第2章
「いったー!?」
ゴールドの叫びとは裏腹に、看護師は鮮やかな手つきで彼の腕を消毒していく。チョウジタウンでの戦いに加え、今回の戦いを経てゴールドの体は傷だらけだ。
ロケット団員は全て警察に捕まり、ゴールドやクリス、捕らえられていた局長や職員たちも無事に保護された。今は皆コガネ大学病院で治療を受けている。
腕の治療を終えたゴールドは、待合室でソファに座るクリスを見つけた。幸いなことにクリスに外傷は無く、投与されていた薬も無害な睡眠薬だった。ゴールドの姿を見つけたクリスはソファから立ち上がった。
「大丈夫? ゴールド」
「へーき、へーき。かすり傷だよ」
クリスに笑いかけるゴールドの肩に、ピチューが乗っかった。ゴールドのポケモン達は現在治療中で、ロケット団に取られていたクリスのポケモン達も皆無事に手元に返ってきた。
「それにしてもピチュー。すごかったわね、あの技」
クリスはヘルガーを倒したあの凄まじい電撃を思い出し、ピチューの頭を撫でた。
「あれってどんな技かしら?」
「さっき調べたら、“ボルテッカー”だったよ」
「ええ!? ピチューって“ボルテッカー”覚えるの? 初耳」
「うーん、何か珍しいのかなぁ? 今度ウツギ博士に聞いてみよう」
「卵が孵った事も報告しなきゃだしね」
「うっ、すっかり忘れていた……」
顔を青くするゴールドをピチューはクスクスと笑った。
病院の扉が開き、見慣れた人々が雪崩れ込んできた。
「ゴールドォ! ようやったなぁ!」
アカネ、マサキ、二人の同僚たちがゴールド達を囲み、口々に感謝の言葉を述べた。
「いやぁ、ホンマ君のおかげやゴールド! クリスちゃんも無事で良かったなぁ!」
マサキが二人に笑いかける。その後ろからアカネがぬっと顔を出した。そして彼女はじっとクリスを見つめる。
「えっと?」
クリスが首を傾げると、アカネは小さく呟いた。
「……ゴールドが助けたがっていたんは、女の子やったんか」
おっと、と一人マサキは息を飲んだ。ゴールドとクリスは気づいていない。マサキは一人、「荒れんでくれや~」と心の中で願う。
すると彼の願いは彼方に飛んで行った。
「こんっな女の子を捕まえるなんてサイテーな連中やな! ほんまかわいそうに! 辛かったやろ? 大丈夫か? ウチで良かったら同じ女の子同士、何でも相談に乗ったるさかい! あ、ウチはアカネな。前にゴールドと一緒に旅したことあんねん。よろしゅう!」
突風のごとくクリスに詰め寄るアカネ、しかしその様子は至極穏やかで楽しそうだった。クリスもやや困った笑みを浮かべるも、友達ができて嬉しそうだった。
ほっと胸を撫で下ろすマサキは、ゴールドの肩を叩いた
。
「苦労すんなぁ、色男」
「え???」
首を傾げるゴールドだったが、ふいに「あ」と声を上げる。
「強化ポケモン達はどうなったんだろう……、ギャラドスも、無事かな」
その言葉にクリスも顔を曇らせた。
「あのラプラス……、大丈夫かしら?」
俯く二人の肩を、マサキは優しく叩いた。
「今は治療中やから何とも言えへんけどな、洗脳が解ける可能性は十分高い。けれど能力値や特性はそのままやと思われる。こればっかりはそのまま成長してしもうたから、治しようがないねん」
「そんな……」
「でもなゴールド、洗脳さえ解けてしまえば“普通”のポケモン達や。後はトレーナーが寄り添ってあげたらええねん。君たちにみたいにな」
顔を上げたゴールドにマサキは微笑んだ。
「あの子らの貰い先はもう決まっている。能力から鑑みて、特殊なトレーナーに任せる事にしたんや」
