパンの上に乗せる。仕上げに塩胡椒を少しだけまぶす。

未だに暗い牢の中で朝を迎える、天使のために。

「私もご一緒していいですか?」

えっとピットが小さく声を漏らす。驚くのも無理はない。『厄災の目』を持つサリエルを一度は見捨てようとし、保護した後に牢の中に閉じ込めたのは他でもないパルテナだったからだ。パルテナの行動は意味がないものではなく、ピットの身を案じてのものだが。

ピットがサリエルの『厄災の目』の秘密を明かした後は、ピットに危害を加えないと判断し自由にしたが……それでもサリエルは牢から出ることはなかった。

「え、ええ……大丈夫ですが……」
「でしたらこの茶葉でお茶を淹れて頂けますか?」
「分かりました」

パルテナから紙袋を受け取ると、ピットはせっせと動き回る。

サリエルが神殿にやって来てから三日目。転機が訪れた。





「サリエル! おはよう!」

神殿内にある広い地下牢。その一角、鍵が開けられた牢の中に、紫がかった黒い羽を休めるのは『厄災の堕天使サリエル』。サリエルはピットの声に反応し、俯いたまま閉じていた右目を開けた。

「朝ご飯、持って来たよ。それと……パルテナ様も」
「……」

ピットの言葉に、サリエルは何も返さなかった。朝食も手をつけようとせず、ピットはどうしたのかと不安になった。

「サ──」

サリエル。と呼ぼうとしたピットを、パルテナが腕を上げて制止した。パルテナが自由に出入りできる牢の中に入ったのに対し、ピットは牢から距離を置いた。

パルテナは牢の中に入ると、入り口付近でサリエルを見つめる。

「……サリエル」
「出でけ」

サリエルは俯き、目を閉じたまま告げる。

「僕はお前が憎い」

パルテナは怒ることなく、目を細める。そこには悲しみが含まれていた。

「その目は、メデューサによってかけられた呪いですね」
「……!」

かつての敵だったメデューサの名に、ピットは声を上げることなく驚愕した。

「呪いをかけられた貴方は、周辺の人々によって“強制的”に地上へ落とされた……。そこで出会ったのですね、ダムドと」

パルテナの口から語られる自身の過去に、サリエルは反応を示さなかった。

パルテナは続ける。

「貴方が呪いを受けたのも、全て私の責任です。天界を治めるものでありながら、危機を救うことができなかった……。許されることではないことは分かっています。それでも──」

背中に強烈な痛みが走る。言葉の途中で、サリエルはパルテナの首を鷲掴みにすると鉄格子にぶつけた。

「サ、サリエルっ」

止めようとしたピットだったが、サリエルの表情が怒りではないことに気づき、留まった。サリエルはパルテナを睨みつけながら叫ぶ。

「そんな事を思っているなら、どうしてもっと早く気付けなかったッ!」


人間には神という救いがある。なら、天使には?


「お前は人間ばっかり救って、僕たち天使に手を差し伸べたことはあったかッ!」


神の手助けをしても、見返りどころか救いすらない。


「自分の周りだけ気にして、他を気にかけたことがあったかッ!」


俺も同じだ。

なら、一緒に来るがいい。


「いつもいつも同じ言葉を繰り返して……本当はどうでもいいんだろッ! 僕たちのことなんてッ!!」


共に神を絶望にひれ伏せさせよう──。


頭の中で、ダムドに言われた言葉が再生される。

パルテナは口を閉ざしたまま、真っ直ぐな瞳でサリエルを見つめていた。

やがてサリエルはパルテナから手を離すと、背を向けた。

「サリエル」

名を呼んだのは今まで傍観していたピットだった。ピットは牢の中に入ると、サリエルの腕を取った。

「!」
「来て」

そのまま無理やりサリエルを引っ張り、ピットは地下牢にある階段を上り始める。

「……」

一人残されたパルテナは、朝食を手に取ると二人の後を追った。





──綺麗な花園。

その場所を目にしたとき、サリエルが思ったことだ。

「綺麗でしょ?」

ピットが問いかける。

「ここ、ボクが一番好きな場所なんだ」

顔がほころぶ。ピットがサリエルを連れてやってきたのは、神殿から少し離れた丘にある花園。色とりどりの花が風に揺られている。

「そう……だね……」

天界にいなければ見れなかった景色に、サリエルの心は穏やかになりつつあった。

ピットは芝生の上に腰を下ろし、澄み渡った青空を見上げる。

「サリエルはさ。どうしてボクらと戦ってたの?」
「……理由、なんて無かったのかもしれない。
僕はただ……自分の憎しみだけで動いていた」

一陣の風が吹き、花びらが宙に舞う。

「ピットはどうなんだ」
「え?」
「戦う理由」

ピットは後ろに重心を傾けると、芝生の上に寝転ぶ。

「怖いから。
何でもない明日が、ボクが好きなこの景色が、無くなるのが」

片手を空に向けて突き出し、握りしめた。

「ボクは、弱いんだよ。
加護が無ければ空を飛ぶことも出来ない。武器が無ければ戦うことも出来ない。
そして……何より、自分のために戦っている愚か者。
失うのが怖い……怖がりなのさ」

伸ばした手が芝生の上に落ちる。

「……ピット、僕は……」


刹那。


ズクンッ、と心臓が鷲掴みされた感覚をサリエルは覚えた。


隣に寝転んでいたピットは起き上がり、サリエルのそれ、、が抜き取られた光景に目を見開いた。

『可愛そうに。絶望しか与えてくれなかった女神の元にいたのは、さぞ苦しかっただろう』

空の器と化したサリエルの体が、芝生の上に転がる。

抜き取られた光り輝く魂に、ピットは激しい怒りをぶつける。

「おまえ……!」
『そうか、一人は寂しいか。ならば共に連れて行ってやろう』
「ぐはッ……!」

腕が体に突き刺さり、それ、、を掴まれた感覚がした。

ピットは遠くなる意識の中で、必死に抵抗し、目の前の男の姿をしたモノを睨みつける。

『何故拒む』
「お、まえの……ッ……好きには……させたくな……い!」

最後の力を振り絞り、突き飛ばす。

ピットは男と距離を置くと、激しく息を弾ませていたが、体が癒され楽になった。

「ピット!」
「パルテナ様!」

ピットと男の間に入ったのはパルテナ。

男はサリエルの体を掴むと、黒炎に包まれ、その場からサリエルの体と魂を連れて姿を消した。



「……サリエル」

あのとき君は、何を言おうとしたの?


男によって奪われた天使の姿が頭の中でチラつく。


まだ君に、言いたかったことがあるんだ。


ボクは弱い。弱いけど……。


「パルテナ様。ボクに力を貸してください」


ボクはボクの為に、剣をふりかざそう。


「……分かりました」

長い沈黙後。女神は天使の願いを受け入れた。

「ありがとうございます。じゃあ早速──」
「それは出来ません。ナチュレにも相談します」
「……ハイ」

「ピット」

天使に背を向けるパルテナは、振り返らずに訊ねた。

「貴方も……彼と同じ事を、思っていますか?」

── 本当はどうでもいいんだろッ! 僕たちのことなんてッ!!

脳内に流れるサリエルの言葉。

「……いえ」

ピットは否定した。

「ボクは、パルテナ様に救われましたから」

緩みきった笑顔で答える。

パルテナは一度目を閉じると、強い意志を宿した。


「ピット。ダムドの元に乗り込みます。いいですね?」
「ハイ! パルテナ様!」


4章:一つの決着 6章:魂を求めて
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