『ない、ない、ない、ない、ないぃぃいいいいい』

水曜日の午前7時5分。
氷帝学園中等部3年A組の教室内にて、名無しは1人自分の机の上にスクールバッグの中身をぶち撒けながら顔を青ざめていた。
お気に入りのペンケースにすら目もくれず、机の上の何処をどう見ても名無しは「ない…」と呟いた。
机の上には先程スクールバッグの中に入っていたはずの教科書やノートが散乱している。
空っぽの筈のスクールバッグを何度も振るものの、中身は既に机の上にぶち撒けられているのでいくら上下に振ろうが何も出てくることはない。
ただ虚しく、鞄につけているキーホルダーがチャリチャリと音を立てた。

「朝っぱらから何やってんだ、名無し」
『…跡部』

教室内で一人青ざめている名無しを見ながら、登校して来たばかりの跡部が教室内へと足を踏み入れる。
跡部とは1年の頃から隣の席であり、良く話す仲だった。
最初は警戒していた跡部ではあったが、名無しと話すうちに警戒していたのがあほらしくなったのか普通に接している。
そんな名無しだったからこそ跡部も名無しに対しては軽口を叩くし普通に会話をしていた。
同性のクラスメイトも跡部と名無しが仲良くしているのを見てもこれと言って羨ましがることも嫉妬をする事もない。
名無しの誰に対しても分け隔てなくフレンドリーに接している所や人望が、名無しを敵ではないと認識させているのだろう。
だからこそ現在進行形で青ざめている名無しを見て、跡部も自分から声をかける。
名無しは『跡部』っと情けない声を出しながら『ないの…』っとまるでこの世の終わりのような声色で跡部に声をかけた。
先程から“ない”としか言わない名無しに呆れながら自席に座りスクールバッグを席にひっかる。

「アーン、だから何がだよ?」
『Sea breeze…』
「は?」
『だからSea breeze!…家に忘れてきちゃったの…』

そう言いながら教科書やノートが散乱した机の上に名無しは項垂れた。
そんな名無しに、跡部は哀れな視線を向ける。
名無しの必死に探していた姿を見て今日提出の宿題か、はたまた書類の提出だろうかと跡部は思っていた。
宿題位ならやるのを忘れた位なら跡部だって写させる位は…と思った。
提出するとなるとそれは難しいがそれでも出来る限りの事はしてあげようと思っていた…が、まさかの宿題でも書類でもなく勉学に全く関係ない制汗剤。
聞いて損したと言わんばかりのため息を跡部はつく。

「たかが制汗剤忘れたくらいでそんな落ち込むこともないだろ」
『たかがじゃないの～!あれが無いと私の今日1日のやる気が下がるの!』

涙目になりながらダンッと机を叩けば、先ほどまで机の上に散らばった教科書やノートが床に落ちる。
名無しは『あー…やっちゃった』と言いながら床に落ちた教科書やノートを拾うが、やはりやる気がないのかのろのろと動作が遅い。

『それに今日体育だってあるし…汗かくじゃん?汗かいた後はいい匂いにしたいし塗るとスーって気持ちよくなるんだよ?』
「言いたい事は分からんでもないけどな」
『でしょ?お気に入りの香りだと次の授業も頑張れるし』

床に散らばった教科書やノートを拾い終え、机の中にしまい込めば名無しは先ほどと同じように机に項垂れた。
そんな名無しを見ながら、跡部は自分のスクールバッグから何かを取り出し、名無しの机の上に置く。

「ほら」
『え?』

置かれた物を見れば、それは名無しが先ほどからないないと言っていたSea breezeが机の上に置かれている。
未開封の為かビニールでぴっちりと包装されており、本体の下の方には“Frozen Mint”の文字。
名無しが今使って居る物と同じ香りだと気づく。
鳩が豆鉄砲を食らったよう表情で、名無しはパチパチと瞬きを数回する。

「やる」
『え…でもこれ新品だし、跡部のでしょ?』
「俺様は部室にも置いてあるからな。そいつはただの予備だから名無しにやる」
『でも悪いよ…いくら予備だからって』
「アーン?俺様がやるって言ってんだ、素直に受け取れ。…それに前に名無しに貰ったやつのお返しだ、気にせず使え」
『…っ!ありがとう、跡部!これで今日も1日乗り越えられるよぉぉおお』

Sea breezeを受け取った名無しは嬉しそうにSea breeze本体に頬ずりをする。
先程までの青ざめた表情からは真逆に、花が咲いたかのように笑顔を浮かべた。
そんな名無しを見ながら、「フッ、大袈裟だな」と、跡部は頬杖を付き名無しに笑いかけた。



青春!フローズンミント
(何だそれ?)
(Sea breeze知らないの?じゃあこっち跡部にあげるね!)
(アーン…フローズンミント…?)
(うん!跡部っぽい香りだな〜って思って、私2つ買ってあるから1個あげるね!)
(俺様は別に)
(つべこべ言わず使ってみてよ!跡部もきっと気にいると思うからさ!)

2024/07/07