「それがウチらジムリーダーや、リーグの四天王や」
アカネがクリスにウインクを投げる。
「ウチらはタイプのエキスパートやから。どれだけ能力が高うても、育て方や接し方は変わらへん。ウチも何匹か、ノーマルポケモン達を引き取る予定や」
「ゴールドとクリスが気にしている、ギャラドスとラプラスも腕利きのトレーナーに引き取られる予定や」
安心せい、と二人はゴールドとクリスに微笑んだ。ゴールドとクリスは顔を見合わせ、そして安堵の笑みを浮かべた。
再び賑やかな雰囲気に包まれたゴールド達、その足元を滑らかに進む影が二つ。エーフィとブラッキーはマサキの足元にぴったりと付くと、小さく鳴く。
「おっ、戻ってきよったか」
他の人々と談笑をするゴールド達を他所に、マサキは二匹の頭を撫でて呼びかける。
「お前たちもありがとうな、よお頑張ってくれた」
するとエーフィは口に咥えていた紙を彼に渡した。二つ折りのそれを開くと、そこに書かれていた言葉に思わず彼は噴き出した。
「やれやれ。とことんまで会わへんつもりやな、アイツ」
そこには『ラプラスは俺が預かる』という返事と転送先のポケモンセンターの番号が書いてあった。せっかくなのだからゴールド達と会っていけばいいのに、マサキは小さく微笑んだ。
病院の入り口でゴールド達の明るい表情を見つめている、一匹。メガニウムは、いつ入ろうかと穏やかに思案していた。
***
人の居ないデパートの屋上で、ワタルはぐったりと鉄柵に背を預けた。ふう、と息を吐くと隣から涼やかな声が帰ってくる。
「さすがに疲れた?」
「まあ、な」
やれやれと身を起こせば、隣に立つ少年の、その涼やかな瞳と目があった。
ワタルはその瞳をじっと見て、静かに呟いた。
「……いつから来ていた?」
「ワタルが正面玄関から入っていく辺りから」
「最初からじゃあないか……」
ワタルは再び力なく肩を落とす。
「何故サカキを逃がした?」
若干咎めるような視線を少年に送った。しかし少年は眉一つ動かさなかった。
「その必要があったから」
「野放しにしておく必要が?」
お前らしくもない、とワタルは首を傾げる。あいつは、と少年は続けた。
「きっとどこにも留まらず、誰にも捕まらない事に意味があるんだと思う」
「それは一体……」
ワタルが言いきってしまう前に、少年は歩き出した。そして屋上の扉に手をかける。咄嗟にワタルは彼に呼びかけ、ふっと口角を上げた。
「面白いトレーナーがいるんだ。会っていかないか?」
一瞬少年の背中が止まった。冷たい風が二人の間に流れ、少年はゆっくりと振り返る。
「いや。今はその時じゃあない、多分」
そうして彼は扉をくぐって行ってしまった。慌ててワタルが追いかけ扉を開けるも、そこにはもう誰も居なかった。冷たい空気だけがその場を漂っていた。
***
『こちらコガネラジオ塔。三年間の努力が実り、今ここにロケット団の復活を宣言する! サカキ様! 聞こえますか!? 我々ついにやりましたよ!』
ラジオから発せられる声は、その小さな洞窟内を何度も行き交う。喜々に満ちたその声は、岩々を震わせるようだった。
そして彼も震えていた。ラジオを食い入るように見つめ、耳を傾け、そして。
笑った。心の底から。彼は高らかに笑った。ラジオの放送と彼の笑い声は洞窟内を反響し、音の渦はより一層彼を高ぶらせた。
ついに、ついにこの時が来た。彼の瞳に宿った物は三年ぶりの炎だった。意志の炎、揺るがない信念の炎だった。彼はラジオを切り、コートを羽織る。そして黒の帽子を深く被ると、その下から瞳が妖しく光った。
