ルック
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名前をもらった風の話
自分がいったい何者で、いつからここにいたのかなんて、知りようがなかった。
魔法で作り上げられた透明な球体が、部屋の中央にポツンと浮かんでいる。室内は薄暗くてだだっ広く、耳がキンとするほどに静まり返っていた。
気が付いたときには、既にこの球状の壁の内側に、ただただ存在していた。もしかしたら、はじめからそうだったのかもしれないし、ある時点からそうなったのかもしれない。
手を思いきりグンと伸ばせば、透明な壁をすり抜けて外に出すこともできる。おそらく、顔や足、体も、同様にすれば外に出せるのだろう。つまり、拘束されているというわけではないのだ。いつでも球の外に出ることはできる、と思われる。
けれど、球体の中で、何をするでもなく、寝たり起きたりを果てしなく繰り返す。それがごくごく当たり前のことなのだと思っていた。
なにしろ他の在り方を知らないので、選択肢などありえないのだった。
ここにいるようにと言われているから。自分から外に出ようなどという気は起こらない。
ただの言葉は呪いとなり、この身をいつでも束縛し続けた。
一番よく顔を見る『技術者』と呼ばれる人間は、こちらが何を話しかけても応えてはくれない。
初めて言葉をかけたときには、ほんの少し面食らった顔をしたようにも見えたが、おそらく勘違いだったのだろう。それ以降、彼は一切反応を示さない。もしかしたら、この人には声が聞こえていないのかもしれない。
球体から引っ張り出されて、あっち向きこっち向き体を転がされながら、黙って『技術者』のチェックを受ける。
何もしないでいても体は汚れるし、髪の毛も爪もどんどん伸びていくので、それらを整えてキッチリした衣に取り替えるのも『技術者』が行っていた。衣は少々崩れているくらいが楽ではあったが、それではいけないのだそうだ。
それから球の中にポイッと戻されて、彼が透明な壁を念入りにチェックしている様をぼんやりと眺める。
『技術者』は、すべての時間のだいたい三分の一くらい、この部屋で何かをして過ごしているように思えた。そのため、よく見知った顔ではある。けれど、彼はひたすら押し黙って一連の作業をこなすので、話をするような相手ではなかった。
実は、話し相手は別にあった。
その人物は、みずからを『土』と名乗った。背丈はおそらく『風』と同じくらいだろう。『技術者』よりはずっと小さい。
彼は『技術者』がいない間に、こっそりとここに忍び込んでくるのだ。球の中に入ってきたりはしないが、透明な壁の向こう側に立ったりしゃがんだりして、こちらを見上げながら実に様々なことを喋っていく。
「きいて、風」
「なぁに、土」
彼がいつも『風』と呼ぶので、『風』は自分が『風』であることを知った。
「あのね、ぼくね、おべんきょうしてじぶんで本をよめるようになったんだよ」
「ほん?」
「ああ、風は本をしらないんだね」
「土は、ほん、すき?」
「わかんない。でも、ぼく、ひとりでよめるんだ!」
その日『土』が学んだことであったり、こなした仕事であったり、体験した様々なこと。彼は話したいことを好きなように話していく。
誰に教わるでもなく人の言葉を理解するようになったのも、しきりに語りかけていく『土』のおかげだと言えるだろう。
そうしていつしか、『風』が外に対して興味を持つようになったのもまた、『土』の影響だった。
「ぼくもやりたい」
「風はだめだよ。けっかんだから、うつわがだめになるまでお外いけないんだって。風がお外のおともだちだったら、ぼく楽しいのに……」
「だめになるの、いつ?」
「そんなの、ぼく、しらないよ。……じゃあ、そろそろいくね。風とおはなししたのバレたら、たたかれちゃうから」
「土がこわれたら、ぼく、なおすよ」
「だめだよ。かってに紋章つかったら、もっとたたかれるよ」
「……いたいのは、いや」
「うん。いたいのは、いやだね。――ばいばい、風」
「ばいばい、土」
それから、ここにはもうひとり。
たまに『あの人』がやってくる。
彼は優しい声で『風』に話しかけて可愛がったり、壁の中に入ってきて『風』を抱きしめて、添い寝をしていくこともあった。
かと思えば、『風』の髪を引っ掴んで壁から引きずり出して投げ飛ばしたり、踏んづけたり。
『あの人』は『風』のことを気ままに扱った。それも当然のことだ。『風』は『あの人』の所有物なのだから。
その日、『風』はたくさん叩かれた。
いつか自分も外に行ってみたいと、口にしたのがいけなかったのかもしれない。
長くて濃いまつ毛の下から、夢のような色をした瞳がこちらをじっと見据えていた。『土』みたいな顔をしているのに、この吸い込まれそうな瞳はまったく異質だった。
「君に外の話をした悪い子は誰?」と尋ねられて。
正直に答えようものなら、『土』がひどい目に合うだろうことは想像に難くない。
