幻水1以前の話
坊ちゃん・2主・王子の名前を変換する
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風とすれ違った話
幼少ルックがおつかい中に金目の少年を見かける話/コソ練していたら魔法使いに覗き見されていたマクドール少年の話
道を尋ねた警吏が教えてくれたのは、こじんまりとした店舗だった。新しい建物がいくつも立ち並ぶ一角で、その一軒だけが異質なほどに古ぼけていた。
客は他に誰ひとりいない。街の雑踏までもが遮蔽されて、外界と分断されてしまったかのように、しんと静まり返っていた。
(でも、こういう雰囲気は嫌いじゃない)
見渡すと、店内には木製の背の高い棚がところ狭しと並んでいて、棚という棚に商品がぎっしり詰め込まれている。よくわからない品物をぼんやり眺めていると、店の奥から白い口ひげをたくわえた老店主がゆっくりと戻ってきた。
「はいよ、お待ちどおさま。お探しの品は、これで全部だよ」
年季の入ったカウンターには、既に革袋がふたつ。店主はそれらの隣にもうひとつ、袋を並べ置いた。途端、甘い香りがふんわりと鼻孔をくすぐる。
つい先ほどにも読み上げたメモの、上部にある文字を読み返す。ひいらぎの実。ロウソク。ジャコウ。革袋の中身に間違いはなさそうだ。
(だけど……)
指定した分量に対して、かなり多めの商品が詰められている、ような気がする。
これは、素直に儲けたと考えて良いのだろうか。こんなにたくさん持っていってしまったら、後になって叱られたりするのではないか、などと勘ぐってしまう。
「見てのとおり、さびれた店でねぇ。そう遠くないうちに店じまいするんだ。出し惜しみしてもしかたないからね、サービスさせてもらったよ」
店主は片眼鏡の向こう側で、器用にウインクをしてみせた。
考えていたことが顔に出てしまっていたのだろう。なんとなく恥ずかしくて、「ありがとう」と礼だけを告げて代金を支払うと、三つの革袋をそそくさと鞄にしまい込む。
軽いところがお気に入りの麻の鞄だが、荷を詰め込んで肩から斜めに掛けると、ずっしりとした重みが体にのしかかってきた。
その間、店主はというと、呑気にも目尻を垂れ下げて大きく頷いたり、顔に刻まれたシワを深くしながら朗らかな笑みを浮かべていた。
「こぉんなに小さいのになぁ。立派におつかいができて偉いよなぁ。嬢ちゃん、気を付けてお帰りよ」
ヒラヒラと手を振る老人に、ペコリと頭を下げる。それから、よたよた歩きながら店を後にした。
(あの店主、交易商のくせに見る目がないんじゃないの)
逐一訂正するのも馬鹿らしくて聞き流していたが、老店主は色々と間違えている。
(まず、僕は『嬢ちゃん』なんかじゃない)
れっきとした男であり、その上『嬢ちゃん』『坊ちゃん』だなどと呼ばれるような身分でもない。
(僕は魔法使いだ)
師からむりやり持たされたロッドも、たっぷりとした長い袖のローブも、そして七つになった祝いに師が見繕ってくれたサークレットも。明らかに魔法使い然とした出で立ちだというのに。
(そうだ、僕はもう七歳だ! 買い物くらいできて当然じゃないか!)