「……―受信した、同志たちよ」
コートを翻し、彼は隠れ家の洞窟を後にした。
トージョウの滝、と呼ばれる洞窟を拠点としたのは一か月前から。三年前のあの敗北から自らを鍛え直す放浪の旅に出ている。各地を転々としている間、彼の耳に入ってきたのはかつての同志の動きだった。「ロケット団残党による事件」は、主にジョウト地方で広まっていた。しかしどれも世間にとっては取るに足りない事だったのだろう、噂の範疇を超える物はなかった。彼にはそれが我慢ならなかった。かつて自身が築き上げた物がこんな扱いを受けるとは、「残党」などと蔑まれる部下達が哀れでならなかった。だからこそ迂闊に部下達と接触はできなかった。今の自分ではまた悲劇を繰り返すだけだから。
強くならなければ、強く、もっと強く。いつか彼らを再び率い、ロケット団を再興するために。強く―。
三年ぶりに熱くなった胸を貫いたのは、三年前と同じ眼光だった。
ジョウト地方側の入り口をくぐったサカキの目に飛び込んできたのは、日の光だけではない。それは温かな光とは真逆、絶対零度の瞳。遥か極寒の頂きに居ると噂されている伝説のトレーナー。三年前、彼の全てを打ちのめしたあの少年だった。
「“レッド”……」
明るい陽射し、柔らかな草原、そよぐ木々。穏やかな早朝に相応しい太陽の名前。しかしそれを冠する少年の表情は至極冷たかった。
彼に呼ばれ、少年は赤い帽子から冷たい瞳を覗かせる。
「……サカキ」
その声は忘れもしない、確かにあの少年の物だ。
「ラジオ、聞いたな?」
少年は静かに問うた。しかしサカキはそれに頷かず、冷たい眼光を炎の瞳で射返した。
「……―かつての仲間が私を必要としている。そして私にはそれに応える責任がある」
そう言うサカキの脳裏を駆け巡るは、かつての仲間たちの顔。アポロ、グレイ、ローザ、アテナ、ラムダ、インディゴ……。全ての団員たちの顔が、彼らと駆け抜けた夜が思い浮かぶ。
今彼らに応えなければ、これまでの生き恥をどう拭えよう。
サカキはゆっくりと、モンスターボールを取り出す。
「また私の前に立ちはだかるというのか、赤い帽子の少年よ」
少年は、眉一つ動かさなかった。
「立つよ、お前の前に。何度でも」
ボールに手をかける、そして。
「お前が、ロケット団のボスである限り」
戦いの火蓋は切って落とされた。
真の強さは負けを認めた時から始まる。
かつて各地でジム破りをしていたサカキは、カントー地方最後のジムに辿り着いた。甘ったるい花の香りがする場所だった。
自信満々で挑んだ五分後、完封負けに打ちひしがれるサカキに、ジムリーダーはゆっくりと手を差し伸べた。床に座り込むサカキは、赤毛のジムリーダーを眩しそうな目で見た。その時彼から掛けられた言葉を、サカキは今でも忘れない。それを胸に刻みこんだからこそ、サカキは差し伸べられた手を取り、後日そのトキワジムリーダーに勝ったのだ。
やがてサカキの義父となった男は、産まれたばかりの孫、サカキの息子を抱きながら言った。
「組織の強さとは、大勢の力を束ねる事で生まれる。だけどそれは同じだ、一人のトレーナーが強くなることと。耐え難い現実、忌まわしい過去と対峙し受け入れた時に、ようやく真の強さに近づける」
これからもジムを頼むよ、義父はサカキに優しく微笑んだ。
立ちふさがった者は皆薙ぎ倒していった。義父でさえ、一度負けてしまっても倒す事ができた。
立ちふさがる全てを倒す。今までそうしてきた、だからこれからもそうするはずだった。