この人はなんて綺麗なんだろう。そんな場違いなことを考えながら、『風』は何も言わずにぶたれる方を選んだ。
いつもの大半の時間と同じで、『風』はまたひとりきりになった。
そういえば、以前にも同じくらいひどく叩かれたことがある。あれは確か、最初に『技術者』に喋りかけたときのことだ。あとから『あの人』がやってきて、気付いたときには体のあちこちが壊されていた。赤い液体がいっぱい飛び散ったことを覚えている。
きっと、『あの人』は『風』が何かを知ることを嫌っているのだ。
何がそんなに気に障るのかよくわからない。けれど、いらないことを口にした『風』がいけなかったのだろう。『あの人』の意思は絶対だった。
『風』は目を閉じた。体中が痛んで眠れそうにないが、痛みをやり過ごすために体を小さく丸めて、球の内側に横たわる。
ジンジンと傷口が疼いた。特に痛みの強い右腕を庇いながら、何度も何度も寝返りをうっていると――
「なぜ紋章を使わないのですか」
初めて耳にする声が、すぐそばで聞こえた。
ゆっくりと重たいまぶたを持ち上げる。
『風』の目の前にいたのは、やはり知らない人間だった。
いつの間にやって来たのだろう。そしてこの人は『風』に何をもたらす人間なのだろう。
つやつやと真っ黒な、とても長い髪の人。なぜだか目を閉じているのに、じっとこちらを見ている、ような気がする。
「貴方にはその力があるというのに」
目の前の見知らぬ人間が何を言っているのかがよくわからなくて、『風』はそっくりそのまま言葉を繰り返した。
「……『ちから』?」
なんのことだろうか。
傷と痛みを取り除く方法を『風』は知っている。紋章を使えば、すぐに良くなるのだ。けれど、勝手に使うことは許されていない。紋章は『あの人』のものだからだ。使ってはいけないと言われているからだ。
「『器』をひとつずつ破壊していくつもりでいたのですが。まさか、貴方に星の巡りを見ることになるとは……」
目の前の人間は、フゥ、と息を吐き出してゆっくり頭を振り、そんなことを口にした。
意味はわからないが、聞き取れた言葉だけを拾い上げて、『風』は飛び起きた。青くなって腫れ上がった右手がズキンと痛む。
「うつわ、だめになる? お外いける?」
「そうですね……、一緒に行きましょう。貴方はここで無為に生きるべきではありません」
その人間がスッと手のひらをかざすと、『風』の至る所にできた傷が瞬時に塞がった。
「かってに紋章つかったら、もっとたたかれるよ」
「いいえ。そんな呪縛のない場所へ行くのです」
言いながら、黒髪の人間は壁の内側に手を差し伸ばしてきた。
「私の手を取りなさい。このような場所で朽ち果てるのを待つことはありません。貴方はいつだって外に出ることができます」
ここにいるようにと、『あの人』は言っていたのに。
『器』が駄目になるまで外に出られないと、『土』も言っていたのに。
そのときを待たなくても外に出られるのだと、この人間は言う。憧れてやまない外の世界に、今すぐに。
あまりに魅力的な誘惑だ。
そうだ、考えてみれば、手を伸ばせばみずからの意思で外に出すことができるではないか。手だけではない。体ごと外に出てしまって、そのまま、ここではないどこかへ――
(どこに? ぼくは、どこにいける?)
わずかに躊躇しながらも、『風』はおずおずと手を伸ばした。右の手は、青みと腫れがすっかり引いて、甲に刻み込まれた『風』の印がはっきりと見て取れるようになっている。
温かくて大きな手のひらが、『風』の小さな手をギュッと優しく握り返してきた。
外に出られるのだ。ここではない場所を、ついに知ることができる。――そう思った刹那。
視界に赤い飛沫が舞った。
飛沫はビシャ、と透明の壁にかかり、『風』の視界は赤一色になる。
握っていた手からはフッと力が抜け、『風』からゆっくり離れていった。黒髪の人間が、『風』の目の前で床にズルリと崩れ落ちる。
壁から滴り落ちて床に広がっていく、この赤い水の正体を、『風』は知っていた。ひどく叩かれたときに、壊れた体からあふれる赤だ。
「それ、僕のなんだけど。勝手に触らないでくれる?」
赤い壁の向こうに、『あの人』が立っていた。
『あの人』の髪がフワフワとゆれている。紋章の余波だ。黒髪の人間の体を壊した、魔法の。
「『器』を盗むつもりだったんだろ。――姉? 妹? どっちかなんて知らないけど、もうひとりは赤月で妙なことを企んでいるみたいだね」
綺麗な顔には、ところどころ飛び散った液体が付いていた。赤く塗りつぶされた壁越しに見るその瞳は、いつもの色と違って見えた。かつて目にしたことがないほどにどす黒い。『風』の恐怖心を煽り立てるほどに。
「何か焦っているの? いつもみたいに、高みの見物をしているべきだったね。ま、僕としては、君の方から飛び込んできてくれたおかげで、かなり手間が省けたけど」
地べたに転がった黒髪の人間に向かって、『あの人』は手の平をかざした。空気の動かない薄暗い部屋の中で、彼は魔力に髪をなびかせている。