左の手のひらでしっかりと握りしめたメモには、まだ続きがある。毒消し、特効薬、のどあめ。道具屋に行けば手に入るのだろうが……。
重さに辟易して、ため息をひとつ。
(一度、塔に荷物を置きに帰りたいな)
そうは思うものの、今のルックの魔力では一往復の転移がやっとだった。
実を言えば、塔から目的地までの往復を正確にできるようになったのはごく最近のことで、おつかいが解禁になったのも今日が初めてだった。
今まで、いったい何度制御に失敗したことだろう。師が連れ戻しに来てくれて事なきを得たものの、魔物の群れの中だったり、群島の大海のど真ん中だったり、生命を脅かされる場所に飛ばされるのはもう絶対にごめんだ。
(せめて、このロッドがなければいいのに)
右手のロッドを、恨みがましく睨みつける。
ロッドは陽の光を反射して誇らしげに輝いていた。上部にはめ込まれた翡翠色の石は、魔力制御を容易にするためのものだ。
(こんなものなくたって、僕くらいにもなれば、ごろ寝して本をめくりながらでも魔法は発動できるのに)
師は、魔力制御を十分にできなくなった場合の保険として、というようなことを言ってロッドを押し付けてきた。加えて、いざとなった場合は物理でぶん殴れ、とも。
真なる紋章を我が物にしようと画策している輩はあちらこちらにいるのだから、ルックも無防備でいてはいけないということなのだった。
けれど、まだ見ぬ『真なる紋章を我が物にしようと画策している輩』どものせいで、この重量に耐えなければならないというのは、あまりに理不尽ではないか。ますます腹が立ってくる。
(出会い頭に闇に葬ってやりたいよ)
実際、そうできるという自信もある。
店主の節穴すぎる目と、鞄の重さと、ロッドの重さ、そして『真なる紋章を我が物にしようと画策している輩』。なにもかもが腹立たしいと思いながら、ルックは帝都グレッグミンスターの人混みの中を歩いた。
人が多くて歩きづらかった。
足早にルックを追い越していく人。通りの真ん中で立ち話をしている人。突然軌道を変えて、どこかの建物に入っていく人。
ドン、と肩に衝撃。
考え事でもしていたら、このとおりすぐに人にぶつかってしまう。
(道具屋はどこなんだろう……)
道具屋や交易店などといった店は、近くにまとまっているものだと考えていたのだが、アテが外れたかもしれない。
ふと振り返ると、人混みの向こう側の景色はまったく見知らぬものとなっていた。ずっとまっすぐ歩いて来たはずなのに、あの古ぼけた交易店がどこにあったのかさえ、もうわからない。
(どこかでまた警吏を呼び止めて聞いてみるか……、しばらく歩いてもわからなかったら、適当な店に入って聞いてみるか……)
思いつつも、警吏も『適当な店』も見当たらず、そのまま歩き続けていくと、やがて大きな噴水の前に出た。
噴水の真ん中には、大きな水瓶から水を注ぐ、大きな女神の像がある。すぐ隣に空いたベンチがあるのを見つけて、ルックは吸い込まれるようにそちらへ向かった。
大きなベンチをひとりで占領するのは何だか申し訳ないような気がして、すみっこに腰掛ける。
改めて通りを見渡すと、建物が数え切れないくらい立ち並んでいる。どこもかしこも人ばかりだ。こんなに広い街中で無事に買い物を済ませて、夕暮れまでに帰ることはできるだろうか。
「もっと小さな町にしておけばよかったかな……」
ルックがポツリとこぼすと、突然柔らかい風が吹き抜けていった。まるでルックを励ましてくれるかのような風だ。噴水の飛沫をこちらにまで飛ばしてくる。ひんやりとした水が心地よい。
まぶたを閉ざして休息しながら、ただただ風を感じる。ふと、今までと違った風が、すぐ脇を通り過ぎていったことに気付いた。
ゆっくりと目を開く。
間違いない。穏やかな風たちの中にまぎれて、ピンと張り詰めたかのような一筋の風が流れている。
(これは何?)
魔法を使った覚えもないのに、ルックの紋章がそよ風を起こして呼応していた。
街路樹の葉がざわざわと揺れる。
風がルックの耳元に運んで来たのは、街ゆく人々のざわめきとはまったく違う声だった。
(子どもの声?)
泣き声でも笑い声でもない。子ども同士でじゃれ合っているわけでも、誰かと喋っている風でもない。
(言葉、でもない?)
無性に気になって立ち上がると、先ほどまでの疲労はどこへやら。ルックは重たい荷物を抱えたまま、風が吹いてくる方へと駆け出していた。
少し進むと、大きな建物があった。決して新しくはないが、よく手入れをされていて古ぼけた様子がない。住居のように見えるが、あまりに大きくて、いったい何人の人間が暮らしているのかと考えてしまう。もしかしたら、貴族か何かが住んでいるのかもしれない。
風が流れてくるのは、その建物の向こう側。背の高い植え込みの方で巻き起こされているようだ。
ルックは立ち止まった。
(なんだろう……)
枝と葉っぱの隙間から、こっそりと覗き込んでみる。不用意に立ち入って、もし貴族の私有地だったりしたら、怒られるかもしれないと思ったのだ。
まず見えたのが、植え込みの向こう側にある建物だ。そこから視線を右の方に移していく。建物しか見えない。ならば、と逆に左に向かって視線を動かしていく。
(やっぱり、子どもだ!)
男の子がひとり、緋色の服をひらりとなびかせて、軽やかに舞い踊っているように見えた。風に揺れる闇色の髪は、深緑のバンダナでまとめてある。
(棒を持っている?)