何回、日が沈み上っただろう。一回? 二回? それすら感知できないほどに、彼の神経は一点に注がれていた。ただ目の前の、少年とのポケモンバトルに。
寝食も忘れた。ただ彼も、彼のポケモン達も、少年たちの猛攻を防ぐ事に必死だった。攻撃に転じても少年のポケモン達は巧みに防ぎ、そしてまた攻防が逆転する。その繰り返しだった。
魂が、削れる。そんな感覚を覚える。しかしそれでも構わなかった。ただ目の前に立ちはだかる壁に、サカキは研ぎ澄まされた一撃を指示するだけ。それ以外にできる事がなかった。
地獄のような、はたまた俗世から離れた極楽か、その壮絶な戦いの最中、彼は途切れ途切れに走馬燈を見た。モノクロの世界に灯る赤い光。かつての師が、最愛の妻が、すぐ傍で待っている。そこで、そこに居ろ。もうすぐ行く、もうすぐ自分は救われるから。喪服に赤い髪が泳ぐ、あの組織が待っているから。
「忘れたとは言わせない」
ぞくりと、冷たい声が彼を引き戻した。月に照らされた極寒の瞳が、彼を捉えて離さない。
「お前にはまだ居るだろう」
冷たい声に混じる、確かな怒り。それは少年だけには分かる感覚、父に囚われた彼になら理解し得る気持ち。
「アイツを巻き込むな」
その時ようやくサカキは気づいた。走馬燈の中に居ない彼を、モノクロの世界で唯一光るあの赤毛を。
彼の息子を。
「ブラック……」
その瞬間、彼のニドキングを一本の光が貫いた。少年のピカチュウが、凄まじい雷撃“ボルテッカー”を纏い、ニドキングの体に突撃。そのまま近くの湖に突き落とした。
朝日が昇る。お互いに大の字に倒れ込んだ二人は、何も言わなかった。ただ胸一杯に早朝の空気を吸い込んでいた。
荒い呼吸音がようやく落ち着いた頃、少年は静かに呟いた。
「……三年前、アイツと戦った。シロガネ山で」
「……そうか」
サカキも静かに返した。
「強かった、俺が勝ったけど」
「……そうか」
「アイツは囚われているんだと感じた。お前やロケット団に」
少年はゆっくりと上体を起こした。
「……何となく、それは駄目だと思った。それじゃあアイツはこれからずっと何かに囚われたままだと。だから言ったんだ、俺を負かしてみろって」
「難題だな」
サカキも体を起こした。目を閉じれば、最後に会った日、Rの団服を纏ったブラックが甦る。
彼と別れた時、サカキは何も言わなかった。何も言えなかった。ただ自分の敗北を受け入れるばかりで。敬愛するボスから、父親から何も言われずに、あの暗闇に放り込まれた彼はどれだけ心細かっただろう。だから強くなるしかなかった、がむしゃらに。
「お前がどこで何をしようが気にしない。ポケモンをいじめなければ。……でも、アイツがずっとあのまま、っていうのも見ていられないんだ。だから……」
「……ああ、そうだな」
サカキは立ち上がった。天を仰げば、澄み渡った空が、青い空が広がっている。
「私にはまだ、救いが残っていた」
この世界で息をするための理由が、彼にはまだあった。ずっとあった、彼のすぐ傍に。
彼はゆっくりと歩き出した。
「どこ行くんだ」
立ち上がり少年が尋ねれば、彼はぴたりと立ち止り振り返らずに答える。
「呪縛から解放してやらなければならない者たちがいる。あいつも含めてな」
そして再び進み始める彼の背中を、少年はじっと見つめ、そしてため息を吐く。ボールからリザードンを出すと、先ほどの戦いの傷を労わりながら囁いた。リザードンが「任せておけ」と笑えば、少年は離れていく背中に呼びかけた。
「おーい、徒歩でコガネじゃあ何日かかるんだよー」
シニカルな笑みで振り返る彼に、少年はテープレコーダーを手渡した。