「『門』も、今にひとつの姿に戻してあげるよ。『器』の中でね」
『あの人』はもう一度、魔法を使うつもりだ。この人間を完全に壊してしまおうと考えているのだろう。
ドッドッドッ、と、体が早く揺れている。息が苦しい。あまりの怖さにどうにかなってしまいそうで、『風』は喉の奥から声を絞り出した。
「あ……、いたい、よ……」
赤があふれるとき。体が壊れたとき。痛くてたまらないことを『風』は知っている。
震える腕を持ち上げると、黒髪の人間に向かって手をかざした。
傷と痛みを取り除く方法もまた、『風』は知っている。紋章を使えば、すぐに良くなるのだ。
「――何をしているの」
深い絶望の色で睨みつけられて、『風』はビクッと体を跳ね上げた。
ああ、まただ。また、『あの人』に許されないことをしてしまった。
いますぐにやめなければならないことはわかる。けれど未熟な『風』は、一度溢れ出した魔力を留める方法など知るはずもなく、『風』の紋章の力は黒髪の人間に向かって流出し続けた。
「僕の紋章を勝手に使うなって言ってあったろ。いったい何度言えばわかるの。ほんとに君は欠陥品だね。……ま、そんな魔法、なんの意味もないけど。死んだ人間は回復しないから」
「ええ。意味がありません。
唐突に割って入った声に、『あの人』が大きく目を見開くのがわかった。
次の瞬間、『風』は見たこともないほどのまばゆい光に包まれていた。
『風』は、とうとう自分が完全に壊れてしまったのだと思った。
目が焼けて、もう開くことができそうにない。それに、何かが体の表面をしきりに撫で続けているような感覚がある。『風』の体を壊していく魔法に違いない。
『あの人』の逆鱗に触れてしまったがために、とうとう叩かれるだけでは済まされなかったのだ。きっと、そう――
けれど、いつまでたっても痛みが襲い来ることはない。むしろ心地良ささえ覚えるような、不思議な心地がしていた。
(なに? なに、これは……)
恐怖心よりも好奇心が勝った瞬間に、『風』はまぶたをそうっと開いた。
「わっ……」
思わず声が漏れ出す。
かつて見たことのない世界に、『風』はいた。
いつもの薄暗い部屋ではない。もっとずっと広くて、明るくて、色がたくさんあって。知らない匂い、聞いたこともない音があふれていて、どこまでも果てしない。天を仰ぐと、青の中にはめ込まれた大きなまぶしい光がこちらを照らしている。白の塊がゆったりとあちこちを飛んでいた。
肌には何かが触れては離れていくような感覚があるのに、試しに腕を見てみても、何の実体もない。手で捕まえることさえできない。『風』の紋章の魔力の流れ方が、ちょうどこんな感じだったように思う。
もしかして、これは――
これこそが――
(これ、が、風?)
かつて『土』に、風とは何かを尋ねたことがある。『土』の説明がうまくなかったのか、『風』の理解が追いつかなかったのか、そのときは喧嘩になってしまったものだが。
(これが、風!)
柔らかな風を全身に浴びながら、『風』は世界をぐるりと見渡す。
興奮しきっていて、今の今まで気付かなかった。『風』の後ろ。少し離れた場所に、人間が立っていた。『あの人』に壊されたはずの黒い髪の人間。衣服や体のそこら中が赤く濡れているが、自分の足でしっかりと立っているように見える。
「こわれてない?」
『風』がこわごわと様子を伺うと、その人間は表情を緩めてこちらへ顔を向けてきた。相変わらず、目を閉じたままではあったが。
「ええ。本当に危ういところでしたが、貴方のおかげで救われました」
黒髪の人間の言葉に、『風』は、ホッと安堵の息を漏らした。
紋章の力で、この人の壊れた体を治すことができた。『あの人』には意味がないと鼻で笑われてしまったが、『風』の魔法はちゃんと間に合っていたのだ。これまで紋章を使うと必ずと言っていいほど咎められてきたけれど、初めて誰かの役に立てたような気がして、胸の奥が妙にそわそわした。
「焦っても良いことはありませんね。先回りして姉の目的を果たしてしまおうと考えていたのですが、やはりそう簡単にはいかないようです。今回は、あの場から貴方を連れて逃げ出せただけでも良しとしましょう。――貴方、お名前は?」
「……風」
「それは、紋章の名前です。そうですね、それでは貴方に名を贈りましょう。素晴らしい魔法で私を救ってくれたお礼に」
世界を照らし出す大きな光が『風』の肌をぽかぽかとあたため、吹き抜けていく優しい風に包み込まれる。風は体の周りをぐるぐると駆け巡りながら、髪を撫でるようにして流れていった。
その日。
気が遠くなるほどの長きに渡る呪縛を振りほどいて、外の世界へと飛び出した。
「――ルック」
魔術師の島の風たちの歓迎を身に受けながら、授かった名前。
たった今。
この瞬間から、『風』は『ルック』としての生を送ることになる。
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