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第2章

 あの時、自分が勝っていれば何かが変わっていたのかもしれない。
 シルフカンパニーの広いオフィスルーム。そこで繰り広げたバトルは一方的の一言だった。突如として現れた少年は、涼やかな面持ちを決して崩さなかった。赤い帽子から覗く瞳は、倒れている彼のポケモンを冷たく見下ろしている。
 一瞬の勝機も無かった。ただ完膚なきまでに叩きのめされた。彼は茫然と立ち尽くすしかなく、少年も何の言葉もかけずに先に進んでいく。
 例えどんなに可能性が低くても、自分が奴を止めていれば。
 あの時はそんな考えさえ思い浮かばなかった。けれども全てが終わってみて、ようやく彼はそう思ったのだ。
 思った時には、もうあの人はいなかった。


 あの少年が、言った。

「お前が弱いから」

彼の唇から零れた声は、自分のものだった。
 そうしてグレイは何度も悪夢から目を覚ますのだ。

          ***

「終わって」

ま、だ。

「ないっ! まだ終わってない!」

ヘルガーがメガニウムに噛みついた。炎を纏った牙はメガニウムの最後の体力を削り取った。
 倒れるメガニウム、続いてヘルガーはクリスに向かって走り出す。

「くっ!」

慌てて次のボールを手に取るブラックだったが、間に合わない。クリスの体に鋭い爪が襲い掛かる。

「クリスーッ!」

叫ぶゴールド、その横を小さな影が走り抜けた。

「え!?」

驚いて目で追えば、それはピチューだった。勝手にボールから飛び出したピチューはヘルガー目がけて突進していく。呼び戻す時間も、クリスを救い出す時間もない。
 もうままよ、だ。

「いっけぇ! ピチュー!」

その言葉にピチューは力強く頷き、同時に体に電気を帯び始めた。小さい体に似合わず凄まじい金切り声が鳴る。更に加速、加速、加速。
 ヘルガーはようやく気付いた。目の端から迫ってくる電撃に。しかし遅い。その黒い体に突っ込んだピチュー、その勢いのままに二匹は吹っ飛び、壁に激突した。
 “ボルテッカー”を喰らったその体は焦げあがり、痙攣しながら横たわった。

「くそ、くそ、くそ!」

それでも尚、諦めない。グレイはそれでも止まらない。止まれなかった。闇が、闇が、闇が、もうそこまで来ているのだから。
 振り払うように叫んだ。そしてクリスの首根っこを掴み上げた。振りかぶる。向かう先は、割れた窓ガラス。

「しまっ……!」
「クリスッッ!」

走り出す二人だったが、もう遅い。
グレイの手が離れた。クリスは窓の外へ放り出され、そして落ちていく。

「きゃあああ!」

少女の悲鳴。ゴールド達は最悪の結果を突きつけられ――…。


 そのはずだった。

「やれやれ、往生際の悪い」

夕暮れを横切る影。窓の外を駆け抜ける大きな翼、カイリューだ。彼の背にはクリスと、彼女を受け止めているワタルが居た。

「ワタルさん!」

歓喜の声を上げ、ゴールドは窓際に駆け寄った。ワタルはゴールドに、そしてクリスに優しく微笑んだ。そしてカイリューと共にゴールドに近づき、背の上の少女を見せる。

「ゴールドォ!」
「クリス!」

ようやく二人の顔には笑顔がこぼれ、ゴールドは思わずその肩を握りしめた。

「良かったぁ、良かったぁクリスゥ」

涙ぐむゴールドに思わずクリスは苦笑を浮かべる。しかしそれでも彼の気持ちは十分に伝わってきて、彼女も目に涙を浮かべた。

「ごめん。わたし、捕まっちゃって」
「クリスは悪くないよ! 無事で良かった……本当に」
「うん、うん……。ありがとぉ」

しまいには二人とも泣きじゃくってしまった。ワタルとカイリューは困ったように笑みを浮かべ、窓から塔内に降り立った。


 歓喜に包まれるゴールド達とは対照的に、グレイは静かに床に座り込んだ。茜色の日が彼の背中を無慈悲に照らす。彼の目の前に現れた彼の影は、あの日の常闇だった。
 「おかえり」ともたげる影を、彼はただただ茫然と見つめている。負け、負けた。また負けてしまった。また、また、また、また。
 「救い」は、もう来ないのか―?
 凄まじい衝撃を、グレイは右頬から感じて倒れ込んだ。痛む頬に手をやってそちらを見れば、ブラックが立っていた。息を荒立て、今しがた殴った右手を握りしめている。

「待て、ブラック!」

ワタルが慌てて彼に駆け寄りその肩を掴むも、ブラックはそれを強引に振り払った。彼の瞳にはまだ怒りの炎が宿っている。

「これで分かったか、グレイ……!」

低く唸るように、彼は言う。

「お前たちは弱いんだよ。雑魚共が寄ってたかって、結局負けちまうんだっ!」

彼の胸倉を掴み、無理矢理立たせた。絶望した彼の瞳と交わった時、ブラックの中で何かが切れてしまった。

「お前たちが弱いからこんな事になったんだ! お前たちが!」
「ブラック!」

ワタルはブラックを羽交い絞めにした。ゴールドもそれに続いてグレイの胸倉を掴んでいた腕に巻き付く。

「もう止めようブラック!」
「貴様は黙っていろ!」
「もういいんだって!」
「うるさいっ! 貴様に何が……」

そこまで言って、彼はその存在に気付いた。はっとして視線を移せば、彼女が立っていた。
 茜色に染まるその顔は、ゆっくりと口角を上げた。

「大丈夫よ、ブラック。私、もう大丈夫だから」

その笑みを彼は知っていた。家に帰るといつも自分を待ってくれていた、母の微笑みだ。
 静まるブラックにようやくワタルとゴールドは安堵し、彼から離れた。そして全員の視線は座り込んでいるグレイに向かう。
 うなだれる彼の口から零れ落ちる言葉。

「……ス、ボス」

その姿は哀れとしか言いようが無かった。それでもワタルは年長者として、トレーナーとして、この地方を代表して、グレイの腕を引っ張る。

「行くぞ」

彼を無理矢理立ち上がらせ、ワタル達は外に居る警察の元へ向かおうとした。
 その時だった。


『ただいま、同志たちよ』

塔内に響き渡る男性の声。グレイが、ブラックが思わず天を仰いだ。
 「救い」が帰ってきたのだ。
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