第2章 完
ゴールドの叫びとは裏腹に、看護師は鮮やかな手つきで彼の腕を消毒していく。チョウジタウンでの戦いに加え、今回の戦いを経てゴールドの体は傷だらけだ。
ロケット団員は全て警察に捕まり、ゴールドやクリス、捕らえられていた局長や職員たちも無事に保護された。今は皆コガネ大学病院で治療を受けている。
腕の治療を終えたゴールドは、待合室でソファに座るクリスを見つけた。幸いなことにクリスに外傷は無く、投与されていた薬も無害な睡眠薬だった。ゴールドの姿を見つけたクリスはソファから立ち上がった。
「大丈夫? ゴールド」
「へーき、へーき。かすり傷だよ」
クリスに笑いかけるゴールドの肩に、ピチューが乗っかった。ゴールドのポケモン達は現在治療中で、ロケット団に取られていたクリスのポケモン達も皆無事に手元に返ってきた。
「それにしてもピチュー。すごかったわね、あの技」
クリスはヘルガーを倒したあの凄まじい電撃を思い出し、ピチューの頭を撫でた。
「あれってどんな技かしら?」
「さっき調べたら、“ボルテッカー”だったよ」
「ええ!? ピチューって“ボルテッカー”覚えるの? 初耳」
「うーん、何か珍しいのかなぁ? 今度ウツギ博士に聞いてみよう」
「卵が孵った事も報告しなきゃだしね」
「うっ、すっかり忘れていた……」
顔を青くするゴールドをピチューはクスクスと笑った。
病院の扉が開き、見慣れた人々が雪崩れ込んできた。
「ゴールドォ! ようやったなぁ!」
アカネ、マサキ、二人の同僚たちがゴールド達を囲み、口々に感謝の言葉を述べた。
「いやぁ、ホンマ君のおかげやゴールド! クリスちゃんも無事で良かったなぁ!」
マサキが二人に笑いかける。その後ろからアカネがぬっと顔を出した。そして彼女はじっとクリスを見つめる。
「えっと?」
クリスが首を傾げると、アカネは小さく呟いた。
「……ゴールドが助けたがっていたんは、女の子やったんか」
おっと、と一人マサキは息を飲んだ。ゴールドとクリスは気づいていない。マサキは一人、「荒れんでくれや~」と心の中で願う。
すると彼の願いは彼方に飛んで行った。
「こんっな女の子を捕まえるなんてサイテーな連中やな! ほんまかわいそうに! 辛かったやろ? 大丈夫か? ウチで良かったら同じ女の子同士、何でも相談に乗ったるさかい! あ、ウチはアカネな。前にゴールドと一緒に旅したことあんねん。よろしゅう!」
突風のごとくクリスに詰め寄るアカネ、しかしその様子は至極穏やかで楽しそうだった。クリスもやや困った笑みを浮かべるも、友達ができて嬉しそうだった。
ほっと胸を撫で下ろすマサキは、ゴールドの肩を叩いた
。
「苦労すんなぁ、色男」
「え???」
首を傾げるゴールドだったが、ふいに「あ」と声を上げる。
「強化ポケモン達はどうなったんだろう……、ギャラドスも、無事かな」
その言葉にクリスも顔を曇らせた。
「あのラプラス……、大丈夫かしら?」
俯く二人の肩を、マサキは優しく叩いた。
「今は治療中やから何とも言えへんけどな、洗脳が解ける可能性は十分高い。けれど能力値や特性はそのままやと思われる。こればっかりはそのまま成長してしもうたから、治しようがないねん」
「そんな……」
「でもなゴールド、洗脳さえ解けてしまえば“普通”のポケモン達や。後はトレーナーが寄り添ってあげたらええねん。君たちにみたいにな」
顔を上げたゴールドにマサキは微笑んだ。
「あの子らの貰い先はもう決まっている。能力から鑑みて、特殊なトレーナーに任せる事にしたんや」