長い何かを手に、真剣な表情で舞う少年。ルックよりはいくらか年上だろう。
不思議な舞だった。風を切り裂くような声を発しながら、目にも留まらぬ速さで動いたかと思えば、その体勢のままでピタリと静止する。それをひたすら繰り返すのだが、静止する体勢は毎回異なっていた。
少年の周りの空気がキラキラと光り、思わず息を呑む。
(なに……?)
光を纏い、風を切って舞う少年。
まばたきさえ忘れて、見入ってしまう。
街の一角で、それも植え込みの陰で。ありえないが、これが何かしらの儀式だと言われれば、うっかり信じてしまいそうだった。
やがて少年は、旋風を巻き起こしながらくるりと回り――
一瞬風が凪いで、時が止まった。
「……あっ」
と思ったときには既に、ルックの瞳は黄金の瞳にとらわれて、心臓の跳ね上がる音だけが世界に響いていた。
◇
乾いた音を立てて、棍が地面に転がった。しっかりと把持していたはずなのに、汗で滑ってすっぽ抜けてしまったようだ。
(グローブをした方がいいのかもしれないな)
ギオンの脳裏に浮かんだのは、師の一撃を受け止めたときの、肩まで突き抜けるような衝撃だった。
今日の稽古では師に手合わせをしてもらったのだが、まったくと言っていいほど歯が立たなかった。
ギオンはまだまだ初心者、それも子ども。相手は棒術の達人なのだから、実力差は明確だ。逆に、こちらの思う通りに技が決まっていたとしたら、それは決して実力ではなく、将軍家――父への忖度があると見て間違いない。
わかってはいるものの、やはりやられっぱなしは面白くない。
ギオンは稽古後も、ひとり鍛錬を続けていた。次こそ師を驚かせてやろうと、屋敷に戻ってからのコソ練だった。
西の方角に日が傾きつつある。
(型のおさらいまでやったら終わりにしよう)
棍を拾い上げ、フゥと息をついてから気を取り直す。
それから、師に教え込まれた通りに、棒術のひとつひとつの型を再現していく。
全身を意のままに動かしていく「動」の瞬間と、その終わりに心のみを残す「静」の間。これらをひたすらに繰り返していく様は、端から見れば、踊りのようにも映るらしい。というのは、武術に明るくない付き人に「それは新しい舞いですか?」と悪気なく尋ねられた折に知ったことなのだが。
すばやく身を捻ると、汗が散って、キラリと陽光を反射した。
熱中していて、汗をかいていることにも気付けていなかった。今日は少し張り切りすぎたかもしれない。
過ぎたるは及ばざるが如しと、師はよく口にする。直接的に叱られたことはないが、ギオンがすぐにやり過ぎてしまうことを諌めているのだろう。
(ああ、駄目だ、もう集中が切れかけている――)
と、丹田に意識を戻そうと試みたところで。
ギオンは気付いてしまった。
(――誰かに、見られてる)
知らない気配だった。
通りをゆく人のものでも、貴族や軍人のものでもない。一瞬警戒したものの、誘拐犯や魔物のそれでもなく。今までに感じたことのない、不思議な気配。
既に集中は途切れてしまっていたが、それでも棍を手の内で滑らせながら、残りの型をとり続ける。身を翻すと、わずかに風がそよいで、胴着をはためかせた。
(そうだ。こんな、気持ちのいい風みたいな気配だ)
風がこちらを見ているはずなどないが、そう考えるのが一番しっくりくる。
そしてようやく辿り着いた最後の型。足を踏み変え、風を感じながらくるりと回転しかけたところで――
「……あっ」
植え込みの隙間。
こちらを覗く翡翠色の瞳と視線がかち合って、ギオンの集中はとうとう霧散してしまった。
ただただ無言で見つめ合う。くっきりときれいな二重まぶたの、吸い込まれそうなほどに大きな目だった。思わず、瞳に散りばめられた無数の星屑を数えてみたくなる。
だからと言って、いつまでもこのまま不躾に見つめ続けるわけにもいかないだろう。
ギオンは相手に聞こえないくらいに小さく咳払いをした。そして、誰にでもそうするように朗らかな笑みを浮かべると、「こんにちは」と声をかけてみる。
けれど、その視線はするりと離れていってしまった。長い睫毛は伏せられ、今度はどこか別の場所を注視しているようだ。
植え込みがガサッ、ガサッと揺れる。
(何をしているんだろう?)
