坊ちゃん×ルック
坊ちゃん・2主・王子の名前を変換する
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ソニエール監獄の話
柔らかな喋り方をするあの男の声が途切れてから、どれほどの時間がたっただろうか。
ギオンは男の名を呼び続け、重く分厚い扉をこじ開けようと爪を立ててみたり、拳を繰り返し扉に叩きつけている。
その場にいた誰しもが重苦しい空気に飲まれ、悲鳴に似た嗚咽をただただ聞き続けることしかできなかった。
――少年の声に返事をする者は、もう扉の向こう側にはいない。
ギオンのグローブの中から肘にかけて鮮やかな赤い雫が垂れているのが見えた。爪がはがれているのかもしれない。
金縛りのような空気を切って、ルックは彼の元へと足を進めた。
「血が出てる」
言いながら、ギオンの右前腕を掴む。
唐突な第三者の介入に、ギオンはビクッと大きく身震いした。そしてこちらを向いて、動きを止める。
(睨まないでよね)
まるで、名前を呼び続けるのを止めたらグレミオが死んでしまうとでも言いたげな、恨みがましい眼差しだった。ルックは理不尽な怒りを受け流しながら、風の力を集めていく。ほのかに温かい風を、グローブの中にあるであろう傷に集中させた。
ギオンはルックを睨み続けていたが、しばらくすると、突然スイッチが切れたかのように膝から崩れ落ちた。
(失神した?)
わからないが、ルックは未だ動けずにいる老人に声をかけた。
「ねぇ先生、この人具合悪そうだから見てやってよ。傷は魔法で塞げたと思うんだけど」
リュウカン医師はハッと弾かれたようにして駆け寄ってきた。
「言っとくけど、僕、ねむりの風は使ってないからね」
ルックが使ったのはいやしの風だ。
張り詰めていた緊張が、極限状態で突然プツリと切れてしまったのだろうか。家族を失ったばかりの子供に、正気であり続けろなどと言うのは土台無理な話だろう。
(僕には家族なんていないから、この人の気持ちをわかることなんて永遠にないんだろうけどね)
ギオンの額には脂汗が浮かんでいる。その横顔をぼんやりと眺めつつ、ルックはやはりぼんやりとそんなことを考えていた。
リュウカンの見立てによると、ギオンは極度の疲労と心労で失神したのだろうということだった。眠れば回復するようだ。
鉄壁に覆われた暗い監獄内で、時間の感覚が定かではないが、皆も軽食を摂って体を休めることとした。
強行軍で身体的な疲労は相当なものなのに、冷たく硬い床の上では体も休まらず、ルックは数十回目の寝返りをうった。
熊のような大男は高鼾をかいており、リュウカン医師もまた、静かに寝息を立てている。青装束の剣士は先程まで壁にもたれて舟を漕いでいたが、いつのまにか横になって寝付いたようだった。
(体が痛い)
このままだと、何千回寝返りをうっても到底寝付くことなどできそうにない。ルックは諦めて身を起こした。
ふと隣を見ると、眠り込んでいたはずのギオンが座っている。
(いつの間に……)
彼もこちらに気付き、視線がかち合う。彼はふっと表情を緩めて苦笑を浮かべた。
「無理にこんな所で寝なくても、魔法で外に出れば良いのに」
驚くほど穏やかな声色だ。
彼の言う通りだった。ルックには魔法がある。詠唱する時間さえあれば、瞬時にこんな所からは出られる。
――グレミオが動くより前に、人喰い胞子が広がるより前に、自分が詠唱を終えることができれば。こんな所からはさっさと出られたはずなのだ。
(……ざまぁないよ)
ルックは自分の使う魔法に絶対の自信を持っていた。レックナートの教えを受け、真の風の紋章を意のままに操っているつもりだった。だが、肝心なところで何もできなかった。
「ごめん、僕が――」
言いかけたルックの言葉を、ギオンは手で制する。
「ルックはあのとき既に詠唱を始めてたじゃないか。グレミオの決断の方がわずかに素早かった。それだけのことだ」
つい先刻まで泣き叫んでいた少年のものとは思えないほど冷静な言葉に、ルックの方が戸惑いを感じる。俯き、言葉を絞り出す。
「……だけど、もし扉を締めたのが僕だったなら。僕なら、あそこから魔法で抜け出せたはずだ」
「胞子が広がる方が早ければ、ルックが喰われてた」
間髪入れずに返され、ルックはついに言葉に詰まった。
グレミオが扉を閉めてすぐに、胞子は足元まで広がってきたと言っていた。自分の魔法で間に合ったかどうか、今となっては正直自信がない。
(それでも、少なくとも、あの人は死なずに済んだ)
ルックは口にしかけてやめる。
何を言っても結果は変わりやしない。自分には何もできなかった。それが事実だ。しかし自責の念を振り払うことができず、ルックは俯いたままギオンの顔を直視できずにいた。
「ねぇ、頼むから」
穏やかだったはずのギオンの声が震え出し、ルックはハッと顔を上げた。それと同時に手が伸びてきて、両肩をきつく掴まれる。思わず声を上げそうになるが、ギオンの体が小さく震えていることに気付いてしまった。ルックの肩に頭をもたげて俯いているギオンの表情は見えないが、きっと、泣いている。
「頼むから、ルックまで、そんな自分を犠牲にするようなこと言わないでよ。もしもの話でも聞きたくない」
ギオンはポツリポツリと「ルックは生きててよ」「一人になんてなりたくない」「頼むよ」と言葉を漏らし、そのまま再び眠りについてしまった。
ルックはもう眠りにつくことは諦めて、ギオンの体を支えてやることにした。
彼は疲弊しきっている。本当なら魔法でここから抜け出して、ゆっくり休める環境を与えるべきだ。だが、ギオンは否と言うのだろう。壁の向こう側に立ち入ることができるようになるまでは。
ギオンの右手に宿る紋章が、宿主を嘲笑うかのように魔力を増しているのがわかる。
「……さぞご満悦なことだろうね」
ルックは小さく舌打ちをした。
この紋章はこうやって宿主の親しいものの魂を喰らい続けるつもりなのだろう。そのたびに、この少年は酷く傷付いていくのだ。
――そんなこと、させるものか。
「いつまでもそううまく行くと思うなよ。僕はお前を許さない」
ルックの肩に頭を預けて眠る少年の瞼から、一筋の涙が頬をつたって流れていくのが見えた。