「それがウチらジムリーダーや、リーグの四天王や」
アカネがクリスにウインクを投げる。
「ウチらはタイプのエキスパートやから。どれだけ能力が高うても、育て方や接し方は変わらへん。ウチも何匹か、ノーマルポケモン達を引き取る予定や」
「ゴールドとクリスが気にしている、ギャラドスとラプラスも腕利きのトレーナーに引き取られる予定や」
安心せい、と二人はゴールドとクリスに微笑んだ。ゴールドとクリスは顔を見合わせ、そして安堵の笑みを浮かべた。
再び賑やかな雰囲気に包まれたゴールド達、その足元を滑らかに進む影が二つ。エーフィとブラッキーはマサキの足元にぴったりと付くと、小さく鳴く。
「おっ、戻ってきよったか」
他の人々と談笑をするゴールド達を他所に、マサキは二匹の頭を撫でて呼びかける。
「お前たちもありがとうな、よお頑張ってくれた」
するとエーフィは口に咥えていた紙を彼に渡した。二つ折りのそれを開くと、そこに書かれていた言葉に思わず彼は噴き出した。
「やれやれ。とことんまで会わへんつもりやな、アイツ」
そこには『ラプラスは俺が預かる』という返事と転送先のポケモンセンターの番号が書いてあった。せっかくなのだからゴールド達と会っていけばいいのに、マサキは小さく微笑んだ。
病院の入り口でゴールド達の明るい表情を見つめている、一匹。メガニウムは、いつ入ろうかと穏やかに思案していた。
***
人の居ないデパートの屋上で、ワタルはぐったりと鉄柵に背を預けた。ふう、と息を吐くと隣から涼やかな声が帰ってくる。
「さすがに疲れた?」
「まあ、な」
やれやれと身を起こせば、隣に立つ少年の、その涼やかな瞳と目があった。
ワタルはその瞳をじっと見て、静かに呟いた。
「……いつから来ていた?」
「ワタルが正面玄関から入っていく辺りから」
「最初からじゃあないか……」
ワタルは再び力なく肩を落とす。
「何故サカキを逃がした?」
若干咎めるような視線を少年に送った。しかし少年は眉一つ動かさなかった。
「その必要があったから」
「野放しにしておく必要が?」
お前らしくもない、とワタルは首を傾げる。あいつは、と少年は続けた。
「きっとどこにも留まらず、誰にも捕まらない事に意味があるんだと思う」
「それは一体……」
ワタルが言いきってしまう前に、少年は歩き出した。そして屋上の扉に手をかける。咄嗟にワタルは彼に呼びかけ、ふっと口角を上げた。
「面白いトレーナーがいるんだ。会っていかないか?」
一瞬少年の背中が止まった。冷たい風が二人の間に流れ、少年はゆっくりと振り返る。
「いや。今はその時じゃあない、多分」
そうして彼は扉をくぐって行ってしまった。慌ててワタルが追いかけ扉を開けるも、そこにはもう誰も居なかった。冷たい空気だけがその場を漂っていた。
***
『こちらコガネラジオ塔。三年間の努力が実り、今ここにロケット団の復活を宣言する! サカキ様! 聞こえますか!? 我々ついにやりましたよ!』
ラジオから発せられる声は、その小さな洞窟内を何度も行き交う。喜々に満ちたその声は、岩々を震わせるようだった。
そして彼も震えていた。ラジオを食い入るように見つめ、耳を傾け、そして。
笑った。心の底から。彼は高らかに笑った。ラジオの放送と彼の笑い声は洞窟内を反響し、音の渦はより一層彼を高ぶらせた。
ついに、ついにこの時が来た。彼の瞳に宿った物は三年ぶりの炎だった。意志の炎、揺るがない信念の炎だった。彼はラジオを切り、コートを羽織る。そして黒の帽子を深く被ると、その下から瞳が妖しく光った。