挨拶に返事をするでもなく、逃げてしまうわけでもない。こちらに襲いかかってくる様子もなさそうだ。
向こうにいるのが誰なのか、どうして覗いていたのか、何をしているのか、この不思議な気配は何なのか。無性に気になって、ギオンは植え込みと屋敷の間の細道を足早にすり抜けていった。ただし、棍は手に携えたまま。
けれど、通りに出てすぐに、その必要がなかったことに気付く。
植え込みの隙間からこちらを覗いていた相手の正体は、ギオンよりも小さな子どもだった。
(女の子……?)
緑がかったブロンドの髪は、顎の辺りで切り揃えて耳にかけられていて、血色のいいマシュマロのような頬が覗いている。ローブの袖は長くだぶついて幼い印象が強調されているが、額には金色のきれいな飾りをあしらい、手にはギオンの棍と同じくらいの長さの、繊細な作りの杖のようなものを握りしめていた。
そして、しきりに腰の辺りでゴソゴソと何かをしているのだが――
「どうかしたの?」
ギオンがひょいと覗き込むと、その子は「わっ」と小さく声を上げ、目を白黒させた。ギオンが隣に立っていることに、まったく気付いていなかったらしい。
少女は、肩から下げた大きな鞄を引っ張ろうとしていた。植え込みの枝に引っかかっているようだ。
「驚かせてごめん。今手伝うから、少しそのままで辛抱してくれる?」
しばらく逡巡していたが、少女はやがてコクンと小さく頷いた。
それを確認するなり、ギオンは少女と植え込みの間にかがみ込む。試しに鞄を軽く引っ張ってみるが、植え込みは頑なに鞄を手離そうとしなかった。
(かなり生地に引っかけてしまってるな……)
このまま力づくでいくと、鞄が破れてしまうかもしれない。
「………………」
ギオンは鞄から手を離して、枝に手を伸ばした。手にグッと力を入れて握り込み、思い切りよく――ポキン、と折る。
「ええっ……、折るの? 折れるの? 勝手にそんなことして怒られないの」
頭の上から、鈴を転がすような、しかし動揺したような声が降ってきた。少女は植え込みから解放されたものの、そのままその場に立ち尽くしている。
けれど、少女が初めてまともに口を聞いてくれたことが嬉しくて、ギオンの気分は弾んだ。
「小さい頃にね、ここの枝を剣にしてよく遊んでたんだ」
生地を破らないように細心の注意を払い、折った枝先を鞄から外しにかかる。
「それで? 怒られなかった?」
少女が話に食いついてきた。
ギオンは一度顔を上げて、彼女に微笑みかける。
翡翠がこちらをじっとうかがっていた。
「いや、怒られたけど」
「やっぱり怒られるんじゃないか」
「ううん。こうすれば大丈夫なんだ」
折れた枝が、ようやく鞄から離れる。
周囲に人がいないことを確かめると、ギオンは植え込みの木の根元に枝をサッと投げ入れてしまった。茂った枝葉に紛らせれば、枝の一本や二本折れていたところで、誰も気付きやしない。
「――君が黙っていてくれたら、の話なんだけど」
小声で告げる。
女の子はしばらくの間、木の根元を見ていたかと思うと、やがてプッと吹き出した。
可笑しそうにあははと笑う少女に、ギオンは胸を撫で下ろした。ついに話しかける許しを得られたような気がして、さて何から尋ねようかと思案しはじめる。
だが、先に口を開いたのは少女の方だった。
「ねぇ、さっきの変わった踊りは何? ここでひとりで何をしてたの」
植え込みの向こうから見ていたのと同じ目が、まっすぐにギオンに向けられていた。
「気になって見てたの? あれは踊りじゃなくて、棒術の型なんだよ」
答えるが、少女は目をパチクリとさせて疑問符を浮かべていた。まったく伝わっていない。
(なんて言えばいいんだろう。この子の杖は、振り回して魔物を殴るようなものでもなさそうだし……)
ギオンが言葉を探しているうちに、再度少女が口を開く。
「それで、そんなに怪我をするの?」
今度はギオンが疑問符を浮かべる番だった。
「怪我なんてどこにも――」
していない。そう思ったのだが。
腕を見ればあちこち青痣だらけで、出血らしい出血はないものの、擦り傷もいくつかこさえている。
「ああ、これは手合わせで。その……、ちょっと。」
ギオンはゴニョゴニョと言葉を濁した。格好がつかないので、これは伝わらなくていい。
「どうして治さないの」
(……『治さないの』?)
