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春、4月6日も既に終わりを迎え始めようとしている時刻。
静まり返った葵の間にて、名無しは褥に横になっていた。
普段なら既に眠っているか、残った書簡に目を通しているかのどちらかなのだが…今の名無しの額には濡れた手ぬぐいが置かれており、いつも以上に名無しの頬は赤みを帯びている。
(どうして熱なんて出たんだろ…)
息苦しそうに呼吸を繰り返しながら、名無しはぼんやりとここ数日のことを思い出した。
3月下旬から4月月初にかけて公務や謁見、祭事に追われる日々が立て続けに続いたせいか、名無しは最後の謁見の後その場で倒れてしまった。
気がつけば葵の間の褥の上に居り、緒形から話を聞けば過労が原因によるもので、2、3日は安静に療養すべきだと言われた。
そのため今日までの間ずっと名無しは褥の上で過ごしていたのだ。
(もう…今日が終わっちゃうな…)
朦朧とする意識の中、ぼんやりとそんな事を考えながら名無しは寝返りを打つ。
寝返りを打つと同時に額に置かれていた手ぬぐいは褥の上に落ちるが、名無しはその事に気づいていないのかぎゅっと蒲団を握り締めた。
今日、4月6日は春日局の誕生日だった。
春日局と恋仲になって初めて過ごす愛しい人との一年に一度の大切な日。
それなのに熱のせいで褥から出られなかった事もあり、春日局の誕生日をお祝いする準備も、贈り物も用意する事ができなかった。
――――私の生まれた日が知りたいと?…貴女も物好きだな
星を見ながら教えてもらった春日局の誕生日。
春日局の誕生日を知った時、盛大にお祝いすると心の中で誓ったはずなのに…
(何で熱なんて出ちゃうんだろう…)
大切な春日局の誕生日なのに…何もできない自分自身が悔しく、じんわりと熱い物が瞳から溢れる。
廊下にも葵の間にも、居るのは名無し自身だけだというのに、唇をきゅっと噛み締め声を押し殺した。
どれくらいの間声を押し殺して泣いていただろうか?
名無しにとってはかなり長い時間泣いていたように感じるものの、実際にはまだそんなに時が経っていなかった。
「入るぞ、名無し」
すると廊下の方から声が聞こえ、名無しの朦朧としていた意識がはっきりと保たれる。
名無しは急いで着物の裾で目を拭いながら「ど、どうぞ」っと言葉にするものの、言い終わる前に襖は春日局の手によって開かれた。
一瞬名無しの姿を見ると目を細めたが、何事もなかったかのように名無しの褥の傍まで歩き腰を下ろす。
「か、春日局様…どうしてこんな時間に…?」
まだ赤みを帯び、とろんとした目で褥の傍で腰を下ろしている春日局に問う。
「貴女の様子を見に来たのと緒形からこれを預かってな」
そう言いながら春日局は懐から小さく折られている薬包紙を取り出した。
取り出された薬包紙には見覚えがあり、ここ数日名無しが朝起きた後と寝る前に飲んでいる解熱剤が入っているであろう薬包紙だ。
薬包紙を見ると名無しは思い出したかのように「あ…」っと声が溢れる。
緒形からもらっていた解熱剤が入っている薬包紙の包がもうなくなり、まだ寝る前の解熱剤を飲んでいなかった事を思い出した。
「あ、ありがとうございます…春日局様…」
そう言いながら春日局が取り出した薬包紙を受け取ろうと手を出すが、出された手の上に薬が入っている薬包紙が置かれる事はなく、代わりに名無しの手首を春日局が掴みぐいっと引き寄せる。
引き寄せられた名無しはそのまま春日局の胸板におさまり、「きゃっ?!」っと声が出る。
そんな名無しにお構いなしに、春日局は空いているもう一方の手で名無しの顎を上げ自分の方へと向かせる。
「…目が赤いのは熱のせいではないな…泣いていたのか?」
春日局の言葉に思わず身体が揺れるものの、名無しは誤魔化すように首を横に振る。
「ち、違います…こ、これは熱のせいで…」
「ほう…熱のせいでこんなにも目が赤くなるとは知らなかったな…それに頬が濡れているな」
「え、嘘っ…」
(さっき拭ったはずなのに…)
確かめるように自分の頬へと手を伸ばすものの、頬は何処も濡れておらず名無しは慌てて春日局へと視線を戻す。
「…春日局様」
「私はただ鎌をかけただけだが?」
「意地悪です…」
「私が意地悪など…今更だろう?」
視線を戻せばにやりと意地悪く薄い笑みを浮かべている春日局が瞳に映り込んだ。
名無しは熱のせいではなく別の意味で顔が赤くなりながら再び春日局の胸板に気怠い身体を預ける。
そんな名無しの行動に一瞬目を見開くものの、そっと名無しの髪を撫で梳く。
「それで、貴女は何故泣いていたのだ?こんなに目を赤くしてまで」
「……」
「私には言えないことか?」
「…いえ…その…」
言いづらそうに名無しはぎゅっと春日局の羽織を握り締め、俯きながらぽつりと言葉を紡いだ。
「わ、私…っ、か、春日局様の誕生日の日に…何もできなくて…っ…」
「本当はお祝いしたり、贈り物を送ったりしたかったのに…」
「それなのに熱なんて出して体調崩して…っ」
ぽつり、ぽつりと紡ぐ言葉に、また瞳から涙が溢れ出る。
そんな名無しの言葉をただ黙って聞きながら、春日局は幼子をあやす様に名無しの背中をゆっくりと撫で言葉を紡いぐ。
「今日祝えなければ明日祝えばいい」
「…え?」
春日局の言葉に、名無しは理解できずにきょとんと春日局を見上げる。
「無理に今日祝わなくてもいい」
「でも…」
「私は、名無しが祝ってくれるのなら一日ずれようが気にはならない」
きょとんと見上げる名無しにさらに言葉を続ける。
「ああ…だが日付が変わってしまう前にこれだけはもらっておこう」
そう言いながら春日局はそっと名無しの唇に口付けを落とした。
触れて離れるだけの優しい口付けを―――…
「…っつ」
「今はこれで我慢しよう。…だが、明日はこれ以上のものを貴女から貰わなければな」
薄く笑みを浮かべたまま、春日局は愉しそうに目を細めその瞳に愛しい人を映すだけだった。
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