「……―受信した、同志たちよ」
コートを翻し、彼は隠れ家の洞窟を後にした。
トージョウの滝、と呼ばれる洞窟を拠点としたのは一か月前から。三年前のあの敗北から自らを鍛え直す放浪の旅に出ている。各地を転々としている間、彼の耳に入ってきたのはかつての同志の動きだった。「ロケット団残党による事件」は、主にジョウト地方で広まっていた。しかしどれも世間にとっては取るに足りない事だったのだろう、噂の範疇を超える物はなかった。彼にはそれが我慢ならなかった。かつて自身が築き上げた物がこんな扱いを受けるとは、「残党」などと蔑まれる部下達が哀れでならなかった。だからこそ迂闊に部下達と接触はできなかった。今の自分ではまた悲劇を繰り返すだけだから。
強くならなければ、強く、もっと強く。いつか彼らを再び率い、ロケット団を再興するために。強く―。
三年ぶりに熱くなった胸を貫いたのは、三年前と同じ眼光だった。
ジョウト地方側の入り口をくぐったサカキの目に飛び込んできたのは、日の光だけではない。それは温かな光とは真逆、絶対零度の瞳。遥か極寒の頂きに居ると噂されている伝説のトレーナー。三年前、彼の全てを打ちのめしたあの少年だった。
「“レッド”……」
明るい陽射し、柔らかな草原、そよぐ木々。穏やかな早朝に相応しい太陽の名前。しかしそれを冠する少年の表情は至極冷たかった。
彼に呼ばれ、少年は赤い帽子から冷たい瞳を覗かせる。
「……サカキ」
その声は忘れもしない、確かにあの少年の物だ。
「ラジオ、聞いたな?」
少年は静かに問うた。しかしサカキはそれに頷かず、冷たい眼光を炎の瞳で射返した。
「……―かつての仲間が私を必要としている。そして私にはそれに応える責任がある」
そう言うサカキの脳裏を駆け巡るは、かつての仲間たちの顔。アポロ、グレイ、ローザ、アテナ、ラムダ、インディゴ……。全ての団員たちの顔が、彼らと駆け抜けた夜が思い浮かぶ。
今彼らに応えなければ、これまでの生き恥をどう拭えよう。
サカキはゆっくりと、モンスターボールを取り出す。
「また私の前に立ちはだかるというのか、赤い帽子の少年よ」
少年は、眉一つ動かさなかった。
「立つよ、お前の前に。何度でも」
ボールに手をかける、そして。
「お前が、ロケット団のボスである限り」
戦いの火蓋は切って落とされた。
真の強さは負けを認めた時から始まる。
かつて各地でジム破りをしていたサカキは、カントー地方最後のジムに辿り着いた。甘ったるい花の香りがする場所だった。
自信満々で挑んだ五分後、完封負けに打ちひしがれるサカキに、ジムリーダーはゆっくりと手を差し伸べた。床に座り込むサカキは、赤毛のジムリーダーを眩しそうな目で見た。その時彼から掛けられた言葉を、サカキは今でも忘れない。それを胸に刻みこんだからこそ、サカキは差し伸べられた手を取り、後日そのトキワジムリーダーに勝ったのだ。
やがてサカキの義父となった男は、産まれたばかりの孫、サカキの息子を抱きながら言った。
「組織の強さとは、大勢の力を束ねる事で生まれる。だけどそれは同じだ、一人のトレーナーが強くなることと。耐え難い現実、忌まわしい過去と対峙し受け入れた時に、ようやく真の強さに近づける」
これからもジムを頼むよ、義父はサカキに優しく微笑んだ。
立ちふさがった者は皆薙ぎ倒していった。義父でさえ、一度負けてしまっても倒す事ができた。
立ちふさがる全てを倒す。今までそうしてきた、だからこれからもそうするはずだった。