少女に畳み掛けられた問いを、ギオンは胸中でオウム返しにした。
なぜ手当てをしていないのか、ということだろうか。
「こんなの、放っておけばすぐに治るよ」
怪我を見せれば付き人が大げさに手当てしてくれることは知っているが、必要ないだろう。
少女は怪訝そうに眉根を寄せて「ふぅん?」と首を傾げた。
あまり納得がいってないのかもしれないが、質問の嵐はそこで止んだので、今度はこちらが尋ねる番だとギオンは思った。
「君も、ここでひとりで何をしていたの?」
尋ねられたことを、そっくりそのまま返してみる。
「買い物をしてて、道具屋を……その、探して……それで、風が吹いて、空気が光ってたから……」
少女の回答は年相応にちぐはぐな様子で、要領を得ない。もしかしたら、あまり根掘り葉掘り聞こうとしない方が良いのかもしれない。
幼い頃、母に「レディに手を貸してあげなさい」と言われたことがある。小さくても、相手はレディだ。困っていたら手助けになるべきだし、困らせてしまうなんていうのは論外だろう。
「道具屋って、この近くの道具屋でいいのかな? 僕で良ければ案内するよ」
「近くまで来てたのか。でも……」
少女はまじまじとこちらを見ると、「怪我人に道案内させる趣味はないんだよね」と首を横に振った。
「そんな大げさな怪我なんかじゃないよ」
言うが、声が届いていないのか、なにやら考え込んでいるようだ。
「うーん……、でも、道具屋まで連れて行ってくれるのなら……」
少女は再び首を横に振り、顔を上げた。こちらに杖の先をかざすようにして、ふわりと揺らす。
杖の石が陽を受けて煌めいたと思うや、やわらかな風が巻き起こった。風は淡い光を放ち、ギオンをやさしく撫でていく。
(何だ?)
腕に不思議な温かさを感じて目を向けると、打ち身のあとがすっかりきれいに消えてしまっていた。何度まばたきをしてみても、小さなかすり傷のひとつさえ見当たらない。
(傷が……、消えた?)
何が起こったのか分からずに、少女の顔を見つめる。
「これなら、道案内をしてもらってもいいかな」
少女はニヤリと得意げな笑みを浮かべた。
「あ、そうそう。今の、あんまり人前でやるなって言われてるんだよね。変な輩に知られたら困るからさ」
と、ギオンの胸元を指差してくる。
「でも、君が黙ってればバレないから。よろしくね」
翡翠の瞳に見据えられて、ギオンの心臓が飛び跳ねる。
(今のって、魔法……だよね?)
目の前で、しかも自分に向けて使われる魔法を見るのは初めてだった。それも、こんなに小さな子どもが完璧に使いこなしているなんて。
(この子、宮廷魔術師のたまごか何かなのかな?)
もしそうだったら、いつか大人になった彼女と肩を並べて、帝国を守る任に就くこともあるのだろうか。その時、自分は父のように立派な軍人になっているだろうか――
(だけど、帝国でこんなに幼い魔法使いを育成してるなんて話、聞いたこともないや)
何食わぬ顔で歩みを進める少女に並んだところで、ギオンはふと我に返った。
「そうだ。さっきから思ってたんだけど、その鞄重たいでしょう? 道具屋まで運ぼうか」
提案すると、少女は「ほんとに?」と弾かれたようにこちらを向いた。
「さっき買った荷物が重すぎて、もう帰ろうかと思ってたんだ」
少女はすぐさま鞄を肩から下ろして、こちらに差し出してくる。
受け取り、代わりにギオンの肩に掛ける。思った通り、鞄はずっしりとしていた。
「ずいぶんたくさん買い物したんだね」
「店主がおまけしてくれたからね。こんなにたくさんはいらなかったんだけど」
小さな口を尖らす少女の様子を見ていると、気前よくサービスした店主の心情がなんとなく想像できる。愛らしい少女がたったひとりでおつかいにやって来たら、誰だって親切にもてなさずにはいられないだろう。
(道具屋にもひとりで入店した方が、色々サービスをしてもらえて良いのかもしれない)
おつかい中の小さな少女が実は優秀な魔法使いだなんて、誰も見抜くことはできないだろう。
(僕は、もしかしたらとんでもない秘密を知ってしまったのかもしれない)
荷物の重さに反して、ギオンの足取りは軽くなった。
閉店間際の道具屋から出てきた少女は、案の定、大きな紙袋を両手で抱えていた。
「なんなの、この街は過剰なサービスをしないといけない決まりでもあるの?」
不平をこぼしながら、少女は紙袋をギオンに渡してくる。
荷物をすべて受け取り、この少女にとってはギオンも過剰なサービスのひとつなのかもしれないと考え、苦笑した。
「買い物はもう終わりなの? このまま君の家まで運んだらいい?」
すると、少女はこちらに目を向けて、からかうような笑みを浮かべる。
「きっと――君には無理だと思うよ」
静かに、けれど面白がりながら告げられた言葉。視線はふっとギオンから離れていく。柔らかな風に髪をなびかせながら、少女は大通りの先にある噴水をふわりと指差した。
「あそこ。あのベンチのところまで運んでくれたらいいよ。帰る前に荷物を整理したいんだ」
夕暮れ時の通りは、もう人の姿もまばらになりつつあった。少女は軽い歩調でぐんぐんと先を行く。
噴水の前まで歩けば、少女のお供は終わりだ。友人たちと楽しい一日を過ごしたあとの別れ際とも違う。ほんの少しの時を共有しただけの、名前も知らない相手だというのに、正体のわからない名残惜しさが急に押し寄せてくる。
彼女はどこから来て、どこに帰っていくというのだろう。できるのなら、名前を聞いてみたいし、また一緒に過ごしてみたい。
思うのに、風に乗って進んでいく少女との間には、目に見えない隔たりが確かにあって、ギオンが彼女に触れることを阻む。まるで、風が大切に大切に、少女を守っているようだった。
荷物を抱えての移動は果てしないだろうと思っていたのに、噴水までの道のりはあっという間だった。
ベンチに重たい麻の鞄と、大きな紙袋をどっさりと並べる。
(これを家まで運んで帰るのか? この子ひとりで……?)
ギオンの心配とは裏腹に、少女は荷物の前に立ち、淡々と整理しはじめた。なるべく鞄に詰め込んで、手荷物の紙袋は減らすつもりらしい。ただ、あまりうまくいっていないようなので、ギオンは手を貸すことにした。
「こうすれば、もっとたくさん入りそうだよ」
大きな荷物を鞄の端に寄せ、上に軽い荷物を積んで見せる。
少女は、すぐ隣で「ほんとだ」と素直に頷いた。
ふたりで協力し合いながら、ある程度荷物がまとまったかという頃。
ふわりと風が巻き起こった。噴水から、夕日色の水飛沫が飛び散る。
「――ああ、」
言いながら、少女はゆっくりと顔を上げた。
「帰らなきゃ。夕暮れまでに戻るように言われてたんだった」
瞳の星は夕日に染まっている。幻想的な色の光が、ここではない場所へと向けられているのがわかった。
彼女が本当に夕暮れまでに帰るつもりなら、家は案外近くなのかもしれない。
けれど、なんとなく。なんとなくだが、少女はどこか遠い場所に行ってしまうような気がして、尋ねるなら今しかないと、ギオンは心を決めた。
「また……、会えるかな?」
思い切って伝えると、少女は心底驚いたようにこちらを見た、ような気がしたのだが。気のせいだったかもしれない。風が吹いてギオンが一度まばたきをすると、翡翠の瞳は面白がるように、悪戯な笑みをたたえていた。
「そうだね。君がまた僕の役に立ってくれるんなら、会ってもいいかもね」
杖の先にはめ込まれた石が、サッと円を描く。
「それじゃ、――またね?」
精巧に作り込まれたような顔が浮かべる微笑みに、思わず息を呑む。瞬間ブワッと突風が巻き起こり、ギオンは目を閉じた。
次に見た景色は、夕日に照らされたいつもの噴水だった。
今まで少女のいた場所の向こう側では、金色に輝く女神が、恵みの水を帝都に注いでいる。
少女の姿はもう、どこにも見当たらなかった。
目の前にキラキラと淡い光の粒が煌めいているように見えたが、やがて風に吹かれて光も消えてしまった。
(ん? ……――『僕』?)
少女の言葉が引っかかって、違和感に首を捻っていると、遠くからギオンを呼ぶ声が聞こえた。ギオンの付き人だ。
気付けば日も沈みかけている。時間にしてみればほんのわずかだが、長い長い夢から覚めたような心地だった。
ギオンは付き人の声のする方へ駆け出そうとして、ふと気になって、大きく動かした腕に目をやった。
――その腕には、たったひとつのかすり傷さえ残っていなかった。