何回、日が沈み上っただろう。一回? 二回? それすら感知できないほどに、彼の神経は一点に注がれていた。ただ目の前の、少年とのポケモンバトルに。
寝食も忘れた。ただ彼も、彼のポケモン達も、少年たちの猛攻を防ぐ事に必死だった。攻撃に転じても少年のポケモン達は巧みに防ぎ、そしてまた攻防が逆転する。その繰り返しだった。
魂が、削れる。そんな感覚を覚える。しかしそれでも構わなかった。ただ目の前に立ちはだかる壁に、サカキは研ぎ澄まされた一撃を指示するだけ。それ以外にできる事がなかった。
地獄のような、はたまた俗世から離れた極楽か、その壮絶な戦いの最中、彼は途切れ途切れに走馬燈を見た。モノクロの世界に灯る赤い光。かつての師が、最愛の妻が、すぐ傍で待っている。そこで、そこに居ろ。もうすぐ行く、もうすぐ自分は救われるから。喪服に赤い髪が泳ぐ、あの組織が待っているから。
「忘れたとは言わせない」
ぞくりと、冷たい声が彼を引き戻した。月に照らされた極寒の瞳が、彼を捉えて離さない。
「お前にはまだ居るだろう」
冷たい声に混じる、確かな怒り。それは少年だけには分かる感覚、父に囚われた彼になら理解し得る気持ち。
「アイツを巻き込むな」
その時ようやくサカキは気づいた。走馬燈の中に居ない彼を、モノクロの世界で唯一光るあの赤毛を。
彼の息子を。
「ブラック……」
その瞬間、彼のニドキングを一本の光が貫いた。少年のピカチュウが、凄まじい雷撃“ボルテッカー”を纏い、ニドキングの体に突撃。そのまま近くの湖に突き落とした。
朝日が昇る。お互いに大の字に倒れ込んだ二人は、何も言わなかった。ただ胸一杯に早朝の空気を吸い込んでいた。
荒い呼吸音がようやく落ち着いた頃、少年は静かに呟いた。
「……三年前、アイツと戦った。シロガネ山で」
「……そうか」
サカキも静かに返した。
「強かった、俺が勝ったけど」
「……そうか」
「アイツは囚われているんだと感じた。お前やロケット団に」
少年はゆっくりと上体を起こした。
「……何となく、それは駄目だと思った。それじゃあアイツはこれからずっと何かに囚われたままだと。だから言ったんだ、俺を負かしてみろって」
「難題だな」
サカキも体を起こした。目を閉じれば、最後に会った日、Rの団服を纏ったブラックが甦る。
彼と別れた時、サカキは何も言わなかった。何も言えなかった。ただ自分の敗北を受け入れるばかりで。敬愛するボスから、父親から何も言われずに、あの暗闇に放り込まれた彼はどれだけ心細かっただろう。だから強くなるしかなかった、がむしゃらに。
「お前がどこで何をしようが気にしない。ポケモンをいじめなければ。……でも、アイツがずっとあのまま、っていうのも見ていられないんだ。だから……」
「……ああ、そうだな」
サカキは立ち上がった。天を仰げば、澄み渡った空が、青い空が広がっている。
「私にはまだ、救いが残っていた」
この世界で息をするための理由が、彼にはまだあった。ずっとあった、彼のすぐ傍に。
彼はゆっくりと歩き出した。
「どこ行くんだ」
立ち上がり少年が尋ねれば、彼はぴたりと立ち止り振り返らずに答える。
「呪縛から解放してやらなければならない者たちがいる。あいつも含めてな」
そして再び進み始める彼の背中を、少年はじっと見つめ、そしてため息を吐く。ボールからリザードンを出すと、先ほどの戦いの傷を労わりながら囁いた。リザードンが「任せておけ」と笑えば、少年は離れていく背中に呼びかけた。
「おーい、徒歩でコガネじゃあ何日かかるんだよー」
シニカルな笑みで振り返る彼に、少年はテープレコーダーを手渡した。
第2章 完